ご納得頂けたところで口宮さんは身体の泡をシャワーで洗い落とし始め、次に顔を洗い始めました。
「話は変わるけど」
洗い終わってからでいいと思わないでもないのですが、顔が泡まみれになりつつある状態でなおも話を止めようとしない口宮さん。それでもやはり喋り難いということはあるのでしょうか、口の動きは小さく、そして声もそれまでよりやや小さいのでした。
「はい?」
「哲郎と音無、どう思う?」
「どうって?」
「もうやったんだろうかなって話」
「ぶほっ!」
口に何も含んでいないのに吹いてしまいました。無論それは、笑ったというわけではなく。
「いやいや兄ちゃん、そこまでのことじゃねえだろさすがに。ここまでの話とまるで無関係ってわけでもねえんだし」
それはまあそうなのですが、その「ここまでの話」というのがご自分とご自分の彼女についてのものだったというのに、よくもまあそんな平然と。
というのもあるにはあるのですが、しかしまあメインはそこではありませんでした。そりゃそうでしょう、なんてそれがさも当然であるかのように言ってみたところで、もちろん口宮さんにそんなことが分かるわけもないのですが。
音無さん。
どうなんでしょうね。
というわけで、声を落とした理由は顔が泡だらけで喋り難い、なんて理由ではないようなのでした。少し離れたところに当の同森さんがいるわけですし、音無さんだって壁一枚隔てた向こう側にいるわけですしね。
「兄ちゃんと大吾はまあ、訊くまでもねえだろうしな。結婚までしててまだってこたねえだろうし」
「……ま、まあ」
大吾のこと下の名前で呼ぶことにしたんですね、なんてのは特に意識するほどのことでもないのでしょう。同森さんにだってそうしてるわけですし、そもそも成美さんはともかくとしても、僕だってそうしているわけですしね。
結婚までしてて。確かにその通りではあるのでしょう、ということで、ここで変に誤魔化したりはしないでおきました。そろそろそれくらいは、という話でもありますしね。
「ぶっちゃけ、俺はもうやったんだろうなーと」
「それは……えー、なんででしょうか?」
「混浴行くの普通に賛成してただろ? 哲郎はまあ別にどうでもいいとして、音無まで」
「はあ」
「彼氏にもまだ裸見せてないとしたら、んなこと平然とはできねえんじゃねえかなって」
「……あー」
もちろん僕も口宮さんも男なわけで、女の人がどんなふうに考えるのか正確にトレースできるわけではありません。それにそもそも、性別によるような話なのかということでもありますしね。当然個人によっても違ってくるんでしょうし。
という前置きを挟みつつ、でもまあ確かにそうなのかもな、と。
「普通に羨ましいんだよな、そういうの。エロ的な意味じゃなくて」
といったところで、顔を流し始める口宮さん。さすがにそこぐらいは口を閉じていらっしゃったので、ほんの短い時間ながら会話のない時間が生じました。
…………。
そういうことを羨ましいと思える人なんだな、口宮さんって。
口宮さんとは違って身体の泡を流さないまま、僕も顔を洗い始めます。となれば目を瞑ることになるわけですが、すると泡を洗い流し終えたらしい口宮さんが、横からこんな一言を。
「俺が勝手にそう言ってるだけだからな、くれぐれも。哲郎と音無がどうのってのは」
「…………」
顔を洗っている最中だから、というのもありはしたのですが、しかしそれだけでなく、羞恥心から何も言えなくなってしまう僕なのでした。
ええ、確定だと思い込んじゃってましたとも。音無さんについて思うところがあるからこそ、ということなのかもしれませんけど。
「んじゃ俺あっち行くわ。ありがとな、こんなアホな話に付き合ってくれて」
いえいえ。
「やってみる? 義春くん」
「はい!」
一通り身体を洗い終え、口宮さんから少々遅れる形で大吾達に合流してみたところ――その頃には僕も腰にタオルを巻かなくなったりしていたのですが、それは別にどうでもいいとして――湯を張った桶にその身を沈み込ませているジョンの前で、何やら義春くんが大吾の誘いを受けていました。
その誘いの内容を物語っているのは、大吾の手にある犬用のシャンプー。なんと準備のいい、というかそれを持ってきたってことはジョンを風呂に入れることは初めからある程度想定していたということになるわけですが、まあしかし大吾なら別に不思議がるようなことでもないでしょう。さすがだぜ大吾。
「よーし、じゃあドライヤーで乾かした後一番のふわふわ感は義春くんに譲ろう」
「わあ!」
ああ、さっきまであんな話をしていた後ろではこんな和やかな空間が広がっていたなんて。
薄い背徳感のようなものに他へ目を逸らしてみたところ、傍に立っていた口宮さんと目が合いました。となったらお互い、口の端に微妙な笑みを浮かべてみたり。
「なんじゃ二人して気色悪い」
ええ、ごめんなさい同森さん。いろんな意味で。
「ふん。……まあ、なんか知らんがワシも体洗ってくるかの」
ほんの一、二秒ほど僕と口宮さんへ訝しげな視線を投げ掛けてから、同森さんはそういって先程まで僕達がいた洗い場へと向かっていきました。義春くんの方も暫くはジョンに掛かりっきりだろうし、ということなのでしょう、恐らくは。
しかしその同森さんの背中へ、まさにその義春くんから声が掛けられます。
「あ、同森さん、あの」
「ん?」
「えーと、変なお願いなんですけど……も、もうちょっと待って貰っていいですか? 身体を洗うのは」
「そりゃ構わんが、なんじゃ? なんかまずかったかの?」
言って、きょろきょろと辺りを見回す同森さん。しかし当然その見回した周囲に何かがあるようなことはなく――というか、そもそもここがいくら特殊な旅館とはいえ、身体を洗うタイミングを指定されるようなヘンテコな制限なんてもちろんありはしません。
「ああ、ごめんなさい、そういうことじゃないんですけど」
というわけで義春くんもそんなふうに返すことになるわけですが、ではどういう?
