シャンバラを征く者感想ブログ

鋼の錬金術師劇場版感想・解説書き付け。思いついた順に書き込んでいきます。
9月頃まで期間限定開設。

元ネタ

2005-10-01 12:33:34 | 感想
ハイデリヒがエドのためだけに作った秒速11キロの一人乗りロケットの、おそらく元ネタであろう飛行機を紹介します。
ロケット迎撃機 バッヒェムBa349「ナッター」。

こっちの写真も参照。

デザイナーの弁がほぼ一致しているので多分ビンゴ。これを複葉機のデザインにしたもの、みたいですね。

つーか末期ドイツのトンデモ兵器を持ってきますか。

仕切り直し

2005-09-23 14:35:30 | 感想
さすがに先日のぼやきは大人げなかったのでまじめにラストの違和感について再編集。
TVシリーズもではあるのですが、結局「兄弟」の枠の外から出なかった、ということが作品として寂しいと思うのです。
ことに弟は、最後まで独り立ちしなかった。
あの作品は基本的スタンスとしては少年漫画・ジュブナイルを目指した話だったはずです。
だとするなら、描かれるべきは「少年の成長と自立」であったはずなのです。
そして、エドはすでに大人として書かれているので、あの映画における「少年」はアルだったわけです。
しかもあくまで「記憶のないアル」の。
だとするなら、最後で結局「保護者」であるエド(エド=父、についてはすでに述べた)の側に戻る、というのは、とても「自立」を描いた選択とは思えないのです。
ラストの荷台の上で、「これからどうするの兄さん」と言うシーンがありましたが、このシーンからはTVシリーズの頃と同じく、行動決定の主体が兄でしかないことが伺えます。4年間の記憶が戻って(+2年間の探した記憶もあって)も、それでも行き先についての選択・決定を兄にゆだねている。自分で考えていない。
エドについても弟離れ(というかこの場合子離れと言っても極端ではないのかな?)しろよと思いますし(いやしたはずだったんだよ)(しかし「お前はお前の道を歩め」的なことを一度も言わなかったなこの兄。父はエドにそう言ったのに)。
結局アルが主体的に何かを行ったのは、最終回の「自分を犠牲にエドを蘇生させる」だけだった気がします。あと2年間(旅の期間は二ヶ月)の「兄捜し」。これまで兄主導の旅をしているところしか見てなかったので、(4年間の旅の記憶もないのに)自分で地図を見て自分で行き先を決めて自分で汽車のチケットを取って自分で宿屋で宿取って自分で聞き込みとかもして、絡まれても自分一人で解決して、といったアルを想像すると、兄がいなくてもがんばってるんだなあとほほえましく思ったのですが。(たとえそれが「兄に会うため」の一義であったとしても)

果たしてエドがノーアとくっついたのかどうかはいまいち謎なのですが(くっついたようには見えない……でも物語としてはくっついたことになっててもおかしくない……)、この先エドが結婚するとかなったとき、こんなにも依存したままの弟はどういう態度を取るのだろうとかふつうに心配になります。そこで「兄の人生は自分の人生ではない」と気づくことになり青春の一悶着があったりするのだろうか……。
ていうか双方共に「自分の人生と兄(弟)の人生は別個の物」だとわかっているんだろうか……。

結局「兄の側にいたい」以外にアルの望みとか願いとかが描かれていないのは悲しいですね。エドでさえ「いつだってあるさ、夢よりも大切なこと」と言うに至ったというのに。恋人相手ならまだし、「(保護者としての意味含む)兄以外に、価値をおくものが何もない」というのは、あの時期の子供ならしょうがないのかもしれませんが、物語のラスト、としてみるなら何だか不完全な気がします。

ロンギヌスの槍

2005-09-23 13:38:47 | 感想
をナチスが探していた(or持っていた)というのはそれなりに知られた話だそうですね。へえ。

今気がついた!!

