10月下旬から公開される映画「Wool 100%」の試写を観た。スクリーンで邦画を観るなんて何年ぶりだろう。スタジオ・ジブリはテレビだけで満足だし、ビートたけしの映画なんて絶対に観ないから・・・邦画はキライではないのだけど・・・でも、まぁ、わたしにはよくわからない。なぜ、観にいかないのか・・・。自分のことなのに。
わたしには「よくわからない」ことが多すぎる。映画「Wool 100%」の仕事も「よくわからない」ままに進んでいったものだった。
古くからの友人(この映画の音楽プロデューサー)がエンディング・テーマ曲のヴォーカリストにRickie Lee Jonesを起用したいとわたしに話した。昨年の4月か、5月ぐらいだったと思う。そのときはRickieに会ったこともなかったので、「ふーん」って聞いているだけだった。もちろん、わたしは「Wool 100%」の仕事に携わっていたわけではなく、友人が「会わない?」というから会っただけだった。「アンニュイなイメージがほしい」と友人がいっていて、Po' Girlなんていいなぁと思ったのだが、映画会社の人たちは有名な人がいいといっていて、Rickieに決定していたらしい。
友人はわたしに彼女とコンタクトを取ってくれといった。わたしは彼女の連絡先も知らなかったし、コーディネーターでもなく、Rickie Lee Jonesに会いたいとも思わなかったので、丁寧でもないが、お断りを申し上げていたが、なにがなんだか、よくわからないまま彼女とメールを交換するようになり(メル友ではない)、LAでレコーディングをしていた・・・そうした経緯があって、邦画の、「Wool 100%」の試写会場に足を運んだのだ。
作品のだいたいの内容と出演者(岸田今日子と吉行和子)は知っていて、否、今年に入って・・・1年前は覚えていたのだが、「Wool 100%」という映画の存在すらほとんど忘れかけていたところに試写の案内がきた。キレイな映画の一場面(?)が刷り込まれたハガキだった。アンティークな小道具をいっぱいにならべて、出演者は(おそらくはこの作品のために作られた)キレイな衣装をまとっていた。それだけでも、スゴイお金を費やしたと想像できる。
同作品の監督・脚本家はテレビのニュース番組でゴミ屋敷のなかで暮らす人を観た衝撃でこの物語を書いたという。しかし作中の老婆は「モノ」を収集していて、「ゴミ」ではない。ちなみに報道されるゴミ屋敷は、その主人は「ゴミ」という感覚を持たずにそれを集めている。この両者の差異が作品全体としてのリアリティの欠如として表れている。おそらくこの監督は「モノ」をコレクトしたことがないのだろう。ただ単に、こんなふうにアンティークな「モノ」が積み上げられていて、そこにかわいい老婆がいて、(下北沢あたりで売っている)古着をリメイクしたものをまとっていればステキなのではないかなぁ・・・と想像で「Wool 100%」を撮ったのではないだろうか。あまりにデザイン性ばかりを気にして、中身がない。
この映画のはストーリーは理解不能だ。拾い集めた「モノ」のなかで暮らす老婆ふたりの生活のなかに「アミナオシ」という少女が登場し、「モノ」にとらわれた老婆たちを救い出す(?)と設定と受け取れなくもないが・・・しかしそれは彼女たちの歴史なのだから他者にとやかく言われる筋合いはないだろう。作品後半は「アミナオシ」が老婆たちの化身だったとも受け取れる内容となり、その途中で「母親殺し」とも受け取れるカット(その部分は人形劇)が挿入されている。キレイ事なのか、過去への旅路なのか、まったく理解できない。本作品は2003年Sundance NHK国際映像作家賞を受賞したという肩書きがついているが、オリジナルの脚本と映像作品はまったく別のものなの? それとも編集の段階で、そぎ落とされ、ストーリーがまったく変わってしまったのだろうか? それにしては無駄なシーンが多すぎる。上映時間は99分といっているが、わたしが観る限り必要なのは20、30分というところだろうか? 短編ばかりを撮ってきた監督が長編作品に挑むときの水増しと受け取られても仕方ないだろう。
