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寄付税制を考えよう

~~寄付控除は究極の民活政策~~

パブリックマインド育成の決定要因

2005-12-11 23:27:11 | Weblog
<マンション強度偽装事件>

マンション強度偽装事件が連日報道されていますね。

 マンション設計の検査機能を官から民に移した。そうしたらこれが実質的に機能していなかった。 そこをついて、建設会社や総合コンサルティング会社のボス、建設会社らがチームを組んで偽装マンションを認可させ、建設販売してしまった。その際、言うとおりになる構造設計士を利用した~~最近までの報道では、こういう構図が浮かび上がっています。

この事件には、日本人一般のパブリックマインドの弱さ、希薄さが如実に反映しています。



                              


 公共心が希薄だから、検査機関も強い社会正義と責任感でもって、検査をしはしないことになります。法的に義務づけられたところだけをチェックして、報酬をもらえばいい、となります。

 ボスはこれを利用して一儲けできないかとたくらみます。そして、パブリックマインドの弱い企画販売会社、建設会社を抱き込みます。

 抱き込まれたものも、構造設計士が偽装計算をしていたことを知らなかった、とすれば法的には逃れられると思います。それを通す検査機関が通してくれたら、責任はここにもかぶせられます。この企みはうまくいきそうだ、発見されたらその時点で手直しすればいいことだ、と考えます。

~~やってみたら、思惑通りにうまくいってしまった。そこでまたやる。そうしている内に、良心が麻痺していく。それで偽装の度合いがエスカレートする。そういうことだったように当面みえます。

                    

 「官から民へ」というのは、従来官で行っていたパブリックな業務を、民間に委譲することを意味しています。民に移っても、それはパブリックな色彩を持った業務であり続けます。だから、これを担当する民間人には、パブリックマインドのあることが、当然の前提条件となるのです。

ところが、民にこの心理が希薄だったらどうなるか。民は委譲された機能を、自己の個人的利益のために操作するでしょう。パブリックな機能が損なわれるほどにはしなくても、大きく損なわれない範囲で操作するでしょう。
 
 そういうことが起きるのです。

 もちろん、官に残しておいても、日本人一般にパブリックマインドが希薄であれば、官の中でそういうことが起きるだろう、ということも言えます。汚職とまで行かなくても、消極的に細かなところで、適度に自己利益に役立つように操作するということはするでしょう。

 けれども、官の機関は機関全体が利益追求の動機のない体質のものです。費用が収益を上回っても倒産するということがありません。だから、機関全体が利益志向に主導されるという度合いはきわめて低いのです。

 ところが民間の機関に移しますと、そういう動機でもって機関全体が動いてしまうということも起きるのです。だから、「官から民へ」という改革すればするほど、国民一般により強いパブリックマインドが必要になるのですね。


                   


<国の労災保険部門の独立行政法人化>

 企業から労災保険のための資金を徴収して労災保険を運用する部門が、旧厚生省の中にあったそうです。そのお金を官僚が食い物にしている。そこで、これを防ぐために、この部門を独立行政法人にしました。そして、その運営が適切であるかどうかを審査する委員会をつくった。さらにその審査が適切であるかどうかをチェックするための第二次的委員会も作った。

 ところが、旧部門の弊害が残っているにもかかわらず、この委員会が結果的にはメクラ判をおすようにして、合格サインを出していた。ダブルチェックをしようとして作った第二次審査会も同じことをしていた。つまり、二つともほとんど機能していなかった。

 で、調べてみたら、この委員になった私立大学の教授などが、この独立行政法人から金をもらっていた。講演料とか、原稿料とか、あるいはプロジェクト研究費とかの名目で仕事をもらい、お金をもらっていた。これでは厳格な審査など出来るはずがありません。

