その1・その2・ その3・ その4・その5・その6 |
※ 6日に投稿する予定がミスで遅れました。
今日の発表会でその調査地とした永田川との関わりも一区切りとなる。
調査のときはもちろんそれ以前からも何度も訪れた永田川についてもある程度の理解ができたと思うので,永田川の遡上の記事を書き始めたい。
まず,永田川と和田川の河口に架かる谷山臨海大橋から錦江湾,桜島を望む。
(2008年8月1日撮影)
橋の欄干などには落書きが多く,景色がいい場所としてはやや興ざめするところもある。
少し上流の方へ登った産業道路の橋から永田川河口と臨海大橋を見る。
(2009年2月5日撮影)
和田川と永田川の河口の位置はほぼ同じであるが,堤防ではっきりと区切られている。
(2009年2月9日撮影)
写真手前が和田川で堤防の奥を永田川が流れている。
奥に見える建物は青果市場。
それより上流寄りに東開庭球場があり,中学高校のテニスの大会会場などとしてよく使われている。そのため,大会がある日はこの周辺から谷山駅や谷山電停付近までテニスのユニホームを着た中高生がたくさん歩いているのが見かけられる。
産業道路の橋から上流の方へ行くと工業用水の施設がある。
その施設の前から川を見てみる。
(2008年11月15日撮影)
川に水道施設と見られるパイプがかかっており,その背後には,今は使われていない橋桁の跡が見られる。
川の向こうに木がたくさん生えている場所が見える。
そこが小松原公園であるが,公園の遊具などのある広場に隣接して,次のような空間がある。
(2008年11月4日撮影)
松林になっている。
これが,この周辺の地名「小松原」の由来となっている。
このあたりに島津久光の建築となる別荘があり,玉里別荘と呼ばれていた。
たくさんの松が植えられていたことが,小松原の由来であるという。
そこから上流に行き,丁度情報高校の対岸に(No.74)射場前公園で紹介したこの碑がある。
(2008年11月15日撮影)
西南戦争の際に政府軍に焼き払われた煙硝庫の跡を示す碑だ。
国道225号線の通る清見橋の脇の情報高校の門前にはお地蔵様がいる。
(2008年11月1日撮影)
(その2へ続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます