ハチメンドウ

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言論は自由、だが担保されるとは限らない。

2015年01月03日 | Weblog

 俺たちは“基本”自由である。だが、無償で得られたものではないし、制限付きの自由である。人は一人では生きていけない。そう感じなくても、必ずどこかで他人の恩恵を受けている。そうなっている以上、社会に多少なりとも帰属するのは自然ではある。なのに、その枠組みから逸脱したレベルの自由を求めるならば、自らが社会から相応の罰を受けるだけだ。社会的規範、理性から外れるということは野生である。

 

そんな社会の枠組みから(ある程度は)外れたネットの世界は、好き勝手とまではいかなくても現実の社会に比べれば遥かに自由だ。身分を隠せるのだから、自分の言論に無責任になれる。責任がないがゆえに言えることも出てくるだろう。だが、逆にいえばそうやって発する言論にはその程度の重みしかないということでもある。

 

世間を賑わせたあの作曲家やあの研究者が、もしも「嘘をついてはいけない」と熱弁をふるっても、まあ反面教師的な意味で学び取れる側面はあっても、その言論自体を支持する人間はまずいない。たとえ、その言論にそれなりの理があったとしても、一笑に付すのがオチだろう。一言でいえば説得力がない。

 

ましてやネットの住人の大半は、現実社会で何をしているかなんて実際のところ分からない。そんな経歴も何も分からない、分かったとして本当かどうか判断しようがない人間が書いた文章は、その内容によらず「よく分からない人間が書いた文章」という注釈がつけられる(今回の記事に、自虐と言い訳が多分に含まれているのは察しの通り)。

 

社会で自由を得るということは、同時に責任も重くなっていく。それを放棄すれば、その自由にはその程度の重みしかなくなる。言論の良し悪しは、その言論自体では必ずしもない。当然、言論そのもので勝負することも可能ではあるが、もしそれを一蹴されたとしても、俺たちはその言論に大した責任を持っていないのだから仕方がない。

 

清廉潔白であれ、といいたいわけではない。責任を持てない言論を慎め、といいたいわけでもない。表題にも書いたが「言論は自由」だし、そうあるべきだとも思う。だが、正当な言論を担保したいならば、正当な言動も必要なときがあるかもしれない。それができないなら、良くも悪くも俺たちの言論は「他人にとってその程度」なのである。

 


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