<マンション強度偽装事件>
マンション強度偽装事件が連日報道されていますね。
マンション設計の検査機能を官から民に移した。そうしたらこれが実質的に機能していなかった。 そこをついて、建設会社や総合コンサルティング会社のボス、建設会社らがチームを組んで偽装マンションを認可させ、建設販売してしまった。その際、言うとおりになる構造設計士を利用した~~最近までの報道では、こういう構図が浮かび上がっています。
この事件には、日本人一般のパブリックマインドの弱さ、希薄さが如実に反映しています。

公共心が希薄だから、検査機関も強い社会正義と責任感でもって、検査をしはしないことになります。法的に義務づけられたところだけをチェックして、報酬をもらえばいい、となります。
ボスはこれを利用して一儲けできないかとたくらみます。そして、パブリックマインドの弱い企画販売会社、建設会社を抱き込みます。
抱き込まれたものも、構造設計士が偽装計算をしていたことを知らなかった、とすれば法的には逃れられると思います。それを通す検査機関が通してくれたら、責任はここにもかぶせられます。この企みはうまくいきそうだ、発見されたらその時点で手直しすればいいことだ、と考えます。
~~やってみたら、思惑通りにうまくいってしまった。そこでまたやる。そうしている内に、良心が麻痺していく。それで偽装の度合いがエスカレートする。そういうことだったように当面みえます。

「官から民へ」というのは、従来官で行っていたパブリックな業務を、民間に委譲することを意味しています。民に移っても、それはパブリックな色彩を持った業務であり続けます。だから、これを担当する民間人には、パブリックマインドのあることが、当然の前提条件となるのです。
ところが、民にこの心理が希薄だったらどうなるか。民は委譲された機能を、自己の個人的利益のために操作するでしょう。パブリックな機能が損なわれるほどにはしなくても、大きく損なわれない範囲で操作するでしょう。
そういうことが起きるのです。
もちろん、官に残しておいても、日本人一般にパブリックマインドが希薄であれば、官の中でそういうことが起きるだろう、ということも言えます。汚職とまで行かなくても、消極的に細かなところで、適度に自己利益に役立つように操作するということはするでしょう。
けれども、官の機関は機関全体が利益追求の動機のない体質のものです。費用が収益を上回っても倒産するということがありません。だから、機関全体が利益志向に主導されるという度合いはきわめて低いのです。
ところが民間の機関に移しますと、そういう動機でもって機関全体が動いてしまうということも起きるのです。だから、「官から民へ」という改革すればするほど、国民一般により強いパブリックマインドが必要になるのですね。

