「ど、どうした日向? ものすごい顔だぞ?」
「ええと、もしかしてまたのぼせちゃったとか?」
「い、いや、大丈夫だから」
お二人の親切心からくる心配も、今の反省と自虐に溢れる僕にとっては傷口に塩を擦り込まれているようなものなのでした。もちろんそれだって消毒にはなるんでしょうけども。
ごめんなさい成美さん、それに栞も。聞こえてたんなら分かってるんでしょうけど、僕は二人に心配してもらえるような清らかな人間ではないのです。ああ、それを承知のうえで心配してくれるなんて二人はなんて優しいんでしょうか。
「そうか?――ああ、あと、途中で何か言っているのは分かるがよく聞こえなかった部分があってな。そこは異原に伝えようがなくて、だからなんだ、もしかしたら話の繋がりが変なことになっているかもしれないんだが」
あれ。そういえば声落としてましたっけ、あの話をしてた時は。
ということは、もしかして?
「……なんだ? 今度は急に元気そうになったぞ? あれはどういうことなんだ日向?」
「さ、さあ? うーん、また変なことぐるぐる考えてるんじゃないかなあ。孝さん、ちょくちょくそういうことあるし」
さすがは奥さん、見事正解です。
「なんかキモいなオマエ」
それも正解なんだろうけどさすがにちょっと酷くないかな大吾。
「それで結局、どういう話だったんですかな」
「け、喧嘩ですか?」
口宮さんと僕の会話が成美さんに聞かれてしまっていた、というだけでは、そりゃまあ何があったか分かったと言えはしないのでしょう。そういうわけで同森さんと義春くんがそう尋ねてくるわけですが、大吾もそういう反応をしてくれたらよかったのに――というのはともかく、するとそのふたりににっこりとしながら答え始めたのは、音無さんでした。
「大丈夫だよ……。由依さん、怒るどころかすっごい嬉しそうにしてたから……」
ここで顔を合わせてからの展開だけを見るととてもそうは見えなかったわけで、ならばそれは女湯で成美さんから話を聞いている最中のことなのでしょう。
もちろんそこで注目、というか傾聴されていたのは僕でなく口宮さんの言葉だったのでしょうが、気付かないところで熱心に耳を傾けられていたというのはなんだか、今からでも背中がむずむずしてくるのでした。そりゃあ成美さんと異原さんだけってことはなかったんでしょうしね、話を聞いていたのは。
「そうですか」
音無さんの言葉を受けて、ほっとした様子の義春くん。しかし一方で同森さんからは、
「口宮のやつが異原を喜ばせるような話をしたっちゅうことか? 信じられんのう」
その異原さんのれっきとした彼氏だというのにこんな物言いをされてしまう口宮さんなのでした。いやまあ、分からないでもないというか、いっそよく分かりますけど。
「ふふ……ほんとにね……」
音無さんまでそんなことを言い出したところで、するとその肩の上に鎮座していたナタリーさんが頭を持ち上げました。
「普段はあんまりそういう話はしないんですかね? あんなに優しい人なのに」
「優しい? そうか、ナタリーさんの前ではあいつ、いい子ぶっとるみたいですからな。普段と言ったらそれこそ、人から『優しい』なんて絶対に言われなさそうなやつですよ。異原からもしょっちゅうどつかれとりますし――はは、とはいえどっちが性根かまでは知りませんが」
「ふふ、そうなんですか」
例え本当に知らないとしても間違いなく決め付けてはいるであろう笑みを同森さんが浮かべると、ならばナタリーさんも釣られて微笑むのでした。今ここでナタリーさんの評価がひっくり返るようなことはまずないとして、同森さんにしたって何だかんだ言いながら友達付き合いはしているわけですしね。そりゃまあそんな笑みも浮かべることでしょう。
といったところで話は変わりまして、今度は大吾がこんな一言を。
「ナタリーが食い付いたってことはそういう話なんだな」
ああ。
「えっ? えーと怒橋さん、どういう話だと思ったんですか?」
とぼけているのか本当に分かっていないのかナタリーさんはそう尋ね返したわけですが、しかしその頃にはもう成美さんと栞が「あちゃー」然とした表情をしてしまっていたので、全てが手遅れなのでした。食い付いたと言っても長々喋ったわけでなし、内容を別にしてもお気に入りであるらしい口宮さん絡みの話でもあったということで、展開によっては誤魔化すことも不可能ではなかったんでしょうけどね。
というわけで、ナタリーさんは色恋沙汰についてのお話を大好物としてらっしゃいます。本人の自覚の有無はともかく。
そんなナタリーさんからの問いかけに対し、大吾は苦い顔を。