 どうしてこうなるか。これに関与した全員に(大学教授も含めて)パブリックマインドが希薄だったからに他なりません。だから、こういう機会でも、大学教授はセルフインタレスト(自己利益)動機が動いてしまうのです。そこをこの独立行政法人は洞察して、えさを与えた。そうしたらなんと、教授たちは簡単にそれを食べてくれた。それで厳格な審査が出来なくなっていた、というわけです。

~~~マンション強度偽装事件だけではない。日本ではことほど左様に、公的な業務は私的動機でもって浸食されていくわけです。

                    


<寄付税制のパブリックマインド造成効果>

 こういうのを見ると、日本に早く米国スタイルの寄付控除制度を作らねばという、焦りに似た気持ちすら抱きます。なぜなら、この制度は、国民にパブリックマインドを造成する決定的要因になるからです。

 人間の心には、積極的なパブリックマインドは持って生まれて備わってはいません。セルフインタレスト動機は生来的に根付いていますが、公共心は若干あっても消極的な弱いものでしかないのです。だから、自然なままでしたら我々は利己心主導で行動します。

 積極的で強いパブリックマインドは、意図的に育成されねばできあがらないものです。そのためには、国民の誰もに、パブリックな問題に対処しようとしたときにそれを実行できるような状況を造ってあげることが必要です。とくに、若いときに公的な実践意欲を持ったときに、それを実行したという体験を持てたということが、パブリックマインドの成長を加速するのです。

                    


<寄附をする気になりやすい経済状況>

 米国でこれを可能にしているのがこの国の寄付控除税制です。
 
 これまで鹿嶋が耳学問的知識をもとにご紹介したのは次のようなことでしたね。概しての話ですけれど、米国では、毎年課税対象所得の50%が寄付控除可能な対照になります。ではそれ以上に寄付したらどうかというと、残りは次々に次年度に繰り越すことが出来ます。これが終身にわたって出来ますので、急死でもしない限りほとんど寄付した金額の全額が控除出来ることになるわけです。

 一方、レーガン減税の結果、所得税は劇的に安くなりましたが、それでも連邦税、州税、郡税などを合わせると、50%くらいを税金で持って行かれることになります。

 では、いま100万円を寄付したとしますと、その分を課税対象所得から控除することが出来ますので、結局課税額は50万円安くなります。つまり、税金としてとられる分が50万円少なくなります。しかし、そのためには100万円を寄付として提供しています。ですから、100万円提供して50万円を手に入れたことになります。そこで差し引き50万円が出て行ったことになるわけです。

 ラフな話ではありますが、もし、この寄付をしなかった場合はどうかを考えます。この場合、100万円は手の内に残っています。しかし、そうであるが故にこれは課税対象所得から控除できませんので、寄付をした場合よりも税金は、連邦税、州税、郡税を合わせて50万円ほどになりますので、それだけ出て行くわけです。すると、寄付しない場合でもやはり50万円が出て行って、50万円がのこりますね。

 つまり、寄付してもしなくても、金銭的には結果は同じになるんですね。
この意味するところはいろいろあるでしょうが、一つには、資産や所得に余裕のある人が寄附をする気持ちにとてもなりやすい経済的条件が成立しているということですね。


                    


<アイデア→企画書→寄附控除団体認可>

 こういう環境にありますから、若者たちが公共的な問題を見出し、対策を講じようとするときにも、そのアイデアを実施する道が開かれています。彼らは小グループで自分たちの実施計画を書いた企画書を作成します。そして、それを税務署に提出し、そのプロジェクトを実施する団体が寄附免税の領収書を発行する認可を受けます。

 次に彼らは企画書と許可証明書を持って、資金を寄附してくれそうな人を回ります。そして寄附を受け、領収書を発行します。こうした一連の作業をファンドレイジング(Fund Raising)といいます。米国ではこれが盛んです。

 こういう活動を若いときに経験すると、彼らの心にはパブリックマインドが育っていくわけです。このようにして、国民の心に公共心を育て高めていかないと、「官の業務を委託された民間機関も機能しない」ことになるわけです。

 そうすると、民営化されたところで次々に支障が出ます。そして、ついには「民営化批判」が高まり、「やはり小泉改革は間違っていた、昔のように公共的な仕事は官に戻そう」ということに日本ではなる可能性が高いです。


                    

 鹿嶋は寄附税制の一日も早いカイゼンを切望します。もちろん、これを脱税に使うことも日本では少なからず行われるでしょう。国民にパブリックマインドが希薄な間は、そうなるのは公式通りです。だが、それでも寄附控除税制は続けられるべきでしょう。若者たちの心に強いパブリックマインドができあがるまでは、我が国では辛抱の期間を織り込むしかないのです。