2005-09-23 01:54:40 | 感想
高石田兄弟とエルリック兄弟はかぶる!!<本当
それとは別に高石岳とハイデリヒはかぶる!!<え?
映画版ならエドとアルがそれぞれなんだか賢ちゃんとかぶる気がする!!<そうか?
賢ちゃんの声はぱくさん!!だから何だ。

読解力

2005-09-22 23:08:58 | 感想
以下、WEBアニメスタイルより抜粋。

水島 (前略)映画が公開した後で、ハイデリヒが死んだからアルが現実世界に来られたんだという意見を聞いて、「ああ、そうか、そういう捉え方もあるな」と思いました。そのつもりはなかったけどね。
小黒 エドが「等価交換か」と言うじゃない。TVで散々使って、一度は半ば否定した言葉をあそこで使ったのは効いていたよね。
水島 ハイデリヒが死んだから等価交換でアルが帰ってきて、エドが彼を受け入れたと思った人がいるらしいのよ。俺はそれ聞いて「違うんだよ~。その捉え方!」と思った(笑)。
小黒 錬金術の力を失って、記憶を取り戻したから等価交換なんじゃないの?
水島 うん。そういう事ですよ。「(記憶が)戻ってきたみたいだ」というセリフを聞き逃した人が結構いらっしゃるようで。(後略)


※「ハイデリヒが死んだからアルが現実世界に来られたんだ」ということと、「ハイデリヒが死んだから等価交換でアルが帰ってきて、エドが彼を受け入れた」ということが書いてありますが、前者は「作品構造上の話」であり、後者は「アルの記憶の対価」の話です。別個です。

ここであっさり「錬金術の力を失って、記憶を取り戻したから等価交換なんじゃないの?」と言い切った小黒氏には感嘆の意を禁じ得ないが(できればこの部分の取材テープを聴きたい。後学のためにも本気で)、
「アルの記憶の対価が錬金術を捨てたこと」って、一見してわかるようにできてたんでしょうか……。
どんなにがんばっても(「(記憶が)戻ってきたみたいだ」というセリフを聞き逃さなくても)「いくつか仮説は立てられるが(そのなかに正解も含まれていた)、これ、と言い切るには材料が少ない」が限界だったのだけどなあ。
ていうか、この部分について正解を言い当てた感想を見たことがないんですが。

・・・・・・やっぱ描写不足だと思うよ。少なくとも誤解される運びではあったよ?
「違うんだよ~。その捉え方!」と思われては「言葉で言われないとわからない中学生」はかわいそうだ。


追記
「帰れなくなるぞ」>「いいんだ」>「等価交換か」の流れで、「帰れなくなるぞ」が=代償と表している。
見ている側としては、「あれほどほしがっていた4年間の記憶と兄」が「未練なさげに捨て去った(兄のいない)故郷」が等価には見えませんなんだ……。
そんであれだね。この直前のシーンの「ハイデリヒの遺体を見つけるエド」は、アルが来た瞬間で、もう終わった話だったんだね……。このシーンとの関連を考えるから対価が何か分からなかったんだと理解。ていうかハイデリヒの立場は。

ただのぼやきです。

2005-09-22 07:52:57 | 感想
この項目は削除しました。

ロケットについて

2005-09-14 00:14:47 | 感想
知識がないので何とも言い難いのですが、
ロケットと言うよりも戦闘機的な扱いを受けていたあれらですが、
実のところ

秒速11キロメートルって妥当なんですか?


少なくともあんな狭いところで乗りこなせるものではあるまいて……。

参考サイト様

2005-09-08 22:54:19 | 感想
朧ブログさま
8/21、9/7に言及されています。
ペタルパイ 劇場版絵板
するどいつっこみ。

報われない人々

2005-09-07 02:10:26 | 感想
はっきりいってアルエドアル以外の人間はこtごとく報われなかった映画です。
ロイエドハイエド推奨の私も涙をのむ結果でした。
エドウィンの人もかわいそうです。
えんび絡みの方にはかける言葉が見つかりません。

しかし

ロイアイの人に比べればマシか……。

と思います。

気球でおいて行かれた後、まじでフォローなかったね。
ちょっと會川あれどうなのよ。

ロイのその後2

2005-09-07 00:52:24 | 感想
今気がつきました。
映画後、大総統になるロイ。

ファーストレディはウインリィで決まりです!!!