「どういう話かって言われたら、言っていいものかどうかって話になるんだけどな。隠したそうな雰囲気ではあるみたいだし」
だったら初めからナタリーさんがどうのとか言わなきゃいいのに、という話ではあるのですが、まあしかし気持ちは分かるというか何と言うか。それに、隠そうとしたところでこの時点でもう分かってないのは同森さんと義春くんの二人だけ、というのもありますし。ジョンは――まあ、数に含めなくていいとして。
「中身を詳しく説明するとかじゃなければ……大丈夫だと思いますよ、さすがに……」
口宮さんはまるで気にしないであろう、というのは僕も知っていることとして、ならば問題は異原さんがどう思うかという点です。そしてその異原さん当人は現在この場にいないわけで、ならば今この中で最も説得力を持つのは普段から仲がいい――かつ同性である、というのも一応ポイントになるでしょう――音無さんである、ということに疑問を持つ人はいないでしょう。
というわけで、その音無さんがそう言ったのなら「じゃあ」と大吾は口を開き始めるわけです。
「付き合ってるもん同士のあれやこれや、みたいな話だろ?」
「えーと、まあ正解ですかね、一応は」
「なんでちょっと張り合おうとしてんだよ」
「問題ないにしても、私が原因でばれたというのは中々心苦しくて……」
「ごめん」
何故か最終的に大吾が謝ることになってしまいましたが、まあそれはそれとして。
見事に正解だったらしい大吾の回答に義春くんはにこにこ、同森さんは眉をひそめるのでした。要するについさっきと同じ反応ではあるのですが、
「それを日向くんと話しとったってことなんじゃな? なら日向君、一つ訊いてみたいんじゃが」
「はい?」
「そんな話、どんな顔でするんじゃ? あいつは」
「照れたりは全くしてなくて、ほぼ素でしたね。ただまあ、思いの丈は言葉のほうにたっぷり詰まってたというか」
僕だって意外でしたけどね、という一言は、そう思いこそしたものの説明に加えずに済ませてしまう僕なのでした。軽口を挟むことを躊躇うほど意外だった、ということなんでしょうね、多分。
「ほう、そりゃまた意外じゃのう。そういう話をすること自体だって意外なんじゃが、するにしても冗談交じりみたいな様子しか想像できんがの」
加えずに済ませた一言はしかし、そうしたところで他の人が同じような感想を持ってしまうのでした。そうもなりますよね、やっぱり。
「逆に言って……由依さんは、口宮さんが本当はそういう人だって知ってたから……好きになったんじゃないかな……?」
ここで音無さんからそんな予想が。
聞いた瞬間は僕も「ああそうかもな」と頭の中で同意しはしたものの、けれど数瞬ほど経った頃には「そうとも言い切れないんじゃなかろうか?」とも。
口宮さんが変なこと言って異原さんが怒ったり困ったり時には手が出たり、といういつものあの様子も、好意的に見るまでもなく楽しそうではありますしね。……まあ、時には、というほど稀なことでもなかったりするんですけどね、手が出るのは。
しかし、じゃあ実際のところどっちなんだろうかという考察については、
「ああ、ここであれこれ言い始めちゃったら……詳しく説明するっていうのとそんなに変わらなくなっちゃいますよね……」
という音無さんの言葉によって中断させられることになったのでした。そういえばそうですよね。
「それを抜きにしてもずっとこんな所で立ち話というのもなんだし、一旦部屋に戻るか?」
これまたそういえばそうですよね、脱いだ私服やタオルなんかも抱えたままですし。
というわけで、その成美さんの提案を受けて各自部屋に戻ることになった僕達なのでした。
「義春くんはどうする? もうちょいジョン達と遊んどきたいってことなら、オレらの部屋に一緒に来てもらっていいけど」
「あ、じゃあ、お邪魔させてもらいたいです」
お邪魔してるのはどっちかっていうと宿泊客である僕達なんだけどね、というややこしい話はともかく、あちらはそういうことになったようでした。
「すごかったよー、音無さんの胸」
「すごいのは真っ先にその話題を振ってくる栞だよ」
その「すごい」の内訳については最早何も言うまいといったところではあるのですが、部屋に戻った途端、相変わらず栞はそんな調子なのでした。
「楓さんより大きいかも」
「それは……」
すごい、と言い掛けて、しかしそこは何とか踏み止まっておきました。栞のほうがすごい、なんて言った直後にそれを口走ってしまったら負けじゃないですか、やっぱり。
「そんなこと言ったら同森さんだってすごかったよ?」
「あー、そうだろうねえ」