プロジェクトごとの認可は容易に下りる

2005-03-23 03:56:25 | Weblog

 プロジェクト単位での寄付控除認可は、割合容易に短期間で下りるようです。
ある弁護士から、こういう事例を聞きました。

 米国在住の資産家ユダヤ人たちが、みんなでイスラエルに基金を送ろうとしました。その際、その主旨のボランティア団体を設立して、寄付控除の認定を申請しました。

 そして認可が受けられました。すると、寄付した金額を、所得税の控除に使えます。別の言い方をすれば、寄付する分は税金を差し引かれないで贈与することが出来るわけけです。受けずにやれば、税金を取られた残りで寄付することになります。

      @      @      @

 アメリカのユダヤ人というのは、お金持ちが多いにもかかわらず、パブリック活動に寄付することは少ないのが通常だそうです。その意味で、寄付社会アメリカの中では、特異な存在だといいます。

 にもかかわらず、母国イスラエル国家にお金を送る場合は例外だそうです。こういう時には、集まって結構寄付をする。しかし、パブリックな活動ということからすると、すこし方向が偏っているような感じもあります。

 それでも寄付控除団体としての認可が、降りたようです。このようにプロジェクト単位への認可は割合容易にうけられるそうです。だから、若者たちが自発的に集まって申請しても、短時間に認可は下りるのかもしれません。もちろん活動の企画書はきちんと作成して提出しなければならないのでしょうが。


寄付控除団体は税務署が認可

2005-03-21 23:08:55 | Weblog

寄付控除団体の認定はどのようにしたらいいでしょうか。
米国では、IRS(Internal Revenue Services)に申請して認可を受けるようになっているようです。
これは日本の税務署に当たります。

 控除の代表的なタイプは、教会への献金です。これは、常時寄付控除になります。
キリスト教会は、機関として認可を受けて、領収書を発行しているのですね。

 認可は、機関に限定されていません。一定期間のプロジェクトに対してもなされるようです。その場合は、プロジェクトが完了すると、担当団体の寄付控除領収書の発行資格も消滅します。

 ニューヨークは1970年代から、80年代初めにかけて、危険な地区の多い街でした。ハーレムはその代表でした。観光者は決して足を踏み入れてはならない地区でした。

 これら安全な街にしようというボランタリーな運動が、レーガン政権時代に始まりました。ティーンエージャーを中心とした若者が、エンジェル・ガーディアンといったような名前のボランティア団体を創りました。

 彼等は、ニューヨークの危険な地区を、自警団のようにして回りました。全員同じベレー帽をかぶり、同じユニフォームを着て、銃を持たないで巡回しました。日本の警察官が持っているような、短いこん棒だけを身につけて、小グループを組み街を巡回しました。

 これが警察のよき補助活動をになりました。こうして暴力、麻薬などが取り締まられていきました。その結果、ハーレムも全く安全な地区になりました。今では、とてもきれいな地区になっているようです。

      @      @      @

 こういうボランティア活動を行う際にも、まず、税務署で寄付控除団体の認可を受けるのが通常です。企画書を創り、説明をして、認可を受けます。

 受けた後、自分たちのパブリック活動の主旨を説明して、企業や資産家などに寄付を仰ぎます。寄付金に対しては、領収書を発行します。寄付者はそれでもって、寄付控除を受けます。

 この活動は、ファンドレイジング(Fund Raising)と呼ばれています。日本語では、基金募集といったらいいでしょうか。

 ボランティアーなパブリック活動をするにも、資金がいります。
事務所を借り、電話・ファックスなど通信手段をおき、ボランティアのユニフォームや所持品を整えねばならない。それにはお金がいります。それを、このようにして集めるわけです。

 そして、寄付者に対しては、活動報告を詳細に行います。これが彼等の信用を造り、必要ならばさらなる寄付を受けることを可能にします。

NHK料金不払い運動と民活

2005-03-11 23:28:06 | Weblog

 日本が活性化するための基盤は、日本人が活性化することでしょう。

 これを具体的に考えさせてくれる事例が最近出ています。NHK料金不払い運動です。NHK内部の不祥事を契機に、これが抗議運動として拡大しました。東大の何とか言う先生が、リーダーシップをとっておられるようでした。

 ここには、日本の民が活性化したといえそうな一面があります。
たしかに、何も言わないで、黙従しているよりは民の活力は感じられます。

 リーダーは、「我々にある抗議の意思表明の手段は、これしかない」、と言っておられたようでした。

<不払い料金集めて自主番組制作>

 だけど、ここには、なにか、創造的、クリエイティブな力がいまひとつ感じられません。こんな状況をイメージしてみましょう。

