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探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪大社・・・上社の歴史  第一章 平安期から鎌倉期

2013-12-14 23:49:31 | 歴史

諏訪大社・・・上社の歴史

 第一章 平安期から鎌倉期

諏訪大社という神社の内部対立のことを、諏訪の内乱と銘打って、内訌のこと、小笠原一族の坂西家のこと、下社の金刺家のこと、高遠家のことと分けて書いてきましたが、諏訪家の対立の通史を解析してみます。当然ながら、重複した箇所が出てきて、冗長になることは覚悟の上ですが、さらに付け加えるならば、小笠原家三家の対立の構造も片手落ちに成り、不完全なものになってしまうのは分かっています。この両勢力はある時期複雑に絡み合いながら歴史を進展させ、この対立の消耗戦は両系統の体力を消耗させながら、甲斐武田の軍門に下ることになっていきます。

さて、諏訪大社の上社と下社が明確に分離してくることから始めます。この部分は何度おさらいをしても、よく理解出来ませんが、平安時代の頃両者は別れてきます。

それは、下社の方から、金刺系図をもって登場してきます。その祖は金刺舎人という人で、この舎人の系譜にある貞継が始めて下社の大祝を名乗ります。この貞継は大祝になってから金刺宿禰姓を賜ったとあり、彼の兄は太朝臣の姓を賜ったとあります。そして源平時代に、源(木曽)義仲に従って活躍した手塚別当金刺光盛という人物が「平家物語」に登場しております。「金刺系図」によると、次ぎに出てくる大祝は盛継で、別名を「諏訪太郎太夫」とあります。続いて、盛重、盛高、重願、盛径と続きます。「尊卑分脈」をみると、源氏の系流の満快流の系図のなかに、手塚太郎信澄、その孫に諏訪太郎盛重、盛重の子に諏訪太郎左衛門尉盛高その弟諏訪三郎左衛門尉盛経が見え、この二つの系譜は重なっているようです。ここら辺は、よく理解が出来ない部分ですが、同じ人が金刺を名乗り、手塚も名乗り、諏訪も名乗っていた、と言うことのようです。更に清和源氏の満快流の系図にもなって、源氏との関係をもうかがわせるものとなっています。これを、無理矢理理解するとすれば、諏訪下社の神官の姓は金刺氏であり、木曽義仲に臣下して転戦した武家の方は、同族ながら手塚とか諏訪太郎とか名乗っていたのではなかろうか、と整理します。

・・・清和源氏満快流。源満仲の五男源満快を祖とする信濃源氏。満快の曾孫為公が信濃国を受領(ズリョウ)して伊奈箕輪の上の平に住む。この頃金刺家の大祝諏訪敦光と源為公の子が婚姻して、子の敦俊が知久沢に住み、知久を名乗る。以後この両者の系流は、伊奈を中心に地方に拡散し、武家の時は信濃源氏を名乗り、普段は諏訪神党を名乗る様になる。彼等は知久氏をを始めとして、中津乗氏、伊奈氏、村上氏、依田氏、片桐氏、大島氏、堤氏などに分かれ、主に南信濃を中心に勢力を持った。知久氏以外は諏訪家の血筋であるかどうかは不詳であるが、彼等は同族の意志を維持し続けて行動も共通するようだ。・・・

一方、上社の方はこの頃名乗る姓は見つけられません。上社の初見の大祝は乙頴で、名前は神子といい、また熊古ともいったと書にあります。恐らく読み方は、「くまこ」であろうと思われますが、苗字とは思えません。上社の方は、俗世とは別の世界にあるようです。
大祝乙頴は「隈志侶」・・くましろ・・とも呼ばれ、この頃は通常、神を「くま」と呼んでいたようです。
・・・やたらと「当て字」だらけで読み当てるだけでも一苦労です。

