和みの食卓

大好きな人たちと食卓を囲む暮らしをしたい。
新米母ちゃんの日々ノート。

里山保育

2007年12月26日 | 日々ノート
基山町のころころ保育園に、行ってきました!
園長先生のお話を聞いてから、絶対いってみようと思っていました。
自主的な保育園をしたいね、と言っている友達も一緒に、勉強させてもらいました。

周りはのどかな畑が広がる風景ですが、園長先生のお話にあったように
新しい大きな道や、必要以上に整備されて意味なく広い公園ができてて
もとの風景はもっとのんびりしてたろうに、と少し残念な気持ちになりました。



とても寒い日でしたが、子どもたちは元気!
道行く野良仕事のおばあさんや、散歩中のおじいさんたちに挨拶しながら
よくおじゃまするという農家のお家を目指して、走ります。



農家のお家に遊びに行って、チャボをみせてもらい、裏庭の柿をみんなでおねだり。
はるもひろも、お兄ちゃん達にまじってかぶりつきます。
そうそう、なんだかみんな同い年とは思えないくらい大きくてしっかりしてるなあと
思っていたら、園長先生の勘違いで1つ上のクラスに参加してしまってました。
でもとっても楽しかったです。
ひろは、はるよりも小さいので、ちょっときつかったみたいですが
お兄ちゃん好きだから、楽しそう。
はるは、後半はしっかり駆け足についていって、体いっぱいで遊んでました。



道々、いろんなところに寄り道したり、枯れ草を投げっこしたり
高いところから飛び下りたり、よじ登ったり
泣いたり、助け合ったり。
園長先生の講演会でのお話にあったように、つまらないケンカはありません。
広々したところに行くと、ケンカはしないそうです。

園長先生のお話で印象深かったのは「子どもは今を生きている」ということです。
大人の浅知恵で、子どもが「体験すること」を邪魔してないか?ということ。

道に迷うこと。
冬は寒い!ということ。
渋柿は渋い!ということ。
雨に濡れること。
汚いウンコみたいな幼虫がてんとう虫になること。
子どもが「思わず」「自ら」動くこと…。

子どもよりも、私たち大人がまず、賢く生きましょう、と。

「しつけ」は大事。
でも、体感すること、それによって感動することの邪魔をしてはいけないなあ。
いろんな事に、ついつい手を出し過ぎてしまう。
夫とよく話すのは、大人に対して子どもの数が少ないせいもあるよねっていうこと。
いっぱい子どもがいたら、ひとりひとりにそこまで手をかけられないし、
結果的に子ども同士で、うまく関係をを築いていくのでしょう。
兄弟がいっぱい欲しい!みんなで疑似大家族を作りたいです。

それにしても、ころころの子ども達は、元気で野性的でほれぼれしていまいました。

クリスマス祭

2007年12月24日 | 日々ノート
クリスマスのことの続き。

知人からクリスマスソングを集めたCDアルバムをもらいました。
毎年毎年、同じような内容で、よく売り出すなあとちょっとあきれてしまうけど
やっぱり、いい歌はいいなあ。「ラストクリスマス」を口ずさんだりしてしまう。

こんな風に楽しめるのは、今わたしが情報をかなりシャットアウトしてるせいだと思います。
テレビはほとんど見ないし、ラジオも聞かないし、新聞はとってないし
繁華街やスーパーマーケットに買い物に行くことも少ない。
このごろは持ってるCDすらほとんど聞いてない。


過ぎたるは及ばざるがごとし、で
毎年、特にクリスマスは、ラジオを聞いてたり、町中を歩いていると
「もういい加減にして」と言いたくなるくらい、クリスマスソングの嵐で
お腹一杯の食傷気味になってしまう。
12月に入る前からツリーのピカピカの飾りをつけたりしてるのは
楽しみをすり減らしてるようなものじゃないかしら。

以前はラジオが好きだったし、仕事中も聞いていたので
クリスマス時期には、逆にクリスマスとは全く関係ないものをたまにはかけてよって
言いたくなってました。
そんなラジオ番組があれば、聴きたい人は多いんじゃないかなあ。
曲をかけてる人も、毎年、嫌気がさしていたりして…。