 ~~~不払い運動をしている人々が、何らかの形で、連携しているとします。そして、その分のお金を集めて、自分たちの番組を造るという状況を。それを民放の一定時間帯を買って放映すると言う状況を。

 不払い運動者は、50万人に達しようという数なようです。この資金をベースに、企業や資産家からの寄付を積み上げます。

 日頃満足していないNHKの番組に対して、自分ならこういう番組を創る、こういう番組が欲しかったのだ、社会的にも必要だったのだ、というのを、実際に番組を制作し、放映することでもって示す。

 もし、こうしたことが出来たなら、そこには単なる不払い運動より遙かに積極的で明るい活力を我々は感じるでしょう。創造性を感じるでしょう。

<半官的活動が、民間に移動しただけ>

 この、日本では想像上の状況は、次のように見ることも出来ます。

 NHKが半強制的に国家権力を背景としてお金を徴収し、番組を制作していた。その一部を、NHKの代わりに民間で制作した。NHKに行くお金を、民間に留め、代わって自分たちで制作を代行した。

 またそれはこう見ることも出来ます。そこでは、従来、官で行っていた公共的な、パブリックなサービス活動が、民の活動に移行した姿が見える、と。ボランタリーな民の活動への移行です。

 国家権力を背景にして徴収したお金で、官製の組織がおこなう制作活動と、その分を民が自由意志でボランタリーに行う制作活動とを比べてみます。そこには大きな精神的活力の違いが実際上出ます。後者における活力の強さは決定的です。

 民活というのはこういうことを言うのです。国を活性化していくというのは、このような移行をすること。活力に限界があるのは否定できない官製の仕事を、出来うる限り民のボランタリーな仕事に移行していくこと、なのではないでしょうか。

 それを促進するのが、寄付控除の制度なのです。これがないことが、パブリックサービスの民間移行に対する、大きな障害になっているのです。

<パブリックブロードキャスティング>

 そんなことが世の中に実際あるのか、といいますと、これがあります。
米国のPBS(パブリックブロードキャスティング)がそれをしています。アメリカにはNHKのような半官的放送局はありません。全国的に放映しているのはみな民間放送です。

 民放には、相応の短所もあります。
商業主義的色彩が強すぎる、大衆迎合的に過ぎていく、メッセージ内容が軽薄な番組が大半になる・・・等々。

 これを補おうとして、民間で起きた自発的な運動の一つがPBSです。ボランティアーたちは、そのための寄付を広く求め、その資金で、文化的に内容の深い(と彼等が思う)番組を、放映しています。

