昨年までに訪ね歩いた、千葉県東金市の将門伝説として「御門の地」や「将門稲荷」などを紹介します。
●『とうがねの昔ばなし・将門の出生』
(東金市の伝説では、桔梗の前は将門の母とされています。)
《平将門の母の桔梗の前が将門を懐妊した時、父の良将はたいそう喜んで占師に占ってもらいました。すると占師は「この子はたいへん賢い子ですが、大人になると天下を乱すことになるでしょう」と占いました。良将はたいへん驚いて、兄の平国香と相談し桔梗の前を小船に乗せて海に流すことにしました。桔梗の前は古くから仕えていた三平と二人、何日も荒海を漂った後、現在の御門(みかど)の近くの浜辺に流れ着きました。ある晴れた日、桔梗の前は三平をつれて散歩していて、「産前橋」の辺りにさしかかった時、急におなかが痛くなって玉のような男の子を出産ました。この子が後の平将門です。三平は驚いて近くの竹林から青竹を切り取ってきて、十文字に束ねて川の水をせき止め、白い布で水をこして産湯がわりにしようとしました。ちょうどそこへ通りかかった漁師の七郎兵衛は、この様子を見てかわいそうに思い、自分の着ていた袖なしをぬいで赤ちゃんを包み、自分の家に連れていって親切に世話をしました。
将門は成人した後、この出生の時の故事にちなんで七郎兵衛に「布留川」(ふるかわ)の姓をおくってお礼をしました。御門に布留川の姓が多いのはこのためだということです。将門が千本杉居城祉に館を建てて住んだことから、この辺りを「宮」と呼び、その周辺を「殿廻」と呼ぶようになったということです。また、将門は母の桔梗の前の菩提を弔うために「妙善寺」を建てましたが、それ以後この付近を「御門」というようになったということです。》
http://www.city.togane.chiba.jp/mukashi/35.html
「将門誕生伝説」
http://johokan.net/history/tradition/masakado.html
【薄島の将門館】東金市薄島
JR東金駅前から木須賀行きバスで「薄島」下車。ここに、将門の殿屋敷があったといわれています。
【御門の地】東金市御門
将門はこの地に生まれ、将門の館もあったそうです。この地の御門、殿廻、宮などは将門にちなむ地名です。「みかど」は、はじめ「帝」と書きましたが、「御門」となり、徳川時代に家康により「三門」と変えられたといわれています。また、御門は「将門誕滅之地」とされていますが、「滅」のほうは伝承というより近年の創作であろうと思われます。
【妙善寺】東金市御門
将門は慈母桔梗の前の菩提を弔うために、真言宗の一刹を建立して、京より貞観法師を迎えてこの寺を開基したそうです。
【将門稲荷】東金市御門
妙善寺から西北200m、「御門公民館」の横、三基の祠があり、その一番右「稲荷神社」の祠。将門が敗死したとき、その臣七人が遺骸を背負い逃走して、この地に隠れた。将門を祀って、「将門稲荷神社」と称したという。この稲荷神社内に、将門像が祀られていたという。明細帳には、「神影は直垂袴を着し、右手に剣を握り、散髪にして実に雲上の人を見るがごとし。」と記されているといわれています。
【水神社】東金市御門
将門稲荷神社の左となり「水神宮」の祠。将門が滅びたのち、七人の家士がこの地に逃れ、七郷士として称して土着し、氏神として祀ったという。
【桔梗前弁才天(厳島神社)】東金市宮
将門稲荷から西に300m。この地で、桔梗の前は将門を出産したという。その桔梗の前を弁財天として崇めて祀った社。明治になって「厳島神社」に改称させられた。地元では今でも「桔梗弁天」と呼んでいます。布留川(ふるかわ)家の氏神でもあります。伝説では、桔梗の前は死後、大蛇となり、村人の安泰を護り、ときおり深く葦の繁る泥沼に、姿を現したといわれています。今でもこの地を、蛇喰(へびくい)と呼ぶそうです。
http://www.city.togane.chiba.jp/mukashi/36.html
【布留川家】東金市宮
この家の屋号は七兵衛で、布留川の姓は将門から与えられたという。先祖は漁師で、将門が水難に遭ったさいに、将門を助けたため,鋤をもらい開墾にはげんだという話もあります(布留川家の伝承。)。
【高倉の大関】東金市高倉
ついでに「伊能忠敬出生之地」を訪ねて、高倉に向かう。将門が宮と高倉に大きな関を、九十九里町片貝に小さな関を築いたといわれています。
これらのほか、御門地区には次の将門史跡があるのですが、確認できませんでした。
○「大日塚」=ここに、桔梗の前の居館があったという。
○「鎧塚」=将門の鎧を埋めたところという。
○「鉄鋳塚」=将門ゆかりの製鉄の場所という。
○「龍神社」=将門が大蛇を刺殺し、人民は祟りを恐れてこれを祀り、「龍神社」と称したという。
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