本来、楽しいことなんだから、楽しい範囲でやり過ぎず楽しむ、って大事です。
お金を使うことが、楽しむことって思い込んで、楽しみ方を忘れてしまったのかもしれない。
自らも省みつつ、みんなが本当に楽しむことを思い出せればいいなあと思うクリスマスです。

冬の風景とクリスマス

2007年12月23日 | 日々ノート
先月の、こころんでのワークショップ「はじめてのシュタイナー」で
教えていただいた「トランスパレント」。
冬の季節の窓飾りだそうです。なんとなくクリスマスの雰囲気。
ベランダにかかっているのは、今年もしました、干し柿。
ここ数年、嫌いだった果物の「柿」が大好きになり、干し柿作りは欠かせません。



この風景、日本のクリスマスっぽくて、好きです。

わたし自身はキリスト教には、何の関わりもありません。
だから、大人になるにつれて、クリスマスと聞いて浮かれる気持ちを持ちながら
なんだか外国カブレのようで、恥ずかしいとも思っていました。
商業主義の「買え買え合戦」のようなところは嫌いだけど
綺麗な街のイルミネーションを見ると、ちょっと浮き立つ気持ちになったり。
電力の無駄遣い&木にとっては本当にはた迷惑な話ですが…。
それに最近のイルミネーションは、いろんな事と同じで
エスカレートしすぎな気もしますが…。まあ、それはともかく。

でも以前に「神道」についての本を読んだ時に
異国の文化を、自分達流に取り入れ新しい祭を作ってきた歴史を考えると
クリスマスは、最も新しい、日本の「祭」化している、とあって
なるほど~と、自分の気持ちを肯定することができました。
「クリスマス」に宗教的な関わりがなくても、浮き浮きしていいのかなって。
お祭なんだから。
祭というか、節分なんかと一緒で、季節の行事みたいなものかな?

うちでは、リースとかツリーの飾りはしませんが、毎年クリスマスの絵皿を出します。
一枚はつきあっていたころに夫がくれたもの。
もう一枚は、娘が生まれた年の記念にと親戚から贈っていただいたもの。
今年はリビングルームのタンスの上に。深いブルーがキレイです。


伝えたい、こと。の続き

2007年12月17日 | 日々ノート
「9つまでは神のうち」

「3才までは神のうち」
というのは聞いたことがあります。
昔は3才までに亡くなる子どもが多くて
数え3つの歳になれば、一安心ということで
神様に感謝のお参りをしていた、とか…。

「子育て自然大学講座 第一回 自然に産み育てる」
というテーマで、佐賀県基山町にある、ころころ保育園の園長先生と
福岡県春日市にある、春日助産院の院長先生のお話を聞くことができました。

「9つまでは神のうち」は院長先生のお話に出てきました。
私ははじめ、院長先生は「自然分娩」の話をされるんだろうと思っていましたが
全然違って、というか「自然分娩」にはおさまりきれず
とても大きく深い話をしてくださいました。
時間があまりなかったようで、のっけからストレートに行きます、と
話がモジモジせず、ずんずん踏み込んでいくのに驚いて
心の中で「うわ~」と思ってばかりいました。
院長先生のお話は、私にとっては分かりやすかったです。
もしかして、同じ左脳派なのかな?