同森さんのみならず周囲の全員が困惑する様子を受けてということなのでしょう、義春くんは追い詰められたような困り顔になってしまいます。
「お背中をお流ししてみたい、と、いうか」
『ああ』
「な、なんじゃ全員揃って」
僕、大吾、口宮さん、それにウェンズデーまでもが、口を揃えて納得するのでした。
お背中をお流ししたい、ではなく、お背中をお流ししてみたい。その言い方からしてそうなのですが、義春くんがしたいことは、まず間違いなく背中を流すことそれ自体ではありません。
同森さんの体に触ってみたい。
なんせそのガチガチっぷりを欠片ほどの惜しみもなく披露してらっしゃるこの状況です。気持ちは分かる、どころかいっそ僕もそれに便乗したいくらいですとも。だってもう、本当にあれは自分と同じタンパク質で構成されているものなんだろうか、なんて思ってしまうくらいですしね。
……壁の向こう側から押し殺したような笑い声が聞こえてくるのは、しかし聞こえなかったことにしておきましょう。それを指摘したらさすがに同森さんが可哀想な気がしますし。
といってももちろん、僕に聞こえたんだったら同森さんの耳にも届いてるんでしょうけどね。
「よかったな、モテモテじゃねえか哲郎」
「やかましいわ。というかモテモテって、一人を相手に使う言葉じゃないじゃろうが」
ああ多分音無さんのことを言ってるんだろうなあ、と思いはしたものの、それについてもやっぱり口をつぐんでおく僕なのでした。名前まで出しちゃうのはさすがに冗談が過ぎるよなあ、とそう思ったのです。同森さんに対しても、もしかしたら聞こえるかもしれない壁の向こうの音無さんに対しても、あと自分自身に対しても。
「よくちっこい犬とかが水に濡れてガリガリになってるのとか見たりするけど、ジョンはそんなでもねえんだな」
「元々からしてデカいですからねえ」
「おかげで自分達やナタリー殿を乗せても平気でありますしね。それなのに毛の方もちゃんとふかふかしていて乗り心地もよくて、ジョン殿は立派であります」
そこは立派と評するようなところなのかなあ。ジョン個人というよりは種としてのどうのこうのというか。
なんてことを語らっている僕達は今、身体も洗い終えたということで湯船に浸かっています。もちろん、ジョンとウェンズデーについては湯船と言っても桶に湯を張ったものですけどね。各自の体格に合わせた大きさのものを一つずつ。
一方残りの三人、つまり大吾と同森さんと義春くんは――ということでそちらを向いてみたところ、さっき言っていた通り義春くんが同森さんの背中を流しているところなのでした。
「あんな遠慮しなくても、なんもなしにベタベタ触っても文句出ねえだろうにな」
僕の視線を追ったということなのでしょう、口宮さんも洗い場の三人を眺めながらそんなふうに。湯加減に当てられて声が若干間延びしていましたが、というのはもしかしたら僕にも同じことが言えるのかもしれませんけどね。よく分かりませんけど。
「義春殿も立派でありますから」
「まーそういうことなんだろうなあ。客ってことになるんだろうし、俺ら」
これについては正に言葉そのまま、立派ということで問題ないでしょう。
ただ、そのウェンズデーの言葉に同意した筈の口宮さんはしかし、どちらかというと後ろ向きな気分が現れたような表情をしていたのでした。無論、その中身まで察せられるわけではありませんでしたが。
「どうかしたでありますか?」
横から見ていた僕ですら、ということで、会話相手のそんな表情を見逃すウェンズデーではありませんでした。とはいえそこには「相手と自分が別種の動物である」というかなり大きな壁があったりするのですが――と、まあしかし、それについては今更ということで。
「んー、いや、俺はどうなんだろうかなっていう。つってもまあ、その立派ってのが何についての話かっつうのは、義春くんのとは全然違ってくんだけど」
「というと、何についての話なんでありましょうか?」
身体を洗っていた時の話もあって僕はその時点で大体察しが付いていたのですが、ならばその話を聞いていなかったウェンズデーに察しが付くわけもなく、重ねてならば、そう尋ねることに遠慮も特にないわけです。
もちろんそれは目くじらを立てるようなことではない、というかむしろ歓迎すべきことなんですけどね。ウェンズデー、人見知りするほうですし。
「日向の兄ちゃんの前で二回も同じ話すんのはなんか照れ臭いけど、まああれだ。好きな女の話」
「となるともちろんそれは、由依殿でありますね?」
「もちろんそうなるな」
初めて話すより、二度同じ話をするほうが照れ臭い。ううむ、分かるような分からないような。
とは思ったのですがしかし、そういえば口宮さんはこういう話をすることにまるで抵抗がないとのことだったので、それを踏まえればまあそういうことにもなるのかなと。
「良くしてやれてんのかなっていう――まあ、要するに俺は彼氏として立派なのかどうかっていう話。立派ではねえなって思ってるからこんな話してるんだろうけどな、もちろん」
「ふむう」
ウェンズデーは考え込みました。人間がそうするように腕を組むわけでもなく、じっとして身動き一つしなくなってしまいましたが、しかし不思議と、めいっぱいに何かを考え込んでいることは見ているだけで分かってしまうものなのでした。さっきウェンズデーが口宮さんの表情を気にしたことといい、そういうものなのかもしれません。
「正直なところ、自分は人間の恋愛というものにあまり詳しくはないでありますが」
「まあそうだよな、やっぱ」
「でも」
口宮さんが浮かべた笑みを遮るように、ウェンズデーは鋭く言葉を差し挟むのでした。そして口宮さんの笑みが引っ込んだのを確認するかのような短い間を取ってから、次の言葉を繋ぎ始めます。
