3月のある日にこんな出来事があった。
当時の居住地とは遠く離れたある店に客として訪問することになった。現地入りは早かったのだが,道が細かかったりして店の場所を特定できずに訪問予定時刻を大幅に遅れてしまった。訪問時の資料としてWEBページを印刷した資料を持っていたが,店の電話番号の欄が切れていた。
店に到着後,遅れた旨を言うと店の責任者は「いいえ,とんでもありません」と言った。その後,別の担当者に変わった。しかし,この担当者。話し方もどこか上から目線であり,客の要望よりもマニュアルどおりの進行を重んじている感じだった。話し方からとても信頼できずそれが態度に出てしまったことやさらにこちらが要望を主張したこともあり,ムードは険悪になっていった。そして,店を離れ,自動車という密室になったときに担当者が本性を表した。
「遅刻はするは,こっちの話はちゃんと聞かん,挙句の果てには態度もなってない。お前には常識がない!お前みたいな客と取引は絶対こっちからお断りだ。」
それ,こっちのセリフと思いつつも,口ごたえすると命の危険を感じたので向こうの要求を飲み,無駄な抵抗はせず,すみませんと繰り返した。
「すみませんで済む問題じゃないだろうが。」
向こうのお怒りはまだ続き,ネチネチと問いつめてきた。
散々言って少しは落ち着いたのか途中からは「ごめんな」という言葉も出てきた。そして,自動車という密室からも解放された。もちろん,いくら客という立場にあったとはいえ,自分自身の態度を反省すべき点はあったように思う。
自分の主張を曲げなかったのもこの業界にあるといわれている戦略にひっかからないように警戒してのことだったが,この1件以降さらにこの業界への警戒は強くなった。しかも,最初にお客様のことを知らないといい商品も提供できないし,商品の取引先にもお客様のことを紹介できないといって住所,電話,職業などの個人情報を聞くことのできる業界なので恐ろしくて仕方がない。
ここで言われた常識という言葉について考えてみたい。なお,担当者の言葉にもあるように,この記事を書いているのは常識のない奴なので,こんな常識のない考え方をする人もいるんだ程度で受け取っていただければと思う。
「遅刻をしたらいけない」
子どものころからよく言われていることで常識と言えそうだ。
しかし,これを客を受け入れる店(客を選べるレベルの店は除く)の立場から考えると,「お客様の遅刻は責めないのが常識」となる。しかも,定刻に客が来ないときには連絡を入れ,「もしかしたら事故に遭われたのではないかと心配致しまして」とか「(店の場所が分からないのなら)近くまでお迎えに上がりましょうか」と思ってなくても言うのが,接客業としての常識ではないだろうか。客を鍛えることが契約に含まれるのスポーツクラブや塾でも電話を入れる際にはこのように言っているところもある。間違っても,「遅れるんだったら連絡よこせ」なんて接客(?)は,事前に遅れる際には連絡をするように書いていても考えがたい。
ここで注意したいには,一般的に常識がないと考えられそうな遅刻という行為も接客業という世界では,お客様に非がないとするのが常識となってしまう。常識の指す内容は時と場合によって変わっている。
視力検査を受けた際にこんな経験があった。穴の開いている方向の答え方はこうすべきというものは特に指定されていない。「上」「右」と言葉で答える方法もあれば,指で方向を答える場合も考えられる。自分自身,昔から特に注意されたこともなかったので,方向を指を指して答えるという癖がついていた。高校生の時にその答え方をしたら,「方向を口で言わん」かいう指摘を受けた。その指摘にはそんな幼稚な答え方をするなというメッセージすら感じられた。確かに,検査を行う側は検査を受ける側と同じ方向を向いていないし,手元のCの字の書かれたボタンを押して光らせているので,言葉で言った方が指の方向を自分の見ている方向に置き換えるよりも処理が早くなる。しかし,視力検査の検査をする側にはなかなかなる機会はないので,言われないと気付きにくい。
