そして時の最果てへ・・・

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大垣大返し

2008-11-02 23:15:00 | 歴史
前回の続きです。

柴田勢の攻撃による幾つかの砦の陥落と、中川清秀の戦死という凶報は、その日の正午には大垣にいた秀吉の耳に入っていました。それでも秀吉の自信は揺らいでいなかったようです。

柴田勢が弱点の第二線陣地を攻撃しても、第一線陣地を突破しなければ意味がありません。当然勝家は攻略しようとするでしょうが、そう簡単に第一線は崩せずに手間取るはず。その間に秀吉と直属部隊が戦場に急行し、柴田勢が砦に逃げ込む前に捕捉できれば、現地に残した部隊とともに挟撃、一気に壊滅を狙うことも可能です。秀吉とその将兵達は、大垣から賤ヶ岳までの道をひた走りました。

さて、秀吉が5日前に大垣まで率いてきた直属部隊の兵数は約15,000で、総司令官の号令ですぐに右から左へ移動できる人数ではありません。学生時代、高々数百人の生徒が体育館に集合するだけでケッコウてんやわんやしませんでしたか?その数十倍の人間が50 kmの距離を移動するのは滅茶苦茶なことなんですよ。

通説になっている午後4時から9時までの5時間では、大垣から賤ヶ岳まで帰るなんて無理なんですよ。2時に出発して12時に到着したとしても、時速5 km。通説のようなクレイジーな速度を想定しなくても、十分に特筆すべき進軍速度なんですよ。

とは言うものの、歩兵主体の軍隊としては驚異的な行軍速度は、ある意味で発揮されるべくして発揮されたものでした。秀吉は大垣-賤ヶ岳の内戦作戦を前提として、予め二地点を結ぶ後方絡線上に糧秣や武器弾薬、替え馬といった大量の物資が用意されていました。

中国大返しと同じで、成功の秘訣は兵站線を逆走したことにありました。備中高松から京都までの中国道は、織田信長や明智光秀などの後続部隊を迎え入れるため、大量の物資が集積されていました。「大垣大返し」もこれとまったく同じ理屈。

唯一の違いは、中国筋では偶然であったことを、秀吉は北国往還で周到に準備し、意図的にそんな状況を準備していた、ということです。

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