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岩清水豚の話(前編)

2011年01月10日 | 徒然
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします、、って
誰にいってるんだかわかりませんがこれを読んでくださってるあなたに。

 昨年の末は仕事のほうが余りにも密度高くて本当に大変でした。
というか、このブログを読んでくださってるだけの方には何の事だか訳がわかりませんね。
そんなわけで今日は私の仕事の事、うちの農場の歴史みたいなものを書いてみようかと思います。
ちょっと長くなるので何回かに分けますね。
 
 私は「紀州岩清水豚」という看板で養豚とその豚肉の販売を行っています。その元になった名前「岩清水豚」は1987年ぐらいに私の父、通称とらちゃんが考えた名前なのですけど当時は名前をつけたら良く売れるんじゃないかとかそういう安易な考えで彼はつけたようです。まだ23歳と若かった私は実の伴わないそれに内心反発してましたが、飼料や豚も実に世間一般的なもので他の農場と違うと実際に市場でアピールできそうな事と言えば、山奥で湧き出る岩清水を3kmにも渡って自力で配管し引き込み、その水を飲料水として育成したというところだけだったのです。

 この背景には当時の養豚産業が非常に苦しい価格競争に突入していたこと、農場の豚が利益の追求をするあまりに、産肉量は多いがあまりよい品質のものではなかった事などさまざまな理由が複雑に絡み合い、市場へのアピールが急務だったのだと思います。しかし、名前だけ付けても商品が変わるわけではありませんので当然売れ行きは余り良くなく、最後には20年以上も贔屓にして下さっていた仲買人さんにまでそっぽを向かれるようになりました。が、その時点でも父は上物率、いわゆる産肉量や、出荷日令の短縮など数字的な部分で経営を好転させようと必死に努力していたのです。手っ取り早く大量生産コストダウンを推し進める父とそれに内心反発するも代替案の無い私。借金などを考えても後戻りは出来ない状況であるというのに、歯車は全く噛み合わないまま時間だけがいたずらに過ぎて行ったのでした。

 その頃、私に運命の出会いがありました。ハムなどの加工品の職人Mさんとの出会いです。この方は職人らしい気質の方で情熱を持って自分で加工品を作って、それを販売されてみえました。当時の私にはその技量を測る由もありませんでしたが、うちの農場の豚を持っていって加工品にする上で、うちの農場の豚のどこが、どんな風にダメなのかをお聞きするうちに私にもプロとしての自覚と根性、、というか精神が培われ、同時に肉を見る目を養う事が出来ました。しかし残念な事に私がその目を養えば養うほどうちの農場の豚がダメである事がわかり、いつの間にか私は前にも後ろにも進むことが出来なくなっていました。

 1991年だったと思うのですが※1、その夜は親子でTVを見ていました。ヨーロッパの農場での抗生物質の大量投与による薬剤耐性菌の出現、それに感染する人や動物の特集番組でした。話としてはこうです。薬剤に耐性をもった菌に感染、医者がその菌に有効な抗生物質を投与するが、当然効果がないまま患者が重篤な状態に、もしくは、手遅れになってしまう、、。
 当時は私どもの農場でも病気のコントロールはワクチンと抗生物質で行うのが当たり前で、かなりの量の抗生物質を使用していました。豚に使う抗生物質も基本は人間用と同じです。薬が効かなくなるという現象は割合と早いうちから認識していましたが、効かなくなれば別の薬品に切り替えるというのが普通で、一般的に薬品無しで豚を飼育する事など不可能であるという認識でした。ですから菌の薬品感受性は常に調べていましたのでどのような抗生物質にどのような耐性菌が出現しているかをほぼ把握していました。当時のうちの農場ではカナマイシン、ストレプトマイシンで高度の耐性、ペニシリン、アンピシリン、オキシテトラサイクリンなどでも中度の耐性を持った菌が出現しつつある状況でした。

「人の食料と成るべきものが人の安全を脅かす物の出現を助長してはならない」


紀州岩清水豚には私が定めた73のルールがあります。その筆頭が私の頭の中に生まれた瞬間でした。
この日を境に私どもの豚は抗生物質などの薬品を全く使わない飼育方法に切り替えていく事になります。道は険しいでしょうがとりあえず「やる」と決めたのです。
私が本当に初めてこの仕事の意義を見出した瞬間でした。

~中編に続く~

※1 あとから考えてみると1988年の秋か1989年の秋と思われます。



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