 これは民放の時間帯を買って、放映しています。が、その番組には、コマーシャルは入りません。

 寄付控除制度が充実していると、こういうことができるのです。それがないことは、実際上、こうしたボランタリー運動への大きな障害になります。


愚民国家から賢民国家へ

2005-03-07 23:30:16 | Weblog

 もう少し一般的にいうとどうなるでしょうか。

 通常、国家というのは、人民が知的に諸事を行うに必要なレベルに達していない段階で、他国の進んだ点を取り入れようとします。 米国のような特殊な国家をのぞけば、まず限られた統治者が支配を開始し、国家の進路に対して手を打っていきます。

 そこでまず、一定の知的レベルが必要な公共サービスを、国家みずからが行うことになります。官僚を用いて行うわけです。

 この段階の形態にズバリ当てはまる言葉が「愚民国家」でしたね。ここでは統治者は、一般人民が愚民であることを大前提に政治を考えます。

 人民にどの程度の情報をあたえるかも統治者の方で決定していきます。人民が妥当に理解・消化することのできない情報は与えません。かえって国家が混乱するからです。

 その結果、愚民国家では、国家官僚が情報を独占する度合いが高くなります。こうして国家官僚が、人民の首根っこを押さえつつ国家を運営していくのですね。

<賢民国家への移行>

 ところが、愚民国家体制の中でも、人民の知的レベルは時と共に上昇していくものなんですね。それにつれて、従来国家官僚が管理階層体制の中で行っていたことの中で、人民レベルの民営で行った方が、活力高く運営されていく部門が次々に出てきます。

 これを、民間に移していくのが、「国を活性化する」民営化なんですね。こうして、民を「賢民として処遇」していくわけです。賢民扱いを受けると人間は、その賢民度をますます高めていきます。

 こうして国家を徐々に賢民国家に移行させていきます。ここが民営化のとても大事なところです。

<抵抗の心理>

 ところが、これがなかなかスムースに進みません。人々は、民が行うということに不安を持つのですね。

 理由の一つは、これまでに経験していないことです。人間というのは、とにかく未体験なことには、不安を持つものなんですね。それで、これまで官がやってきた。それでいいのではないか、と抵抗勢力を形成します。

 第二は、強制力のないところに行わせて大丈夫か、という不安です。官というのは、物的暴力手段(軍隊、警察)を背景に持っています。だから、何かと言うときに、物的な力で人々を強制的に従わせることが出来ます。

 ところが、民には、これがありません。民が物的な強制力持ったら大変ですからね。暴力国家になります。

 民では、市場原理と当事者のモラルが行動を枠付けしていきます。「そんなゆるいことでいいのか」「そんな集団に、電話通信や塩、タバコ、国家の基幹になる鉄道などを扱わせていいのか」そういう不安が出ます。

 だから、アンケートとったら、「(民営を)急ぐ必要はない」「(官営の)このままでいい」という答えが、多数になるのは当たり前なんですね。


<庶民は事後的に知るしかない>

 ところが、我が国でも民営化をやってみると、取り立てての支障は生じなかった。それどころか、即座に活力が生じ、状況が次々に改善されていきます。

 たとえば電話通信では、公社の時代には、人民は、黒いエボナイトの大きく重い電話だけしか使えなかったですよ。この状況から、解放された。様々な機能、デザイン、色彩の電話が一斉に現れた。これは、まことに、百花繚乱の観がありました。

 面白いのは、みんなが同一の、黒く重い電話を使っていた時には、多くの人々は、さほど苦痛を感じなかった、ということですね。それでも、通話は出来るしね。それしかないから、他の状況を知りようがないですから。 

だが、今、あの時代に戻る? といわれたら、ほとんどみんな、「とんでもない、金輪際いやだ」というでしょうね。「国民みんなが、あの重い、ダサイ、黒色の電話器使うなんて、地獄だ・・・」なんてね。

 これが民営化の実体であり、移行のむずかしいところでもあります。



「大きな政府」は愚民国家の産物

2005-03-06 03:36:43 | Weblog
 少し、視点を変えてみましょう。

 現在、日本には、必ずしも政府がする必要のないサービスが、官僚によってなされているケースがたくさんあります。国家が徴税し、それを用いての官製サービスを提供する~~という形で依然なされているわけですね。

 どうしてそんなことに、と思う方も多いでしょう。が、これは歴史的には仕方ないところもあるのです。

 そうしたサービスの多くは、昔は民営では出来ませんでした。何故?