トチ狂ってませんよ私。
親を殺してしまったロイと、殺されたウインリィ。
しかしロイの選択が決して本人の意志ではないことも、
十分に悔いていることもウインリィは知っています。
なんだか映画ではちょっとずつ関係修復もしているみたいですし。
よく考えたらロイは12の頃からウインリィを知っているわけです。
年齢差はロイエドと同じなんだから問題なしです。<え
「父と母を殺した罪悪感からじゃないんですか!?」
「そんなことはない。一人の女性として私は君を愛している」
とかいうやりとりがあったりするんですよ。
二人でリゼンブールの墓(中は空)に結婚の報告に行ったりするんですよ。
第一あの二人、


“エドの喪失”を一番近い形で共有できるんですよ。



リザでも悪くないのですが、どうにも會川があの二人を恋人っぽく書いてくれなかったので……。
むしろ関係性発展中みたいに書いていたロイとウインリィのほうがありではないかと思うのです。
しかも、
話としてとても据わりがいい
というおまけつきです。
「両親を殺した相手と結ばれる」なんて物語では定番ですよ。すばらしい。

物語の終わりとしての家族:補足

2005-09-06 19:40:43 | 感想
終幕のノーア2、より、「エドはノーアという伴侶を得て、アルという擬似的な子供と共にあることで、新しい家族を手に入れたといえるのではないか」とも思ったのですが、私情はさておいて。


エドとノーアってくっついたのか?


腐女子的思考を取り除いても、あのラストでエドとノーアがくっついたと考えるのはかなり難しい気がするのですがどうなんだろう。
第一、ラストシーンでノーアはヒッチハイクしただけでセリフゼロ。
エドとアルがくっついたようにしか見えなかったよ……。

さて、二人が引かれあった理由の一つに、「ここではないところにいきたがっている」という感情の同調があったと思うのです(しかも前半でエドは「他者が居場所だと認めてくれなくても、今いるところを自分の居場所にできる」と、ノーアのことを誤解している節が<プロトタイプ)。
エドについては、クライマックスを経ることで、「今自分がいる場所が現実であり、そこで生きていくしかない」という肯定をしていきます。
(あの中途半端なメタ手法のせいで、アメストリスが虚構になってしまうのはどうかと思う>後述)
ノーアは、エドに「自分だけの世界」なんてないと否定されます。そしてノーアから見れば、「シャンバラ=楽園」に行ったはずのエドは帰ってきた。エドがあれほど帰りたがった(自分も行きたがった)世界から、戻ってくる。シャンバラは永住の地ではないのだと言うことを、図らずもエドはノーアに証明します。
それが「どうしてもどってきたの?」「……どうしてだろうな」というやりとりであり、その答えは絶対に「門を閉じるため」ではない。後にアルに語る、「ここで俺たちは生きていく」が、むしろ答えになり得ると思います。

とまあ少なくともノーアが、「今いるここで生きて行かなきゃならない。無条件に自分を受け入れてくれる優しい世界なんてない(これは子供が「自分は世界に守られている」という意識からの脱却に近いと思うのですが)」ということを自覚するところまではかかれていると思うのですが、
その先、は?
ジプシーとして生きていくのか?
エドたちと行くのか?
それとももっとほかの?

