社会学的作法blog

社会科学に関する文章からコラム、エッセイ、日記、小説まで書きなぐります。リンクフリーです。

社会学的作法blog引越しします

2005-02-28 12:33:01 | イベントなど情報の告知
社会学的作法blogがver2.0になり、主とする発言メディアの引越しをします。社会学的作法blog ver.2.0http://jibun.seeesaa.net/よろしければブックマークお願いします。

gooでのblogの内容は全て移行しませんので、こちらも引き続き読んでいただけると有難く思います。

    自分
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見るということ

2005-02-22 02:14:10 | アフォリズム
高度な複雑性を保持している世界社会を、我々は俯瞰することはできない。

出きる事とは、我々は見ることができるものを見ることができるということであり、同時にそれは見ることができないものは見ることができない、ということを指し示す。

社会を観察し可視化された出来事の背景には、欠落した可視化されなかったものが不可視のままであるということだ。
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外在的な社会に生きにくさを感じる者へ、或いはその脱構築

2005-02-21 15:33:49 | 社会学
 てーげー理論は実在的なリアリティを排除するものではない。私達は自分に外在するリアルなるものを想定しているが故に、それに反発し、屈服し、またはその規範的価値に従って生きる選択をするのだから。また外在するリアルなものを想定しているから、境界線を引き区別を設け観察し社会なるものを見極めようとするのである。でなければ区別する意味はどこにもなくなる。
 リアルな社会の外在性に苦しむ者への処方箋として、閉鎖的なシステムのオペレーションに着目することが一つの指針となろう。全体社会の中の内的な存在である観察者は、その内在性のために社会全体を表象できることはない。システムの閉鎖性は、観察者が自らが選択的に、社会という環境から情報を取得することで、外在するリアルな社会を自らのオペレーションによって再構築することを含意している。あなたが圧倒され、生きるのに困難さを感じている社会というものはリアリティという実体ではなく、あなた自身がそのようなものとして構成したものなのである。区別を設け観察することで構成された社会は、システムの閉鎖性に依拠しているのであるが、同時に新たに区別を設けることで、生きにくい社会を再構成しなおす可能性を得ている。この作業で獲得し得る「開放性」は、リアルなるものに囚われるている者に第3の選択を指し示す。それはルーマンの提示したシステム理論の文脈とは相違するが、システムの「閉鎖性」は「開放性」の出所であると理論化できるであろう。
 次に私達は、外在するリアルなものが自己観察されたものである、というテーゼが如何にして成立するか問いに答えなければならない。その端緒として、システム理論及びてーげー理論はパラドックスに立脚することで、リアリティを記述する手続きを取ること点に言及しておく。ルーマンのパラドックスの定義を援用しよう。即ち、パラドックスとは「自己言及的な循環関係における「否定」を含んだ関係」ということになる。さらに私達は、社会がパラドクスであるという公理を提示する。正確に云うと、社会が見出されるのは上述したように、観察者の区別に拠っている。だから実際には観察者により社会はパラドックスであると観察しているということになろうが、今はあえて厳密性を問うことはしない。この文章の目的は、リアリティの外在性に対して生きることに苦しむ者が思考転換しえる契機を提示することであるから。従って、ここではてーげー理論は社会がパラドっクスであるという公理を理論の中心においていることさえ判ればよい。またパラドックスの存在の真意も問題ではないと付け加えておく。くり返しになるが、その存在如何は観察者の観察に拠るものであるから。
 システムのオペレーションにおいてパラドックスの機能はどういったものなのか。発言という具体的なレベルへ立ち返り「例外のない規則はない」という言説を思考の糸口にしてみよう。この言説で私達は「例外のない規則はない」という規則に例外はあるのか、あるいは例外がないならば、当の言説自体成立しえなくなることに気付くのである。このパラドックスが内包する「否定」あるいは「決定不能性」は、コミュニケーションシステムの継続に頓挫をきたす。換言すると、社会のパラドックスが、そっくりそのままシステムで取り扱われ得るならば即座に、システムのオペレーションは中断してしまうことになる。そこで観察者がパラドックスを認めると、観察者は新たな区別を導入してパラドックスを不可視なものへと変換することが要請される。そうすることで、システムのオペレーションの継続を可能たらしめている。上記の考察によって、私達は次の帰結を得ることができる。つまり再導入された区別はシステムの作動の頓挫を回避するために観察者による観察であり、そのシステムの内的な活動で外在する社会を構築することが可能になるわけである。
 最後に、私達は、リアルな社会が観察者によって構築される拠り所を延々と、観察者による観察というトートロジカルな記述に求めてきた。こういった作法はてーげー理論が学として成り立たないとの批判を受けるかも知れぬが、だが一方では、ルーマンによる「自己言及的」な思考法に基づくものであり、その点で、てーげー理論はシステム論的であると云えるであろう。
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社会学的作法blog、さらにアクセス数アップ