「そうやって考えること自体が立派なことだということぐらいは分かるであります。それは別に人間がどうとか恋愛がどうとか、そういうものに限った話ではないでありますので」
「考えるだけで立派? なのか?」
「考えなければ何も始められないでありますよ?」
口宮さんは言葉に詰まってしまったようでした。が、だからといって納得がいったふうな顔をしているわけでもなく、ならばその内情は「そりゃそうだけど」といったところなのでしょう。それに続く言葉が出てこないだけで。
「もちろん自分もそうでありますが、自分の中のサーズデイ達はいつも何かを考えているであります。なんせ考えていることが全部繋がっているでありますので、何をするにも考えが先にあるということが否応なく分かってしまうのであります。そしてそれは逆に言って、考えていないことはやりようがないということでもあるであります」
考えていないことはやりようがない。
言われてみれば実に当たり前な話なのですが、しかしそれにウェンズデー達の話を重ねられてしまうと、考え込ませられてしまうのでした。
どんな感じなんでしょうね。他人――しかも一人や二人ではなく――と、精神が繋がっているというのは。
「考えるだけで何も行動を起こさないというのであれば話は別でありますが、優治殿はそうではないでありましょう? 由依殿のためにあまくに荘に来たりまでしたでありますし。そしてそういう行動を立派だとするのであるなら、その大元になった『考え』そのものだって、やっぱり立派なものだと思うであります」
行動が伴うのであれば。更に言うなら、結果が伴うのであればという話。ならばそれは通常、結果が出るまで評価は保留ということになりそうな話ではあるのですが、しかしウェンズデーにとってはそういう話ではないようでした。
口宮さんは絶対に行動し、ならば絶対に結果を出す。
だからそれに至る考えも、結果を出す前から立派だと言い切れる。
うーむ、見た目に似合わず豪快な理屈です。
「行動を起こしても上手くいかないことだってあるかもしれねえし」
恐らくは僕と同じようなことを考えたのでしょう、口宮さんからはそんな反論が。
けれどウェンズデーは即座にこう答えます。
「上手くいくまで行動し続けるでありましょう?」
「……そりゃあ、まあ」
上手くいかなかったらそこで諦めるのかと言われたら、もちろんそんなことはないわけです。なんたって、
「惚れるってそういうことなんだろうし」
ですよね。
「そう考えるとあれだな、結婚なんかもう『一生掛けて行動し続けます』宣言ってことだよな」
続けてそう仰った際の口宮さんがウェンズデーのほうを向いていなかったのは、言うまでもないでしょう。ええ、僕のほうを向いてらっしゃいましたとも。しかも冗談というわけでもないらしく、ここまでと全く同じ真顔のままで。
「理想としては、って話ではあるんでしょうけどね」
どんな形で訊かれていてもそう答えてはいたのでしょうが、けれど今回だけ見れば間違いなく気圧されてということになるのでしょう、僕はそんな消極的な返事をするのでした。
口宮さんだって自覚していないわけはないのです。このまま異原さんと付き合い続けていればいずれ、避けようがなく、自分もそれに直面する時が来るということは。
「ウェンズデーがさっき言ったことに乗っかるなら、それを理想にできるだけでも立派ってことなんだろうけどな」
「でありますね」
自分の話なのであまり持ち上げ難かったりはするのですが、しかしまあ確かにその通りではあるのでしょう。言葉にしてしまうとありきたりな台詞みたいな感じになっちゃいますけど、実際その通りにするとなると途方もないことなんですよね。残りの人生全部をその人と添い遂げる、というのは。
だって、八十まで生きるとして考えてみてもまだ人生全体の四分の一にすら到達してないんですよ? 僕の場合。だというのに「残りの人生全部」だなんて、栞に一体どれほどの価値を見出してるんだって話ですよもう。
残り四分の三以上の人生全部を計りに掛けてなお勝るほど。
どえらいことです、我ながら。
「せっかくこういう機会なんだし、ってのを抜きにしても、兄ちゃんとウェンズデーにこんな話しといて当の由依に何も言わねえってのはねえよな」
「そうかもしれませんね、言われてみれば」
言っちゃ悪いですがそうなると結構な間抜けっぷりです。というのは口宮さんだけに向けた話ではなく、その口宮さんからの相談に対して真面目な対応をした僕とウェンズデーについても。今の話は何だったんだってことになっちゃいますしね。
「んじゃあ風呂上がったらしてみるかな、今みたいな話」
「そ、それはちょっと思い切りが良過ぎませんか?」
間抜けではないにしても、それに近いのはどうやら口宮さんより僕のようでした。
だって、風呂上がったらって言ってもそんなのもうすぐですよ? 身体も洗い終えて湯船にもしっかり浸かっちゃって、しかもそのままこうして語らって、なわけですし。あんまり引き延ばすと今度はのぼせちゃったり――ってそれはまあ前回の僕の話なんですけど。
「問題ねえんじゃねえか? 由依からすりゃあいつ言われてもいきなりってことになるんだし、俺の方は別にそんなもんいつでもいいし」
「思い立ったが吉日でありますよ、孝一殿」
「吉日っていうか吉瞬っていうか……いや、すいません、僕が浮足立ってどうすんだって話ですよね」
ないとは思いますが、それで口宮さんの気勢が削がれてしまうようなことがあったら大問題です。繰り返し、ないとは思いますが。
というわけなので、ここは引いておくことにしました。相談を受けようが何だろうがこれは口宮さんと異原さん二人だけの問題であって、なら僕は部外者でしかないんですもんね。
「そんくらい心配してくれてるってことなんだし、悪い気はしねえけどな」
「自分は全く心配していないでありますが……」
「はは、それはそれで」
