shikakumaru

継続は力なり

『田園に死す』

2012年06月07日 | Weblog
『田園に死す』寺山修司

過ぎ去った時が現在と交錯する。
記憶の中ではあり得ることが三次元的に起こるとしたら、
人は過去の自分とどう向き合うのだろう。

取り戻したい?
否定したい?

その姿を映像(二次元)で見せられる側は
自己の思いと主人公の思いと錯綜して、
どこに焦点を合わせていいのかわからなくなる。

焦点が定まらないまま時が過ぎゆくことは
日常では多々あることだが、映像を見ながら
その時間を費やすことはかなりの忍耐が必要である。

今、“ここ”にいる人達は命が途切れていないから
“ここ”にいるわけで、過去に存在した人達もまたそうである。
このあたりは科学的な話しになるのだろうが、
同様に過去の自分も実在したハズであるのに、
もう触れることができない時間の中に埋もれた
遠い存在なのである。

主人公“私”もそれを見た“自分”も
“今”しか見ることができないのだと考える。

『真実』という言葉はこんな時に使われる言葉なのだろうか。