2005-02-20 23:12:46 | イベントなど情報の告知
 社会学的作法blogが最近、思ってもいなかった程のヒット数がある。こんな一部の方にしか受けるはずのないブログを読んでいただけることは嬉しいのだが、読まれる理由がどうしても思いつかいない。もちろん書くという行為は、徹底して他者に読まれることを意識したものであるのだが、元々は社会学的作法blogが読まれる対象として想定していたのは、少人数のコアな方々だったのである。
 一方で新ブログを立ち上げたのは、多くの方に読まれ、より社会性を保持した文章を書いてみたくなったためである。敷居の高い学問的主張を取っ払い、肩肘張らずに読まれるものを書きたい。私にその能力があるのかを試してみたかった。そして新ブログへの反応は、短期間で十分に満足できる結果を得ることができた。
 まあ何にしてもより多くの方に読まれるのはありがたい限りで、素直に喜んでいいのだろう。両ブログの性質は異にするものであったが、他者に読まれることを主眼においている点ではそう相違はない。読むに値しない独りよがりで自己完結した、イラつくほど冗長なものだけは書かないと、その点だけは今後も文章作法において大切にしていきた。
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社会学的作法blogランキング・イン

2005-02-19 10:22:19 | イベントなど情報の告知
 人気ブログランキングで社会学的作法blogが社会科学のカテゴリーにおいて77位にランキングされていました。哲学のカテゴリーでは227位でした。社会学的作法blogを覗いてくださる方々が少しずつですが増えているのは書く側にとって励みになります。今後ともよろしく!
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批判という作法、或いは思考について

2005-02-19 04:43:59 | コラム
 久しぶりに鬱系のものを書いて落ちてしまいました。少しおセンチになっていたのでしょうか。もう鬱日記の類は書くまいと肝に銘じたのでございますが、世の鬱日記は増加する一方であります。今、悶絶する自分を承認してもらう意味では、鬱日記はプラスに機能しますが、書くことで辛い自分を再生産してしまい、再び承認を得るために書くというネバーエンディング・ストーリーに陥る危険を頭の隅に置いておいてもいいかも。私は延々、4年ぐらいやってしまった。今となっては文章として何の価値も見出さず、従って全く顧みられることもありません。その恥を今尚、ネットで曝すのは私の惨めさが反面教師になることがあったなら、それならばあの恨み辛みを綴り続けた数年間も浮かばれようと、そんな気持ちでございます。
 鬱系というサイトの中で、ごく稀にですが好評を得たものと云えば、鬱な掲示板2ちゃんねる的掲示板でされた論争だと思います。振り返ると未熟な議論もままあります。ですが、それらは批判という作法で自分の思想と云っては大げさですが、まあ自分の考えてきた事を目一杯現前化させたものなのです。初期の議論は残っておりませんが、後期のものはダイジェストとして残してあります。他人への誹謗中傷の類は一、二度削除したことはありますが、私への批判、罵詈雑言といったレベルの低いものも全てそのまま残しています。低レベルなものは、同じ土俵に立つなんて馬鹿なことはしませんが、何かいい論点を得ている批判はほぼ全て、新たな批判という形で答えてきました。この二つの掲示板での一連の論争がなければ、現在の思考には到底、到達していないのではないでしょうか。その意味で他人を批判するという作業は思考の自己鍛錬に大いに役立ったようです。また一方、私は「書く」行為で批判することで、もたらされる恐ろしさ、背筋を走る戦慄に苦しめられ続けることにもなります。私は何でもかんでも、怒っている印象をお持ちやも知れませんが、他人を批判する場合、神経をすり減らすぐらい論理性というものに気を使います。批判を「書く」という恐ろしさは、それ以上の批判をくらうリスクを受け入れるということです。これは本当に怖いことですね。今でも書く作業で思っても見なかった、突然、冷や水をくらうような恐ろしい批判を受けうるのだと、忘れることはしません。でかければ、でかい批判をすると、その後には読むのも恐ろしい批判が待ち受けている。それらの批判を正当なものではないと他人を納得させるには、筆圧を強くするのではいけません。考え抜き、巧妙な論理によって正当性を担保された批判を書く以外には術はないのです。数は少ないですが、私の書いたものを読んでくださっている、コアな方々の存在は私が批判という作法から逃げなかったことに拠るものだと考えています。自ら批判の端緒を誘発して、他人を煽る。その後には、恐ろしい批判が待ち受けている。精神は衰弱し、逃げ出したい欲求を抑えつつ再び考えることは、私にとって非常に苦しい作業なのです。びくびくした情けない風体が論争における私の実の姿なのでございます。批判する作法における他者は実に脅威な存在なのでした。けれども地を這いずる思いで批判に答え逃げずにやってこれた。私は他者を批判することで自らを暗澹とした思考の淵へ追い込み、無理やり自分にプレッシャーを与え、自己の思考を構築してきたのであります。批判した方、批判をくれた方、こういった方々がいなければ、なまけ癖のある私は考えようとはしなかったのではないか。ですから私はそういった私に厳しく接してくれた方々には低頭、感謝なのでございます。例え罵詈雑言の類でもあろうとも。批判を端緒に思考というシステムは創発され、足を踏み入れたことのない思考の彼岸へと導いてくれるのだから。
 先日、おやじのお説教はその辺りで止めとけ!ニート論で板橋区さんを批判しました。その後の板橋区さんの記事を拝見して、やはり考えることができる方は、書くことで生じるリスクをちゃんと受け入れている。こういった方がネットの在野には存在するのですね。嬉しくなった次第であり、つまりは、私の批判という作法は尽きることがないということです。
 最後に思想や哲学をやって何になるのか?と疑問を含んだ嘲笑をされている方もおいででしょう。その際、私は文芸評論家の高澤秀次氏が講義において学生から同様の質問を受けて、喝破されたことを想起せずにはおれないのです。氏曰く、「思想なんかやっていて何かのためになる訳がないだろう!」しかるに、氏は思想をやっている。思考するということは、どうしようもなく徒労であり無益且つ不毛さを内包している。そういった矛盾を抱えて尚も思考する者は、「思考せざるを得ない」者なのでしょう。かくも悲哀に満ちた種族に問いを投げかけること自体、ナンセンスなのかも知れません。
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喜劇というタイトルの喜劇