一番まっとうなのは、「どこにも属さないロマの誇りを持ちつつ能動的に今までの生活を続ける(ポイントは生まれがどうこうではなく自分の意志でロマであることを選ぶこと)」だと思うのですが、まあエドと結ばれて子供を産むとか次代を紡ぐというのもそれはそれで女性としてはありだと思います。
でもこの選択は、どちらも彼女の人生選択の意味合いがかなり変わってきます。
そこを想像で補えと言われても。

ちなみにシナリオ集プロトタイプにもフォローなし(フォローというならハイデリヒの死もフォローなかったな……會川さん……)。

物語の終わりとしての家族

2005-09-06 00:21:47 | 感想
結局TVシリーズと映画と、どちらにしても兄弟でまとまってしまったのは果たしてまっとうなことなのだろうかとまじめに思うのです。なぜならあれはジュブナイルであり、成長物語であったわけです。成長物語としては、非常に古典的な要素とか段階を踏んで進んだ話でした。家の中で親に守られていた少年が家族を亡くして世間に出ていき、その中で人と関わって社会性やその他諸々を身につけていき、大人になる。その帰結としては、「他人と新しい家庭を作る」のが、「まっとう」だと思います。少なくとも、家族だけで完結していた人間関係を、一歩踏み出して他人と深く関わっていき、新しい人間関係を作る、という展開であるべきではなかろうかと思うのです。それが最後の最後に結局元の家族、に帰ってきてしまう。それはそれでありかもしれませんが、これまでの道のりは何だったのかという気にもなるものです。しかしそれも、ふつうに最終話で終わっているならまだしも、映画ではエドはアルの「父」となっています(ポジション的に)。「家を出た少年が“父”を乗り越え大人になり、新しい“父”となる」これは上記のジュブナイルパターンの基本ですが、ものすごい亜種として映画のラストは存在するわけです。結局元の家族のところに戻ってきて、しかもその家族に対しての父となる、というのはあまりにも発展性がないのではなかろうかという疑問を抱えてしまいます。ロイエドハイエド推奨の人間としては、アルに敵愾心を燃やす気持ちもどうしてもありますが、それを省いても、エドには「他人」を選んで、新しい人間関係を構築してその関係性の中で生きていくことを選択してほしかった。(てゆーか選択したんだよ。それをだいなしにしやがったんだよあの弟が!!!<ひがみです見逃して)そういう意味では、物語のラストとしては、いっそ一人ミュンヘンに帰ったエドが、ノーアと結婚して家庭を作っていく、というラストの方が、物語の形としては正しかったのではないだろうかと思うのです。ノーアに取られるのもアルに取られるのも自分的には大差ないよ。ああああああロイかハイデリヒと幸せになってほしかった!!<本音。

ハイデリヒと、(TVシリーズ)ホムンクルス

2005-08-23 01:50:48 | 感想
ユキサト様から聞いて、確かにテーマがもろかぶりだと気づきました<遅い。

まず、ホムンクルスとは何でしょうか。
A.元になる人間がいる。
B.ある種粗悪なコピーであり、自我は別にある。元の人間と同一ではない。
C.同一ではないから、人体錬成を行った人間には「ニセモノ」でしかない。
D.魂がない
E.よって人間ではない。というより、自分を作った人間に「人間」と認めて貰えない。
F.だから人間になりたい。自分を作った人間にとっての「本物」、または、そうした承認を必要としない「オリジナル」になりたい。
G.元になった人間、の記憶(又はそれを想起させるもの)があるために、「オリジナル」になりきれない。

つまり、欠けているところがあるが故に、自分自身で自分を「人間」と規定できず、他者からの承認を必要とし、かつそれが得られない(又は受け入れられない)存在。
と、言えます。
TVシリーズで最もこの業を背負っていたのは、ラストとラースとスロウスです。
(エンヴィーについては私はよく読みとれないのです)
「元になった人間が居たスタンスに収まりたい」と思いつつも、「別物」でしかない自分たちはそこに居られない。でも、そこ以外に居られるところはない。なぜなら、「そこ」に納めるために作られた筈のものだから。
ラストとスロウスは、「自分を作りだした者(またはそれに近い者)」に、「元になった人間ではなくお前はお前でしかない(独自の存在である)」という承認を得て死んだ。代わりではないオリジナル。それこそは、「人間」であり、彼らが望んだ在り方である。彼女たちは死ぬことでレゾンデートルを得た。(こういう會川の手法は好みではないです)