      @      @      @

 誤解を恐れずに言えば、一般人民の知的レベルが、それに満たなかったからです。鉄道、電話通信、郵便などは民間には運営する能力がなかった。

 そういう状態で、明治維新政府が出来ました。政府のリーダーたちは、それでも、西欧の近代制度を入れなければなりませんでした。そうして、富国強兵を計らないと、インド、中国のように、西欧列強の植民地にされることが明らかだったからです。

 弱肉強食の世界でした。いま、欧米国家は、ヒューマニズム的なきれいごと言ってますけどね。当時は、隙があれば、アフリカや東洋の民を、下働きをする民として自分たちの国家に組み込もうとする動因が強烈でした。

 だから、政府は、限られた人間を国費でもって選択的に教育し、管理能力を身につけさせ、彼等を官僚としてことにのぞむしかありませんでした。こうして、大きな国家は必然となりました。

 人民の知的レベルに不足があると言う前提でもって行っていく政治、これも政治の一パターンです。少し言葉はきついですがそれを愚民政治ということもできるでしょう。そしてそういう国家が愚民国家です。維新政府は、この姿勢でもって、パブリックサービス機関を実現していくしかありませんでした。

 しかし、時が流れますと、国民の教育水準も上がります。知的レベルも上昇する。賢民の比率が高くなる、といってもいいでしょう。するともう、民営で十分出来てしまう分野が自然に出てくるのですね。それが流れですから、不要な官製サービスが浮上してくるのは、当然なことなんです。

      @      @      @

 若干余談になりますが、この限られた人間を国費でもって選択的に教育して、官僚にする機関が戦前までの帝国大学、とりわけT大でした。DNAとは面白いもので、今でも、ここの出身者に、愚民国家の精神姿勢を時として見ることが出来ます。

 人に「うん? なに? どれどれ?」と対応する。その姿勢に、「相手は愚かだから相応に対応せねば・・・」というのが出るんですね。また、隙あれば、他者を自分の下に組み込もうとすることも重ねて観察されることが多いです。

 もちろん全ての出身者ではありませんよ。時たまです。面白いことに、これは他の旧帝大出身者には、皆目観察できません。ここだけです。学びの場に受け継がれる空気がそういう人を造るのでしょうね。

 こういう人には、民営化とか、民活とか、小さな政府などの必要性は、皆目理解できないでしょうね。だって、この人々にはいまでも、民は愚民だから。民には出来ないんだから。

 日本の民活政策への抵抗勢力の一つが、こうして形成されます。彼等は最後まで、障害になり続けるでしょう。

 これ、もう、仕方ないですね。学びの場にかかわらず、キャラクターとして、民活とか、そういうものに、全く鈍感な人も一定数いますし。だから、世の中、味わい深いのかもしれません。


寄付資金が2倍になって働く

2005-03-05 05:44:11 | Weblog


・・・・?

 鹿嶋は自分の思考に、十分自信がもてないでいます。論理的におかしいところあったら、ご指摘をお願いします。
 まずは、失敗を承知で、大胆に進んでしまいますね。

***

 では、前回の続きをさらに・・・。
それだけではないという議論をもう一つします。

 100万円寄付した人には、米国では50万円が実質戻りました。これが、また動くのです。

 この手元にもどった50万円は、本来、パブリックなことに貢献したい、注ぎたいと志向されているお金です。だから、次年度に又、彼はそれを寄付するはずですよね。

 すると、次年度に、また、50万円の寄付がパブリックな活動に対してなされます。すると、彼の手元には、その50%の25万円が又もどります。

 以下、次々年度には、寄付が25万円なされ、12.5万円がまた、この人の手元に戻る。・・・。パブリックマインドが維持されている限り。
 
 これらを足し算していきますと、合計100万円弱になります。それだけの寄付金が、さらに社会に追加形成されるのです。

 他面において、同様な理屈でもって、政府がこの人に(架空の)返還をしていった資金が計算できます。最初に、50万円、次に25万円、その次に12.5万円、・・・で総計では100万円弱になります。それだけの資金が、政府から民間に移行していくのです。