2005-02-19 01:33:18 | エッセイ
 僕は常に父親を恐れて暮らしていた。父親の帰宅を知らせる車のテールランプが一階の居間に差し込むと、姉は物を云わずに二階の自室へと階段を上がっていく。僕もこれから始まるであろう、ののしり合いを予期し自室へと引きこもる。どなり声が響くと体が硬直してしまう。子供にとって最も辛いことは、両親が仲たがいしている光景であった。父親の罵声は、物心付く頃には日常になっていたように思う。その日常は僕が中学に入りしばらくして、父親が家を出て行くまで毎日くり返された。毎日が地獄であった。毎日が。
 学校時代の僕を知る者は、家での僕のびくびくした姿を想像できないはずである。学校はそんな自分を忘れるための場所であった。笑いの中心はいつも僕にあり、教師からするとクラスの風紀を乱す問題児になるが、それでも僕は教師をも笑いの中に取り込むことで問題児という汚名を喜劇に変えてしまう術を得ていた。僕は話術で皆を従えさせ、教師でさえも、何となくあいつは憎めないという印象を持っていた。クラスの笑いの中、喜劇を演じる僕の人格の分裂に全く気がつくことなく。
 小学校5年、夏を向かえ、成績表を見た父親は、「おまえは落伍者だ」とぽつりと洩らした。僕は落伍を落語と解して、へらへら笑っていた。父親の視線は恐ろしいほど冷たかった。辞典を調べ、落ちこぼれという意を知った。父に褒められているとさえ思い、笑っている自分に異様に腹が立った。最も僕が得意としていた喜劇が、喜劇を生み出させた者によって、頓挫してしまったのである。
 それ以来、僕は一層、父親を恐れ、それだけの腕力があるならば直ぐに殺してやりたいほど憎んだ。あの全てを見透かしたような冷徹な視線に悩まされ続け、不完全な喜劇の筋書きを一寸の隙もないものとするために学問へと傾倒していった。
 そんな事をこれっぽっちも意に介しない父親は、暫くして女をつくり家を出て行った。結婚の幸福というものを一度も味わったことのない母に対して気の毒で仕様がなかった。僕という存在のために母は家を出ることができなかった。学校での問題児は喜劇を演じとおすことができたが、家での僕は母の不幸の源である正に問題児なのであった。
 大学へ入学する前に、暫くぶりで父親に会ったことがある。僕の記憶の中では、腕が太く筋肉質で背が高く顔立ちのよい(実際、父はよく女に好かれた)はずの父親は、僕よりも背が低く実際は僕が追い越してしまったのだが、はげが進行し腹のでっぱりは醜い中年であり、黄色い歯を出して品がなく笑った。
 ああ、こんな惨めな男の影におびえ僕は生きてきたのか。そこにいる父親は殴り倒す気力も失せてしまうほど不憫で情けなかった。これからはお前が苦しむ役割である。お前が終わりのない、悲しすぎる喜劇を演じて生きてゆけ。父と別れ、僕はもう演じる必要のない喜劇に幕を下ろすことに、そしてあいつの喜劇という三文芝居の始まりに快感を感じていた。その後訪れる、さらなる苦しみに辛酸を舐める、第二幕目は始まってもいないことを知らずに。
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新ブログ立ち上げ

2005-02-15 18:05:50 | イベントなど情報の告知
 新しいブログを創りました。ハンドル名も変えて、内容はアカデミックな観点からは敷居をずっと低くし、マスに読まれることを徹底的に意識したものです。
 「社会学的作法blog」では、理論的な話が多く、本人が「一般てーげー理論」を構築しようなんて、勘違いしているものだから、当然、議論はその一般理論という性質から非常に抽象的なものにならざるを得なく、これが学問的視点なんて全く興味もない方には、何ほざいてるの??的にムカつかれる原因になっておるようです。まぁもともと「社会学的作法blog」はそういった方々に読まれることは意識していなく、理論的思考に知的好奇心が触発されるコアで少数な方々を読み手として想定していて、言い換えると一万件のアクセスがあり、さらりと読まれるよりは、百件のアクセスでもコアな方々に深く読んでもらえたらありがたい。ほんと理屈こね回す、社会学的作法blogを読まれて、丁寧にメールなど送ってきてくださる方には感謝しています。そういう少数の方々に読まれるものを書いていきたい。ですが、どうもblogではコメントをしずらいらしく、どうぞ遠慮なしに批判でも雑言でも気軽に書いていください。それがコミュニケーションの端緒となり社会学的作法blogもおもしろいものになるでしょうから。
 新ブログですが、恐らく見つからないでしょうが、もしおいら発見したぜ、というネットの達人がおいででしたら知らせてください。粗品もなんもあげません。
 