●『とうがねの昔ばなし・将門の出生』
(東金市の伝説では、桔梗の前は将門の母とされています。)
《平将門の母の桔梗の前が将門を懐妊した時、父の良将はたいそう喜んで占師に占ってもらいました。すると占師は「この子はたいへん賢い子ですが、大人になると天下を乱すことになるでしょう」と占いました。良将はたいへん驚いて、兄の平国香と相談し桔梗の前を小船に乗せて海に流すことにしました。桔梗の前は古くから仕えていた三平と二人、何日も荒海を漂った後、現在の御門(みかど)の近くの浜辺に流れ着きました。ある晴れた日、桔梗の前は三平をつれて散歩していて、「産前橋」の辺りにさしかかった時、急におなかが痛くなって玉のような男の子を出産ました。この子が後の平将門です。三平は驚いて近くの竹林から青竹を切り取ってきて、十文字に束ねて川の水をせき止め、白い布で水をこして産湯がわりにしようとしました。ちょうどそこへ通りかかった漁師の七郎兵衛は、この様子を見てかわいそうに思い、自分の着ていた袖なしをぬいで赤ちゃんを包み、自分の家に連れていって親切に世話をしました。
将門は成人した後、この出生の時の故事にちなんで七郎兵衛に「布留川」(ふるかわ)の姓をおくってお礼をしました。御門に布留川の姓が多いのはこのためだということです。将門が千本杉居城祉に館を建てて住んだことから、この辺りを「宮」と呼び、その周辺を「殿廻」と呼ぶようになったということです。また、将門は母の桔梗の前の菩提を弔うために「妙善寺」を建てましたが、それ以後この付近を「御門」というようになったということです。》
http://www.city.togane.chiba.jp/mukashi/35.html
「将門誕生伝説」
http://johokan.net/history/tradition/masakado.html
【薄島の将門館】東金市薄島
JR東金駅前から木須賀行きバスで「薄島」下車。ここに、将門の殿屋敷があったといわれています。
【御門の地】東金市御門
将門はこの地に生まれ、将門の館もあったそうです。この地の御門、殿廻、宮などは将門にちなむ地名です。「みかど」は、はじめ「帝」と書きましたが、「御門」となり、徳川時代に家康により「三門」と変えられたといわれています。また、御門は「将門誕滅之地」とされていますが、「滅」のほうは伝承というより近年の創作であろうと思われます。
【妙善寺】東金市御門
将門は慈母桔梗の前の菩提を弔うために、真言宗の一刹を建立して、京より貞観法師を迎えてこの寺を開基したそうです。
【将門稲荷】東金市御門
妙善寺から西北200m、「御門公民館」の横、三基の祠があり、その一番右「稲荷神社」の祠。将門が敗死したとき、その臣七人が遺骸を背負い逃走して、この地に隠れた。将門を祀って、「将門稲荷神社」と称したという。この稲荷神社内に、将門像が祀られていたという。明細帳には、「神影は直垂袴を着し、右手に剣を握り、散髪にして実に雲上の人を見るがごとし。」と記されているといわれています。
【水神社】東金市御門
将門稲荷神社の左となり「水神宮」の祠。将門が滅びたのち、七人の家士がこの地に逃れ、七郷士として称して土着し、氏神として祀ったという。
【桔梗前弁才天(厳島神社)】東金市宮
将門稲荷から西に300m。この地で、桔梗の前は将門を出産したという。その桔梗の前を弁財天として崇めて祀った社。明治になって「厳島神社」に改称させられた。地元では今でも「桔梗弁天」と呼んでいます。布留川(ふるかわ)家の氏神でもあります。伝説では、桔梗の前は死後、大蛇となり、村人の安泰を護り、ときおり深く葦の繁る泥沼に、姿を現したといわれています。今でもこの地を、蛇喰(へびくい)と呼ぶそうです。
http://www.city.togane.chiba.jp/mukashi/36.html
【布留川家】東金市宮
この家の屋号は七兵衛で、布留川の姓は将門から与えられたという。先祖は漁師で、将門が水難に遭ったさいに、将門を助けたため,鋤をもらい開墾にはげんだという話もあります(布留川家の伝承。)。
【高倉の大関】東金市高倉
ついでに「伊能忠敬出生之地」を訪ねて、高倉に向かう。将門が宮と高倉に大きな関を、九十九里町片貝に小さな関を築いたといわれています。
これらのほか、御門地区には次の将門史跡があるのですが、確認できませんでした。
○「大日塚」=ここに、桔梗の前の居館があったという。
○「鎧塚」=将門の鎧を埋めたところという。
○「鉄鋳塚」=将門ゆかりの製鉄の場所という。
○「龍神社」=将門が大蛇を刺殺し、人民は祟りを恐れてこれを祀り、「龍神社」と称したという。
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
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