軽く笑いながら口宮さんはウェンズデーの頭を撫で、ならばウェンズデーは嬉しそうに羽をぱたぱたさせるのでした。ついでに、それを見たジョンも尻尾をそれと同じように。濡れているせいか見た感じちょっと重そうではありましたけどね。
上手くいくまで行動し続ける。
ウェンズデーのその考え方で事態を推し量るならば、確かに心配なんてものはしようがないのでしょう。過程がどうあれ、良い結果が出る以外の結末は有り得ないんですしね。
「ありがとな」
「『どういたしまして』であります」
ちんまりしたウェンズデーはともかく、ただでさえでかいジョンのしかも全身をドライヤーだけで乾かす、という割と時間を取られる作業を眺めたりしていたので、脱衣所を出るまでにはそこそこ時間が掛かるのでした。おかげで義春くんはジョンにぎゅうぎゅうと抱き付いて大喜びでしたけどね。ああ僕もやりたい。
ともあれそうして男性陣では僕だけだった浴衣姿に全員が着替え、そうして脱衣所を出、男湯ののれんをくぐったところ。
「あっ」
ジョンを乾かしていた時間もあって、先に出ていた女性陣が待ってくれていました。
が、しかしどうも様子が変です。どう見てもそれぞれがただ適当な位置に立っていたというふうではなく、いま声を上げたその人、異原さん一人だけがこちら側に飛び出しているというか。
そしてその異原さんですが、その位置取りの割には僕達が出てきたことで慌て始めたような表情を浮かべ、その向こうでは栞と成美さん――持ってきた浴衣のサイズに合わせて、ということなのでしょう、また大人の身体に戻っていました――が、何やら申し訳なさそうな顔をしています。残りのお二人、音無さんと首に巻き付くようにしてその肩に乗っかっているナタリーさんについては、いつものように表情を窺い知ることはできませんでしたが。
「んな変な顔で出迎えられても」
とまでは言いませんし、そう言ったのはもちろん口宮さんなのですが、けれど何かあるのは間違いなさそうなこの状況。異原さんの顔がどうのという話でなく、僕達も困惑するほかないのでした。
「へ、変って、あんたねえ」
「何かあったんですか?」
変な顔、などと言われてしまった異原さんが、変かどうかはともかくその慌てたような表情に相応しい詰まり気味な言葉を発し始めたところ、困惑中の僕達の中でその最も単純かつ最も的確な質問を投げ掛けたのは、義春くんでした。
そりゃまあこの旅館の関係者ですから、女湯で何かあったというなら一大事、ということにはなるのでしょうが、でもそういた事情よりは子どもらしい良い意味での単純さがそうさせているんだろうなと、こんなところだけ冷静に分析してみる困惑中の僕なのでした。
「あ、いやいや、別に義春くんに心配されるようなことじゃないんだけどね全然ね?」
それに対して引き続き慌てた調子の異原さんでしたが、しかしどうやら義春くんに心配されたことが踏ん切りをつけることにも繋がったらしく、ここで大きめに一呼吸。
で、
「優治」
「おう?」
「話したいことがあるからへ、部屋に戻るわよ」
勢いを付けて話し始めたと思ったら途中で詰まりもしたのですがそれはともかく、そう言うと異原さんは口宮さんの返事を待つことなく、浴衣の袖を掴んで彼を連れて行こうとするのでした。
まあ返事を待つことなくとは言っても、抵抗する素振りもないまま足取りを同じくしたんですけどね、口宮さんも。
「はだけるはだける、変なとこ掴んだまま早歩きすんなって」
「ひゃあ! ごごごめん!」
どうやらそれほど同じくはしていなかったようですが、まあそうして廊下の奥へ消えていくお二人なのでした。
「ええと、何がどういう?」
最も何かありそうだった異原さんは去ってしまいましたが、しかし残った女性陣にもまだ何かしらありそうな雰囲気アリということで、その女性陣へ向けて今度は同森さんがそんな質問を。
「うむ、それがだな……」
答えたのは成美さんでした。が、すると何やら、その申し訳なさそうな眼差しは僕の方へ向けられたのでした。
「え? 僕ですか?」
「うむ」
な、何かしましたっけ僕? 悪いことは何も――風呂場で悪いことというと、例えば――ああいやいや、墓穴を掘るような変な想像は働かせなくていいから。
ええ、何もしていない筈です。悪いこともそうですが、それを抜きにしてもこうして妙な空気を作り上げるようなことですら。だって身体を洗うなり湯船に浸かるなりの風呂場で当然やることを除けばもう、口宮さんと喋っていたことぐらいしか残らないわけで……。
ん?
口宮さんと喋っていたことしか残らなくて、異原さんの様子がおかしくて?
しかもいま返事をしたのが成美さん?
ということは?
「き、聞こえてましたか、もしかして」
「済まん。しかも見ての通り、異原にも喋ってしまった」
それに続いて栞から「ごめんね孝さん、成美ちゃんが凄く機嫌がよさそうだったから『向こうからまた何か聞こえるの?』って冗談で言ったらそれが当たっちゃってて、それでびっくりした成美ちゃんにいろいろ聞いてたら話してるのが孝さんと口宮さんだってばれちゃって、そうしたら異原さんが聞かせて欲しいって、どうしてもって頼み込んじゃって、それで成美ちゃん、断り切れなくなっちゃって」という謝罪と説明があったのですがしかし僕はそれは割とどうでもよかったというか成美さんが喋ったってことはそれくらいのことは当然あったんだろうなくらいにしか思えなくてだから要するにやっぱりそれはどうでもよかったということなのですがそれはともかくまた別に問題がというか大問題がありましてそのせいで僕はいま風呂からあがったばかりだというのに背中に嫌な汗を滲ませたりしていまして――。
僕と口宮さんの会話が聞こえていたということは。
『哲郎と音無、どう思う?』
『どうって?』
『もうやったんだろうかなって話』
うおおおおおーっ!
積極的な発言こそしなかったもののごめんなさい音無さんごめんなさいぃーっ!