      @      @      @

 総括しますしょう。
 
 この人がパブリックな活動に注いだ100万円のお金は、全体として、200万円のパブリック活動資金を形成しています。ボランティアな活動の量が最初の寄付金の倍になっている。

 他方、政府から民間に移行した投下資金も同じように総計できます。結果、全体として、100万円になります。彼の最初の100万円の寄付金は、その同じ100万円分、「政府を小さく」もするわけです。


「小さな政府」を直接実現する

2005-03-03 23:27:50 | Weblog

 前回、こういうことがわかりました。
 
日本では、パブリックなことに役立てようと望む100万円の内、半分の50万円は官が吸収して行う。アメリカにおいては、100万円全てが民によるパブリック活動に用いられる。

 寄付控除制度を充実させると、まず第一に、このように、活動が「官から民へ」と移行するのですね。

      @      @      @

 本日は、その次に進みます。
 お金の流れの違いは、それだけではないのです。

 米国のように寄付控除制度が充実していると、100万円がそっくりそのまま自分が賛同するパブリック活動に行きますが、それだけではありません。

 さらに100万円注いだ人の手元に、課税控除分として50万円が、実質もどってきますよね。この流れを追ってみましょう。

 これは本来、寄付しなければ、課税徴収されたはずのお金ですね。ですから、これを、「もどってくる」と“みなす”こともできます。いまそういう風にイメージしましょう。

 では、どこから戻ってくるか。政府からです。これも、本来その人が寄付しなければ徴税できた50万円のお金です。それを控除して徴税しなかった。これを、いったん架空の徴税をして、戻してあげたとみなしましょう。

      @      @      @

 するとここでどういうことが起きているとイメージできるでしょうか。
 政府は、この人が寄付しなかったら本来、自分のポケットにはいるべきだった50万円を、寄付者である個人にあげていることになります。

 この個人は、寄付をすることによって、50万円を手に入れています。政府は、彼に寄付をされることによって、50万円の収入減となっています。

 では、それだけ、社会全体で見て、パブリック活動が少なくなったか?
 そうではありません。官の代わりに、民がそれをしているだけのことです。民が50万円分の活動を、余分にしているのです。社会全体から見れば、合計100万円分で、数値的には変わりありません。

 (のみならず、民がボランティアで行うことは、官が行うより遙かに活性化した活動になりますが、こういう質的な面はまた別に考えることにしましょう。)

 このなかで政府の活動は、50万円分だけ少なくなったとみることができます。これすなわち「政府が(それだけ)小さくなった」ことです。この効果は、直接的です。政府に行くべきお金を、そのまま民に戻すのですから。


パブリック資金の流れを比較すると

2005-03-02 00:55:08 | Weblog
日本の制度とアメリカの制度における、パブリックなことに使われるお金の流れを比較してみましょう。

以下は一つの見方です。見方は色々あるでしょう。もっといいアイデアがあったり、鹿嶋の盲点があったりしましたら、是非コメントをお願いします。

 さて、簡明に考えを進めるために、日米どちらも税率は、国税、地方税を合わせて、50%くらいとしましょう。税率の累進的な面は、いま考慮にれないでおきます。おおむね所得の50%くらいは税金として持っていかれる状況をイメージするわけです。

      @      @      @

 次に、誰かでも、どこかの家族でも、人々のボランティアなグループであってもいいです。簡明さのために、個人としますと、いま、この人が自分の所得の中から、100万円をパブリックなことに使いたいと望んでいるとします。

