時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.36) 作成者像

2008年11月30日 03時30分31秒 | Weblog
 開設から1ヶ月以上が経っていた。
 事務記事を除く記事数が今回も含めて36。記事数もそこそこたまってきた。

 よく犯罪者や変わった言動を起こしている人をマスコミで取り上げる場合,ブログがあればかなり重要な資料になっているように思う。確かにブログの記事の傾向などを見ていくと,その作成者について分かることは多い。しかし,ブログ(ブログに限ったことではなく,小・中学校の卒業文集なども)その人の一面のみを捉えたに過ぎず,その人全てを理解するなんて無理なことだ。近所の人にインタビューは定番だが,近所の人がどれだけ当該者を理解しているのだろうか?あまりにも自信満々でインタビューに応じている人を見ると,思わず「本当に分かってないだろう」などとつっこんでしまう。
 
 
 話は変わるが,自分(作成者)を分析する資料としてこのブログが与えられた場合,どのような人物像が見えるのか分析してみたい。


 記事の話題は,回数の比重を考えなければ,川,鉄道,開発などが多く,制度,開発,離島そして,トイレなどにも触れていて幅が広い。
 
 川が多いのは大学の専攻が影響している部分もあるが,それ以前からも水辺の風景が好きなことの方が大きいかもしれない。
 

 もどかしいのがかなりの頻度で記事に登場する「鉄道」だ。登場の仕方には差があるものの16の記事に登場している。(AMUのツリーなど鉄道の雰囲気があまり感じられないものは除外した)

 こうなると,いわゆる「鉄」とか「鉄ちゃん」ということも推測できる。

 実際どうかと言われれば,鉄道は好きであるし,興味はあるが,その域には達していないし,達そうとも思っていないということになるだろうか。実際今話題になっている「0系新幹線」もどんな新幹線なのかニュースの映像を見るまでは分からなかった。

 旅の手段として用いることもあるので,使わない人よりは知識はあるだろう。
 また記事を書いたり,書くために現地に行くにあたって,その道の方が書かれたHPやウィキも参照しているので,そうした部分からも少しは詳しくなっている。「駅名票」「ホームの数え方」「跨線橋」などの言葉や表現方法の存在にも気付いた。今までの記事では「駅名の看板」とか「上下入れ替えができる駅」とか「歩道橋」とか書いていたはず。専門語はあまり使いたくないので,今後はどうするかは検討中。
 だが,駅の写真を撮りに行く場合の手段は旅行時を除き,原則自転車である。おまけに,駅に着いても入場券が必要な部分への出入りは1回もしていない。
 
 ただ,駅に対してはマニアの域ではないがある程度興味がある。このブログのテーマに合う部分も多いからだ。ブログを始めたのは最近だが,以前からこのブログに書いているような視線をもっていたからこそ開設する気になったのだろうし。
 2年前に提出したレポートで,駅の看板(駅名票)のイラストから地域の自然とのかかわりを分析したことがある。そのとき,駅や鉄道線路を「鉄道会社は,利潤を追求するために,一定以上の利用者がいると見込んだ地区を通るように線路を設置し,基本的に集落の近くに駅を設置していると考えられる。したがって,駅周辺または鉄道路線の周囲には人々が生活をしている土地があり,そこにはその土地の文化が形成されていると想定できる」とした上で,駅を「外部から鉄道を利用してその地を訪れる人々が,その地で最初に訪れる玄関のような存在の場所」として取り上げていた。実際駅員だけでなく,地域の方々が駅を整備しているところも多くある。(いらなくなった本を持って行ってもかまわないとしていたり,トイレの掃除やちょっとしたスペースに小物を飾っていたりなど)
 またこうした面とは別に,都市問題などと鉄道との結び付きも強い。「開かずの踏切」「高架化」「駅前商店街」「駅による市街地の分断」などがその例だ。都市に限らず,「三セク可」「廃線」「新駅設置」などはどこの地域とも関わりがあることだ。そのため,鉄道は作ったら終わりということはなく,絶えず見直されている。だから,変化も多い。変化を取り上げるこのブログにとって格好の対象だ。


 とりあえず,鉄道マニアか否かの内容はこれぐらいにしておきたい。



 制度に関する記事に法文や議事録の引用があることからも,作成者像に誤解が生じそうだ。確かに法律学を入門程度はかじっている。実際の裁判や議会(委員会)を見たことがある。そうした経験の反映はあるものの,記事のレベルはかなり低いことからも専門ではないことが表れているかな?


 あと,全体して「自然」「たどれるもの」「広く浅く」の傾向があるように思う。

 自然は,一応本業の専攻を更に細かく見ると「自然」という文字が入ってくるので関わりは強い。それを抜きにしても,かつてキャンプやハイキングなどに参加していたことからもそれなりに自然環境の中で過ごしてきた。今も海や森の近くに行くことは多い。たまに意味もなく行くことすらある。「自然」とはいっても本当の意味で純粋な自然はほとんどない。何らかの人間の手が加えられていることが多い。日本三景などにしても,完全な自然ではなく,神社などの建造物が含まれている。そのような自然と人間活動の合わさった風景にも興味を持っているし,そのような風景を撮影するのも好きだ。

 「たどれるもの」には川,線路(廃線含む),国道などが出ているだろうか。どのぐらいまで踏破したか達成具合を確かめられるので,それなりの達成感も生じる。「たどる」という活動も好んでしている。(このブログのタイトル通りだけど。)

 「広く浅く」興味を持つものは結構多い。だが,その道を極めたものはない。
 「広く」に関しては大学の専攻が総合科学に分類される以上,自分の学問分野だけやっていては見えてこない部分が多いことにも拠るだろう。もちろん,そのなかでの専門を深めることも大切だが・・・
 他方「浅く」については浅くしようとは思ってはいないが,「広く」の弊害としてやむを得ないものかとも思う。本当の専門分野が「浅く」なりそうになっているのは危ないけど。
 専門関係以外にも「教育学」も教員免許を取る程度に学んでいるのでこのことも影響しているかな。教科も社会科だし。



 自分自身で書いているから,気付く面もあるのだろうが,このブログから読み取れる(誤解されそうな)作成者像はこんなものかと思う。



 話は変わって,ブログの記事から記事の作成過程に移る。
 ブログに掲載する写真を撮っているとき,何も知らない人が見たらどんな人だと思われているのだろうか。間違いなく「かなりの変わり者」だろう。そんなもののどこが珍しいんだというものの写真も撮っている。川の跡とか市電の電停跡地とかそのことを知らない人にとってはただの道路でしかないだろう。そんなものを取っている人は,理解不能に違いない。

 おまけに史跡なども全て目立つ場所にはないし,普通の人が興味を持たないようなものや意識がないものまで探したりするので(もちろん法に抵触する探し方はしないが),ある意味不審者かもしれない。近くで窃盗とか起きたときには容疑者候補になるんだろうな。犯罪の目撃情報と犯人が一致していることは案外多くない。大幅にはずれていることすらある。「さかきばらせいと」も始めは35歳ぐらいの男だったし,名古屋の通り魔も最初は「男」と考えられていた。物騒な世の中になったなと思う。



※カテゴリーはweblogだが,これまでの記事をたどっているという点では,テーマに沿っているはず・・・

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