 
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『共産党宣言』マルクス、エンゲルス、岩波文庫

2005-02-14 00:45:32 | 読書日記
 1848年2月、2月革命の直前に共産主義者同盟の党綱領として書かれた。共産主義者同盟はその後、第一次インターナショナルへと組織化される。本書はプロレタリア革命のための理論を提示すると共に、生産手段を介して社会変動の動態に迫る歴史書である。古典中の古典。今尚、再読して見ても色あせることのない示唆に富む。
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『リアルであること』中沢新一、幻冬舎文庫

2005-02-13 09:48:00 | 読書日記
 暇つぶしにもならない。どこかで聞いたことがあるような紋切り型のポストモダン的言説の多様には辟易。中沢はチベット密教に精通し、アジア的な世界観をポストモダンに取り込んだ点で新機軸であるが、ご存知の通りかつてのニュウアカデミズムの旗手も麻原を擁護することで自ら墓穴を掘り、今では顧みることもうっとしいということになっている。
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てーげー理論、一考

2005-02-13 04:00:53 | 社会学
 以前に書いた「リアルな社会とは?」、「自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!」でのジェローム・パウロスさんに対する応答及びジェローム・パウロスさんのtarotaroさんへの批判が、てーげー革命の大切な示唆となりうる。参照しやすいように一つの記事にまとめておく。

 
リアルな社会とは?

[ 社会学 ] / 2005-01-18 17:55:36

私の思考は差異から出発するため、リアルという社会観の共有は排除します。社会システムは、その環境との複雑性の落差によって立ち現れ、我々は区別をもとにコミュニケーションし、システムを記述する。リアルな社会は、システムのオペレーションにおいてリアルであるとコミュニケーションされたものに過ぎず、観察すべきシステムは、観察する自己をも包含するために、存在的なリアルな社会を俯瞰することはできない。つまり、リアルな社会は「ある」ものではなくて、「創発される」ものとして捉えるべきあろう。

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Unknown (ジェローム・パウロス)

2005-01-25 17:57:12

その考えはおかしい。疎外論が抜け落ちている。創発されたその区別が差別観念として規範化され、人々を束縛し、苦しめるという疎外論の視点が決定的に抜け落ちている。
 あんた自身が精神病という差別観念で職業社会から迫害されているのに、それがわからんのか。システム論は解放の神学としては失格であるので、物質的基盤(意識を越えた社会関係としての真実性)を基本にしたマルクス主義を勉強しなさい。
 システム論が資本主義社会という物質的条件=マクロ社会環境に支えられたイデオロギーだと自覚しなさい。知識社会学を勉強すべし。


てーげー理論 (自分)

2005-01-25 19:14:02

 私はシステム論者ではない、ということを頻繁に書いているのですが、批判、肯定にせよ、システム理論に言及される方がたくさん現れるのはなぜなのでしょうか。
 規範の議論は掲示板で何度となくしたのでもういいでしょう。あなたのおっしゃる自己言及的議論はいたってシステム論的ですが、てーげー理論でも、差別の構造化を無視するものではありません。差別がコミュニケーションシステムにおいて取り扱われ構造化されることで、構造は複雑性の縮減に一役買います。また構造はシステムの区別を決定する原因ではなく、別様である選択肢の中で蓋然性の高い要因として認識され、コミュニケーションの自由度に機能するわけです。あなたが云う「区別が区別を決定する」というのも知性を10年前にタイムスリップさせたならば判らなくもないが、事はそんなに単純、短絡的なものではなく区別されたコミュニケーションは複雑性の縮減に貢献することで、区別されうる区別の束の関係性を絞込みシステムの円滑なオペレーションに貢献しているという具合なわけなんです。

