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正覚寺下電停~大徳寺公園ぶらぶら(後編)▪本当にあった大徳寺とその後

2018-01-26 21:00:00 | 長崎ぶらぶら
前回(正覚寺下電停~大徳寺公園ぶらぶら(前編)▪正覚寺と高島秋帆宅跡)に続いてぶらぶら。
高島秋帆宅跡→思案橋→丸山公園というルートから「大徳寺公園」へ参ります。



丸山公園から大徳寺公園に向かう道。
ここはいわゆる「勅使坂(ちょくしざか)」です。
1883(明治16)年に佐古招魂社/佐古墳墓地(現・仁田佐古小学校裏)で勅祭(天皇命の祭典)が執り行われた際、天皇の勅使が通るということで整備された道であることから、そう呼ばれるようになったとのこと。



ここから入ります。



こちらが県指定天然記念物、「大徳寺の大クス」です。
長崎市で最も大きく、樹齢約800年と推定されるそうです。
カメラに入りきらない(^^;



そのそばにあるのが「楠稲荷神社」です。
始まりは1600年代後半で、当時は神仏混交の「琢正院」といったそうですが、明治維新の廃仏棄釈(神仏分離)で楠稲荷神社となり、以降は船大工町の鎮守神となったとのこと。
隣に船大工町「川船」の格納庫がありますね。
周辺の階段狭いですが、どうやって入れるのかな?



大クスの横の階段を上がると大徳寺公園があります。
ご覧のとおり、寺はありません。



ここに長崎七不思議のひとつとして「寺もないのに大徳寺」とあります。
お寺がないにもかかわらず、長崎の人々は辺り一帯を「大徳寺」と呼ぶのはなぜなのか。



こちらに「大徳寺跡」とあります。
つまり、昔はあったわけですね。



こちらが当時の大徳寺の全景。
現在の公園があるあたりに観音堂があったのですね。
創建は1688年以降伊勢町とされ、その後、十人町を経て1708年にこの場所に移ります。
1707年からは御朱印地格(幕府から所領を安堵され、税が免除される資格があること)となり、江戸幕府の厚い保護を受けたとのこと。

由緒あるお寺だったのですね。

それがなぜ廃寺になったのか。
・長崎の貿易不振による寄進の減少
・幕府の衰退によって保護を受けられなくなったこと
・明治維新の廃仏棄釈
が理由として挙げられ、大徳寺は幕を閉じます。

そういう経緯があったわけですね。

ただ、この地の歴史はそれで終わりません。



公園の入口には鳥居が建っています。
これは明治元年、大徳寺跡に楠木正成を祭神として新設された「大楠神社」の鳥居で、先ほどの楠稲荷神社とは全く別の神社です。
その大楠神社も、戊辰戦争の犠牲者の霊をお祀りした後、「梅ヶ崎招魂社」と改称します。
「招魂社」とは、幕末以降に国家のために殉死した人の御霊を祀る神社のことです。
同時にそういう人々を埋葬する墓地も作られます(「梅ヶ崎墳墓地」)。
1883(明治16)年に梅ヶ崎墳墓地のみ、新設された佐古招魂社/佐古墳墓地に移ります。
このときに整備された道というのが、前述の勅使坂ですね。

また1942(昭和17)年には佐古招魂社と梅ヶ崎招魂社は合わせて「長崎護国神社」となり、大楠神社の鳥居は護国神社の鳥居となります。
護国神社はのちに移転し、現在の城栄町に新設され、この地には鳥居だけが残ることになりました。


ああややこしい( -`Д´-;A)
現在は鳥居だけのこの地でいろんなことがあったわけですね。



大徳寺公園には現在、梅ヶ崎招魂社/梅ヶ崎墳墓地跡の碑も設置されています。

こちら(朝日新聞デジタル:明治期の「英雄」眠る - 長崎 - 地域情報)には梅ヶ崎招魂社の写真が掲載されていますので、合わせてどうぞ。



また、公園の隣には梅香崎神社(菅原神社/梅ヶ崎天満神社)があります。
江戸時代初期、梅ヶ崎(現・十人町)に遠見番所(来航する外国船を見張る場所)が置かれ、側に天満宮(菅原道真公が祭神)がお祀りされます。
それが大徳寺の現地への移転と共に移ってきたものが残り、現在は籠町の鎮守神としてお祀りされています。




この地にはまだ他にも語れることがあるのですが、今回はここまで。



また梅の咲く頃に来たいと思います。









参考:「長崎ぶらぶら好き(長崎ケーブルメディア)」「長崎游学3 長崎丸山に花街風流 うたかたの夢を追う」「復元!江戸時代の長崎 」

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