<国の労災保険部門の独立行政法人化>
企業から労災保険のための資金を徴収して労災保険を運用する部門が、旧厚生省の中にあったそうです。そのお金を官僚が食い物にしている。そこで、これを防ぐために、この部門を独立行政法人にしました。そして、その運営が適切であるかどうかを審査する委員会をつくった。さらにその審査が適切であるかどうかをチェックするための第二次的委員会も作った。
ところが、旧部門の弊害が残っているにもかかわらず、この委員会が結果的にはメクラ判をおすようにして、合格サインを出していた。ダブルチェックをしようとして作った第二次審査会も同じことをしていた。つまり、二つともほとんど機能していなかった。
で、調べてみたら、この委員になった私立大学の教授などが、この独立行政法人から金をもらっていた。講演料とか、原稿料とか、あるいはプロジェクト研究費とかの名目で仕事をもらい、お金をもらっていた。これでは厳格な審査など出来るはずがありません。
どうしてこうなるか。これに関与した全員に(大学教授も含めて)パブリックマインドが希薄だったからに他なりません。だから、こういう機会でも、大学教授はセルフインタレスト(自己利益)動機が動いてしまうのです。そこをこの独立行政法人は洞察して、えさを与えた。そうしたらなんと、教授たちは簡単にそれを食べてくれた。それで厳格な審査が出来なくなっていた、というわけです。
~~~マンション強度偽装事件だけではない。日本ではことほど左様に、公的な業務は私的動機でもって浸食されていくわけです。

<寄付税制のパブリックマインド造成効果>
こういうのを見ると、日本に早く米国スタイルの寄付控除制度を作らねばという、焦りに似た気持ちすら抱きます。なぜなら、この制度は、国民にパブリックマインドを造成する決定的要因になるからです。
人間の心には、積極的なパブリックマインドは持って生まれて備わってはいません。セルフインタレスト動機は生来的に根付いていますが、公共心は若干あっても消極的な弱いものでしかないのです。だから、自然なままでしたら我々は利己心主導で行動します。
積極的で強いパブリックマインドは、意図的に育成されねばできあがらないものです。そのためには、国民の誰もに、パブリックな問題に対処しようとしたときにそれを実行できるような状況を造ってあげることが必要です。とくに、若いときに公的な実践意欲を持ったときに、それを実行したという体験を持てたということが、パブリックマインドの成長を加速するのです。

<寄附をする気になりやすい経済状況>
米国でこれを可能にしているのがこの国の寄付控除税制です。
これまで鹿嶋が耳学問的知識をもとにご紹介したのは次のようなことでしたね。概しての話ですけれど、米国では、毎年課税対象所得の50%が寄付控除可能な対照になります。ではそれ以上に寄付したらどうかというと、残りは次々に次年度に繰り越すことが出来ます。これが終身にわたって出来ますので、急死でもしない限りほとんど寄付した金額の全額が控除出来ることになるわけです。
一方、レーガン減税の結果、所得税は劇的に安くなりましたが、それでも連邦税、州税、郡税などを合わせると、50%くらいを税金で持って行かれることになります。
では、いま100万円を寄付したとしますと、その分を課税対象所得から控除することが出来ますので、結局課税額は50万円安くなります。つまり、税金としてとられる分が50万円少なくなります。しかし、そのためには100万円を寄付として提供しています。ですから、100万円提供して50万円を手に入れたことになります。そこで差し引き50万円が出て行ったことになるわけです。
ラフな話ではありますが、もし、この寄付をしなかった場合はどうかを考えます。この場合、100万円は手の内に残っています。しかし、そうであるが故にこれは課税対象所得から控除できませんので、寄付をした場合よりも税金は、連邦税、州税、郡税を合わせて50万円ほどになりますので、それだけ出て行くわけです。すると、寄付しない場合でもやはり50万円が出て行って、50万円がのこりますね。
つまり、寄付してもしなくても、金銭的には結果は同じになるんですね。
この意味するところはいろいろあるでしょうが、一つには、資産や所得に余裕のある人が寄附をする気持ちにとてもなりやすい経済的条件が成立しているということですね。

<アイデア→企画書→寄附控除団体認可>
こういう環境にありますから、若者たちが公共的な問題を見出し、対策を講じようとするときにも、そのアイデアを実施する道が開かれています。彼らは小グループで自分たちの実施計画を書いた企画書を作成します。そして、それを税務署に提出し、そのプロジェクトを実施する団体が寄附免税の領収書を発行する認可を受けます。
次に彼らは企画書と許可証明書を持って、資金を寄附してくれそうな人を回ります。そして寄附を受け、領収書を発行します。こうした一連の作業をファンドレイジング(Fund Raising)といいます。米国ではこれが盛んです。
