「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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「茶漬えんま」の悲哀(4)

2017年06月17日 | 信仰

 

「『茶漬えんま』の悲哀」(4

 


 さて、初めに申上げた類(たぐ)いの問いや課題をいくつ拾出せただろうか。この演目はたしかに、落語には稀(まれ)なくらい「説教臭い」運びになっている。落語では普通、思想や教理の説明をここまで細かくすることはない。極楽での「個」についてのくだりや締めの部分の「仏道」についての解説などはとりわけその感がする。人によっては、ちょっとばかり鼻に付くかもしれない。ただ、ぼくはそんなところにも、枝雀師匠自身が向合ったであろう人生の問いとそれへの答えを求めて手探りしたに違いないその痕跡を見る思いがしている。師匠はしかし、結局のところ、その隘路(あいろ)から抜出せず、出口を見出せないままに逝(い)ってしまわれた。「『茶漬えんま』の悲哀」とでも呼べるようなそんなやり切れなさが、このぼくの中に遺されてある。病を負いながらではあったものの、救いの在り処(か)が見つけられなかったのだろう。だとしたら、「茶漬えんま」というこの演目は、人生を喜ばしく潑剌(はつらつ)と、生き生きと生きたいと願う者すべての代弁者と言えはしないだろうか。そして、もしそうであるなら、それはまた救いを説く「キリスト教」への代弁者でもあり、それへの問いかけとも言えるに違いない。

 

 ということで、今回は、このぼくが「茶漬えんま」から受取った問いかけや印象の主なものを以下に記し、事を考えるきっかけにでもさせてもらえたらと思う。それらについては、ぼく自身もこの先ずっと、思いを巡らせてゆくことだろう。意味ある生を願うなら、だれもが自然とそうせずにはおれないからである。教会もまた、意味ある命を証ししようとするなら、「茶漬えんま」に滲む含意に目を向け、そこで聖書の使信(ししん)を探り、そして何らかの答えを手にしておかねばならないのではなかろうか。そうでないと、教会もまた、よそとあまり変らぬお楽しみの集い場になってしまう。少なくともぼくのような人間は、日曜の貴重な時間を割いて、そのような所にわざわざ出かけて行こうとは思わないように思われる。

 

「キリストが、あいつはなんじゃい、あいつ酒癖悪いねん」「まぁ、そりゃそうや、しゃあないわい。常日頃、自分を抑えてね、暮しとるやろ。ああいうやつはそうやで」

——どこで目にしたクリスチャンが背景になっているのか。とはいえ、一見優等生を演じながらも、しかし実のところ、内面は禁欲的なストレスでいっぱい。クリスチャンに対する日本人一般のそんな印象を物語っているのだろう。信仰というのは、それが本来のものであるなら、不要なストレスから人を解放するはずのものなのだが・・・。人々の誤解(?)と、それを解きえないキリスト教側の理解不足(?)や取組み不足(?)か。

 

「それにもう、ワァー言うて、こっちが嫌がってんのもえーっ分らんでやで・・・食わされてやで・・・飲まされてやで」

——「キリスト教は相手の気持ちも考えんで、どこか押しつけがましい」と受取られているのか。そんな暗示だとしたら、いわゆる「宣教」のあり方が課題として提示されているのかも。

 

「この頃はみな、自己申告や」「そんなことしたらあんた、みな『私も極楽、私も・・・』って」「いやー、それが面白いで。人間ちゅのはどこかに良心あんねんね。・・・良心ちゅうのはあるもんやで」

——人間の本質とはどんなものなのだろう? だれにも良心らしきものがあるようだと、お噺のえんまさんはそう言う。けれども、噺の最後は、良心そのもののようなはずのお釈迦さんまでもがなんと、偽善的な物言いをして終る。より深い所で人間の本性、本質を問いかけているようでもある。

 

「だいいちおまん、あんた、極楽・極楽言うけど、極楽ももひとつええとこやないで」「静かは静かで結構やけど、静かすぎるわい! ・・・何もないのや。・・・こんなとこに住んでいられるか!」「じゃで、向うにいてる人こそはほんまの聖人君子じゃい。もう何万年も何十億年も黙ってポヤーと座ってられるっちゅうのはよほどの聖人君子じゃい」

——極楽とは(キリスト教的に言えば「天国」とは)はたして、どんな所なのだろう。それは、より一般的な宗教表現で言換えるなら、「救い」ということになろう。つまり、救われるというのは一体、どういう状態を指しているのか。どういうことが救われるということなのか、ということである。枝雀師匠は(自らの芸におけるそれが第一の事だったろうが)遂に、それを得心することができずに終ったのではなかろうか。

 

「いえこっちにね、ちゃんとあの、なんですね。えっえーっ、閻魔帳というのがありますからな」「えー、ほーなるほど、色んなことしていますな、なるほどね」

——「神様がちゃんと見てるから、だから、悪いことはできないよ!」という、昔ながらの日本人的神意識、宗教観、道徳意識の現れか。それははたして、キリスト教でも同様なのか。それとも・・・?

