本日、見事南花台キリスト教会で特別賛美とメッセージ奉仕です。
第1コリント第15章3節から・・・
ですがまず、その前にこの曲を賛美いたしました。
それよりも大事なこと
君の命があと1日だったとしたら君はいったい何をしますか
おいしいものをおなかいっぱい食べますか
それとももっとほかにありますか
でもでも それがいったいなにになるんだろうか
それよりもっと大事なことがあるとは思いませんか
もっと大事なこと それは君のつくり主をおぼえること
それが一番大切なこと
僕の命があと1日だったとしても僕はうろたえることはないだろう
おいしいものをおなかいっぱい食べるより
それよりもっと大切なものを
得たから それ以外になにがあるんだろうか
それほどにすばらしいことをそれほど大切なことを
この手に掴んだからそれは僕のつくり主をおぼえたこと
それが一番大切なこと
イエス様は僕のために死んでくれた イエス様は僕のためによみがえってくれた
僕の罪のためにだから僕は感謝している だから僕は死をおそれないんだ
第1コリント15章3節
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと
もしも自分のいのちが一日しかなかったとしたら、人は、残された日々を諸欲を満たすために使うのか、といえば、ほとんどの人が違うことに使うそうだ。アンケートによれば「謝りそこねていた人に謝罪する」など、あとくされを残さないようにするという回答が多かったそうだ。可能な限りきよらかでありたい、と思うのは、死後に何かが待っているという未来観を抱いているからで、そういったところにも神様が働かれているからだ。
さて、死に対する勝利を与えてくださるのはイエス様で、
イエス様の死と復活があるから、信仰による救いを得られるのだ。
十字架の死は壮絶で、イエス様が受けられた苦しみは
目を覆わんばかりの残酷さだ。
一方で復活は、歴史的事実である。
聖書の記述では、復活の第一発見者は女性であったと記録されている。
実は女性の証言は当時軽んじられていた。
事実を証明するにはあまりにも証言として訴えかけが弱い。
では、なぜ強力に訴えかけねばならないこの復活の事実について、
いわば都合の悪い方法が選択され記録されているのだろうか。
あくまで「事実」を優先しえ追及したからだ。
事実をありのままにして伝えているのが聖書だからだ。
イエス様の愛は、死ぬほどの愛なので、掛け値なしの愛といえる。
事実である、ということは、本物、ということだ。
掛け値なしの本物の愛、これこそが神様の愛だ。感謝しよう。
第1コリント第15章3節から・・・
ですがまず、その前にこの曲を賛美いたしました。
それよりも大事なこと
君の命があと1日だったとしたら君はいったい何をしますか
おいしいものをおなかいっぱい食べますか
それとももっとほかにありますか
でもでも それがいったいなにになるんだろうか
それよりもっと大事なことがあるとは思いませんか
もっと大事なこと それは君のつくり主をおぼえること
それが一番大切なこと
僕の命があと1日だったとしても僕はうろたえることはないだろう
おいしいものをおなかいっぱい食べるより
それよりもっと大切なものを
得たから それ以外になにがあるんだろうか
それほどにすばらしいことをそれほど大切なことを
この手に掴んだからそれは僕のつくり主をおぼえたこと
それが一番大切なこと
イエス様は僕のために死んでくれた イエス様は僕のためによみがえってくれた
僕の罪のためにだから僕は感謝している だから僕は死をおそれないんだ
第1コリント15章3節
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと
もしも自分のいのちが一日しかなかったとしたら、人は、残された日々を諸欲を満たすために使うのか、といえば、ほとんどの人が違うことに使うそうだ。アンケートによれば「謝りそこねていた人に謝罪する」など、あとくされを残さないようにするという回答が多かったそうだ。可能な限りきよらかでありたい、と思うのは、死後に何かが待っているという未来観を抱いているからで、そういったところにも神様が働かれているからだ。
さて、死に対する勝利を与えてくださるのはイエス様で、
イエス様の死と復活があるから、信仰による救いを得られるのだ。
十字架の死は壮絶で、イエス様が受けられた苦しみは
目を覆わんばかりの残酷さだ。
一方で復活は、歴史的事実である。
聖書の記述では、復活の第一発見者は女性であったと記録されている。
実は女性の証言は当時軽んじられていた。
事実を証明するにはあまりにも証言として訴えかけが弱い。
では、なぜ強力に訴えかけねばならないこの復活の事実について、
いわば都合の悪い方法が選択され記録されているのだろうか。
あくまで「事実」を優先しえ追及したからだ。
事実をありのままにして伝えているのが聖書だからだ。
イエス様の愛は、死ぬほどの愛なので、掛け値なしの愛といえる。
事実である、ということは、本物、ということだ。
掛け値なしの本物の愛、これこそが神様の愛だ。感謝しよう。