韓リフの過疎日記

経済学者田中秀臣のサブカルチャー、備忘録のための日記。韓リフとは「韓流好きなリフレ派」の略称。

秋葉原事件に関する論説メモ

2008-08-28 15:10:12 | Weblog
 ある月刊誌に書くための原稿の基礎資料として、主に月刊誌や書籍でみかけたものをまとめてみました。

 書籍ベースでは、『アキバ通り魔事件をどう読むのか?』(洋泉社ムック編集部編)がいまのところまとまったものとしてはただひとつでしょう。いくつかの注目すべき論説もでてきてますが、それは以下で言及していきます。

 この書籍の中で特に参照になるのが、冒頭の資料1「加藤智大25年の半生」という小林拓矢氏の書いたものです。これは『週刊現代』の6月28日、7月12日に出た加藤容疑者の弟さんからの聞き取りをもとにした記事などをベースに、加藤容疑者の出生、その育った家庭などを含む環境条件、教育、仕事などを、客観的なスタイルで書いたもので、これからの基礎資料のひとつとして使えるものです(もちろんできるだけこの論説のソースとなったものにアクセスするのがいいとは思いますが)。

 月刊誌ベースの論説や座談会もここ1,2ヶ月の間、無数に出ました。以下ではかなりまとまった形のものをとりあげて内容をみていきます。

 特に今月出た『論座』の9月号における「中吊り倶楽部」での宮崎哲弥氏の放言はそれ以前までの各種論説のかちっとした展望であると思います。

 「宮崎:あの事件って、本当に「格差」が直接の原因となった犯罪なのかなあ。どうも右はネットやケータイ、ゲームのせいにして、左は格差社会のせいにするという、凶悪犯罪をネタにした言説ゲームが巻き起こっているような気がするんですよね。結局、どちらも自分たちの主張を強く押し出すために事件を利用しているだけじゃないの?」

 この「左=格差、右=ネット」という論陣と、今回の事件を自らの主張宣伝に使うという「言説ゲーム」性は、宮崎氏らしい適切なまとめである。実際に右か左かの峻別は別にして、以下に整理するように、1,2の例外を除いて、ほぼ宮崎氏のこの見取り図(格差かネットか)のように現状の論者たちの力点を整理することができてしまう。

 そして言説ゲーム性については、同じ『論座』9月号に掲載された鈴木謙介氏の「見る者と見られる者ー秋葉原事件と“モテ”る議論」でも、「語りへの欲望」「もの語る人びと」という観点から、さらに一歩はいることで、われわれの“モテ方”(モテる議論は偉い、モテない議論は偉くない)という虚構のコミュニケーション(=言説ゲームの虚構性とでもいえようか)のあり方が議論されている。

  宮崎氏の展望的な放言を主軸にすえたとき、この鈴木論説は、彼の『創』(9、10月号)での論説「秋葉原事件と「Life」」とともに、他の論者には見られない独特の観点を提起している。

 鈴木氏の虚構のコミュニケーションに注目する議論は、秋葉原事件の展望をする上でも重要である。なぜなら多くの論者(ネットでの書き込みも含む、というかネットの方が量的には遥かに多いのだが)は、加藤容疑者の“非モテ”の側面に注目しているからだ。鈴木氏によれば、ここでいう「モテる」というのは1)他人とのコミュニケーションに大きな齟齬をきたさず、適切な反応を得られること、2)不特定多数ではなくたった一人の運命の恋人にめぐり合えること である。加藤にはこの二つの意味で「モテてない」、ということが論壇の多くの論者が指摘したことである、他方でネットでは指摘に加えてそれに「共感」をもつものが多数いた(反感をもつものもまた多数いた)。

 鈴木氏の主張は、この「モテる」という「理想」についての価値観をベースにしたネット上でのコミュニケーションのあり方を次のように書いている。

 「理想が虚構化され、虚構がコミュニケーションの連鎖の中で、個人を支える需要な足場になる。そのとき現実の人間関係は、理想/虚構化された人間関係の「まがいもの」として、私たちの生を疎外するものとして映じるのである」

 そのため(モテ/非モテの虚構が虚構ならぬ本物としてみえるので)、加藤容疑者の「非モテ」は、すべて「うまくいかないのは全部俺のせい」という自己責任化で正当化される。

 鈴木の議論を加藤容疑者の動機ベースでみれば、彼は加藤の動機の中に一種の自己欺瞞をみている気もする(本物の愛を求め執拗に相手に確認を繰り返し、その愛の贋物性をバクロして相手を罵倒することを繰返す人の孤独と哀しみの指摘、54頁)が、この論点も別に再検討しよう。

 この鈴木氏の「虚構のコミュニケーションにおける非モテ」への注目は、先の洋泉社ムックに掲載された斉藤環論説「“思い込み”にさいなまされた若者の悲痛な叫び」における、コミュニケーション弱者という思い込みがもたらす加害者意識と罪悪感の問題に引き取られるものだろう。

 また鈴木の観点は、いま引用した箇所かもらもわかるように、疎外論とも絡んでいるので、最近、『週刊東洋経済』に書かれた「二つの疎外」論(大澤真幸)や、松尾匡氏の『「はだかの王様」の経済学』、山形浩生氏のそれへの批判などと絡めて最後に論じる。

 さて鈴木・斉藤論説は非常に難しい。ここで疎外論的言説のいかがわしさを明らかにしたいところだが、それはまた後回しにして、再び議論をすっきりさせるために宮崎御大の発言を再度引いておこう。

 「宮崎:あの事件って、本当に「格差」が直接の原因となった犯罪なのかなあ。どうも右はネットやケータイ、ゲームのせいにして、左は格差社会のせいにするという、凶悪犯罪をネタにした言説ゲームが巻き起こっているような気がするんですよね。結局、どちらも自分たちの主張を強く押し出すために事件を利用しているだけじゃないの?」

 実際に各月刊誌ベースでの秋葉原事件に関する論説はこの見取り図にすっきり収まってしまう。この図式=「格差とネット」を多少拡張して、「社会と個人」としておこう。加藤容疑者の犯罪が「社会」に原因があるか、「個人」に原因があるか、このいずれかに今回の事件の論点をおくものがほぼすべてである。もちろんどの論者も慎重な発言をしている(例外は『世界』の座談会)のでこの図式化はあくまで作業仮説としておく。

 僕が読んだ論説は以下である(『創』8月号に香山リカ氏の論説があったが紹介するまでもない内容と思い購入しなかっちゃが、いま思えば展望のためには購入すべきだった)。

一)「若者の働くことと生きることをめぐって」(鎌田慧、池田一慶、本田由紀、小林美希の座談会)『世界』8月号
二)「「秋葉原殺人犯」の痛んだ脳」(岡田尊司)『Voice』8月号
三)「秋葉原事件を生んだ時代」(佐藤優・雨宮処凛対談)『中央公論』8月号
四)「「コピー&ペースト」型大量殺戮の恐怖」(片田珠美)『諸君!』8月号
五)「加藤智大と酒鬼薔薇聖斗」(高山文彦)『月刊現代』8月号

 以下、内容を簡単に見て行こう。

残りあとで書く

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