「話は変わるけど」
洗い終わってからでいいと思わないでもないのですが、顔が泡まみれになりつつある状態でなおも話を止めようとしない口宮さん。それでもやはり喋り難いということはあるのでしょうか、口の動きは小さく、そして声もそれまでよりやや小さいのでした。
「はい?」
「哲郎と音無、どう思う?」
「どうって?」
「もうやったんだろうかなって話」
「ぶほっ!」
口に何も含んでいないのに吹いてしまいました。無論それは、笑ったというわけではなく。
「いやいや兄ちゃん、そこまでのことじゃねえだろさすがに。ここまでの話とまるで無関係ってわけでもねえんだし」
それはまあそうなのですが、その「ここまでの話」というのがご自分とご自分の彼女についてのものだったというのに、よくもまあそんな平然と。
というのもあるにはあるのですが、しかしまあメインはそこではありませんでした。そりゃそうでしょう、なんてそれがさも当然であるかのように言ってみたところで、もちろん口宮さんにそんなことが分かるわけもないのですが。
音無さん。
どうなんでしょうね。
というわけで、声を落とした理由は顔が泡だらけで喋り難い、なんて理由ではないようなのでした。少し離れたところに当の同森さんがいるわけですし、音無さんだって壁一枚隔てた向こう側にいるわけですしね。
「兄ちゃんと大吾はまあ、訊くまでもねえだろうしな。結婚までしててまだってこたねえだろうし」
「……ま、まあ」
大吾のこと下の名前で呼ぶことにしたんですね、なんてのは特に意識するほどのことでもないのでしょう。同森さんにだってそうしてるわけですし、そもそも成美さんはともかくとしても、僕だってそうしているわけですしね。
結婚までしてて。確かにその通りではあるのでしょう、ということで、ここで変に誤魔化したりはしないでおきました。そろそろそれくらいは、という話でもありますしね。
「ぶっちゃけ、俺はもうやったんだろうなーと」
「それは……えー、なんででしょうか?」
「混浴行くの普通に賛成してただろ? 哲郎はまあ別にどうでもいいとして、音無まで」
「はあ」
「彼氏にもまだ裸見せてないとしたら、んなこと平然とはできねえんじゃねえかなって」
「……あー」
もちろん僕も口宮さんも男なわけで、女の人がどんなふうに考えるのか正確にトレースできるわけではありません。それにそもそも、性別によるような話なのかということでもありますしね。当然個人によっても違ってくるんでしょうし。
という前置きを挟みつつ、でもまあ確かにそうなのかもな、と。
「普通に羨ましいんだよな、そういうの。エロ的な意味じゃなくて」
といったところで、顔を流し始める口宮さん。さすがにそこぐらいは口を閉じていらっしゃったので、ほんの短い時間ながら会話のない時間が生じました。
…………。
そういうことを羨ましいと思える人なんだな、口宮さんって。
口宮さんとは違って身体の泡を流さないまま、僕も顔を洗い始めます。となれば目を瞑ることになるわけですが、すると泡を洗い流し終えたらしい口宮さんが、横からこんな一言を。
「俺が勝手にそう言ってるだけだからな、くれぐれも。哲郎と音無がどうのってのは」
「…………」
顔を洗っている最中だから、というのもありはしたのですが、しかしそれだけでなく、羞恥心から何も言えなくなってしまう僕なのでした。
ええ、確定だと思い込んじゃってましたとも。音無さんについて思うところがあるからこそ、ということなのかもしれませんけど。
「んじゃ俺あっち行くわ。ありがとな、こんなアホな話に付き合ってくれて」
いえいえ。
「やってみる? 義春くん」
「はい!」
一通り身体を洗い終え、口宮さんから少々遅れる形で大吾達に合流してみたところ――その頃には僕も腰にタオルを巻かなくなったりしていたのですが、それは別にどうでもいいとして――湯を張った桶にその身を沈み込ませているジョンの前で、何やら義春くんが大吾の誘いを受けていました。
その誘いの内容を物語っているのは、大吾の手にある犬用のシャンプー。なんと準備のいい、というかそれを持ってきたってことはジョンを風呂に入れることは初めからある程度想定していたということになるわけですが、まあしかし大吾なら別に不思議がるようなことでもないでしょう。さすがだぜ大吾。
「よーし、じゃあドライヤーで乾かした後一番のふわふわ感は義春くんに譲ろう」
「わあ!」
ああ、さっきまであんな話をしていた後ろではこんな和やかな空間が広がっていたなんて。
薄い背徳感のようなものに他へ目を逸らしてみたところ、傍に立っていた口宮さんと目が合いました。となったらお互い、口の端に微妙な笑みを浮かべてみたり。
「なんじゃ二人して気色悪い」
ええ、ごめんなさい同森さん。いろんな意味で。
「ふん。……まあ、なんか知らんがワシも体洗ってくるかの」
ほんの一、二秒ほど僕と口宮さんへ訝しげな視線を投げ掛けてから、同森さんはそういって先程まで僕達がいた洗い場へと向かっていきました。義春くんの方も暫くはジョンに掛かりっきりだろうし、ということなのでしょう、恐らくは。
しかしその同森さんの背中へ、まさにその義春くんから声が掛けられます。
「あ、同森さん、あの」
「ん?」
「えーと、変なお願いなんですけど……も、もうちょっと待って貰っていいですか? 身体を洗うのは」
「そりゃ構わんが、なんじゃ? なんかまずかったかの?」
言って、きょろきょろと辺りを見回す同森さん。しかし当然その見回した周囲に何かがあるようなことはなく――というか、そもそもここがいくら特殊な旅館とはいえ、身体を洗うタイミングを指定されるようなヘンテコな制限なんてもちろんありはしません。
「ああ、ごめんなさい、そういうことじゃないんですけど」
というわけで義春くんもそんなふうに返すことになるわけですが、ではどういう?