>あんた自身が精神病という差別観念で職業社会から迫害されているのに、それがわからんのか

 一般化して答えると、この差別という観念は外部環境から捉えられたものであり、当のシステムにより取り扱われていないのであるから、システムにおいて差別が意識されるものではない。もう少し敷衍すると、システムは閉鎖的なものであるから、正にそのシステムの属性により、外部環境からシステムを規定することはできない。つまり、わざわざ、とほほにより差別であるんだと、お説教される必要もないということ。なぜならシステムは区別が区別を決定するようなスタティックなものではく、システムの要素が選択的に関係づけられ完全性を排除することで獲得する自由度のおかげにより、いつでも差別を取り扱う地平が開かれているものであるから。また差別を取り扱う蓋然性を保持していることは、差別を取り扱わない蓋然性をも包含しているわけで、差別に気がつかず、てーげーでいられるならば、そのままてーげーでいいでしょう。何の問題もない。お勉強する以前に、お説教の押し売り精神はすてましょうね。
 てーげー理論は世界全体を説明しつくすことを棄てて、真実性なんて、とほほな事を云わず、ただ機能分化した辺境の社会を記述できればいい、ということに止まります。我々にはシステム全体を俯瞰するキャパシティは持ち得ないのだから。さらにてーげー理論は記述が真、為なんていう神学的なものを、とほほだと一笑する。記述されたものは、あくまでもシステムによって取り扱われたものであり、システム内部で構成されたものである。ここでもシステムの閉鎖性というテーゼを想起すれば、上述したものは自明なものと、とほほでなければ容易に理解できるはずである。外部環境をありのまま認知することはないというのが、生命システムにおける研究で明らかにされているものであるが、それは何度も云うがシステムの閉鎖性に起因し、システムは閉鎖的なものであるから、外部環境とシステムの狭間には隔たりがあり、つまりはシステムは外部世界をシステムのオペレーションによって記述構成することになるのである。ただそれだけ。記述はシステムにより創発されただけであるのだから、認識論的存在に捕らわれることもなく、要するに、「システム論が資本主義という条件に支えられたイデオロギー」なんてどうでもよく、例えそうであるとしても、それは単にシステム論が資本主義という条件に支えられたイデオロギーであるとシステムによって取り扱われたに過ぎない、という結果になる。


ラディカル構築主義 (ジェローム・パウロス)

2005-02-02 23:50:15

 馬場という社会学者だと思うが、ルーマンのシステム論をラディカル構築主義と位置付けたのを読んだことがある。「社会構築主義のスペクトラム」という本だと記憶している。
 創発(特性)という概念は、要素に還元できない統一的な性質ということになる。社会構築主義者らは、脱構築というよりも、物語の書き換えとして、再構築や再構成という言葉を使う。脱構築のほうが確かにラディカルな雰囲気が伝わる。てーげー革命はラディカルなのか?


てーげー理論はラディカルか? (自分)

2005-02-05 16:25:14

 てーげー理論はてーげーの性質上、反ラディカルであり、記述上においてはシステムの様々な創発を認める点でラディカルであり、観察の別様さを許容する出所は、やはりてーげーの性質に基づく。したがって、てーげー理論は、自己準拠的な様となす。
 けれど、上述した文脈から云えば、自己準拠的てーげー理論のラディカル性は、かようの様にシステムによって観察されたにすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。



自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!

[ 社会学 ] / 2005-01-26 01:43:21

リアルである社会の虚構性については、「リアルな社会とは?」でのコメントで説明しましたが、この点を理解されている方が極めて少ない。疎外論が欠落しているなんて大弾幕を張るから、自分で自分の首を絞める結果になる。確かに自己がうまく環境社会に馴染めないで、疎外感を抱かれる人が少なくないことは判るのですが、それは端的に外在するリアルなものの虚構性を脱構築できていないからである。
 意識システムを構成する諸要素は「思考」ということになりましょうか。ここで自明性の脱構築に必要とされる概念は、やはりシステムは「閉鎖的」なオートポイエティックシステムであるといこと。システムが閉鎖的にオペレーションされるということは、外部環境によってシステム(意識システム)が規定されるということではない!自己と対峙する社会が自己にとって疎外的であるというテーゼは、社会が疎外的であるのではなくて意識システムによって疎外的だと構成されたものに過ぎない。
 要するに気持ちの持ちようか、と嘲笑された方は哲学的あるいは理論的思考のセンスをお持ちではなく、このブログは全く有意味に作用しないであろうから即刻立ち去られることをお勧めします。理論的な思考構築とは、どうでも良いような些細な事柄を重箱の隅を突っつくように考え抜くことであり、リアルという化け物を脱構築したい方には、こういった馬鹿馬鹿しい思考作法が要求されるという事は云うまでもない。
 再度言及します。生きることが困難な者、不可視な社会というものに圧倒され不安で仕様がない者は、システムは閉鎖的に自己を再生産するという点を、自分なりに思索しなさい。それは悶絶の選択かもや知れないが、システムの閉鎖性という概念は、「てーげー」という思考に到達する門戸なのであるから。

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コメント

死というリアル (ジェローム・パウロス)

2005-01-27 21:02:09

 さすがですな。ならば聞こう。

 自己に外存する一番リアルなもの、すなわち、それは死だ。死の虚構性はどうやって脱構築するのか?
 ブッダは、生病老死を人間が逃れることができないリアルな現象として捉えた。どのようにして、死を脱構築あるいは解脱するのか。 人間は思考によって死を脱構築すると死なくてすむのか。知りたい。そもそも死は思考の外ではないか?それとも、永遠の生命を信じるのか?


