昭和音楽の風景

昭和の歌謡曲を通した若干の社会批判ないしは考察

パクられるべき価値

2016-06-29 23:02:34 | 日記
昭和歌謡の風景-14
パクられる価値
雁坂 透

 氷川きよしの「白雲の城」が出た時、「なんだ、これは三橋
美智也の『古城』のパクリではないか」と非難した歌謡評論家
がいた。それはその通りであろう。が、その時この評論家は、
三橋美智也の『古城』がそもそも「荒城の月」のパクリではな
いかと疑わなかったであろうか。
 昔日権力の象徴として栄えた城郭が没落しさびれて哀感を呈
するというのは案外普遍的なテーマである。栄枯盛衰・盛者必
滅の悲哀とでも言うか。「荒城の月」は土井晩翠が仙台の青葉
城に材をとり、滝廉太郎は故郷の竹田城を思い浮かべて作曲し
たという、それでよく歌曲としての一体性が保てたとあきれる
が、その統一性はテーマの普遍性によるのだろう。それにして
も「古城」は曲想にせよ、歌詞内容にせよ類似性は否定できず、
パクリと言われても仕方ない。そして歌謡曲ではパクリは非難
すべきことではない。常套手段とさえ言える。井沢八郎の「あ
あ、上野駅」は石川啄木の「一握の砂」からのパクリであろう
し、新しいところでは五木ひろしの「千曲川」は言うまでもな
く藤村の「千曲川旅情の歌」のパクリだ。青江美奈の「恍惚の
ブルース」の名文句「あとはおぼろ・・・」は源氏物語から着
想を得たと言われているし、緑川アコの「夢は夜ひらく」の3
番「恋に焦がれるセミよりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす、たった
一人のあなたゆえ、夢は夜ひらく」も都都逸の傑作からのパク
リである。
 問題なのは、パクリかどうかではない。いいパクリによって
いい歌を生み出すエネルギーの低下が問題なのである。もっと
言えば、古典に対する共有感の喪失によってパクリができなく
なった現代の不毛が問題である。上に述べた曲は新しい五木ひ
ろしのものでも30年以上前のもので、それ以来パクリの名作
は生まれていない。歌謡曲にパクられるべき共有の古典の一つ
も持っていない時代は不幸だろう。古典に媒介された精神の濃
密さの失われた時代もまた。民族の記憶・共有財産などと言う
と民族派右翼みたいで恐縮だが、古典がナショナリズムの一要
素である点は否定できない。
 本歌取りを楽しんでいた藤原定家たちを、正岡子規は激しく
攻撃するが、万葉という古典への共有感を楽しんでいたのだと
すればそんなに目くじら立てなくてもいいのだろう。歌謡曲に
よる古典パクリも本歌取りみたいなものとして許容される。共
通課題として古典の一つも出てこないような社会はつまらぬ社
会だ。
 三橋美智也の「古城」を紹介するとき、玉置宏は「それでは
お聞きください、名作 古城」と必ず名作を枕詞にしていた。
「荒城の月」のパクリだとしても十分に名作である。氷川きよ
しの「白雲の城」はとてもそれに及ばない。それは、まだ古典
になっていない「古城」をパクッたからか、パクるべき共有古
典のない時代の刻印をもろに受けたのか、おそらくその両方だ
ろう。

2 コメント

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Unknown (ととろ)
2016-06-30 07:41:37
白雲の城、おそらくあなたはCDやテレビで聴かれて批評されてると思いますが、どうぞ是非、一度コンサートをご覧くださいませ。

きっと感じられ方が変わるかと
私は自信を持ってお勧めいたします!!
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ラヂオ (雁坂透)
2016-07-01 21:13:14
とろろ様
コメントありがとうございます。
私の視聴はラヂオです。
コンサートでの視聴も考えてみます。
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