将門ブログ

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51「将門調伏伝説」

2008年02月20日 | 将門の乱
今回は、「将門調伏伝説」の話です。

○「成田山新勝寺」
将門の乱が起きた時、朝廷が寺社に将門調伏の祈祷を依頼しました。伊勢神宮や宇佐神宮でもこの乱鎮定の祈祷をしています。伊勢では二見浦の里人が、白馬に乗った武者の幻が東に向かうのを目撃していて、この日、将門が討ち取られたといいます。宇佐は八幡神の神社ですが、八幡神の化身の老人が呪文と共に矢を射たところ首に命中したといい、将門に「新皇」の位を与えたのも八幡神なのだが、ずいぶんと都合のいいものです。その後、天慶四年(941)三月、将門調伏の賞として伊勢神宮の禰宜に位階を授け、諸国の神社にも神階を授け盛んに行賞を実施しています。比叡山延暦寺でも将門調伏の祈祷が実施されました。座主の尊意は不動安鎮法を大講堂で修したところ炎の中に将門の姿が浮かび上がったといいます。『玉葉』には将門は帝になる運を持つものであったに関わらず、それを降伏せしめたとして、尊意は夭亡(若くして死ぬこと)したのだといいます。このように、炎に将門の姿が浮かび上がる話や東へ向けて異変が起きたという話は多く伝えられています。総じて異変の直後に将門が滅んだといいます。『将門記』にある「神鏑」によって将門が滅んだというのは、これら祈祷の効果だと考えられました。
東国には有名な将門調伏伝承が残る寺として、千葉県成田山の成田山新勝寺があります。『成田山略縁起』によれば将門が相馬郡に都を建て、「親王(新皇ではありません)」を称したため勅命が下り、遍照寺の僧・寛朝が調伏することになります。成田にやって来た彼は不動尊像を安置し、調伏のための護摩を修しました。かくして将門は滅び、寛朝は都へ帰ろうとしたところ、不動尊像はその地で動きませんでした。そこでこの地に現在の成田山新勝寺が建立されました。東国には将門を祀る地が多く残り、これらの土地の人たちの間では成田山参拝忌避の言い伝えが多く残り、今日に至るもそれを守る者は多いようです。我孫子市では、成田山開帳の日は血の雨が降ると伝えられています。明治時代に成田山参拝禁忌を破った者が三十代で若死にしたといい、現在もその家ではこの禁忌を守っていたと伝えています。
ところが、成田山が関東地方で有名になったのは、江戸出開帳を元禄十六年(1703)に実施した際、大成功を納めてからだといいます。その後、成田山の江戸出開帳も頻繁に行われるようになり、江戸っ子の人気もあり、これは信仰上の人気というよりもイベント好きの江戸っ子に歓迎されたようです。ところが宗教上の対立が発生しました。一つは「将門調伏」を掲げていた成田山新勝寺に対し、関東の英雄将門を支持する人も多かった江戸では、当然対立してきます。もう一つは、古くからある在地の宗門としては、新興の成田山に人気があるのは当然面白くない。こういった宗教上の対立が江戸っ子の「将門人気」を利用し成田山忌避の伝承を広げたように思われます。もっとも顕著に忌避していたのは江戸っ子の氏神様「神田明神」でした。成田山忌避伝承はその広がった時代を考慮すると、元禄時代以降に成立したように思われます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B1%B1%E6%96%B0%E5%8B%9D%E5%AF%BA
「成田山不動尊上陸記念碑」
http://www.infochiba.ne.jp/FAINS/spot/0101/1407.html
「神田明神」
http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html

○「南都七大寺」
南都七大寺(なんとしちだいじ)は、奈良時代に平城京(南都・奈良)及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺を指します。
a.. 興福寺(奈良市)
b.. 東大寺(奈良市)
c.. 西大寺(奈良市)
d.. 薬師寺(奈良市)
e.. 元興寺(奈良市)
f.. 大安寺(奈良市)
g.. 法隆寺(生駒郡斑鳩町)
将門調伏を行った七大寺は、何寺を指すのか明らかではありません。ただ、諸大寺で、名僧たちが読経や調伏の修法を行ったことは諸書に見えています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E4%B8%83%E5%A4%A7%E5%AF%BA

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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