皆様、いかがお過ごしでしょうか?
お久しぶりでございます。わたくしめはどうにか元気でやっております。
hicksianとは現在も度々連絡を交わしているのですが、先ほども「面白い記事がありますよ」ということで以下のブログ記事の存在を教えてもらいました。マリオ・リッツォ君が1930年代におけるケインズとハイエクの論争を回顧した記事をブログにアップしているとのこと。早速拝見してみましたが、非常によくまとまっております。リッツォ君が語っているように、最近の若い方々におきましてはハイエクの学者生活が貨幣論・景気循環論の研究からスタートしたということをご存じでないという方が多いのではないでしょうか? このリッツォ君の記事は「ハイエクの経済学」やまた「オーストリア学派のマクロ経済学」を学ぶ上でよき入門になるのではないかと思いましたので、一念発起して邦訳を試みてみました。所々言葉を補ったり、また大胆に意訳した箇所もございます。誤訳等のご指摘がございましたらありがたく頂戴させていただきます。この邦訳が何らかの参考になりますならば幸甚でございます。
●Mario Rizzo, “Keynes versus Hayek: A rerun of the 1930s”(ThinkMarkets, June 17, 2009)
「ケインズvsハイエク;1930年代の論争再び」
by マリオ・リッツォ
先日フィナンシャル・タイムズに掲載された論説においてR.スキデルスキーは現下の経済危機を巡って経済学者間で交わされている論争は1930年代初期におけるケインズとイギリス財務省との間での論争の再現であると主張した。この主張はある程度は正しい。しかし1930年代にたたかわされた論争から教訓を得るに当たってはもう一つの別の論争に着目したほうがヨリ多くのことを学ぶことができるかもしれない。1930年代にたたかわされたもう一つの論争とはケインズvsハイエク論争のことである。
今日ハイエクは『隷従への道』に代表されるような政治経済学分野の本の著者として知られている。75年前のイギリスのアカデミック界において盛んに論じられた話題は「ケインズとハイエク、どちらが正しいのか」という問いを巡ってのものであったということが現在でも時折語られることがあるが、ケインズvsハイエク論争の詳細を知らない現在の大半の人々―経済学者も含めて―は、この問いは経済における政府の役割一般を巡ってのものであったのだろうと予測することであろう。しかしながら、ハイエクは1930年代時点ではまだ政治を主題としてものを書いたことはなかったのである。
ケインズvsハイエク論争は今日我々が「マクロ経済学」と呼ぶところものを巡っての論争であった。「マクロ経済学」という言葉が生まれる以前の時代である当時においては、貨幣理論あるいは景気循環理論を巡っての論争であったと受け止められていたであろう。ハイエクは雇用や利子率、景気循環といった問題を集計的に扱うケインズのアプローチに反対した。ハイエクは、ケインズのようにマクロ経済現象を集計的に扱ってしまうとその現象の背後において生じている根本的な変化を見過ごしてしまうことになる、と考えたのである。R.ギャリソンが指摘しているように、ハイエクにとってはマクロ経済現象はミクロ経済的に説明されるべきものであったのである。
ケインズによるマクロ経済現象の説明は、労働市場と総需要の不足、完全雇用以下の所得水準といった概念に焦点を合わせて進められる。基本的にケインズは一国の総生産物(aggregate output)をあたかも単一の物体(商品)から構成されているかのように取扱い、また実物投資(investment)をこの単一の商品の生産に貢献する支出(単一の消費財を生産する資本財(設備や機械等)への支出)―大きく変動する支出―であると見做した。
一方、ハイエクは資本の構造(structure of capital)に着目した。資本の構造ということでハイエクは最終消費財からそれぞれ異なる距離に置かれた補完的な(あるいは代替的な)資本財の配置の状態(あるいは資本の投下から最終消費財が生産されるまでの時間的距離に違いがある諸々の生産活動の集まり)を意味していた。資本財はケインズが「総生産物」(aggregate output)と呼ぶところのものを生産するために労働やその他の生産要素と協働することになる。ハイエクにとっては、実物投資(investment)とは同質的な集計量によって捉えられるものではなく、相互に(補完的なかたちであるいは代替的なかたちで)関連し合う資本財の構造に生じるある特定の変化を意味していた。中央銀行が利子率を(意図された貯蓄と意図された投資とを均等化させる以下の水準にまで)過度に引き下げるならば、生産構造は歪められることになるであろう。中央銀行による過度の利子率の引き下げによって、総生産物(output)はその量が増加するだけでなく、総生産物を構成する商品の中身(あるいは割合)もまた変化することになるであろう。
過度な利子率の引き下げはいくつかの維持不可能な変化を生み出すことになるであろう。低利子率は貯蓄のインセンティブを弱めると同時にある特定の種類の実物投資を促進するインセンティブとなる。低利子率の結果として住宅分野をはじめとした生産期間の長い分野の生産規模が拡大する(あるいは労働等の生産要素が資本財生産分野にヨリ多くひきつけられる)ことになるであろう。しかし同時に低利子率の結果として消費者はヨリ多くを消費することになるであろう。ケインジアンはこの点を取り上げて、「見てみろ。総消費と総投資とは代替的じゃない。総消費も総投資も同時に増加することは可能だ。実際のところは総消費が総投資を刺激することになるんだ」と主張するであろうが、それはミスリードである。
実際にこのブームの過程で起こっていることは、過剰な消費と最終消費財の完成までにヨリ長い時間がかかる部門への過剰な投資、つまりは過剰消費と誤投資(malinvestment)である。このこと―過剰消費と誤投資―は我々が現在経験していることでもあるのではないだろうか?
ハイエクが批判されるとすれば、それは1936年以降にケインズに対して真剣な批判を加えなかったという点であろう。ハイエクは次第にその影響力を増しつつあったケインズ革命の重要性を過小評価していた。ハイエクがケインズをそれほど厳しく批判しなかったのは、ケインズが『貨幣論』出版後と同じようにすぐに心変わりするであろうと考えたからであった。また、さらにハイエクが批判されるべき点を指摘するとすれば、ハイエクは自らの理論から導き出される含意にしたがって、ブーム終了後における「2次的なデフレーション」(secondary deflation)を避ける必要性をもっと強調すべきであったという点であろう。ハイエクは銀行システムを通じて貨幣退蔵の問題を緩和する必要性をもっと強調すべきであった。我々は1930年代におけるこのもう一つの論争―ケインズvsハイエク論争―を無視すべきではない。イギリス財務省の人々はケインズの見解に対して重要な批判を提示したけれども、ハイエクがなしたように根本的なかたちでケインズに挑戦したわけではなかった。
現在の経済危機を巡る論争はケインズvsハイエク論争の再現なのである。
<追記>「ケインズとハイエク まさかのラップ対決」。ホットなバトル、ここに再現です。