 たとえば自分の住む地域のコミュニティ(地域)図書館の改修建設にそれを注ごうとしたといたします。

 このとき、アメリカではどうなるか。まず、その100万円は寄付となり、課税控除になります。だから、まず100万円がそのままコミュニティ図書館の建設に流れていきます。

      @      @      @

 日本ではどうなるでしょうか。

 寄付控除がほとんど認められていませんから、100万円を寄付に使いたいと思っていても、そのうちの50万円は税金でもっていかれてしまいます。そして、残ったお金の50万円が寄付されます。これだけしかコミュニティ図書館の建設には流れません。

 ただし、税金でとられた50万円も、パブリックなことに使われはします。政府が行うのは、パブリック(公共的)な活動ですから。だから、政府なのですから。どのみち、このお金も、パブリックなことに使われるのです。

 けれども、この50万円は、官の活動として、官が行います。「政府が」必要と考えるパブリック活動に流れます。納税した当人の希望するところではありません。

      @      @      @

 もし、納税した当人が、何とか自分が希望するコミュニティ図書館にそれを使いたいならばどうすべきか。彼はわざわざ、政府のあるところに出かけて陳情しなければなりません。

 政府は通常、現場から遠いところにいます。現場の必要がよくわりませんので、聞き入れるかも知れません。しかし、同時に、補修して間もない道路を、再びほじくり返してアスファルトをまく、という活動にその資金を投下する可能性もあります。

 また、政府が陳情を聞いたり、調査したりして投下先を決めるには、官僚が、その仕事をしなければなりません。50万円の内の一定部分は、これら役人の給料となって消えます。

他方、寄付者は自分がお金を注いだ活動には、情熱を持っています。だから、彼自身が、ボランティア的に働きます。

 また、これに賛同する市民も、ボランティアで働きます。こうして労働を供給しますが、ボランティアは只働きですから、彼等の給料にお金が消えるということはありません。



寄付社会、アメリカ

2005-02-28 13:00:43 | Weblog

<サムフォード家の場合>

米国南部、アラバマ州バーミングハム市に、サムフォード大学という学校があります。これはサムフォード家が、建設の4分の1、25%を寄付して、あとを、他の多数の人が寄付して造った学校です。

 正確に言うと、すでに、ハワードカレッジとして、造られていた学校です。バーミングハム市の中心部にありました。地域の人々は、自分たちのカレッジとして、育て愛してきました。

 あるときこれを、郊外の住宅街に移してもっと総合的な地域大学にしようではないか、という声をサムフォードさんが出した。「俺が25%出すよ」と率先したら、他の人々が残りを出すことになって、拡大建設が決まったそうです。

 サムフォード家は、生命保険会社を創業して財をなした家族だそうです。おそらく、会社から収入を得られる家族員全員に寄付金額を割り振っただろうと言うことです。

 そして、各々が多額の寄付金を、年々、所得から控除していくことが出来た。
 もちろん、他の寄付者もそうだったでしょうが、ともかくそういうことだそうです。

<少額の寄付でも>

 なんだか、こういう例を出しますと、寄付控除はお金持ちだけの世界の話に聞こえますが、そうではありません。少額の寄付でも、控除の対象になります。

 教会の礼拝で、献金します。これも寄付として、控除の対象になります。
献金袋には、住所と名前を書くところがあります。そこに現金を入れて献金すると、しばらくすると、教会事務局から寄付金領収書が送られてきます。

 10ドルでも送られてきます。ある人が5ドルでも送ってくるよ、といってました。

 封筒に住所氏名を書くのが面倒なのでしょうか、小切手を封筒に入れて献金する人が多いです。小切手には、自分の住所氏名が印刷されていますから。

 こういうふうにして、一般庶民も、年度末になると、寄付領収書を足し算して、所得から控除します。

 こうして、寄付が促進されていきます。アメリカが、「寄付社会」といわれるゆえんです。