同森さんのみならず周囲の全員が困惑する様子を受けてということなのでしょう、義春くんは追い詰められたような困り顔になってしまいます。
「お背中をお流ししてみたい、と、いうか」
『ああ』
「な、なんじゃ全員揃って」
僕、大吾、口宮さん、それにウェンズデーまでもが、口を揃えて納得するのでした。
お背中をお流ししたい、ではなく、お背中をお流ししてみたい。その言い方からしてそうなのですが、義春くんがしたいことは、まず間違いなく背中を流すことそれ自体ではありません。
同森さんの体に触ってみたい。
なんせそのガチガチっぷりを欠片ほどの惜しみもなく披露してらっしゃるこの状況です。気持ちは分かる、どころかいっそ僕もそれに便乗したいくらいですとも。だってもう、本当にあれは自分と同じタンパク質で構成されているものなんだろうか、なんて思ってしまうくらいですしね。
……壁の向こう側から押し殺したような笑い声が聞こえてくるのは、しかし聞こえなかったことにしておきましょう。それを指摘したらさすがに同森さんが可哀想な気がしますし。
といってももちろん、僕に聞こえたんだったら同森さんの耳にも届いてるんでしょうけどね。
「よかったな、モテモテじゃねえか哲郎」
「やかましいわ。というかモテモテって、一人を相手に使う言葉じゃないじゃろうが」
ああ多分音無さんのことを言ってるんだろうなあ、と思いはしたものの、それについてもやっぱり口をつぐんでおく僕なのでした。名前まで出しちゃうのはさすがに冗談が過ぎるよなあ、とそう思ったのです。同森さんに対しても、もしかしたら聞こえるかもしれない壁の向こうの音無さんに対しても、あと自分自身に対しても。
「よくちっこい犬とかが水に濡れてガリガリになってるのとか見たりするけど、ジョンはそんなでもねえんだな」
「元々からしてデカいですからねえ」
「おかげで自分達やナタリー殿を乗せても平気でありますしね。それなのに毛の方もちゃんとふかふかしていて乗り心地もよくて、ジョン殿は立派であります」
そこは立派と評するようなところなのかなあ。ジョン個人というよりは種としてのどうのこうのというか。
なんてことを語らっている僕達は今、身体も洗い終えたということで湯船に浸かっています。もちろん、ジョンとウェンズデーについては湯船と言っても桶に湯を張ったものですけどね。各自の体格に合わせた大きさのものを一つずつ。
一方残りの三人、つまり大吾と同森さんと義春くんは――ということでそちらを向いてみたところ、さっき言っていた通り義春くんが同森さんの背中を流しているところなのでした。
「あんな遠慮しなくても、なんもなしにベタベタ触っても文句出ねえだろうにな」
僕の視線を追ったということなのでしょう、口宮さんも洗い場の三人を眺めながらそんなふうに。湯加減に当てられて声が若干間延びしていましたが、というのはもしかしたら僕にも同じことが言えるのかもしれませんけどね。よく分かりませんけど。
「義春殿も立派でありますから」
「まーそういうことなんだろうなあ。客ってことになるんだろうし、俺ら」
これについては正に言葉そのまま、立派ということで問題ないでしょう。
ただ、そのウェンズデーの言葉に同意した筈の口宮さんはしかし、どちらかというと後ろ向きな気分が現れたような表情をしていたのでした。無論、その中身まで察せられるわけではありませんでしたが。
「どうかしたでありますか?」
横から見ていた僕ですら、ということで、会話相手のそんな表情を見逃すウェンズデーではありませんでした。とはいえそこには「相手と自分が別種の動物である」というかなり大きな壁があったりするのですが――と、まあしかし、それについては今更ということで。
「んー、いや、俺はどうなんだろうかなっていう。つってもまあ、その立派ってのが何についての話かっつうのは、義春くんのとは全然違ってくんだけど」
「というと、何についての話なんでありましょうか?」
身体を洗っていた時の話もあって僕はその時点で大体察しが付いていたのですが、ならばその話を聞いていなかったウェンズデーに察しが付くわけもなく、重ねてならば、そう尋ねることに遠慮も特にないわけです。
もちろんそれは目くじらを立てるようなことではない、というかむしろ歓迎すべきことなんですけどね。ウェンズデー、人見知りするほうですし。
「日向の兄ちゃんの前で二回も同じ話すんのはなんか照れ臭いけど、まああれだ。好きな女の話」
「となるともちろんそれは、由依殿でありますね?」
「もちろんそうなるな」
初めて話すより、二度同じ話をするほうが照れ臭い。ううむ、分かるような分からないような。
とは思ったのですがしかし、そういえば口宮さんはこういう話をすることにまるで抵抗がないとのことだったので、それを踏まえればまあそういうことにもなるのかなと。
「良くしてやれてんのかなっていう――まあ、要するに俺は彼氏として立派なのかどうかっていう話。立派ではねえなって思ってるからこんな話してるんだろうけどな、もちろん」
「ふむう」
ウェンズデーは考え込みました。人間がそうするように腕を組むわけでもなく、じっとして身動き一つしなくなってしまいましたが、しかし不思議と、めいっぱいに何かを考え込んでいることは見ているだけで分かってしまうものなのでした。さっきウェンズデーが口宮さんの表情を気にしたことといい、そういうものなのかもしれません。
「正直なところ、自分は人間の恋愛というものにあまり詳しくはないでありますが」
「まあそうだよな、やっぱ」
「でも」
口宮さんが浮かべた笑みを遮るように、ウェンズデーは鋭く言葉を差し挟むのでした。そして口宮さんの笑みが引っ込んだのを確認するかのような短い間を取ってから、次の言葉を繋ぎ始めます。
「そうやって考えること自体が立派なことだということぐらいは分かるであります。それは別に人間がどうとか恋愛がどうとか、そういうものに限った話ではないでありますので」
「考えるだけで立派? なのか?」
「考えなければ何も始められないでありますよ?」