(豪華な)プロダクション・ノートに監督・脚本家のインタヴューが載っていて、そこに主演の岸田今日子から監督に老婆の生活費について質問されたと書いてある。答えは「資産家の娘で・・・」というあまりに単純なもの。それにたして岸田は「老婆の母親は娼婦で、ふたりが住んでいる屋敷は娼館だったんじゃない」という。きっとそんな設定など監督は考えていなかったのだろう。
サウンドトラックも満足できるものではなかった。
「ふたりの老婆を訪ねるものはいなかった」という小池栄子のナレーションではじめる作品の冒頭、アコーディオンを持った女性とこどもたちが老婆の住む館へやってきて歌い出す。このときのアコーディオンの音がなぜ歪んでなければならないのか? 屋外の音だから、それとも山積された「モノ」に反響したというイメージか? そんなところでリアリティを求められても・・・。
ふたりの静かな生活のなかに流れるノイズ。複数の時を刻む音。それらの音が必要以上に大きいのは静けさを強調するためだろうけど、それにつづくかのような矢口博康のヴァリトンの音がわたしの耳を疲れさせる。映像作品としての客観性の喪失によるデザイン性の強調とともに音楽(音?)もここでは幅を利かせ過ぎている。
ところで、プロダクション・ノートにはRickieの歌声を「ハスキー」と形容している。
わたしは、ことば遊びをするつもりはないが、おそらくこれは制作者側の(彼女にたいする)イメージによって出てきたことばだ。「Chuck E's in Love」を、きっとその曲ぐらいしか思い出せないだろうから、記憶の片隅から引っ張り出してきて書いたのだろう。Rickieの名誉(別にハスキーであることは悪いことだとは思わないけど)のために書いておくが、彼女の声は、現在52歳とは思えぬほど透き通っている。日本でいえば夏川りみのようだ。「日本でも(シンガーを)探した」と書いてあったけど、本当は探していなかったんじゃない?
わたしには「よくわからない」ことが多すぎる。映画「Wool 100%」の仕事も「よくわからない」ままに進んでいったものだった。
古くからの友人(この映画の音楽プロデューサー)がエンディング・テーマ曲のヴォーカリストにRickie Lee Jonesを起用したいとわたしに話した。昨年の4月か、5月ぐらいだったと思う。そのときはRickieに会ったこともなかったので、「ふーん」って聞いているだけだった。もちろん、わたしは「Wool 100%」の仕事に携わっていたわけではなく、友人が「会わない?」というから会っただけだった。「アンニュイなイメージがほしい」と友人がいっていて、Po' Girlなんていいなぁと思ったのだが、映画会社の人たちは有名な人がいいといっていて、Rickieに決定していたらしい。
友人はわたしに彼女とコンタクトを取ってくれといった。わたしは彼女の連絡先も知らなかったし、コーディネーターでもなく、Rickie Lee Jonesに会いたいとも思わなかったので、丁寧でもないが、お断りを申し上げていたが、なにがなんだか、よくわからないまま彼女とメールを交換するようになり(メル友ではない)、LAでレコーディングをしていた・・・そうした経緯があって、邦画の、「Wool 100%」の試写会場に足を運んだのだ。
作品のだいたいの内容と出演者(岸田今日子と吉行和子)は知っていて、否、今年に入って・・・1年前は覚えていたのだが、「Wool 100%」という映画の存在すらほとんど忘れかけていたところに試写の案内がきた。キレイな映画の一場面(?)が刷り込まれたハガキだった。アンティークな小道具をいっぱいにならべて、出演者は(おそらくはこの作品のために作られた)キレイな衣装をまとっていた。それだけでも、スゴイお金を費やしたと想像できる。
