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伊勢 松名瀬の佐波氏

松名瀬の佐波氏記録を纏めたブログです。

4 伊勢 松名瀬の佐波氏(福島正則家臣、佐波を澤に改名)

2012-07-20 14:17:26 | 記録
<福島正則家臣>

  
  <第6代 当主 佐波半兵衛之信>
   「続群書類従 第25輯 上」のなかの「続群書類従 巻第714 武家部60 福島正則家中分限帳」に下記の記録がある。
   ・福島伊予守正守 5,000石の与力として澤 半兵衛 325石3斗の記録あり。

  
   また「久留米藩御家中略系譜21」によると、
   ・勢州松名瀬の生まれ、豊臣秀次公に奉公。秀次公、ご自害(※1)のあと浪人となる。
    慶長4年(※2)尾州清州に於いて福島正則に仕える。
    関ヶ原の陣、相勤める。慶長5年、芸州広島へ国替え後 330石賜る。
    1612年(慶長17年8月8日)73歳没、とある。

    参考:① ※1=文禄4年7月(西暦1595年)、※2=西暦1599年 で浪人期間は約4年
       ② 豊臣秀次と福島正則の関係は、渡辺一雄著「封印された名君 豊臣秀次」P231~233参照
       ③ 関ヶ原の陣は慶長5年9月(西暦1600年10月)



  <第7代 当主 佐波(澤)助左衛門之正>
   「久留米藩御家中略系譜21」によると、
   ・伊勢松名瀬の生まれ、相続330石にて福島正則に仕える。
    正則の命により福島備後守の大扈従を勤める。備後守の命により佐波を澤に改める(ある時、備後守に先祖が宇陀の澤城城主だったことを話す)。 
    元和7年、福島家改易後、浪人。
    元和8年、渡瀬将監(福島家家臣)と久留米に行き、有馬家家臣 稲次壱岐の肝入りで有馬豊氏に仕える。200石、石崎村柳原に屋敷拝領後、馬廻組。


  

3 佐波氏=伊勢 松名瀬 (奈良県榛原の澤城跡)

2012-07-19 18:30:11 | 記録
<澤 城>
  奈良県宇陀市教育委員会が「澤城跡 第2~4次発掘調査報告書」(2011年3月報告)を纏める
  
  ・伊那佐山から南東にのびる標高480~524mの山頂に造られた中世の山城。尾根を切った二重堀切から大手門をおさえる郭
   群まで南北700m×東西400m
  ・築造時期:不明
  ・廃 城 :1585年(天正13年)ごろ
  

 「澤城跡 第2~4次発掘調査報告書」のなかで、
   鎌倉時代、春日社・興福寺はそれぞれの所領を宇陀にも多く持ち、その荘官として地元の土豪たちが任用される。このなか
  でも秋山・澤・芳野の三氏が台頭、やがて武士化し、彼らは宇陀を代表する勢力となる。(略)・・・・・。1353(正平8年)、伊勢
  の国司・北畠氏が宇陀を手中に収めると、三氏をはじめとする地侍は北畠氏勢力下に置かれることとなる。澤氏は、北畠氏の
  影響下、大和よりもむしろ伊賀・伊勢へとその勢力をのばすこととなる。(略)・・・・・。芳野川を中心とする集団は、澤氏を中心と
  する武士団として成立し、1527年(大永7年)の「樽引付」には芳野氏、檜牧・池・大貝・高塚・守道・赤埴・梶尾氏をはじめとす
  る与力・被官のほか、多くの被官衆、寺庵、百姓衆などが名を連ねる。「樽引付」によって澤氏一族の周辺部には、同心円的
  に同名衆・被官衆が取り巻いており、その末端は村の百姓衆にまで及んでいたことがわかる。また、澤氏は一系統ではなく、
  時の実力者が惣領となり、武士団を統率した。
   (略)平坦面・土塁・堀切りなどの遺構が良好な状態で残っている。

 とある。

  ※現在、澤氏に関してはルイス・フロイスの「日本史」、「澤氏古文書」に焦点が集まっているが、松名瀬のサワ氏ほかにも脚光が集まる日が来ることを期待したい(有馬文書「御家中略系譜」の佐波氏第6代 助左衛門之正の項 参照)  
  

 
 

2 三重 松名瀬 佐波氏(永山遺跡=達磨山館跡)

2012-07-17 12:33:31 | 記録
<松阪市 永山遺跡(達磨山館跡)>

佐波(澤)九郎左衛門之忠(ユキタダ)は、達磨山館主(永山遺跡)と澤城主(奈良県宇陀)で松名瀬・佐波氏の起源となる人

永山遺跡は、平成14~19年度に地元の松阪市教育委員会が遺跡の分布調査を行った際に発見された
「松阪市埋蔵文化財報告6 三重県松坂市遺跡地図」(2008年3月発行)に掲載されている

・所在地:東黒部町永山・西ノ越、松名瀬町大坪
・地目 :水田・畑
・時代 :鎌倉~室町
・範囲 :南北150m × 東西525m
・出土遺物:土師器、焙烙、土錘




※遺跡との位置関係:
  ・佐波洲(がら崎)に上陸してくる敵を迎え撃つ、防衛拠点として達磨山館を佐波九郎左衛門之忠が築く
  ・遺跡は、佐波洲(がら崎)の南東約1.5kmに位置する
  ・ 〃  濱神社跡の北東約400mにある

※現在、墓地として使用されている。
 遺跡の発掘調査は通常、再開発等が行われるときに実施されるとのこと。今後の解明に期待したい