脱構築すべきもの (自分)

2005-01-27 21:42:49

 外在するリアルなものを全て脱構築する必要は毛頭もありません。外在的なものがシステムによっ外在的でありてーげーでいられないものとして観察される場合に、その苦しみは外在的なものの外在性に由来するのではなく、システムの閉じたオペレーションによって、てーげーでいられないものとして取り扱われているという点を認識できればよい。
 ハイデガーが云うように死ことが取替えのきかないものであり、生に意味を求めてしまう方々にとって死が唯一無二のものであり、てーげーであることにプラスに機能するものであれば脱構築の対象ではない。
 てーげー理論においては、てーげーでいられるか否かを問題とするのです。


孔子 (アラン・バートル)

2005-01-28 19:01:53

 自分さんに賛成です。てーげーかどうかが僕らの問題なんだ。死については、そうでないかぎり、取り立てて語らず。自分さんは孔子のようで、やはり尊敬したいです。
 呉知英なんかよりも、説得力があります。


社会構成(構築)主義 (ジェローム・パウロス)

2005-02-02 23:38:02

 おそらくすでにキッセなどの社会構成(構築)主義については勉強なされていると思うが、リアル(現実)は、社会的に構成され、不動で絶対的な現実などありやしないという立場も確かにある。バーガーとルックマンの立場である。拙者もよく読んでいる。
 最近、流行っているナラティヴ・サラピーは、個人に集点を当ててリアルを再構成することで治療を行っている。
 てーげー革命が、社会に集点を当ててリアル(共同幻想)を再構成する試みなら、新しい社会運動として評価したい。



「太郎丸博さんのシステム論に対する理解は、自分氏よりかなり未熟である。どうやらまだ評するにあたいするほど、社会システム論の根本的前提(真理観)を勉強していないようである。
 
 まず、社会の記述方法には二種類あることを考えていただきたい。
一つは実証的記述、もう一つは物語的記述である。ヘーゲルの法哲学と同じく、社会システム論も物語的記述であることを忘れてはならない。社会システム論がホパーのいう反証可能性をもたないことから、実証的理論ではないと言いたいのだろうが、そもそも社会的にリアルなものは構成されたものにしかすぎず、社会に物理的リアリティ(認識と対象の一致という真理観)を期待しても無駄である。
 
 反証可能性という物理的リアリティでもって、社会システム論を語ることはできない。そもそも、社会システム論ははなから反証可能性という物理的リアリティなど前提としない。社会的にリアルなものは、人々のコミュニケーションによって、構成・創発される他なく、言わば、物語にしかすぎない。つまり、物語は外存化、客体化、内存化によって、暫定的な社会的なリアリティを獲得する。
 
 あらかじめ(社会)全体という何かが存在しており、それを記述・説明するのではなく、その全体を多くの他者に語った時点で、全体という共同の物語が構成され、創発されるにすぎない。あなたの全体を説明できないという発想それ自体が、すでに認識できない全体というリアル(意識の外)をつくりだしていないか?実は、あなたがそう語ることで実は否定神学的に全体(もの自体)を創発するおそれがあるである。要注意である。
 物理的リアリティの通用しない社会という領域は、システム論的なしい社会構成主義的に観察・記述するほうが適切だと思うが、どうだろうか?
 社会はあるものではなく、社会はつくられるものという視点に立てば、システム論に違和感は感じないと思うが、あなたの場合、完全現実として社会を捉え、それに依存するという立場のようですな。社会に拘束されているという感覚が強い方かもしれませんね。それなら疎外論的に理解できますが。」前文引用、author ジェローム・パウロス

参照記事:

社会システム理論の野望、あるいは全体性へのオブセッション
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おやじの説教はその辺で止めとけ!ニート論②

2005-02-13 00:19:39 | 時事、社会問題
 氏の強調される「他人への視点」について、三つの観点から議論することが可能である。
  ①他人への視点についての有無
  ②他人への視点についての価値
  ③「想像界(内面)」→「象徴界」→「現実界(全世界)」についての考察
 ①について、氏の議論は全く一貫性がない。ニートは他人への視点が欠落してると一方では云い、他方、ニートの他者との関係性を語り、さらには社会との直接の関係づけを主張する。社会学において、社会の構成要素はコミュニケーションとなるが、そのコミュニケーションは他者との関係を構築する意味で、他者という視点を退けることはできない。ニートであろうとなかろうと、自分という観点は他者との差異においてしか導き出すことはできず、つまりはニートである自分はaさんでもbさんでもcさんでもない自分なのであり、他者への視点は一人称で自分を表現する上では、常に要請されるものなのである。
 アカデミックな観点では②について、価値を問うことは不毛であろう。けれども、氏がおやじは偉いんだ的に強引な議論をしているから触れておくが、基本的に良い、悪いといった類の話は、あっそと一掃してもよい。他者への視点を声高に主張する氏は、ニートに対して不の価値をおくという他者への視点を通じてしか自分を保つことができないのであろうか。
 ③氏の「想像界(内面)」→「象徴界」→「現実界(全世界)」についての考察は、社会学においても繰り返しされてきた。ミードの「I」「me」、フロイトの「自我」「エス」「超自我」がそれにあたる。ミードに関して敷衍しておくと、私「me」は一般化された他者(現実界)に照らされ内省され行為される。他者との関係を考慮に入れて思考する。その結果、行為されたものが「I」となる。氏の文脈でいうと象徴界が内省する自己となり、ニートは内省という人間的なものを剥奪されたメカとなる。
 だが事は氏の主張のようにそう単純ではなく、システム論的視座が要請される。そこで大切なテーゼはシステムは「閉鎖的」に作動するということと、システムは高度な複雑性からなる世界(現実界、全世界)をその複雑性が故、取り扱うことができないということである。社会システム(想像界、内面)は心理システム(象徴界)と何らかの関係があるが、心理システムでのオペレーションがそのまま社会システムに反映されるというものではない。そうではなくて、社会システムが心理システムのオペレーションを選択的にシステム内で取り扱うことで、システムに寄与している。このシステムの閉鎖性はシステムの環境となる、心理システム、世界もその高度な複雑性のために、システムでのオペレーションを排除し、システムにおいて創発された心理システムも世界も、システムにおいて再構成されたものであることを含意しているのである。氏の議論は論理は破壊的であり、思考も短絡的で議論する価値もないが、その主張は、マスコミに翻弄される大衆の知的レベルの紋切り型としてみるには有用であろう。氏にぜひ云いたい。恥を曝す、おやじのお説教はその辺で止めとけと。