子どもは9つまでは、大人のいる「人間界」と
スピリチュアルな「精神世界」との中間にいる。
それが「神のうち」ということ。
子どもが人をじっと見ている時は、その人のオーラを見ている。

「子どもに好かれる人っていますよね」と先生。
「きっとオーラがキレイなんでしょうね」
オーラは魂の本来の輝きと言ってもいい。
今は、たくさんの傷で魂の周りにかさぶたができて
輝きが表に見えない人が多い、と。

「自然に産み育む」ということについては

今は、普通に暮らしていたら皆「不自然」になってしまう。
暮らしの中で工夫しないと「自然」には近付けない。
外に出て歩くこと、日を浴びること、きちんと食べること。
そうやって自律神経を整えてやらないと、生物として間違った判断をしてしまう。
日本は世界でも自殺の最も多い国で「うつ大国」ですよ、と。
生物として「生きる」と反対方向の判断をしてしまうのは人間だけだし
それは、日々の「不自然」な暮らしがつくった
自律神経の乱れから出た間違った判断。

「魂」や「心」ということを
今、最先端の科学者さんがだんだん言いはじめているそうです。
科学者といえば目に見える「現象」しか信じないという
「唯物論者」がほとんどだそうですが
今後「サイエンス」はどんどん「スピリチュアル」と統合されていくだろう、と。
そういえば、般若心経の現代語訳本「生きて死ぬ智慧」を書かれた
柳澤桂子さんがテレビに出演された時に
「宗教はいつか科学で説明がつく時がくる。今は科学がそれに追い付いていないだけ」
というようなことを言われてました。

院長先生は「肉体」について
どうも「自分」のものではないらしい、と。
地球から借りているもののようだ、と。
でも「自分」に借りた覚えはない。
じゃあ、誰が借りたのか、というと、それが「魂」。
「魂」は何かしたいこと、やらなきゃいけないことがあって
肉体を使って、この地球という世界に現れた。
でも、ちゃんと動くはずの「自分」が
「魂」の意図しない、間違った動きをしている。
「魂」と「肉体(自分)」の間にあるのが「心」であるらしい。
その間のやりとりがうまくいかない、
「自分」が分からない、「魂」とうまく連絡がとれない。
それが自律神経の乱れ、というもの。

そして現代社会のおかしな現象についても
今ニュースをにぎわせている少年犯罪や虐待…。
全てひとりひとりの心の持ち方を、現している鏡。
自分と関係ない、かけはなれたことではない。
私たちは地球に育ててもらっている「細胞」なのだから。
だからこそ、ひとりひとりの心の持ちようが変われば
絡まった糸のような問題は、ドミノが倒れるように
一気に解決していくだろう、と。

子どもはエネルギーのかたまり、光りそのもの、なのだそうです。
その光がにごるような、もの、場所、事から
なるべく遠ざけるのが大人の役目。
そのために自分の自律神経を整える、暮らしの工夫をしていかなければ。
ミクロとマクロに意識を向けること。
私もだんだんそういうふうに考えられるようになってきた気がします。
とても面白いです。

希望を感じるお話でした。

伝えたい、こと。

2007年12月13日 | 日々ノート
このところ、とてもいいお話をたくさん聞かせてもらっているので
自分だけではずるい気がして、伝えたい。
私を通した言葉で、どこまで感動が伝わるか、分からないけれど。

ひとつはこころんの師匠、まおさんの講和会。
「心の触り方、見方、感じ方」のお話。
人の心を全部は見てはいけない、と思ってない?との問いかけに
はじめはよく分かりませんでした。
でも、そういえば、
ここまで踏み込んだら失礼かな、悪いかな、と相手に対して牽制したり
逆に自分は、こんな(恥ずかしい、嫌な)こと思ってるなんて
誰にも分からないだろうとか
あんまり自分をさらけだすのは、格好悪いとか
人になんて思われるだろうと、変に勘ぐったり…。
確かに人の心に踏み込むのにためらうことが「普通」だと教えられ、そうしてきたし
自分も全ては出さないように努めてきてるなぁ、と気付きました。
「知らない」と思っている方が、イロイロ楽で都合がいいと
思い込んでいたからかもしれない。

「自分の心は全部見せて、相手の心は全部見た方が、楽ですよ」

なかなか理解できずにいたお話ですが、やっと少し分かってきました。
目の前にいる人がどういう人なのか、知ること。
どんな関係性を作っていくかは、それから決まる。
「私たちは恋人同士よね(友達同士よね)」とはじめに決めてしまうのではなく
まずは、知ること。全部を。