口宮さんは言葉に詰まってしまったようでした。が、だからといって納得がいったふうな顔をしているわけでもなく、ならばその内情は「そりゃそうだけど」といったところなのでしょう。それに続く言葉が出てこないだけで。
「もちろん自分もそうでありますが、自分の中のサーズデイ達はいつも何かを考えているであります。なんせ考えていることが全部繋がっているでありますので、何をするにも考えが先にあるということが否応なく分かってしまうのであります。そしてそれは逆に言って、考えていないことはやりようがないということでもあるであります」
考えていないことはやりようがない。
言われてみれば実に当たり前な話なのですが、しかしそれにウェンズデー達の話を重ねられてしまうと、考え込ませられてしまうのでした。
どんな感じなんでしょうね。他人――しかも一人や二人ではなく――と、精神が繋がっているというのは。
「考えるだけで何も行動を起こさないというのであれば話は別でありますが、優治殿はそうではないでありましょう? 由依殿のためにあまくに荘に来たりまでしたでありますし。そしてそういう行動を立派だとするのであるなら、その大元になった『考え』そのものだって、やっぱり立派なものだと思うであります」
行動が伴うのであれば。更に言うなら、結果が伴うのであればという話。ならばそれは通常、結果が出るまで評価は保留ということになりそうな話ではあるのですが、しかしウェンズデーにとってはそういう話ではないようでした。
口宮さんは絶対に行動し、ならば絶対に結果を出す。
だからそれに至る考えも、結果を出す前から立派だと言い切れる。
うーむ、見た目に似合わず豪快な理屈です。
「行動を起こしても上手くいかないことだってあるかもしれねえし」
恐らくは僕と同じようなことを考えたのでしょう、口宮さんからはそんな反論が。
けれどウェンズデーは即座にこう答えます。
「上手くいくまで行動し続けるでありましょう?」
「……そりゃあ、まあ」
上手くいかなかったらそこで諦めるのかと言われたら、もちろんそんなことはないわけです。なんたって、
「惚れるってそういうことなんだろうし」
ですよね。
「そう考えるとあれだな、結婚なんかもう『一生掛けて行動し続けます』宣言ってことだよな」
続けてそう仰った際の口宮さんがウェンズデーのほうを向いていなかったのは、言うまでもないでしょう。ええ、僕のほうを向いてらっしゃいましたとも。しかも冗談というわけでもないらしく、ここまでと全く同じ真顔のままで。
「理想としては、って話ではあるんでしょうけどね」
どんな形で訊かれていてもそう答えてはいたのでしょうが、けれど今回だけ見れば間違いなく気圧されてということになるのでしょう、僕はそんな消極的な返事をするのでした。
口宮さんだって自覚していないわけはないのです。このまま異原さんと付き合い続けていればいずれ、避けようがなく、自分もそれに直面する時が来るということは。
「ウェンズデーがさっき言ったことに乗っかるなら、それを理想にできるだけでも立派ってことなんだろうけどな」
「でありますね」
自分の話なのであまり持ち上げ難かったりはするのですが、しかしまあ確かにその通りではあるのでしょう。言葉にしてしまうとありきたりな台詞みたいな感じになっちゃいますけど、実際その通りにするとなると途方もないことなんですよね。残りの人生全部をその人と添い遂げる、というのは。
だって、八十まで生きるとして考えてみてもまだ人生全体の四分の一にすら到達してないんですよ? 僕の場合。だというのに「残りの人生全部」だなんて、栞に一体どれほどの価値を見出してるんだって話ですよもう。
残り四分の三以上の人生全部を計りに掛けてなお勝るほど。
どえらいことです、我ながら。
「せっかくこういう機会なんだし、ってのを抜きにしても、兄ちゃんとウェンズデーにこんな話しといて当の由依に何も言わねえってのはねえよな」
「そうかもしれませんね、言われてみれば」
言っちゃ悪いですがそうなると結構な間抜けっぷりです。というのは口宮さんだけに向けた話ではなく、その口宮さんからの相談に対して真面目な対応をした僕とウェンズデーについても。今の話は何だったんだってことになっちゃいますしね。
「んじゃあ風呂上がったらしてみるかな、今みたいな話」
「そ、それはちょっと思い切りが良過ぎませんか?」
間抜けではないにしても、それに近いのはどうやら口宮さんより僕のようでした。
だって、風呂上がったらって言ってもそんなのもうすぐですよ? 身体も洗い終えて湯船にもしっかり浸かっちゃって、しかもそのままこうして語らって、なわけですし。あんまり引き延ばすと今度はのぼせちゃったり――ってそれはまあ前回の僕の話なんですけど。
「問題ねえんじゃねえか? 由依からすりゃあいつ言われてもいきなりってことになるんだし、俺の方は別にそんなもんいつでもいいし」
「思い立ったが吉日でありますよ、孝一殿」
「吉日っていうか吉瞬っていうか……いや、すいません、僕が浮足立ってどうすんだって話ですよね」
ないとは思いますが、それで口宮さんの気勢が削がれてしまうようなことがあったら大問題です。繰り返し、ないとは思いますが。
というわけなので、ここは引いておくことにしました。相談を受けようが何だろうがこれは口宮さんと異原さん二人だけの問題であって、なら僕は部外者でしかないんですもんね。
「そんくらい心配してくれてるってことなんだし、悪い気はしねえけどな」
「自分は全く心配していないでありますが……」
「はは、それはそれで」
軽く笑いながら口宮さんはウェンズデーの頭を撫で、ならばウェンズデーは嬉しそうに羽をぱたぱたさせるのでした。ついでに、それを見たジョンも尻尾をそれと同じように。濡れているせいか見た感じちょっと重そうではありましたけどね。
上手くいくまで行動し続ける。
ウェンズデーのその考え方で事態を推し量るならば、確かに心配なんてものはしようがないのでしょう。過程がどうあれ、良い結果が出る以外の結末は有り得ないんですしね。
「ありがとな」
「『どういたしまして』であります」
