元高校教師のブログ[since2007/06/27]

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『あの頃の自分のこと』--私の場合

2007-07-07 04:42:27 | エッセイ

  ラフカディオ・ハーンの「怪談」にあるように、昔は『むじな』が出て人を化かしたという紀井の国坂界わい。どういう訳か、私は現代のそこのライブ・パブの中にいた。そのとき、人々の雑多の話声の中から湧いてくるような、遠い記憶の彼方の歌声に激しく魂を揺さぶられた。----店の女性歌手の歌う『リリー・マルレーン』であった。

   意識は青春時代に突入した。ビージーズの『マサチューセッツ』や国府台球場に響いた茂原農高ブラスバンドの応援歌のときもそうであったが、音楽というものは麻薬のような働きをすることがある。  芥川龍之介の作品に『あの頃の自分の事』という小品がある。東大英文科学生時代を振り返ったものだが、授業後の廊下に一人の学生が実名で登場してくる。「豊田君は悠然と向うへ行ってしまった...今どこで何をしているか...もう一度会いたい」 

  時代も大学も異なるが、豊田実先生の講義を受けている英文科学生の私の姿がそこにある。「豊田君は今ここで私達にポーの『黄金虫』を講義していますよ、芥川さん」と私はつぶやいている。

  間接的なものを含め、人は一生のうちに多くの人と出会う。その係わり方は遠近・深浅、いろいろであろう。でもその程度と親密度とは必ずしも一致しない。こちらの心の中に大きな位置を占めていても、相手は何んとも思っていなかったり、かなり恨んでいるだろうな、と思っていたのに、その逆だったということがある。相手の想いをこちらが気づかない場合もある。私の場合、教師と卒業生という関係で、後で判ることがしばしばある。  だが、一般的には、当事者同士にも判らぬまま人生は過ぎていく。私は豊田先生と言葉を交わしたことがないので、先生の中に私は全く存在しない。でも私の心の中にあるフロッピー・ディスクのファイル名「学生時代」の中には、このように確実におさまっている。---先生がこのことを全く知らないまま---。 このように、人生航路での人々との係わり方は、私の場合の(豊田先生から肉親との関係に至るまでの)ように、その間、段階的に種々様々なバリエイションがあろう。

  そこで、受験時代に衝撃を受けた、ナサニエル・ホーソンの Twice Told TalesのDavid Swan -- A Fantasyが甦ってくる。 「一人の人間の人生航路において、彼を取りまく宇宙の意志が、時には大きく時には小さく、様々に関わりを持って動いている。彼に近づたり離れたりしていく生死、運不運、富、愛、..  

  それらが結果として彼に現れるのはほんの一部にすぎない。もし、大部分の結果として現れない部分を知ったら、我々は...」  We can be but partially acquainted even with the events which actually influence our course through life, and our final destiny. There are innumerable other events, if such they may be called, which come close upon us, yet pass away without actual results, or even betraying their near approach, ......

 

  ふと気がつくと、すでに終電車も去った新津田沼駅のベンチにいた。もうろうとした意識とは裏腹に、あの「リリー・マルレーン」の歌声が、いつまでも私の耳奥で響いていた。


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