環境と経営のブログ

環境制約の中でしか存続できなくなった現代の経営のあり方について考えていきます。

議事録未作成が本当ならば、国家公務員法違反で懲戒すべきである

2012-01-29 13:11:42 | その他
 民主党政府によれば、東日本大震災復興と福島原発事故対応に関する政府の重要な会議(東電統合対策本部、原子力災害対策本部、緊急災害対策本部、災害者生活支援チーム)の議事録が作成されていなかったということだ。政府の言うことが本当ならば、日本の国家公務員のプライドはズタズタだろう。ここまで日本の国家公務員をコケにした政府はない。不都合なことは全て官僚の無能さと悪意に押し付け、自分たちはいい子であり続けたいという魂胆が丸見えである。次第に、官僚たちの反骨精神に期待したくなってきた。

 一方、この問題に対して、政府の発表をまともに信じている国民はいない。政府が嘘をついているとみている。下手な田舎芝居を見せられているといった印象なのだ。

 それではまず、議事録は作成されており、存在していると思われる理由を以下に列挙してみよう。
1.政府の対策本部には必ず官僚の事務局がいる。事務局のメンバーは議事録を作成しておかないと、仕事が次に進まないので必ず作成する必要がある。これは仕事をする上での鉄則であるし、実際に何回も会議が開かれたという事実から、議事録は必ず存在すると断言できる。
2.仮に議事録を作成していないのなら、公文書管理法4条義務違反である。これには罰則規定はない。しかし、事務局が作成していないというのなら、国家公務員法第82条第2項「職務怠慢」で事務局職員を懲戒処分するのが普通であろう。しかし、そのような処分が行われていないし、検討さえ行われていない。まるで、官僚に対し、裏で謝っているかのような姿勢が見え隠れする。
3.「事実がなかった」ということを証明することは、至難の業である。これは刑事捜査においても同様だ。それなのに政府はいともあっさり議事録未作成を認めている。通常ならば、家探ししてででも、探させるところなのであるが、そういう努力がなされていない。

 さて、上記の理由を考えていくと、政府は議事録作成が本当になかったという証明を行っていないこと、また、議事録作成しなかった事務局に対して腰が引けていることが分かる。この2つの事実から、当然次のように考えるのが普通であろう。

「議事録は作成されていたが、現在、東京電力福島第1原発事故調査委員会での検証作業等が進展している中で、特定の人物に対して不利な事実が記述されているため、官僚を悪者にして、議事録は作成されなかったことした。」

 多くの国民がそのように考えていることに対して、本来野党やマスコミが追及し、明らかにしていく責任があるのに、みな逃げ腰である。しかし、このことの真実は後日明かされることになるだろう。
 いまや、原発事故に関するデータの隠ぺいや国民の生命・財産を本当に守ろうとしない日本政府の姿勢は、かつての旧共産圏のそれ以下だといわれているが、返す言葉はないだろう。すでに民主党政府に対する信頼は地に落ちているけれど、今回の議事録未作成問題で完全に国民の信用を喪失した。彼らには安心して国政を任せられないのだ。
 このような政府に消費税引き上げを実施できる力はないとみるべきだろう。

読売巨人軍化する東大と秋入学

2012-01-27 01:00:06 | その他
 読売巨人軍の観客動員数が凋落している。動員客数の最低記録が更新されている。一方、ランキング付は疑わしい面があるものの、東大の世界的ランキングは低下している。このように、日本社会における巨人や東大信仰の神話がはがれつつある。彼らが時代の変化の中で取り残されていく姿は酷似している。両者とも、今までお山の大将であり得たのは、実は閉ざされた日本社会のルールの中で保護されてきた面が大きい。
 東大信仰の破綻が私の中で決定的になったのは、福島第一原発事故である。原子力行政を支えた東大の学者たちは、実はまるで原子力の本質を知らなかったということを白日の下に晒してしまった。また、原発事故処理に対して、原子力安全・保安院の審議官にみられるように東大出のエリート官僚たちがとった行動には怒りを通り越して、憐れみさえ抱かせた。
 単純に考えれば、この大学は本当に日本の国に有用な人材を育成してこなかったということになる。否、育成しようとしてこなかったのかもしれぬ。これは、手っ取り早く他球団から優秀な選手をトレードするだけで、自球団内で選手を育成してこなかった読売巨人軍とも踵を同じくする。