常識というものは人や立場によって変わってくるものなのかもしれない。その人が経てきた環境によって形成されるものであるので,皆が同じ常識を持っていると言う方が奇妙かもしれない。
教科の国語の分野の中にも「国語常識」と呼ばれる分野がある。分類方法も様々だが,問題集などでは漢字の読み書きや部首などの知識,文法,ことわざ,慣用句,行書体などが分類されていることが多い。問題を解いているときには意識しないが,何をもって常識としているのか考えてみると分かりにくい。出題者の常識が表れてくるのかもしれない。
公務員などの採用試験にも「一般教養」という試験がある。出題内容は高校までの教科書や経済学や法律学の内容が出題されている。ある意味の常識として出題されているのだが,広い学問の世界から何を基礎,常識として選定しているのか考えると,それを基礎,常識として判断した人の存在が見えてくる。何者かによって線引きされた主観的とも言えそうな常識が生まれている。教科書の内容も同様だろう。
他にも食事や衣服のマナーなど努力しなければ獲得できないような常識がたくさんある。これも,それを常識として選定した何者かの存在があるからこそ常識となっているのだろう。
昔は常識のようにされていたことが,今は常識とまでは言いがたくなった,あるいは常識とされつつも浸透していないケースもあるように思う。(ことわざの知識の量,いい国作ろう鎌倉幕府など)環境の変化や学問の進歩の影響でもあるだろう。時代と共に常識も変化し,それは世代間の常識のギャップとなるだろう。
客観的,固定的なことに思える常識だが,かなり主観的,流動的なものであるように感じる。こんなことを考えるようになってから,自分の考えている常識が他の人にとっては常識ではない場合を意識して「常識」という言葉を使わないように努力はしているのだが,やはりたまに「常識じゃない」などと言ってしまっている。こんなことを考え出した葉ここ数年なので,それだけ今まで常識というものに縛られてきたということかもしれない。
当時の居住地とは遠く離れたある店に客として訪問することになった。現地入りは早かったのだが,道が細かかったりして店の場所を特定できずに訪問予定時刻を大幅に遅れてしまった。訪問時の資料としてWEBページを印刷した資料を持っていたが,店の電話番号の欄が切れていた。
店に到着後,遅れた旨を言うと店の責任者は「いいえ,とんでもありません」と言った。その後,別の担当者に変わった。しかし,この担当者。話し方もどこか上から目線であり,客の要望よりもマニュアルどおりの進行を重んじている感じだった。話し方からとても信頼できずそれが態度に出てしまったことやさらにこちらが要望を主張したこともあり,ムードは険悪になっていった。そして,店を離れ,自動車という密室になったときに担当者が本性を表した。
「遅刻はするは,こっちの話はちゃんと聞かん,挙句の果てには態度もなってない。お前には常識がない!お前みたいな客と取引は絶対こっちからお断りだ。」
それ,こっちのセリフと思いつつも,口ごたえすると命の危険を感じたので向こうの要求を飲み,無駄な抵抗はせず,すみませんと繰り返した。
「すみませんで済む問題じゃないだろうが。」
向こうのお怒りはまだ続き,ネチネチと問いつめてきた。
散々言って少しは落ち着いたのか途中からは「ごめんな」という言葉も出てきた。そして,自動車という密室からも解放された。もちろん,いくら客という立場にあったとはいえ,自分自身の態度を反省すべき点はあったように思う。
自分の主張を曲げなかったのもこの業界にあるといわれている戦略にひっかからないように警戒してのことだったが,この1件以降さらにこの業界への警戒は強くなった。しかも,最初にお客様のことを知らないといい商品も提供できないし,商品の取引先にもお客様のことを紹介できないといって住所,電話,職業などの個人情報を聞くことのできる業界なので恐ろしくて仕方がない。
ここで言われた常識という言葉について考えてみたい。なお,担当者の言葉にもあるように,この記事を書いているのは常識のない奴なので,こんな常識のない考え方をする人もいるんだ程度で受け取っていただければと思う。