同作品の監督・脚本家はテレビのニュース番組でゴミ屋敷のなかで暮らす人を観た衝撃でこの物語を書いたという。しかし作中の老婆は「モノ」を収集していて、「ゴミ」ではない。ちなみに報道されるゴミ屋敷は、その主人は「ゴミ」という感覚を持たずにそれを集めている。この両者の差異が作品全体としてのリアリティの欠如として表れている。おそらくこの監督は「モノ」をコレクトしたことがないのだろう。ただ単に、こんなふうにアンティークな「モノ」が積み上げられていて、そこにかわいい老婆がいて、(下北沢あたりで売っている)古着をリメイクしたものをまとっていればステキなのではないかなぁ・・・と想像で「Wool 100%」を撮ったのではないだろうか。あまりにデザイン性ばかりを気にして、中身がない。
この映画のはストーリーは理解不能だ。拾い集めた「モノ」のなかで暮らす老婆ふたりの生活のなかに「アミナオシ」という少女が登場し、「モノ」にとらわれた老婆たちを救い出す(?)と設定と受け取れなくもないが・・・しかしそれは彼女たちの歴史なのだから他者にとやかく言われる筋合いはないだろう。作品後半は「アミナオシ」が老婆たちの化身だったとも受け取れる内容となり、その途中で「母親殺し」とも受け取れるカット(その部分は人形劇)が挿入されている。キレイ事なのか、過去への旅路なのか、まったく理解できない。本作品は2003年Sundance NHK国際映像作家賞を受賞したという肩書きがついているが、オリジナルの脚本と映像作品はまったく別のものなの? それとも編集の段階で、そぎ落とされ、ストーリーがまったく変わってしまったのだろうか? それにしては無駄なシーンが多すぎる。上映時間は99分といっているが、わたしが観る限り必要なのは20、30分というところだろうか? 短編ばかりを撮ってきた監督が長編作品に挑むときの水増しと受け取られても仕方ないだろう。
(豪華な)プロダクション・ノートに監督・脚本家のインタヴューが載っていて、そこに主演の岸田今日子から監督に老婆の生活費について質問されたと書いてある。答えは「資産家の娘で・・・」というあまりに単純なもの。それにたして岸田は「老婆の母親は娼婦で、ふたりが住んでいる屋敷は娼館だったんじゃない」という。きっとそんな設定など監督は考えていなかったのだろう。
サウンドトラックも満足できるものではなかった。
「ふたりの老婆を訪ねるものはいなかった」という小池栄子のナレーションではじめる作品の冒頭、アコーディオンを持った女性とこどもたちが老婆の住む館へやってきて歌い出す。このときのアコーディオンの音がなぜ歪んでなければならないのか? 屋外の音だから、それとも山積された「モノ」に反響したというイメージか? そんなところでリアリティを求められても・・・。
ふたりの静かな生活のなかに流れるノイズ。複数の時を刻む音。それらの音が必要以上に大きいのは静けさを強調するためだろうけど、それにつづくかのような矢口博康のヴァリトンの音がわたしの耳を疲れさせる。映像作品としての客観性の喪失によるデザイン性の強調とともに音楽(音?)もここでは幅を利かせ過ぎている。
ところで、プロダクション・ノートにはRickieの歌声を「ハスキー」と形容している。
わたしは、ことば遊びをするつもりはないが、おそらくこれは制作者側の(彼女にたいする)イメージによって出てきたことばだ。「Chuck E's in Love」を、きっとその曲ぐらいしか思い出せないだろうから、記憶の片隅から引っ張り出してきて書いたのだろう。Rickieの名誉(別にハスキーであることは悪いことだとは思わないけど)のために書いておくが、彼女の声は、現在52歳とは思えぬほど透き通っている。日本でいえば夏川りみのようだ。「日本でも(シンガーを)探した」と書いてあったけど、本当は探していなかったんじゃない?