こういう活動を若いときに経験すると、彼らの心にはパブリックマインドが育っていくわけです。このようにして、国民の心に公共心を育て高めていかないと、「官の業務を委託された民間機関も機能しない」ことになるわけです。
そうすると、民営化されたところで次々に支障が出ます。そして、ついには「民営化批判」が高まり、「やはり小泉改革は間違っていた、昔のように公共的な仕事は官に戻そう」ということに日本ではなる可能性が高いです。

鹿嶋は寄附税制の一日も早いカイゼンを切望します。もちろん、これを脱税に使うことも日本では少なからず行われるでしょう。国民にパブリックマインドが希薄な間は、そうなるのは公式通りです。だが、それでも寄附控除税制は続けられるべきでしょう。若者たちの心に強いパブリックマインドができあがるまでは、我が国では辛抱の期間を織り込むしかないのです。
マンション強度偽装事件が連日報道されていますね。
マンション設計の検査機能を官から民に移した。そうしたらこれが実質的に機能していなかった。 そこをついて、建設会社や総合コンサルティング会社のボス、建設会社らがチームを組んで偽装マンションを認可させ、建設販売してしまった。その際、言うとおりになる構造設計士を利用した~~最近までの報道では、こういう構図が浮かび上がっています。
この事件には、日本人一般のパブリックマインドの弱さ、希薄さが如実に反映しています。





公共心が希薄だから、検査機関も強い社会正義と責任感でもって、検査をしはしないことになります。法的に義務づけられたところだけをチェックして、報酬をもらえばいい、となります。
ボスはこれを利用して一儲けできないかとたくらみます。そして、パブリックマインドの弱い企画販売会社、建設会社を抱き込みます。
抱き込まれたものも、構造設計士が偽装計算をしていたことを知らなかった、とすれば法的には逃れられると思います。それを通す検査機関が通してくれたら、責任はここにもかぶせられます。この企みはうまくいきそうだ、発見されたらその時点で手直しすればいいことだ、と考えます。
~~やってみたら、思惑通りにうまくいってしまった。そこでまたやる。そうしている内に、良心が麻痺していく。それで偽装の度合いがエスカレートする。そういうことだったように当面みえます。


「官から民へ」というのは、従来官で行っていたパブリックな業務を、民間に委譲することを意味しています。民に移っても、それはパブリックな色彩を持った業務であり続けます。だから、これを担当する民間人には、パブリックマインドのあることが、当然の前提条件となるのです。
ところが、民にこの心理が希薄だったらどうなるか。民は委譲された機能を、自己の個人的利益のために操作するでしょう。パブリックな機能が損なわれるほどにはしなくても、大きく損なわれない範囲で操作するでしょう。
そういうことが起きるのです。
もちろん、官に残しておいても、日本人一般にパブリックマインドが希薄であれば、官の中でそういうことが起きるだろう、ということも言えます。汚職とまで行かなくても、消極的に細かなところで、適度に自己利益に役立つように操作するということはするでしょう。
けれども、官の機関は機関全体が利益追求の動機のない体質のものです。費用が収益を上回っても倒産するということがありません。だから、機関全体が利益志向に主導されるという度合いはきわめて低いのです。
ところが民間の機関に移しますと、そういう動機でもって機関全体が動いてしまうということも起きるのです。だから、「官から民へ」という改革すればするほど、国民一般により強いパブリックマインドが必要になるのですね。


<国の労災保険部門の独立行政法人化>
企業から労災保険のための資金を徴収して労災保険を運用する部門が、旧厚生省の中にあったそうです。そのお金を官僚が食い物にしている。そこで、これを防ぐために、この部門を独立行政法人にしました。そして、その運営が適切であるかどうかを審査する委員会をつくった。さらにその審査が適切であるかどうかをチェックするための第二次的委員会も作った。
ところが、旧部門の弊害が残っているにもかかわらず、この委員会が結果的にはメクラ判をおすようにして、合格サインを出していた。ダブルチェックをしようとして作った第二次審査会も同じことをしていた。つまり、二つともほとんど機能していなかった。
で、調べてみたら、この委員になった私立大学の教授などが、この独立行政法人から金をもらっていた。講演料とか、原稿料とか、あるいはプロジェクト研究費とかの名目で仕事をもらい、お金をもらっていた。これでは厳格な審査など出来るはずがありません。
どうしてこうなるか。これに関与した全員に(大学教授も含めて)パブリックマインドが希薄だったからに他なりません。だから、こういう機会でも、大学教授はセルフインタレスト(自己利益)動機が動いてしまうのです。そこをこの独立行政法人は洞察して、えさを与えた。そうしたらなんと、教授たちは簡単にそれを食べてくれた。それで厳格な審査が出来なくなっていた、というわけです。
~~~マンション強度偽装事件だけではない。日本ではことほど左様に、公的な業務は私的動機でもって浸食されていくわけです。


