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よもやま話

第49回。筆間 茶話“昔の旅に想う”

2008-09-21 01:42:48 | Weblog
 筆間 茶話“昔の旅に想う”
 外国貨幣は資料蒐集中なので、今回は旅について書きます。
過日は、酷暑の中、上京、亡父の祈念碑を尋ねた。久しく旅をしなかったがあま
りにも利便になったので、富裕であれば快適な旅が出来るだろうと感じ入った。
 パソで宿予約指定席の急行でウトウトしてるうちに上野に着く。くまなく網羅
された地下鉄で目的地に着く。若い頃は鈍行で6時間、読書に飽きた頃、満員、
汗まみれ、郵政省の保養所に泊まり歩きずめでのお上りさん旅にも大満足した。
◎昔の旅はどうだったろう。中世迄は軍事・情報伝達・政治的公務の旅が全てだ。
“庚午、神功皇后五十年、令諸国造駅道”とある。西日本に三関が出来たが軍事
目的のようだ、記紀(古事記、日本書紀の意)にも駅道や歌枕が頻繁に出てくる
五畿内(歴代の皇居置かれた大和・山代・河内・和泉・摂津)は早期に拓ける。
さて、江戸初期は諸法度で締め付けて武士、農民の恣意は皆無であった、やがて
参勤交代が盛んになると。註1。
 五街道(江戸を起点、東海道・中山道・日光街道・
 甲州街道・奥羽街道)は見違えるほど道路網も立派になる。註2。

◎家康は「百姓どもは死なぬように、生きぬようにと合点して年貢をとるべし」
検見法は豊凶による欠点があったが享保六年より幕府は定免法で年貢が決められ
るようになり農民もよく働けば己の余剰分が入るようになり。旅僧の話から旅の
欲求芽生え年貢皆済目録を産物役所で交付されると農閑期の旅の話題出てくる。
文政九年。ジーボルト「江戸参府紀行」(22P)“日本では道路地図や旅行案内
書は必要で欠くことのできない旅行用品の一つである。ヨーロッパより多く利用さ
れる、海陸の旅の有益な要点が載る。即ち旅行用品の指示・馬や人夫の料金・通行
手形の形式・有名な山や巡礼地の名称・気象学の原則・潮の干満の表・年表等であ
る。その上現行尺度のあらまし、紙捻を立てると出来上がる日時計迄ついている”
尤も、識字率が低いので勤番侍や、文人、学者、僧侶、町人でも読み書き出来る層
が読破した。町人では落語「大山詣り」に出る“講”は江戸各町内にあり両国橋の
河岸で水垢離し山に向う(相模国、雨降り山の異名のこの山は七月盆山の時期には
何万人も中腹の不動堂、山頂の石尊社を参詣した江戸より十八里で手頃であった)
 参詣後は箱根、江ノ島、鎌倉に遊び品川の遊郭で遊ぶ不埒な輩あり先達は苦労。
◎庶民は檀那寺や村役人、町役人に往来手形を貰う。旅の途中で迷った際には
民家に泊まる・不遇の死の処置の際の依頼状も記してある、関所、旅籠の宿改めの
際に身分証になった。武士は幕臣なら奉行所、藩士は大名家の身分を明かすもの。
“入り鉄砲に出女”友人が「江戸で銃器の騒乱を起こすのを避ける為、男社会で女
子が極端に少ないから他国に出る女を厳しく禁じたかな」と言う、一理あるが違う
江戸で人質同然の大名の奥方が国表に逃散するのを防いだものだろう。
 女手形では嫌がらせした、改め婆が髪の中迄調べたり裸同然に調べる、井上通女
。万冶年間。丸亀藩の学者の娘で江戸の藩侯の母に召され江戸に向う、美濃を過ぎ
新居関で関所手形に「女」とある、通女は二十二歳で年増だが未婚、この場合は、
「脇あけたる小女」と書いてなければ駄目と言われ大阪に使い出し書き換え頼む。
 教養ある彼女は落涙し“身ハ万里ヲ経テ君命走ル 今日既ニ来ル新井ノ関
 未ダ識ラズ少長袖ヲ分ルニ因テ 空シク旅館ニ留テ我心難ム”(原文は漢文)
 七日逗留し新しい関所手形が来て通過許された。妊婦が早産し「人数と違う」と
書き換えて来いと嫌がらせもあるだが幕末には簡略化された。“きよのさんと歩く
江戸六百里”。羽州・鶴岡の豪商の妻が日光、伊勢、京・大阪を旅したものだ。
◎文化14年(1817年)きよの。31歳。諸国商人の珍しい話を聴き決意す。
 女旅は雲助、川越人足が法外な駄賃を吹っ掛ける、酒呑まず飯盛り女も呼ばぬ女
旅は旅籠の上客でない関所もすんなり通らず抜け道の案内人(当時は小役人で性質
の良く無いのがわざと難癖付け。困ると宿と謀り裏道越えで阿漕な稼ぎを山分け)
彼女それなりの人物、武吉。八郎冶これは下僕だが荷物持ちのお伴を連れ総距離が
2340Km。日程108日の旅の日記である。江戸では旅籠で二百文で昼は様々な
所を見歩き夜は希望のコースを廻る、今日のようなガイドが居たらしい。
 吉原の周囲はおはぐろどぶに囲まれ、大門からしか入れない定めがあり、地位
があろうが下馬し徒歩で廓をのし歩く、駕籠や馬は医者が緊急事のみ許された。
 この門から直線で仲の町がのびる。遊女が客に呼ばれて揚屋に行く花魁道中も
見られる、金銀の縫箔の厚ぶきの打掛を着、金襴緞子の帯を胸に高々と締め上げて
、右褄を取り大勢を引き連れ歩く姿に驚嘆したろう。「吉原、日暮に及び、盆の
灯篭を見物致し候」「吉原へ見物、昼はさびし、しかし道中を見る、夜に入て賑や
かなり」と。