「遅刻をしたらいけない」
子どものころからよく言われていることで常識と言えそうだ。
しかし,これを客を受け入れる店(客を選べるレベルの店は除く)の立場から考えると,「お客様の遅刻は責めないのが常識」となる。しかも,定刻に客が来ないときには連絡を入れ,「もしかしたら事故に遭われたのではないかと心配致しまして」とか「(店の場所が分からないのなら)近くまでお迎えに上がりましょうか」と思ってなくても言うのが,接客業としての常識ではないだろうか。客を鍛えることが契約に含まれるのスポーツクラブや塾でも電話を入れる際にはこのように言っているところもある。間違っても,「遅れるんだったら連絡よこせ」なんて接客(?)は,事前に遅れる際には連絡をするように書いていても考えがたい。
ここで注意したいには,一般的に常識がないと考えられそうな遅刻という行為も接客業という世界では,お客様に非がないとするのが常識となってしまう。常識の指す内容は時と場合によって変わっている。
視力検査を受けた際にこんな経験があった。穴の開いている方向の答え方はこうすべきというものは特に指定されていない。「上」「右」と言葉で答える方法もあれば,指で方向を答える場合も考えられる。自分自身,昔から特に注意されたこともなかったので,方向を指を指して答えるという癖がついていた。高校生の時にその答え方をしたら,「方向を口で言わん」かいう指摘を受けた。その指摘にはそんな幼稚な答え方をするなというメッセージすら感じられた。確かに,検査を行う側は検査を受ける側と同じ方向を向いていないし,手元のCの字の書かれたボタンを押して光らせているので,言葉で言った方が指の方向を自分の見ている方向に置き換えるよりも処理が早くなる。しかし,視力検査の検査をする側にはなかなかなる機会はないので,言われないと気付きにくい。
常識というものは人や立場によって変わってくるものなのかもしれない。その人が経てきた環境によって形成されるものであるので,皆が同じ常識を持っていると言う方が奇妙かもしれない。
教科の国語の分野の中にも「国語常識」と呼ばれる分野がある。分類方法も様々だが,問題集などでは漢字の読み書きや部首などの知識,文法,ことわざ,慣用句,行書体などが分類されていることが多い。問題を解いているときには意識しないが,何をもって常識としているのか考えてみると分かりにくい。出題者の常識が表れてくるのかもしれない。
公務員などの採用試験にも「一般教養」という試験がある。出題内容は高校までの教科書や経済学や法律学の内容が出題されている。ある意味の常識として出題されているのだが,広い学問の世界から何を基礎,常識として選定しているのか考えると,それを基礎,常識として判断した人の存在が見えてくる。何者かによって線引きされた主観的とも言えそうな常識が生まれている。教科書の内容も同様だろう。
他にも食事や衣服のマナーなど努力しなければ獲得できないような常識がたくさんある。これも,それを常識として選定した何者かの存在があるからこそ常識となっているのだろう。
昔は常識のようにされていたことが,今は常識とまでは言いがたくなった,あるいは常識とされつつも浸透していないケースもあるように思う。(ことわざの知識の量,いい国作ろう鎌倉幕府など)環境の変化や学問の進歩の影響でもあるだろう。時代と共に常識も変化し,それは世代間の常識のギャップとなるだろう。
客観的,固定的なことに思える常識だが,かなり主観的,流動的なものであるように感じる。こんなことを考えるようになってから,自分の考えている常識が他の人にとっては常識ではない場合を意識して「常識」という言葉を使わないように努力はしているのだが,やはりたまに「常識じゃない」などと言ってしまっている。こんなことを考え出した葉ここ数年なので,それだけ今まで常識というものに縛られてきたということかもしれない。
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