後記:「横文字社会学嫌い」は端的に氏の価値感をさらけ出しているのみなので、附言するに値しない。端的にあっそ、の類である。
氏の「NEETについて②」のコメント、「自分への覚書」は論理的であり、考えも私のものと乖離しないはずであるが、なぜに壊滅的な記事が生まれたのか不思議でならない。
最後にこの文章で板橋区氏の記事を象徴的に取り扱うことで現代の大衆の知の情況について書くことができた。その点で氏に感謝したい。

参照記事:
NEETについて①
NEETについて②
NEETについて③
他人について
横文字社会学嫌い
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おやじの説教はその辺で止めとけ!ニート論①

2005-02-13 00:01:54 | 時事、社会問題
 マスメディアの論調を丁寧に追いかけ、そっくりそのまま鵜呑みにしてしまい、なるほどけしからん、なんて湯のみを啜りつつ、ぽつりともらすのは、自己完結している意味で無害、おやじのお説教と相成るのであるが、最近ではブログも普及し無思慮のおやじでもお説教をたらたらと尿漏れの如く、世間の目に恥じさらす者が少なからず、また阿呆な読者も筆圧に圧倒されコメントであんたの云うとおり、なんて書くものだから益々、阿呆が再生産されている情況になっている。
 最近ではニートがヒットしているらしく、ニートがまるで現代の社会悪のように自らを省みることなく議論されているのは脱力感を催させる。参照記事を書かれた板橋区さんもニートに対して間違った方向に思想を構築しているようで、お気の毒なのですがわたくし、おやじのお説教はその辺で止めとけ、と云わざるをえないのであります。
 ニートなんて議論されるようになったのは、昨年の秋からでそれまで全くニートなんてことは云われることはなかったのですが、一端、マスメディアがニート、ニート、と騒ぎ出すとまるでニートが大問題であるように、果てにはたまたま殺人犯が無職であっただけでニートが犯罪者予備軍のように語る始末。お話にならない。また引きこもりやフリーターを「ニート」という第三の言説で表し、あたかも資本主義社会の屑のようにまくし立てる。世のおやじ達も、何、ニートだと、働きも勉強もしない奴は穀潰しだ!とニートを排撃する。ここではセピア色したおやじの主張の紋切り型として、板橋区さんの論理を追っていくことで、安易にマスメディアや言論人の言葉に翻弄されうる危険性を改めて猛省することを促したい。
 板橋区氏は学者諸氏のご意見をそのまま頂戴されているのみで、ご自分の意見の部分は少ない。若干ではあるが「NEETについて③」、「他人について」でご見解を伺えるため、これらを主に参照し氏の論理、論旨について述べて見よう。まず、氏は引きこもり、さらには現代の若者をニートと同一視しているようで、言説することで新たに生産される疎外に気がついていない。安易な混同により、引きこもりという文字の表象が、ニートの表象へと範囲を拡大していき、疎外が拡大される点には無関心である。「横文字社会学嫌い」において、言葉の肝要さを見せる氏の姿勢は幻であろうか。次に氏の論旨であるが、ご自分でも仰られているように「他人への視点」ということになる。氏曰く、ニートは自己の内面を優先する自己愛的であり、他人の視点の欠如している。けれども、

「ニートやひきこもりという人達について長山は「予想していた以上にコミニカティブル」と言っている」だそうだ。

 横文字嫌いのあなた自身の理解不能な横文字をなんとかしろ、と叫びたい気持ちを抑えつつ、「communicative」と解するならば、ニートは話し好き、話しをする他者がいるという、ことになろうか。他方でニートではない大人は他人の視点から考え、「人のために生きたい」とか「世の中の役に立ちたい」という観点から他者を指向しているそうだ。そして東の概念、「想像界(内面)」→「象徴界」→「現実界(全世界)」を援用し、現代の若者は現実世界の配慮や関心といった、中間項である「象徴界」が欠落していて、内面「想像界」と全世界「現実界」が直結していると云う。いまさらいつの間にかにニート論が現代の若者へと一般化されている、おやじの説教的点には触れないでおこう。さらに氏の論理に従って解読していくと、現代の若者は「自分らしくあれ」、「個性的であれ」といった社会からの圧力に曝されていると同時に、その解決案は社会や他人から与えられると信じている。けれど氏は実際はそんなことはなく、努力しなければ見つからないんだ、という、おやじ的精神論に発展する。ニートは全世界と内面が直接結びついているために、自尊心の拠り所となる属性の範囲が広く、全ての面で人よりも勝っていなければ気がすまない。また属性の範囲の広さから、ニートの自尊心は弱くもろいものであり、小集団のコミュニケーションにより、自己の承認を受けることを目指すべき。以上、読まれると判るが論理が前衛芸術的に破壊されているので、文章にならないものを無理やりまとめた。以下で具体的に言及してみる。
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ルーマンと憂鬱

