原色を着られるのは子どもの特権である。
つまり「赤コートを着た少年」というのは「子ども」のメタファである。
社会性を持った大人、は、基本的にダークカラーを纏う。
それはハレとケの違いでもある。
大人はケの存在であり子どもはハレの存在である。
閑話休題。
エドは今回落ち着いたアースカラーの服を着ている。
それは彼が、テレビシリーズ時代の「子ども」ではないことを示している。
彼はテレビシリーズの「四年間」を過ぎることで子どもから脱却した後である。
翻って弟である。兄のコートを纏う彼は、今回一番分かりやすく描かれる「子ども」である。
罪を知る以前、世界との関わりの薄い彼は、確かに「まだ子ども」である。
しかし、弟は今回の事件で新たな「罪」を犯し、世界との繋がり、自分の立ち位置を自覚することで「大人」になる。アニメ版の鋼は常に、子どもが大人になるイニシエーションとしてのジュブナイル的な構造を強く持っている。テレビシリーズにおいてこの仮定を辿ったのがエドであることを考えると、今回の映画版は「テレビシリーズのテーマを再度繰り返してみた」わけである。TVで大人になったエドは、今回半ば弟を見守るスタンスになっている。そう言う意味で今回の主役は弟だと言えるかも知れない。
そしてラストシーン、弟は髪を切っていた。元服などで髪を切ることは多く、日本でもそうである(所詮この作品を作っているのは日本人である)。また、彼は打って変わって寒色の服を着ていた。これらからみて、弟は既に「こども」ではなく、「大人」になった、と言うことができるだろう。
既に二人とも、原色の赤いコートを着る資格はないのである。
以上
こじつけですけどね。
※補足
そういえば、エドはTVシリーズにおいても、後半ほとんど赤いコートを着ていない。
うろ覚えの記憶が正しければヨック島を出て後(32話)である。
あの辺りのエピソードがエドにとってのイニシエーションであることについては
本館TVシリーズ感想について既に述べた。
つまり「赤コートを着た少年」というのは「子ども」のメタファである。
社会性を持った大人、は、基本的にダークカラーを纏う。
それはハレとケの違いでもある。
大人はケの存在であり子どもはハレの存在である。
閑話休題。
エドは今回落ち着いたアースカラーの服を着ている。
それは彼が、テレビシリーズ時代の「子ども」ではないことを示している。
彼はテレビシリーズの「四年間」を過ぎることで子どもから脱却した後である。
翻って弟である。兄のコートを纏う彼は、今回一番分かりやすく描かれる「子ども」である。
罪を知る以前、世界との関わりの薄い彼は、確かに「まだ子ども」である。
しかし、弟は今回の事件で新たな「罪」を犯し、世界との繋がり、自分の立ち位置を自覚することで「大人」になる。アニメ版の鋼は常に、子どもが大人になるイニシエーションとしてのジュブナイル的な構造を強く持っている。テレビシリーズにおいてこの仮定を辿ったのがエドであることを考えると、今回の映画版は「テレビシリーズのテーマを再度繰り返してみた」わけである。TVで大人になったエドは、今回半ば弟を見守るスタンスになっている。そう言う意味で今回の主役は弟だと言えるかも知れない。
そしてラストシーン、弟は髪を切っていた。元服などで髪を切ることは多く、日本でもそうである(所詮この作品を作っているのは日本人である)。また、彼は打って変わって寒色の服を着ていた。これらからみて、弟は既に「こども」ではなく、「大人」になった、と言うことができるだろう。
既に二人とも、原色の赤いコートを着る資格はないのである。
以上
こじつけですけどね。
※補足
そういえば、エドはTVシリーズにおいても、後半ほとんど赤いコートを着ていない。
うろ覚えの記憶が正しければヨック島を出て後(32話)である。
あの辺りのエピソードがエドにとってのイニシエーションであることについては
本館TVシリーズ感想について既に述べた。