いったいどこへ向かうつもりだったのか、
今となってはわからない。
急に雨が降ってきて
そこに屋根付きのバス停があったから
とりあえず並んでみた。
たぶんそんな感じだったと思う。
あたりはすでに暗くなり、街灯だけが遠く見える。
雨は勢いを増していた。
私の前に並んでいたのは
休日の夜なのにスーツに新聞紙を持った40代のサラリーマンと、
買い物袋を持った白髪の目立つ小柄な女性が一人。
バスが来る前、私のあとから帽子を深くかぶったランドセルを背負った少年がやってきた。
バスはこの雨の中、時間通りにやってきた。
前金で210円払い、バスに乗り込むと、
私は後方の椅子に座った。
乗客は私を入れて4人。さきほどのバス停で乗った人だけだ。
私はホっとした。
これで雨に濡れずに行ける。
バスは少年が座ったのを確認すると、
ゆっくりと動きだした。
雨脚は強くなり、まわりの様子もよく見えない。
対向車も同じ方向へ行く車もなく、
エンジン音だけが響いていた。
静かだ、と思って違和感を感じた。
次の停留所の案内のアナウンスがない。
バスに乗ると、次の停留所の案内のアナウンスと広告が流れるのが普通じゃないだろうか。
あわてて、前方の掲示板を見たが、何も表示されていない。
それなのに、まわりの乗客はあわてていない。
運転手に聞きに行こう、と思ったとき
ゆっくりとバスが止まり、サラリーマンが立ち上がった。
サラリーマンは一言、運転手に何かを言うと、
バスを降りていった。
いったいここはどこなんだろう。
バスは再び動き出した。
私は立ち上がって、運転手のもとへ行こうとした。
「あぶないよ。バスが動いているときは立っちゃいけないって教わらなかった?」
二つ前の席に座っていた少年が私を見た。
少年は笑っている。
「ああ。そうだね」
私はそう答えて座りなおした。
少年は私を見ている。
「ねえ、このバスはいったいどこへ向かっているんだい?」
私は少年に聞いた。
「どこって、それはどこでもさ」
「どこでも?」
「そう。どこでも」
少年は笑う。
私は首をかしげた。
バスは再びスピードを落とし止まった。
買い物袋を持った女性が立ち上がった。
やはり運転手に何かを伝えている。
私は運転手のところへ行こうと立ち上がる。
「ねえ、あなたはどこへ行くの?」
通路を歩く私を少年が呼び止めた。
「どこって、帰るんだよ」
私は少年に振り返る。
「どこに帰るの?」
「どこってそれは…」
女性がバスを降り、扉が閉まる。
「どこか近くの駅だよ。それから帰るんだ。それよりこのバスはどこに行くのか聞かないと」
前にあわてて乗ったバスが正反対の方向へ行き、
あわや終電を乗り過ごしそうになった話を聞いたことがある。
自分も同じ目に合うのは御免だ。
私はあわてて前に進もうとした。
バスが急に動き出し、私はバランスを崩しつり革につかまった。
「危険ですので、お座りください」
単調な女性の声が流れる。
運転手が流したようだ。
私は仕方なく、少年の二つ前の席に座った。
ため息をつく。
「バスの行き先なんて小さなことだよ」
少年は私を見ていた。
少年の笑顔に少しイラついてきた。
きっと大人をからかっているのだろう。
「小さなこと?」
「そう。小さなこと。大切なのはあなたがどこへ行きたいかってことさ」
「じゃあ、君はどこへ行くんだい?」
「ぼく?」
バスはゆっくりスピードを落とした。
そういえばエンジン音も聞こえてこなくなった。
まわりは相変わらずの雨と暗闇だ。
少年は立ち上がって、私のところへやってきた。
「ぼくは小学校の入学式に戻るんだ」
「入学式?」
「そう。お母さんが亡くなる日の朝さ」
少年は笑って、運転手の方へ進んでいった。
「待って」
私はあわてて少年を追った。
少年も運転手の隣で止まった。
「ねえ、これって新しい演出?」
少年は笑って運転手に聞いた。
運転手は何も答えない。
「まあ、こういうの嫌いじゃないよ」
少年は私に振り返った。
「行き先を見つけることが行き先だなんて、よほど何かあったんだろうね。かわいそうだとは思わないよ。それもそれで選択肢のひとつさ」
少年は私にそう言うと、ステップを降りていった。
「行き先を見つけることが行き先?」
私はわけがわからなかった。
少年が手を振っていた。
「いったい、このバスは…」
私は運転手の方へ振り返って、言葉を失った。
運転手は私と同じ顔をしていた。
扉が閉まり、ゆっくりバスが動き出す。
少年の姿が後ろへ消えていく。
そして、私は消えた。