『田園に死す』寺山修司
過ぎ去った時が現在と交錯する。
記憶の中ではあり得ることが三次元的に起こるとしたら、
人は過去の自分とどう向き合うのだろう。
取り戻したい?
否定したい?
その姿を映像(二次元)で見せられる側は
自己の思いと主人公の思いと錯綜して、
どこに焦点を合わせていいのかわからなくなる。
焦点が定まらないまま時が過ぎゆくことは
日常では多々あることだが、映像を見ながら
その時間を費やすことはかなりの忍耐が必要である。
今、“ここ”にいる人達は命が途切れていないから
“ここ”にいるわけで、過去に存在した人達もまたそうである。
このあたりは科学的な話しになるのだろうが、
同様に過去の自分も実在したハズであるのに、
もう触れることができない時間の中に埋もれた
遠い存在なのである。
主人公“私”もそれを見た“自分”も
“今”しか見ることができないのだと考える。
『真実』という言葉はこんな時に使われる言葉なのだろうか。
過ぎ去った時が現在と交錯する。
記憶の中ではあり得ることが三次元的に起こるとしたら、
人は過去の自分とどう向き合うのだろう。
取り戻したい?
否定したい?
その姿を映像(二次元)で見せられる側は
自己の思いと主人公の思いと錯綜して、
どこに焦点を合わせていいのかわからなくなる。
焦点が定まらないまま時が過ぎゆくことは
日常では多々あることだが、映像を見ながら
その時間を費やすことはかなりの忍耐が必要である。
今、“ここ”にいる人達は命が途切れていないから
“ここ”にいるわけで、過去に存在した人達もまたそうである。
このあたりは科学的な話しになるのだろうが、
同様に過去の自分も実在したハズであるのに、
もう触れることができない時間の中に埋もれた
遠い存在なのである。
主人公“私”もそれを見た“自分”も
“今”しか見ることができないのだと考える。
『真実』という言葉はこんな時に使われる言葉なのだろうか。