2005-02-12 15:00:43 | エッセイ
 蒼き思い出でも話しましょうか。もうずっと昔の話のような感覚ですが、以前、私は西池袋の3畳一間、家賃月1万円という凄まじいところに下宿していました。その頃の話は鬱系の「あの頃の話」で少し触れているのですが、あの頃は私には常に陰惨な風景が憑いてまわっていたような気がします。今もそれほど変わりはありませんが。
 生きる目的がなかったあの頃、私はひたすら社会学の文献を読み漁って、それで一時的にカタルシスを得る事で生き長らえていたように思います。アルバイトは数え切れないほどやりましたが、取替えのきかない私はどこにもいませんでした。綺麗に辞めたバイトは一つもないと思います。だいたい喧嘩か無断欠勤でくびになるのがオチでした。
 私のやり場のないルサンチマンは知へと向かう原動力を増幅させました。何一つ人に誇れるものがない私は分厚い専門書を読む作業が、生産的であり高尚な行為をしているように感じたのでしょう。ほんとひたすら読みました。当時ルーマンの『社会システム理論』を読んでましたが、ほとんど判らなかったと思います。けれども、ルーマンという輩の思想はどこか私を惹きつけるものがありました。その頃、『秘密と恥』という書を出版して、少し株の上がったルーマン研究者が東北大学にいました。今、読み返してみると大したものでもなく、むしろ冗長で知的好奇心の隅っこにも触れるものではないのですが、当時の私は『秘密と恥』を読んで、この人の下で学びたいと自己催眠してしまったわけです。別に東北大学に入学する気も金もありませんでしたから、テント暮らしをする傍ら、大学の講義を聴講すればよいと思っていました。
 師走で大雪が東北地方にみまった日に私はヒッチハイクで東北大学まで赴き、その研究者に会って、自分はルーマンを勉強したいから面倒みてくれと頼み込んだのでありました。その時、質問されたことが一つだけ覚えています。研究者は私がミードも読んでいると知ると、ミードとルーマンの思想の根本的な違いは何かと尋ねられたのです。当時の私は、理由もなくルーマンがやりたい
といった、精神論的な目的が先走り、東京の陰鬱とした生活から何とかして抜け出したかった、その矛先をルーマンに向けたのだと思います。ですからルーマンの思想なんて全く判りません。当然、質問にも答えられるわけがない。
 東京にもどり暫くして、研究者から電話がありました。研究者いわく、私には研究する素質がないのではないか、現にルーマンをやりたいと云っているが、質問に全く答えることができない。研究するにしても東京のほうが、東北の田舎よりもよっぽど、その環境が整っているので、私の面倒はみれないし、東京で勉強を続けたほうがいいとの趣旨でした。もう東京から出ていき、ルーマンを勉強するんだとばかり思っていて希望に胸を膨らませていた私は一気にどん底に落ちました。一寸先は闇、どうやって歩き、どこえ向かえばよいかも判らなくなりました。ルーマンは僕に大きな挫折感を抱かせたのですね。それからルーマンを読むことはあまりなくなりました。ページを紐解いても、ちんぷんかんぷん。あの研修者の私に対する率直で正に的を得た、言葉が蘇ってきて、ルーマンはその後も私を苦しませ続けました。
 今となっては、あの質問にも答えることができるし、あんな二流の研究者に学ぶべきものはないので東京に残ったことは正解だったのですが、ただ今も尚、ルーマンの著書を開くたびに、あの頃の陰惨な風景は私の脳裏を埋め尽くし、不意に逃げ出したくなる恐怖に襲われるのです。

 2ちゃんねる的掲示板の投稿を若干、加筆、修正して転載します。
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落ちこぼれの独語

2005-02-07 06:25:43 | 日記
 このブログでは折に触れてーげー革命のための、てーげー理論の構築をしていこうと考えている。
 私は経済的、精神的疲弊のために社会学者になる計画を破棄してしまったのであるが、そのおかげで、てーげー理論なんてとんでもなく馬鹿げたことを恥ずかしげもなく書くことができる。多少なりとも学会というものを意識せざるを得ない、学者志望がこんなことを書いていたら、末代まで笑いの種として扱われよう。
 社会学徒の道から転落し、ろくでなしの烙印を押された私だから、他人の嘲笑なんて全く気にすることなく甘美な言葉遊びに耽ることができる。落ちこぼれ、挫折の経験も案外、うまく機能することもあるのだと微笑せざるをえないのである。
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