とにかく、上社・下社とも大祝が出現するのは(文字として登場するのは)、平安末期からのようです。従って上社、下社がお互いを主張し始めるのはこの頃からのようです。

諏訪氏の武装・・・
諏訪上社の大祝が諏訪氏を称し、武士化していったのは他の武士と同様に平安時代末期のころと思われる。諏訪大社は、この頃から軍神の扱いを受けており、諏訪神を祀る諏訪大祝と一族も武士団として成長していったものと思わます。先に見たように諏訪上社の諏訪氏は「神氏」で、下社の諏訪氏は「金刺氏」といわれています。先述のように、古代において金刺氏の名は見えるが、諏訪氏(神氏)の名は見えない。諏訪氏と一族は「神氏」とか「神党」などと称されるようになるが、鎌倉時代の後半で、文永八年(1271)『笠原信親證文目録』に「左衛門尉神信親」とあるものが初見で、以後、次第に神氏を称するものが増えてきます。諏訪社の神官の姓は、上社・下社ともに金刺氏であり、鎌倉時代以前は諏訪社の所領は「上下社領」であり、神社としては上・下に分かれていたが、所領は完全には共有であった。
それが、鎌倉時代に入ると、上社・下社に分かれた史料が増えてくる。『神氏系図』によれば、有員から十六代目とされる為信は子の為仲を「前九年・後三年の役」に源義家の軍に従わせたという。その後為信の子の代から庶子家が分出するようになり、のちに神党と称される武士団に発展していくことになる。また、上社諏訪氏では大祝は、諏訪郡の外に出ないという定めがあり、「保元・平治の乱」「治承・寿永の乱」の戦いには、子息や一族が大将となって出陣したという。

信濃の諏訪上社も、頼朝時代から将軍家領であった。社家諏訪氏が北条得宗の家臣(御内人)になり、続いて北条氏領となったようだ。北条氏の信濃支配の要点は、大祝をはじめとする諏訪武士団の家臣化である。

北条得宗家との関係・・・諏訪氏が大きく勢力を伸ばす契機となったのが「承久の乱」であり、その後の北条氏との密接な関わりであった。
・・『吾妻鏡』・上社大祝諏訪盛重は、嫡子信重を東山道軍に派遣した。
・・『承久記』・信重は「軍の検見役に指添えられ」たとみえ、信重は信濃国諏訪氏系武士団の統率者として派遣されたものと考えられる。
・・・乱後、諏訪盛重は大祝の職を退き、鎌倉に出向して執権北条泰時に仕えて活躍した。

諏訪社に関わらず一宮は、その造営・祭祀などに関して国衙に管掌される面が多く、東国では事実上は守護が管轄していた。こうした政治的な背景から、諏訪社の造営・祭祀などを仲介として諏訪氏と北条氏の主従関係が生まれたものと推測される。さらに、御射山祭(=御狩神事)は軍神としての背景を持ち、得宗家との特異な関係が成立する。

以後、諏訪氏は北条氏家臣団の最有力者として、北条氏の勢威が高まると、それに比例して諏訪氏の武威も高まった。その結果、諏訪氏のもとに信濃各地の武士が集まるようになり、諏訪氏を中心とした血縁あるいは地縁の武士が連合してできた党的な武士団が「神党」である。
・・構成員・小県・佐久郡方面から滋野姓を名乗る祢津・望月・臼田氏
    ・諏訪・伊那方面は、四宮・三塚・笠原・千野・藤沢・中沢・知久・香坂氏
    ・高井郡など広い範囲の武士たちが集まっていた。
北条氏はこうした諏訪氏を中心とした武士団を育成し、掌握していたのである。

一方、北条氏の信濃支配において、諏訪氏が大祝をつとめる信濃の諏訪社の祭祀組織が果たした精神的役割も大きかった。諏訪上・下社の神事奉仕は、十二世紀ごろから国衙の管掌のもと武士たちによって行われてきた。鎌倉幕府はこの制度をもって武士を統制しようとし、神事奉仕の頭番にあたった御家人は鎌倉番役を免じられるなど、多くの特権が与えられた。北条氏が幕府の実権を握るようになると、諏訪氏との主従関係を活かして、制度を積極的に編成し、信濃御家人を統轄する有効な手段としていった。