<寄付税制のパブリックマインド造成効果>
こういうのを見ると、日本に早く米国スタイルの寄付控除制度を作らねばという、焦りに似た気持ちすら抱きます。なぜなら、この制度は、国民にパブリックマインドを造成する決定的要因になるからです。
人間の心には、積極的なパブリックマインドは持って生まれて備わってはいません。セルフインタレスト動機は生来的に根付いていますが、公共心は若干あっても消極的な弱いものでしかないのです。だから、自然なままでしたら我々は利己心主導で行動します。
積極的で強いパブリックマインドは、意図的に育成されねばできあがらないものです。そのためには、国民の誰もに、パブリックな問題に対処しようとしたときにそれを実行できるような状況を造ってあげることが必要です。とくに、若いときに公的な実践意欲を持ったときに、それを実行したという体験を持てたということが、パブリックマインドの成長を加速するのです。


<寄附をする気になりやすい経済状況>
米国でこれを可能にしているのがこの国の寄付控除税制です。
これまで鹿嶋が耳学問的知識をもとにご紹介したのは次のようなことでしたね。概しての話ですけれど、米国では、毎年課税対象所得の50%が寄付控除可能な対照になります。ではそれ以上に寄付したらどうかというと、残りは次々に次年度に繰り越すことが出来ます。これが終身にわたって出来ますので、急死でもしない限りほとんど寄付した金額の全額が控除出来ることになるわけです。
一方、レーガン減税の結果、所得税は劇的に安くなりましたが、それでも連邦税、州税、郡税などを合わせると、50%くらいを税金で持って行かれることになります。
では、いま100万円を寄付したとしますと、その分を課税対象所得から控除することが出来ますので、結局課税額は50万円安くなります。つまり、税金としてとられる分が50万円少なくなります。しかし、そのためには100万円を寄付として提供しています。ですから、100万円提供して50万円を手に入れたことになります。そこで差し引き50万円が出て行ったことになるわけです。
ラフな話ではありますが、もし、この寄付をしなかった場合はどうかを考えます。この場合、100万円は手の内に残っています。しかし、そうであるが故にこれは課税対象所得から控除できませんので、寄付をした場合よりも税金は、連邦税、州税、郡税を合わせて50万円ほどになりますので、それだけ出て行くわけです。すると、寄付しない場合でもやはり50万円が出て行って、50万円がのこりますね。
つまり、寄付してもしなくても、金銭的には結果は同じになるんですね。
この意味するところはいろいろあるでしょうが、一つには、資産や所得に余裕のある人が寄附をする気持ちにとてもなりやすい経済的条件が成立しているということですね。


<アイデア→企画書→寄附控除団体認可>
こういう環境にありますから、若者たちが公共的な問題を見出し、対策を講じようとするときにも、そのアイデアを実施する道が開かれています。彼らは小グループで自分たちの実施計画を書いた企画書を作成します。そして、それを税務署に提出し、そのプロジェクトを実施する団体が寄附免税の領収書を発行する認可を受けます。
次に彼らは企画書と許可証明書を持って、資金を寄附してくれそうな人を回ります。そして寄附を受け、領収書を発行します。こうした一連の作業をファンドレイジング(Fund Raising)といいます。米国ではこれが盛んです。
こういう活動を若いときに経験すると、彼らの心にはパブリックマインドが育っていくわけです。このようにして、国民の心に公共心を育て高めていかないと、「官の業務を委託された民間機関も機能しない」ことになるわけです。
そうすると、民営化されたところで次々に支障が出ます。そして、ついには「民営化批判」が高まり、「やはり小泉改革は間違っていた、昔のように公共的な仕事は官に戻そう」ということに日本ではなる可能性が高いです。


鹿嶋は寄附税制の一日も早いカイゼンを切望します。もちろん、これを脱税に使うことも日本では少なからず行われるでしょう。国民にパブリックマインドが希薄な間は、そうなるのは公式通りです。だが、それでも寄附控除税制は続けられるべきでしょう。若者たちの心に強いパブリックマインドができあがるまでは、我が国では辛抱の期間を織り込むしかないのです。