翻ってハイデリヒ。
A.アル。
B.アルとは当然別人である。
C.エドにとってはアルの似姿だった。<プロトタイプ冒頭
D.魂はあるのでこれについては該当しない
E.一応人間だが、エドには「アルの身代わり」でしかなく、個を認めて貰っていない。
F.「人間になりたい」=「僕は夢の中の存在ではないよ」。エドにとっては、「夢の中の存在」でしかない自分を、現実のものにしたかった。
G.記憶はないが、エドが自分を通して弟を見る視線に「自分以外」を感じている。

ハイデリヒは多分本当にエドが好きだったのだと思います。だから、エドに自分自身を見て欲しかった。=「夢の中の存在ではないよ」=アルではない=元になった人間、アルではない、オリジナルである。その足掻きは、ホムンクルスたちの懊悩と重なる。


エドにとって、ハイデリヒは「ホムンクルス・アル」でしかなかった。それをハイデリヒは感じ取って、「アルフォンス・ハイデリヒ」自身であろうとした。

それが、「僕は貴方の夢じゃない」の台詞になるのだと思います。
ハイデリヒは、エドにとって「ホムンクルス・アル」だったのです。
もちろん、ハイデリヒは人間ですが、エドに「個」として認めて欲しかったが故に、逆説的に「ホムンクルス・アル」としての属性を背負ってしまったと言えます。


そして、エドは、あれほど忌んだ行為を、母ではなく弟に、再び犯したのです。


そんなかんじでどだ?もふや。

終幕のノーア:2

2005-08-19 20:40:37 | 感想
「あの血は誰を産んだのか?」についてユキサト嬢よりご意見いただきました。

アル・Hが死んで、アル・Eが生まれたのではないか。

なるほど。
確かにまるで生まれ変わりみたいな描き方です。実際ノーアの血はハイデリヒのものですし。
そうすると記憶の対価も「元いた世界を捨てた(錬金術世界のアルは死んだ)」こととして受け取れそうです。あちら側で死んだアルは、こちら側で産まれなおしたのです。記憶とともに。

しかし。これだと大きな問題があります。
赤子=アル・E
母胎=ノーア
ということは、そのきっかけとなるのは、エド=父?

こちら側におけるアル・Eは、エドとノーアによって生まれた。


じょおっだんじゃございません!

大・却・下☆




でもそーするとエドは父になることでラストを迎える訳か?
母を父に奪われて捨てられた子ども(3話)(21話の感想にくわしく書きました)が、父と和解し、父との別離を経て、父となることで物語は終わる。……据わりのいい感じがするけどそんなのヤダ。

メタ手法。

2005-08-18 23:02:50 | 感想
アメストリスと現実世界、という言い方をしますが、

アメストリス=虚構(二次元の創作でしかない)
ミュンヘン=今私たち(視聴者)の居る現実

と解釈するのと、

アメストリス=ミュンヘン=並立する膜宇宙の一つ。われわれは物語のように感じているが、錬金術世界もどこかに存在しており、アメストリスではこちら側の世界のことが昔話のように語られているかも知れない。=どちらも(視聴者から見たら創作物でしかない、キャラクターにとっての)現実

と解釈するのとでは、受け取り方が雲泥になるのですが、その辺のスタンスは微妙なままでした。少なくともエッカルトが女性であるという時点で、「今私たち(視聴者)の居る現実」とは違う(パラレル)世界と決定されたわけですが。じゃあ後者の可能性の方が強いか。

しかしラング。映画監督であるという時点で、水島・會川のシャドウであるとしか思われません。「絢爛たる白昼夢・ありうべからざるもう一つの世界」は、=鋼劇場版という意味を持ってしまいます。

思いっきりメタ手法というわけでもないので、どういうつもりなのか読みとりにくいです。