◎当時、成人男子は一日歩行距離は十里(約40km)参勤交代や、君命の武士は
十二里を歩く。庶民は九里前後、女は七里歩く。草鞋はすぐ駄目になるが街道や、
旅籠で買う。一日二足は使う、ちびては道端に吊るすと、貧人がそれを引き継ぐ。
牛馬の肥料や街道の畑の肥料になる。夕闇が迫ると早目に旅籠に入る、自炊が原則
で薪や食料を持参した、旅人は商人が多く馬と旅した。慶長十六年、幕府は人が三
文、馬が八文の旅籠代を決めた。薪持参は半額とする。幕末は食事付きで初期より
百倍(人七百文、馬一貫四百文)宿のランクも出来たし、裕福になった旅人は馬か
荷担ぎの人足を雇うようになった。

◎江戸時代、大きな川は、豊臣の残党の蜂起を考えたのでもあるまいが、大井川、
 安倍川は橋を掛けず西国の外様大名を懼れた説もある、薩・長・土・肥の危惧
は現実となった。ともあれ川越人足を頼む、手を引く、肩車、、徒渡りは渇水期
はなにがしと細かい決めがあり、蓮台、駕籠、乗馬、長持等出費が掛るが文句は、
言えず、増水で川止めだと宿賃もかさみ大変であった。
 
◎東北では出羽三山や越中の立山、加賀の白山の山岳信仰。富士講、伊勢講は規模
も大きく現在の旅行会社の様に講元がパックして金がかかるが土産物迄手配した。 
 弥次さん、喜多さんの個人旅は「東海道中膝栗毛」一九は往来し実見聞を広めた
「諸国道中金草鞋」は諸国霊場巡り道中記、絵と文で読者魅了、体験者も増えた。
 
人は何故旅に出るのだろうか?、非日常的な体験と意外性に魅惑されるのだ。私が
未知の国に行くのを訝しく思う方がいる、気障なやつだと思われるかもしれぬが
“外宇宙ならダメだが、地球家族ならボデーランゲージで大丈夫”と確信する。
◎昔、文人、画家、修行僧が旅では地方の富豪や素封家が句会、茶会等歓待した。
 江戸や、京・大阪の実状を知りたがり又、軸や屏風に絵を依頼したり情報のみ
ならず地方の文化の向上の為足止めした。徳川家の家祖も僧籍だったかな?。
 中に「儒者、学者、虚名の者、並びに物もらい不可入」札の出た資産家もある
 無銭飲食したり似非文人や有名人を騙る者もいたろう。
 このなかでも仏法を説き病を癒したり祈祷をしたり乞食をしながら架橋、灌漑
の用水を開いたり、仏像を彫り与え衆生の救済を図った。「僧尼令」で国は私度
僧を忌み嫌い反権力の萌芽を懸念した。円空、木喰仏は立派な文化財ですね。
 
◎最後にジーボルトの旅を付記しよう、彼は文政九年、御番衆、通詞と従者総勢
57名江戸に向う。欧州の馬車と異なる駕籠の窮屈さや、牛・馬に揺られたりし
て江戸に着く。当時長崎ー江戸間は長いときは142日、短い時は67日、平均
90日と言われた。現在から見ると当時は伊勢参りでも水盃を交わし庶民は死を
覚悟で旅をしたのだった。では、この辺で、お休みなさい、又書きます。 

