民家雑文

この国の民家と風土に魅せられて各地を訪ねました。

埼玉での思い出・・・。

2007年03月23日 | 集落探訪
 学生時代のはじめの頃、埼玉県に住んでいた。出身の広島とは違い広々とした関東平野に驚いたことを思い出す。生来、あちこち行くのが好きだった私は、早速地図を買い周辺を探索してした。いつの日のことだっただろうか?原付バイクで郊外へ出たときに道に迷った。そこは10数軒の民家が集まっていた集落だった。どっちへ行こうかと悩んでいたとき、ふと気づいた。そこは農村集落だったのである。私は不思議な感覚に襲われた。私にとって田舎の風景とは中国山地にある棚田の風景が思い浮かぶが、その集落は違っていた。平地だった。荒壁の土塀が続き集落の北側には屋敷林があり周辺には水田が広がる。「これが関東の田舎か!」と、はじめて気づかされたのである。それまで、このような集落風景は遠めに見ていたに違いないが、集落の中に迷い込んで初めて実感させられた。ある意味カルチャーショックだった。それは西と東の風土の違いを肌で感じ取った瞬間でもあった。
 これがきっかけで、まだ開発が進んでいない埼玉県内の集落を訪ねるようになったのである。大感激した急斜面集落である大滝村栃本集落(現、秩父市)を訪ねるのは、これから数ヶ月後のことだった。
          
             かぶと造りの民家が残る埼玉県の集落


 民俗学祖柳田国男が13歳のときに兵庫県田原村辻川(現、福崎町)から茨城県布川町(現、利根町布川)へ転居して2年間を過ごしている。このときの体験が後に民俗学を志すきっかけとなったといわれている。おそらく西と東の風土の違いを、感受性の強い柳田国男にとっては衝撃的だったことだろう。
 レベルが全く違うが、私も柳田国男と同じように感じたことを後に知り密かに嬉しかった記憶がある。

笄(こうがい)を数える・・・。

2007年03月17日 | 民家探訪
北陸地方の棟仕舞いに笄棟(こうがいむね)と呼ばれるものがある。それは、屋根面の棟近くへ水平に棒を刺し、その棒に縄や木などを掛けて棟茅を押さえる方法である。
その棒を笄(こうがい)と呼ぶ。江戸時代の花魁(おいらん)が笄を髪の根元に刺していた髪型の笄髷に由来している。

笄棟も地域によって仕様が若干違い、また笄の材質も違う。この笄棟の地域の中に「合掌造り」が存在する。
合掌造りの笄棟は、平棟になっている。そのため、水切りがされていないので棟茅が腐りやすい。毎年棟茅を交換しなければならない。
ある意味、合掌造りの笄棟は原始的な棟仕舞いと云っていいかもしれない。

白川郷では、笄のことを「ミズハリ」と呼んでいる。合掌造りの笄棟を中心に、1本笄から13本笄の屋根を紹介するので見てもらいたい。


      
                     1本笄の屋根

      
                     2本笄の屋根
      
                     3本笄の屋根
      
                     5本笄の屋根
      
                     6本笄の屋根
      
                     7本笄の屋根
      
                     8本笄の屋根
      
                     9本笄の屋根
      
                     10本笄の屋根
      
                     11本笄の屋根
      
                     12本笄の屋根
      
                     13本笄の屋根


「4本笄の屋根」は、見当たらなかった。納屋で存在してないだろうかと探したがなかった。やはり「4」は忌み嫌われているのだろう。どなたか見かけられた人は教えてください。また「14本笄の屋根」もあれば教えてください<(_ _)>

しかし、我ながら自分でも馬鹿じゃないかと思う。笄を数えて何の意味があろうか?このように笄の数を紹介している書籍は、今までお目にかかったことがない。もっと系統的に笄棟を紹介するべきだった。

小生の民家探訪の一端が垣間見れたのではないだろうか・・・。いつもこのようにして、テーマを決めて自己満足の世界に入っているのである。


(補足)福井県にある重要文化財坪川家住宅は洗練された笄棟であるが、昨年葺き替えをして笄はあるものの本来の役目を果たしておらず飾りとなってしまった。誠に残念である。


参考
  『住まいの伝統技術』 建築資料研究社 1995年
   
  他、


『消え行く日本の民家』

2007年03月16日 | 人物・書籍


久しぶりに毎日グラフの『消え行く日本の民家』を本棚から出してみた。読んだというよりは、眺めたと云ったほうがいいだろう。思わず息を飲み込んでしまうような民家の写真にしばし時間が過ぎた。

この雑誌が発売されたのは1970年である。だから民家の写真は60年代に間違いないだろう。
1970年と云えば、大阪で万国博覧会が開催された年である。万国博覧会は、1964年に開催された東京オリンピックに次ぐ国家プロジェクトであったに違いない。博覧会には6000万人以上が入場したというから、国家挙げてのお祭りといっていいだろう。
世の中はイケイケムードだったにちがいない。農村から若い働き手が次々と都会へ流出していったころでもある。

時期同じくして、この頃は文化庁の指導のもと、各地で民家緊急調査が行われていた。高度経済成長により民家が次々と勢いよく消滅していく現状を危惧してのこのとだった。案の定60年代後半から80年代前半にかけて多くの民家が消滅していった。「最近、民家の消滅速度が速いですね」という人がおられるがその比ではなかったようである。悲しいことだが現在の状況は、限りなくゼロに近づいているので急激に減ったように感じてしまうが消滅する絶対数は少ない。すでに、ほとんど消滅あるいは改築されてしまっている。

この「消え行く日本の民家」は、そうした高度成長期の真っ只中に出版された雑誌である。それまでの民家の本は、ほとんどが専門書の形態を取っていて難しかった。おそらく研究者や建築家が手にするような本ばかりで、一般の人は余程民家に興味がない限り手にしないだろう。
この本の中には、田んぼの中で遊ぶ子供たち、縁側でおばあちゃんの手伝いをしている子供や大勢の村祭りなどが写されている。人々の心豊かな生活が漂ってくる懐かしい光景ばかりだ。このような情景は、今の日本の何処に残っているだろうか・・・。

最近は、田舎暮らしや古民家ブームで民家を取り上げられる機会も増えた。民家が少なくなってきたからなんだろう。でも期待する内容は少ないような・・・。

「消え行く日本の民家」のページをめくりながらそんなことを考えていた。

 参考  毎日グラフ別冊「消え行く日本の民家」 毎日新聞社 1970年