・・・以上が、北条得宗家と諏訪家の関係だが、ほぼ、この部分の解説は、諏訪家が北条家の御内人となって親密になったとしている。この部分は分かるようで分からない。御内人とは、一族の、親戚同様の身内人(御内人)という意味であろうが、命運を伴にする関係が見えてこない。御内人は、諏訪家だけでなく存在する。

そこで、諏訪家と北条家の関係を、具体的に追求すると・・・・・

まず、源氏と諏訪家が関係を持ったのは、木曾義仲の時、下社の金刺盛澄は義仲を庇護したという伝承が下社に伝わる。頼朝の挙兵に合わせて、木曽義仲が呼応して挙兵した時、金刺盛澄は次男の手塚光盛を義仲に付けた。手塚光盛は、義仲の連戦の時、中核として、腹心として奮戦した。やがて、義仲が敗れ、木曽軍が追われる立場になった時、弓の名手の手塚光盛を惜しんだ頼朝の重臣梶原景時は、光盛を、鎌倉幕府の御家人にして助けた。これを見ると、鎌倉幕府との関係を持ったのは、諏訪下社の方が先のようである。疎まれていた梶原景時はやがて失脚し、それに伴い、下社金刺家と鎌倉幕府との関係も薄らいでいったようです。

その頃から、諏訪大社は、頼朝からも北条からも尊敬を受けており、一定の庇護も受けていたようですが、最初は諏訪家が鎌倉へ出仕しても、御家人の立場でした。

承久3年(1221)5月、承久の乱が起こります。・・・後鳥羽上皇は、現在の京都市伏見区にある鳥羽にある離宮・城南寺の流鏑馬にかこつけて、畿内とその近国14ヶ国の武士1,700人を集めて、執権北条義時討伐の宣旨を諸国に下したのです。この時執権の北条氏は、都の軍を向討つべく、北条領の武士を招集して、軍を東海道、東山道、北陸道の3手から都へ進めます。 この時、諏訪の大祝盛重は、帰趨を迷い神託したと言います。その神託の結果は、”鎌倉につき直ちに出陣せよ”というものでした。そこで、大祝諏訪盛重は、長男の諏訪信重を総大将にして、諏訪一族を出陣させます。東山道ルートです。このルートは、後に信濃・甲斐を支配する小笠原、武田の祖の系流も参加していました。

この時の諏訪一族の戦いの様子は、他を抜きんでるものだったようです。それにもまして、諏訪神社の神託が勝利を決めたと言うことで、北条義時は大祝諏訪盛重に感状を送り、神領を寄進しました。参加した諏訪系の諸族にも、諏訪・伊那のみならず西国にも、論功行賞として所領が与えられました。ここに諏訪大社が、北条得宗家の軍神として、確固たる地位も確立しました。

大祝諏訪盛重は、北条義時の再三の要請で、鎌倉幕府に出仕することを決意します。まず、大祝職を長男の信重に継がせてから、鎌倉に出仕します。間もなく、鎌倉法華堂に火事が起こり、盛重は、民家を壊して延焼を食い止めます。この功績で、執権北条の隣接に屋敷を貰います。北条得宗家にもっとも信頼された、護衛の役職です。更に5代執権北条時頼から、長子宝寿丸(時輔)の傳役(もりやく)を、おおせつかります。この流れを見ると、親戚以上の信頼度です。こうして、上社の系譜、諏訪盛重は、御内人の中でも、北条家と特別な関係が出来上がっていきます。信濃からは、諏訪家の他に、藤沢氏や祢津氏や保科氏などが、鎌倉へ御家人として、出仕していました。諏訪家は彼等の棟梁的な役割も果たしていたと思われます。上社系の諏訪一族から、何人も鎌倉に出仕し、幕府の役職に就いています。小坂円忠もその一人で、学識豊かで、文官として働き、夢想国師に信頼されます。

この様にして、諏訪家と北条得宗家は、護衛の武官として、育ての親として、治世の文官として、祭事の奉行として、相談役として、様々な顔を持ちながら、やがて姻戚になり、北条と最も近い関係になり、北条滅亡の時は命運を伴にする関係になっていったようです。・・・・・


 



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