 
註1。参勤交代。江戸在府・在国各1年が原則、諸大名は東国、西国衆に分かれ
   年割で東西1年交替、江戸詰。時期は4月・6月多く庶民は行列に遭遇時
   左側に座す。大名供廻りの人員は家格・石高等で異なるが少なくとも百名
   を超え多い時は数百名に及ぶ。先払・髭奴・挟箱・槍持・徒士・駕籠・馬
   廻り・近習・傘持・牽馬・騎馬供・徒士の順絢爛豪華、費えも膨大な額だ。
註2。シーボルト「江戸参府紀行」の訳者 斎藤信氏はジーボルトと訳したが、
   私は敢えて「シ」と書いた。“これらの道路はただ歩行者や牛・馬のため
   で、従ってわが国においてのように荷車や郵便馬車には役立たないに違い
   無いが建設は困難でなく、維持費もそれほどかからない。地面を平らにし
   、数インチの厚さに小石・丸石または砂利を敷き踏みかためてから、歩行
   者が歩きやすいように砂をまく。急斜面で道路が作られぬ山岳地帯では、
   段が低いが幅の広い階段を考え出し、それで人馬は安全確実に登り降りす
   るのである。道幅の広い街道は地形の許す限り両側に樅・糸杉・コノデ柏
   など蔭の多い樹木を植え、必要に応じて堀・堤防・水路を設ける。街道は
   その領地の大名達の費用で維持され大代官や庄屋の監督下にある。
    道標は大抵道の両側にあるふたつずつの小さい丘でそこにモミ、エノキ
   が植えてある。一里の丘の意で一里塚と呼ばれる。一里より短い距離は町
   によって表され境界線や道標と同じ、石に刻まれている。馬の蹄鉄は使用
   されない、牛馬の蹄は稲藁で作った靴をはかせるが日本の地形では滑る心
   配が無い”と記している。
    現在のレンタカーの様に旅人は荷と共に馬に乗り継いで旅する
   が気に入れば途中商いの為馬継ぎ場で降りる。“馬で旅する風変りなもの
   に触れる。一頭の馬に我々の国のロバの様に二つの籠をつけ、その各々の
   籠にひとりずつ乗り、三番目の人が鞍にまたがり馬を御すのである。この
   旅行仲間を三宝荒神(Sampokosin)というこの巡礼旅行は田舎の人たちだ”
  上記は「江戸参府紀行」より抜粋したが日本への慈愛に満ちる。
    1828年。シーボルトは任期が満ち帰国することになるハウトマン号
   は台風の為稲佐の浜に打ち上げられ修理の為降ろした荷の中から禁制品が
   出て大騒ぎになる(葵紋付きのかたびら・日本地図他)関係者は罰せられ
   彼は国外追放になった研究心の塊の膨大な彼の収集品は既に本国に送られ
   ていたのが、日本にも現存しない夥しい当時の資料は国有になりライデン
   博物館に保存される。お滝と同棲生まれた長女伊禰の肖像を描いた香ごう
   を妻に帰国時贈る「黒漆青貝張シーボルト妻子像香ごう」は国指定重要美
   術品として長崎市立博物館に保存されている彼の心情が心を打つ哀話だ。
   
補遺 最近読んだ本。
       1「ジーボルト 江戸参府紀行」 斎藤 信著。
       2「翔ぶが如く」(一) 司馬遼太郎著。 再々読、
       3「冒険投資家 ジム・ロジャース 世界大発見」 再読 感服、
       4「南北アメリカ徒歩縦断日記」 池田 拓著。26歳で夭折し
         した渾身のルポ、良き魂は大陸の空に風となり吹いていよう、
       5「図録 近世武士生活史入門辞典」柏 書房。
       6「“きよのさん”と歩く江戸六百里」 金森敦子著。 再読、
       7「暁の女帝 推古」 小石 房子著。
       8「女龍王 神功皇后」(下)黒岩重吾著。洞察力に敬服、
  独白  ブログを書きはじめてから1年半過ぎた、早いものである。
      拙文お読み下さる方、毎回3桁に及ぶ。遅筆に鞭打つ始末、閉口する
      のは合う漢字無い時でワープロである程度資料を集めパソコンで深夜に
      投稿する。弟は「ワードで打ち(コピーを採り)後で推敲すれば昼間
      に簡単に投稿が出来るだろう」と言う。確かだが夜中に書くと、静寂
      感で禊を受けた様に邪心がなくなる、76歳だから、昔のように徹夜
      はしんどいし貨幣の商売に障るので為さぬ。なにも望まず、何も固執
      せず天衣無縫言いたいことが言えるこの国に生まれてハッピーだなぁ。
      今後も、迷解釈やらで読者を悩ますが、老人の戯言ご寛容を乞う。  
問い合わせあり、私事書きます。東北の湘南(嘘つけぃ)と私思うのですが。
  〒974-8211 いわき市 植田局私書箱20号「ミントマーク」。
  最近は、内・外貨幣注文受け販売の仕事出来る限りしてます。

 

          
    
   

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