 この大学が、世界から優秀な人材が集まらないからという理由で、秋入学を推進しようとしている。仄聞するところによると反対する教官も多いとのことだが、浜田学長の強いリーダーシップの前に反対派は影が薄い。また、ロビー活動に似た組織的な活動もあるようで、政府も秋入学に賛同した。
 通常、東大学長になろうという人間は世の中をリードしていこうという意識が強く、世の中を変えるという意味では価値があるのかもしれないが、結果は別物だ。「ゆとり教育」だって、東大学長から文部大臣になった有馬朗人氏のリーダーシップで実施されたが、世の中の流れを完全に見誤って、結果として日本の教育レベルの低下を招き、国際競争力の低下の原因を作ってしまった。

 それでは、今回の秋入学についてはどうだろうか。
結論からいえば、よい結果をもたらさないと考える。
 その理由は、まず第一に、火付け役の東大自体が失敗の可能性を認識しているからだ。秋入学に勝算があるのなら、他大学を巻き込まずとも単独で踏み切るはずだ。しかし、浜田学長は、「東大単独ではなく、必ずほかの大学と一緒にやる」(2012年1月20日記者会見)といって11大学に協議を打診している。このことは、単独成功させる自信はなく、失敗した時に備えて保険をかけるということを意味する(逆に成功すれば、名誉は提唱者に集約されることになろう。)。
 第二に、半年間学生を遊ばせることになる。現在の学部生は就職活動で、ただでさえ1年間は学習時間を喪失させている。このうえ更に半年間遊ばせる事は、完全に学習の時間が不足し、学力の低下につながることになる。国民所得も伸びない中、国力からみて、半年間かれらを遊ばせる余裕は無くなっていくだろうし、不可能になる。この点については、秋入学推進派は「ギャップターム」と称して、「入学前に多様な経験を積むことで、大学で学ぶ目的が明確化する効果などが期待される」(2012年1月20日付 日経新聞)などといっているが、学者の空理空論にすぎない。
 第三に、仮に秋入学を始めたからと行って、海外から優秀な人材が集まるといえるだろうか。世界ランク30位という低い評価しかない大学に海外から優秀な人材が集まると本気で考えているのであろうか。これも、巨人に入るより大リーグに入りたいという野球界で見られる現象が、日本の大学でも加速すると見られる。現在の春入学自体が、すでに日本の優秀な若者を海外の大学に流出させないための防波堤になっているのに、自らその防波堤を取り除いて首を絞めることになることを何故するのだろうか。

 では、どうすべきか。
 日本の大学は日本のローカルに徹することが一番大事なことであると思う。そして、日本の独自の環境の中から学問体系を確立し、世界に類のない成果を出していく。このことが日本の大学の世界における存在価値を高めることにつながるのではなかろうか。そして、そのための方法と評価のあり方を確立しなければならない。
 しかし、それでは世界の学術競争に遅れてしまうという批判があろう。しかし世界の学術競争の優劣は、秋入学を実施するという手段によっては達成できるとは到底思えない。
 なぜか、秋入学の主張には、可能な限り優秀な人材を集めれば学術競争に勝てるという、ずるがしこい考え方が背景にあるからである。そこには、日本の若者を真に国際競争に勝てる人材に育成していこうという愛国心と意気込みがない。要するに手抜きの思想に基づくものだからである。
 人生を一定の期間生きてきた者は、だれでも次のことを知っている筈である。手を抜いたものは、必ず将来メッキがはがれる。人材育成は遠回りの道ではあるが、日本の若者を育成せずして、日本の大学が世界の学術競争に勝てる筈はない。
 今は、国際化、競争、市場という言葉の前には誰もがひれ伏すような時代である。しかし、2008年9月15日のリーマンショック以降、そういう時代に陰りが見え始めている。この時期に、他大学まで巻き込んで敢えて秋入学を行おうというような蛮行は思いとどまっていただきたいと希う。