社会学的作法blog

社会科学に関する文章からコラム、エッセイ、日記、小説まで書きなぐります。リンクフリーです。

自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!

2005-01-26 01:43:21 | 社会学
 リアルである社会の虚構性については、「リアルな社会とは?」でのコメントで説明しましたが、この点を理解されている方が極めて少ない。疎外論が欠落しているなんて大弾幕を張るから、自分で自分の首を絞める結果になる。確かに自己がうまく環境社会に馴染めないで、疎外感を抱かれる人が少なくないことは判るのですが、それは端的に外在するリアルなものの虚構性を脱構築できていないからである。
 意識システムを構成する諸要素は「思考」ということになりましょうか。ここで自明性の脱構築に必要とされる概念は、やはりシステムは「閉鎖的」なオートポイエティックシステムであるといこと。システムが閉鎖的にオペレーションされるということは、外部環境によってシステム(意識システム)が規定されるということではない!自己と対峙する社会が自己にとって疎外的であるというテーゼは、社会が疎外的であるのではなくて意識システムによって疎外的だと構成されたものに過ぎない。
 要するに気持ちの持ちようか、と嘲笑された方は哲学的あるいは理論的思考のセンスをお持ちではなく、このブログは全く有意味に作用しないであろうから即刻立ち去られることをお勧めします。理論的な思考構築とは、どうでも良いような些細な事柄を重箱の隅を突っつくように考え抜くことであり、リアルという化け物を脱構築したい方には、こういった馬鹿馬鹿しい思考作法が要求されるという事は云うまでもない。
 再度言及します。生きることが困難な者、不可視な社会というものに圧倒され不安で仕様がない者は、システムは閉鎖的に自己を再生産するという点を、自分なりに思索しなさい。それは悶絶の選択かもや知れないが、システムの閉鎖性という概念は、「てーげー」という思考に到達する門戸なのであるから。
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« リアルな社会とは? | トップ | 『走れメロス』太宰治、新潮文庫 »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
死というリアル (ジェローム・パウロス)
2005-01-27 21:02:09
 さすがですな。ならば聞こう。



 自己に外存する一番リアルなもの、すなわち、それは死だ。死の虚構性はどうやって脱構築するのか?

 ブッダは、生病老死を人間が逃れることができないリアルな現象として捉えた。どのようにして、死を脱構築あるいは解脱するのか。 人間は思考によって死を脱構築すると死なくてすむのか。知りたい。そもそも死は思考の外ではないか?それとも、永遠の生命を信じるのか?
返信する
脱構築すべきもの (自分)
2005-01-27 21:42:49
 外在するリアルなものを全て脱構築する必要は毛頭もありません。外在的なものがシステムによっ外在的でありてーげーでいられないものとして観察される場合に、その苦しみは外在的なものの外在性に由来するのではなく、システムの閉じたオペレーションによって、てーげーでいられないものとして取り扱われているという点を認識できればよい。

 ハイデガーが云うように死ことが取替えのきかないものであり、生に意味を求めてしまう方々にとって死が唯一無二のものであり、てーげーであることにプラスに機能するものであれば脱構築の対象ではない。

 てーげー理論においては、てーげーでいられるか否かを問題とするのです。
返信する
孔子 (アラン・バートル)
2005-01-28 19:01:53
 自分さんに賛成です。てーげーかどうかが僕らの問題なんだ。死については、そうでないかぎり、取り立てて語らず。自分さんは孔子のようで、やはり尊敬したいです。

 呉知英なんかよりも、説得力があります。
返信する
社会構成(構築)主義 (ジェローム・パウロス)
2005-02-02 23:38:02
 おそらくすでにキッセなどの社会構成(構築)主義については勉強なされていると思うが、リアル(現実)は、社会的に構成され、不動で絶対的な現実などありやしないという立場も確かにある。バーガーとルックマンの立場である。拙者もよく読んでいる。

 最近、流行っているナラティヴ・サラピーは、個人に集点を当ててリアルを再構成することで治療を行っている。

 てーげー革命が、社会に集点を当ててリアル(共同幻想)を再構成する試みなら、新しい社会運動として評価したい。
返信する

コメントを投稿

社会学」カテゴリの最新記事