ハチメンドウ

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好き嫌いの表明が許されない世界。

2012年06月14日 | Weblog

「嫌い」という価値観を強く持つ人を広義の意味で「アンチ」という。アンチによる「〇〇が嫌い」であることの表明は、時に過激で好きだと思う人を不快にさせる。

 

俺は作品Aが好きであるが、作品Aが嫌いな人も恐らくいる。嫌いな人の価値観は認めている。けれど、その人が嫌いであることを知っていい気持ちにはなれない。そして、時にアンチは「好き」であるという価値観、その人格すら否定しようとしてくる。それは悪意を持って、罵詈雑言や誹謗中傷といった形で伝えてくる。それは平気ではいられない、凹む。だから、俺は何かを無性に大好きだと表明することを恐れ、感想なのに批評っぽく、客観的になってしまう。

 

「好き」という価値観を強く持つ人を広義の意味で「信者」という。信者による「〇〇が好き」であることの表明は、時に過激で嫌いだと思う人を不快にさせる。

 

俺は作品Bが嫌いであるが、作品Bが好きな人も恐らくいる。好きな人の価値観は認めている。けれど、その人が俺の嫌いだという価値観を認めているかはまた別の話で、俺が作品Bが嫌いであることを知って許せなくなる。そして時に信者は「嫌い」であるという価値観、その人格すら否定しようとしてくる。それは悪意を持って、罵詈雑言や誹謗中傷といった形で伝えてくる。それは平気ではいられない。やっぱり辛い、凹む。だから、俺は何かを無性に大嫌いだと表明することを恐れ、柔らかい言葉使い、暗に強く否定できないでいる。そもそも、今回の記事の例えを作品A・Bとしている時点でヒヨっていることを察してほしい。

 

何かを好きであったり嫌いであったりすることが、時に他人や社会に辛い思いをさせる。故に好き嫌いを自分の中に押し留めて、表に出すことを憚ってしまうというのは珍しいことでは多分、ない。ただ、嫌いであることの方が負の側面が強い分、避けられる傾向は強いだろう。

 

しかし俺には、何かがとても好きな信者も、何かがとても嫌いなアンチも、お互いの存在を許さないという面で大して差がないように見える。信者やアンチにとって必要なのは好き嫌いの共感であり、価値観の多様性を認めることが欠如している。そしてそれは言論統制や、反対派の弾圧といった形で露になる。好き嫌いを、違う価値観の存在を許さないことでしか表明できないというのは、何とも不自由な話である。

 

「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」というのはまあもっともかもしれないが、何が嫌いかで自分を語ることがあっても構わないと俺は思う。大事なのは、価値観の多様性を認めることだ。好きであること、嫌いであることも表明できない世界はつまらないだろう。


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