「心は、相手の行動をよく見て、観察すると、だんだん分かってくる」

相手の何気ない、ひとこと、表情…。
例えば「今、あなたといたくない」というような、自分にとってマイナスな感情も
ちゃんと受けとめてあげる。
そして、自分の気持ちもちゃんと、出す。

自分の気持ちを出さないことを、ずーっとしてきた私には
目からウロコの考え方だし、すぐにできるかどうか分かりませんが
そうやって、本当の、偽りない、人との関わりができれば
きっと心地いいだろうな、楽だろうな、と思いました。

みんな、自分の中で「いやらしいこと、どろどろした感情」を持っているのに
自分だけ極端に考えて、隠すことに必死になってるのかも…。
それを、やめてもいいんだよって言ってもらえた。
お話を聞いてから、数日そんなことを考え、考え、
毎朝楽しみにしている連ドラの「ちりとてちん」を見ていたら
師匠が同じことを言ってました。
(「ちりとてちん」いいです!おもしろい。私が考えてることが分かるの?と
思う程、タイムリーにメッセージを送ってくれてる気がします)

「どろどろした、いや~な心を持っている自分を、まずは認めて、抱きしめてやる」

そっかー。それからがはじまりなんだ。
そして、苦手に思っている相手のことは

「天から降ってくる災いと(思ってしょうがないと
あきらめてしまうのと)違うのは
相手は、話のできる「人」だということ」

そっかー!うるうる。
毎朝、自分の分身であるB子ちゃんが、必死にやっている。
わたしも、しっかりしなきゃな、と思います。

それから、まおさんは

「人は何のために生きてると思う?」

との問いかけをされました。
私は何の答えも浮かばなかった。分からない…。
まおさんの真ん前に座っていた、R子ちゃん。指名されて

「出会うため」

す、すばらしい。
でも私は「出会うため」という答えのすごさに、はじめはピンと来てなかった。
人は人と関わることで、生きている。それがないと生きていけない。

「自分の顔を自分で(鏡とかの反対むきではなく)ナマで見ることは一生できない」
「だから自分を見るには、相手を見るしかない」

そうやって周りをよくよく、見て、考え、動くこと、
それが日々の修行だな、と感じました。
生き方の、修行。
実を言うと修行とか、弟子とか、そういうことにも
ずっと反発のようなものを感じていました。
いまさら「修行」なんて…という気持ちがあったかもしれない。
変な宗教じゃないんだから…という気持ちもあったと思います。
でも、それは「修行」っていう言葉がいちばんぴったりの気がします。

まおさんのお話は、まだまだたくさんあったのですが
とても書き切れません。
いや、多分、まだ書けません。自分の中で消化しきれてないから。
だから、たくさんの人にナマで聞いてもらいたいなぁと思います。

久々の…

2007年12月04日 | 日々ノート
ブログにアクセスしないまま1ヶ月。

こころんの師匠さんとおっしょさんに
自分の内面を見るきっかけを作っていただき
今まで自分が自分をごまかしてきたことに気付きました。

根が小心者なので、人に嫌われまいということを一番に考える生き方でした。
何かに打ち込んでいるふりを、一生懸命してきていました。
からっぽでひとりぼっちの自分を見るのが恐かった。間違って批判されるのも恐かった。

おっしょさんに、人はひとりぼっちを認めることろからしか始まらない
と教えていただきました。
人がひとりぼっちなのは、論理的にみて事実だ、と。
そして、自分をずっと感覚重視の右脳派だと思い込んでいた私に
おまえは論理的な左脳派だと。
自分でもそれに気付いて、今までの生き方の選択、全部違ってたかも?と思いました。
自分をごまかしていた私には、本当の友達はいません。
人に自分を良くみせることばかり考えていたので、このブログも
過去のものを全部消そうかとも思いました。
でも、やめます。今の自分を受け入れることからはじめます。
これから本当の人間関係をはじめていきます。

本当にたびたび思うのですが、こんな私より、2才の娘の方がずっと大人です。
かっかーは、がんばるよ。自分から逃げないように。