ちんまりしたウェンズデーはともかく、ただでさえでかいジョンのしかも全身をドライヤーだけで乾かす、という割と時間を取られる作業を眺めたりしていたので、脱衣所を出るまでにはそこそこ時間が掛かるのでした。おかげで義春くんはジョンにぎゅうぎゅうと抱き付いて大喜びでしたけどね。ああ僕もやりたい。
ともあれそうして男性陣では僕だけだった浴衣姿に全員が着替え、そうして脱衣所を出、男湯ののれんをくぐったところ。
「あっ」
ジョンを乾かしていた時間もあって、先に出ていた女性陣が待ってくれていました。
が、しかしどうも様子が変です。どう見てもそれぞれがただ適当な位置に立っていたというふうではなく、いま声を上げたその人、異原さん一人だけがこちら側に飛び出しているというか。
そしてその異原さんですが、その位置取りの割には僕達が出てきたことで慌て始めたような表情を浮かべ、その向こうでは栞と成美さん――持ってきた浴衣のサイズに合わせて、ということなのでしょう、また大人の身体に戻っていました――が、何やら申し訳なさそうな顔をしています。残りのお二人、音無さんと首に巻き付くようにしてその肩に乗っかっているナタリーさんについては、いつものように表情を窺い知ることはできませんでしたが。
「んな変な顔で出迎えられても」
とまでは言いませんし、そう言ったのはもちろん口宮さんなのですが、けれど何かあるのは間違いなさそうなこの状況。異原さんの顔がどうのという話でなく、僕達も困惑するほかないのでした。
「へ、変って、あんたねえ」
「何かあったんですか?」
変な顔、などと言われてしまった異原さんが、変かどうかはともかくその慌てたような表情に相応しい詰まり気味な言葉を発し始めたところ、困惑中の僕達の中でその最も単純かつ最も的確な質問を投げ掛けたのは、義春くんでした。
そりゃまあこの旅館の関係者ですから、女湯で何かあったというなら一大事、ということにはなるのでしょうが、でもそういた事情よりは子どもらしい良い意味での単純さがそうさせているんだろうなと、こんなところだけ冷静に分析してみる困惑中の僕なのでした。
「あ、いやいや、別に義春くんに心配されるようなことじゃないんだけどね全然ね?」
それに対して引き続き慌てた調子の異原さんでしたが、しかしどうやら義春くんに心配されたことが踏ん切りをつけることにも繋がったらしく、ここで大きめに一呼吸。
で、
「優治」
「おう?」
「話したいことがあるからへ、部屋に戻るわよ」
勢いを付けて話し始めたと思ったら途中で詰まりもしたのですがそれはともかく、そう言うと異原さんは口宮さんの返事を待つことなく、浴衣の袖を掴んで彼を連れて行こうとするのでした。
まあ返事を待つことなくとは言っても、抵抗する素振りもないまま足取りを同じくしたんですけどね、口宮さんも。
「はだけるはだける、変なとこ掴んだまま早歩きすんなって」
「ひゃあ! ごごごめん!」
どうやらそれほど同じくはしていなかったようですが、まあそうして廊下の奥へ消えていくお二人なのでした。
「ええと、何がどういう?」
最も何かありそうだった異原さんは去ってしまいましたが、しかし残った女性陣にもまだ何かしらありそうな雰囲気アリということで、その女性陣へ向けて今度は同森さんがそんな質問を。
「うむ、それがだな……」
答えたのは成美さんでした。が、すると何やら、その申し訳なさそうな眼差しは僕の方へ向けられたのでした。
「え? 僕ですか?」
「うむ」
な、何かしましたっけ僕? 悪いことは何も――風呂場で悪いことというと、例えば――ああいやいや、墓穴を掘るような変な想像は働かせなくていいから。
ええ、何もしていない筈です。悪いこともそうですが、それを抜きにしてもこうして妙な空気を作り上げるようなことですら。だって身体を洗うなり湯船に浸かるなりの風呂場で当然やることを除けばもう、口宮さんと喋っていたことぐらいしか残らないわけで……。
ん?
口宮さんと喋っていたことしか残らなくて、異原さんの様子がおかしくて?
しかもいま返事をしたのが成美さん?
ということは?
「き、聞こえてましたか、もしかして」
「済まん。しかも見ての通り、異原にも喋ってしまった」
それに続いて栞から「ごめんね孝さん、成美ちゃんが凄く機嫌がよさそうだったから『向こうからまた何か聞こえるの?』って冗談で言ったらそれが当たっちゃってて、それでびっくりした成美ちゃんにいろいろ聞いてたら話してるのが孝さんと口宮さんだってばれちゃって、そうしたら異原さんが聞かせて欲しいって、どうしてもって頼み込んじゃって、それで成美ちゃん、断り切れなくなっちゃって」という謝罪と説明があったのですがしかし僕はそれは割とどうでもよかったというか成美さんが喋ったってことはそれくらいのことは当然あったんだろうなくらいにしか思えなくてだから要するにやっぱりそれはどうでもよかったということなのですがそれはともかくまた別に問題がというか大問題がありましてそのせいで僕はいま風呂からあがったばかりだというのに背中に嫌な汗を滲ませたりしていまして――。
僕と口宮さんの会話が聞こえていたということは。
『哲郎と音無、どう思う?』
『どうって?』
『もうやったんだろうかなって話』
うおおおおおーっ!
積極的な発言こそしなかったもののごめんなさい音無さんごめんなさいぃーっ!
新年早々の更新お疲れ様です。
思えばサイト立ち上げの頃からお邪魔させて頂いていますので、結構長いお付き合いとなっています。
本年もコメントこそ残しませんが、毎日の更新楽しみにさせて頂きますm(_ _)m
今年もよろしくお願いします。
毎日、楽しく読ませてもらってます。
今年も頑張ってください!
毎日更新で数年ぶっ続けなんて足を運んでくださる方も大変だろうなあ、とは常々思っていたりするのですが、有難いことにそういう方々が割といらっしゃるようで感謝してもし切れませんです。
逆にこれだけ続けてると私としては完全に生活の一部みたいになっちゃってまして、もはや書く作業に何の苦労もなかったりするんですけどね。
というわけで私自身より読み手の方々のほうがよっぽど頑張ることになるのかもしれませんが、ご了承いただけるならどうぞ、今年も宜しくお願いいたします。