そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

賤ヶ岳七本槍と柴田勝政

2008-11-16 15:15:08 | 歴史
前回の続きです。

北国脇往還を疾駆して木之本へ帰った羽柴秀吉は、木之本に残っていた弟の秀長と午後九時頃に合流。ただちに戦況の把握に努めます。

佐久間盛政の兵が依然として岩崎山から賤ヶ岳にかけて突出していることを知った秀吉は、この段階で明早朝の攻撃を決定します。敢えて隙を見せ、敵の防御体制を崩す作戦の総仕上げです。北東の柴田勝家、中央の前田利家、南東に突出した佐久間盛政を全面的に襲撃し、一気に雌雄を決する!

ところが、この計画は程なくして重大な変更を迫られます。四月二十一日の午前零時頃、佐久間盛政は弟の柴田勝政に援護を命令し、前日の未明に浸透して来た道をそのまま引き返し始めたのです。

このとき秀吉が掌握していた兵のほとんどは「大返し」で疲労困憊し、まともに戦えない状況でした。が、それでも秀吉は追撃を命令。盛政支隊にはさしたる損害を与えられませんでしたが、奪われていた第二線陣地を完全に回復しました。それはすなわち、賤ヶ岳付近に残って後衛戦闘に務めていた勝政の手勢が孤立することを意味します。

秀吉はこの好機を、徹底的に政治的に利用しようとします。もう戦の趨勢は決したと思い込んだ秀吉は、戦場においてさえ、戦術的確実さではなく政略的な視点で軍を動かします。各地の大名達を服従させてきた秀吉でしたが、自分の脇を固める側近に名の売れた将がいない。そのため秀吉は自ら賤ヶ岳に乗り込み、側近達に手柄を独占させようとしたのです。

福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元。この七人が後に「賤ヶ岳七本槍」と喧伝されますが、実際には石川兵助、桜井佐吉も同じように表彰されています。語呂合わせのために約二名が闇に葬られた、というところでしょうか・・・。
(´・ω・`)

しかし実際には、賤ヶ岳七本槍の猛攻に崩れることなく、勝政は整然と撤退することに成功しました。賤ヶ岳七本槍の「活躍」は、秀吉の政治目的の過大評価です。

勝政の予想外の善戦によって、柴田勢の右翼は大過なく撤退を完了しようとしていました。羽柴勢の攻撃は勢いを失い、柴田勢は秀吉の罠をくぐり抜けようとしていました。それどころか、佐久間盛政隊の殲滅を前提条件に攻勢に出た羽柴勢は、逆に算を乱しているところを突き崩され、秀吉の掌中にあった勝利をもぎ取りかねない状況にまで追い込まれてしまいます。

最新の画像もっと見る