 

「極楽にはもう『あなた』も『私』もない。私はあなた、あなたは私。・・・えーっ、あなたとか私とかという『個』というものがあるのは娑婆における時だけの話です。極楽へ来ると、私もあなたもありません。私は私、あなたも私、あなたも私、あなたもあなた」

——「色即是空(しきそくぜくう)」(目に見える現象はすべて、実体のないもの)や「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(すべては移りゆき、同じであり続ける存在はない)という仏教の根本思想に根差した解説的一節だが、それらを悟ればありとあらゆる思い込みから解放たれて救われる。「個」とか「自我」とかいう拘(こだわ)りからも自由にされ、「解脱(げだつ)」というものを知ることができる。極楽の住人は俗人の留五郎にそれを教えようとしたのだろう。そのような悟りを得ることははたして可能なのか。そしてそもそも、救いというものがそこにあるのか。神学的な表現をするなら、創造論的、存在論的、認識論的、救済論的問いがここにありはしないか。キリスト教はこれにどう答えるのだろう。枝雀師匠にとってもそう容易ではなかったらしいこの問いに・・・。

 

「この蜘蛛の糸をつたって、亡者どもが極楽へ来ようとして、ドンドンドンドン上って来るがな。はぁーっ、九割九分の所まで来ると必ず、自身の罪の重さでプチっとこの糸が切れますな」「自然と己が罪の重さで切れるで仕方がない。自業自得というものじゃ」

——「罪」の問題や、それに伴う「裁き」と「救い」の問題がここには置かれている。そして、ぼくらがよく口にする「自業自得」の考え方も・・・。それらは、こと宗教的真理を求める者たちにとっては本質的な事柄であるはず。とりわけ自業自得の論理は多くの問題をはらんでおり、キリスト教にとって、解放や自由や救いの核心に触れる事柄ではなかろうか。

 

「地獄は地獄で楽しそうにやっておるぞ」「へぇ、えらいもんでんな。ほな、地獄やおまへん、極楽ですな」「いやー、あれが本当の地獄じゃぞ」「そうじゃーないか。楽しいことをいつまでも追続けなければならぬ。楽しさというものはな、これは今日よりは明日、明日よりは明後日と、より刺激の強いものを求めなければ楽しみとして感じることができないのでな。・・・どこまでもどこまでも楽しいことを追続けなければならない。あれが本当の無間地獄じゃ」

——幸せの源を単なる楽しみに求めていくと(つまり、単なる刺激に求めていくと)切りがなくなり、遂には自分で自分の首を絞(し)めることになるという。然(しか)り。恐いが、まさしく真理と言えよう。これは、ほかならぬ枝雀師匠自身の告白的心情とも言えるもの。師匠の晩年の芸風は、身体的表現を随所に取入れた、伝統的な落語からすると型破りなものだった。まさに「刺激的」芸風。そんな師匠がある時、伝統の芸風で高座をつとめる噺家の姿を見ながら、舞台の袖(そで)で傍らの兄弟弟子にこう呟(つぶや)いたと言われる。「自分ももう一度、あんな風なとこに戻れたらなー」。刺激は刺激を重ねねば、客の楽しみを繋ぎ留められなくなる。そこにはまってしまって出口が見えず、きついばかりだったということか。何事も、本来の内実で勝負せず、おまけの飾りばかりでそうするようになると、結局はにっちもさっちも行かなくなるということなのだろう。芸も、人生も、そして教会の宣教も。「宣教の本道は?」と問いかける刺激的な一節でもあるのでは?

 

「あのね、私とあんたはよろしい、罪がないさかい。そやけど、留やんがあのーっぶら下ったら、あの人の罪でこいつブチッと切れまっさかい、そりゃちょっと。そいつ上らさんようにしないと、上らさんように。あんただけ上んのや、あんただけ。私とあんただけが助かりまんねん。そいで、留やん下にバンと下しな、落しな落しな。留やんは蹴落せっちゅうのに!」

——なんと、お釈迦さんが「蹴落とせ!」と言う。いわゆる俗人は俗人故にかえって、逆に厳しい目で聖人たちの偽善を見抜くのかも。お寺さんだけのことではない。教会もまた、そうした目にさらされている。講壇上や教会内で語られる言葉とそれ以外の所での実際の言行が食違っているとしたら・・・。偽善に偽善を重ねる「偽善の上塗り」だけは慎みたい。それこそ、(ぼくの読取るところでは)イエスが最も叱責したことのように思われる。

 

「途端にーっ、蜘蛛の糸がブチーッ! また3人共、下へドーンと落ちましたんに」「なんじゃい、これー。極楽へ帰ることがでけんのか。はぁーあー、神も仏もないものか」

——見事なオチ! 見事なツッコミ! 人間論としても、人生論としても、また宗教論・神学論としても・・・ではなかろうか。そして何より、我が身につまされる一席である。よーく考えねばならない課題を与えられた。

 

*「茶漬えんま」というと、落語では上方の演目「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」などが、また文学では芥川龍之介の作品『蜘蛛の糸』などが想い起される。あわせて耳にされ、目にされると参考になるのではないだろうか。

 

 

©綿菅 道一、2017

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