対抗心……では、ないのでしょうこの場合。自分の話ではないわけですし。だったら何なのかと言われたら困ってしまうのですが、ともあれここで同森さんの話を持ち出す僕なのでした。
「それが女の人で言う『胸が大きい』に該当するようなことなのかどうかは、ちょっと自信が持てないけど」
「うーん、男らしい女らしいってことなら、そうだって言えないこともないんじゃないかなあ」
女性である栞がそう言うのであれば、少なくとも僕が言うよりは説得力があるということなのでしょう。ならばそれはそれでいいとしておきまして、
「となると、男も女もトップが圧倒的過ぎて他が霞むってことになりかねなくない?」
同森さんについてはこの目で見たのではっきりしていますし、音無さんのほうは話を聞いての想像でしかないとはいえ、家守さんよりもとなったらやっぱりそれと同じことになっちゃいそうな。それこそ家守さん、もしくはその家守さんと同格である椛さんでも連れてこないと、対抗できる人がそもそもいないっていう。
けれどそんな若干の残念さ漂う話に対して、栞はあっけらかんとしたもので。
「それは大丈夫だと思うよ? 今更霞んだところでみんな貰い手がいるわけだし」
「それは、まあ確かに」
貰われてしまえば霞むも何もあったもんじゃないしね、と今現在会話をしている相手を眺めながら。あっちも同じふうに思ってくれているということについても、今更疑う余地なんかありはしませんし。
ということで僕と栞についてはともかく、「みんな」という話。考えてみればカップル四組で旅行なんてなかなか特殊なケースのような気もしますが、しかしそれが普段からしょっちゅう顔を合わせる人達だったりもするので、そこらへんはすっかり麻痺してしまっているのでした。
「よかったね孝さん、振られっ放しじゃなくて」
うぐっ。
「いやいや、振られる段階まですら行かなかったわけだから」
「ん? あ、いや、音無さんじゃなくて私の話だよ? ほら、最初振ろうとしちゃったし」
…………。
「ごめんなさいでした」
頭を下げてみせたところ、すると栞は腕を組みながらうーんと唸るのでした。
「私、しょっちゅう音無さんの話してるからねえ。自業自得――ふふ、なんて言うほど嫌だったってわけでもないんだけどさ、これくらい」
というのは強がりでもなんでもなく、実際その通りなのでしょう。そうじゃなかったらそもそもしょっちゅう音無さんの話をしたりしませんしね。
これまで何度も同じようなことを思ってはいるのですが、しかし今回についてはこれまでとはちょっと事情が違ったりしないでもないのでした。というのも――ええ、今回のこの一泊旅行は、「いい機会」だと思うのです。
「ねえ栞」
「ん?」
「もし僕がその音無さんの話に決着を付けようとしたとしたら、それも『嫌じゃない』で済ませてくれる?」
「どころか歓迎するけど?」
「うん、そう言ってくれるとは思ってたんだけどね」
決着を付けようとする、というのは逆に言って、未だに引きずっているということにもなるわけです。僕は今それを表明してしまったわけですが、けれど栞はこれまでの音無さん関連の話と同じく、平然としたものなのでした。
「振られっ放しじゃなくてよかったよ、本当に」
「こっちこそ、振っちゃわなくてよかった」
ありとあらゆる場合において、前に進むためには最低でも一度、何をどう前に進めるかを確認するために後ろを振り向かなくてはなりません。そしてそれは時に自分一人だけの話ではなく、近しい人にもその「後ろ」を見られてしまうことにもなります。情けなかったり、恥ずかしかったり、怖かったりする、けれど否定のしようもなく自分の一部であるものを。
栞はこんなです。
「後ろ」を見られてしまうことを、躊躇わせてすらくれません。
「そう言えるようにしてくれたのは孝さんなんだしね」
自分のためだけでなく、この人のためにも。
心からそう思える相手に巡り合えたことを、この先何度感謝することになるんでしょうね。なんせこれから先、ずっと一緒に暮らし続けるわけですし。
「異原さんと口宮さんも今頃――」
これと似たような話をしているんだろう、ということなのでしょう。そう言って冗談めいた笑みを浮かべつつ壁のほう、正確にはその異原さんと口宮さんの部屋がある方角を向いた栞だったのですが、
「おっ?」
するとその時、異原さんと口宮さんの、ではなくこの部屋のドアがこんこんとノックされたのでした。
「噂をすれば影ってやつかな?」
「うーん、その噂がカバーする範囲が広過ぎるというか」
「あはは、それもそっか」
口宮さんと異原さん、同森さんと音無さん、あとジョン達と義春くんも含めた大吾と成美さん達。夕食時なんかであるなら四方院の人が来たりもするかもしれませんがそんな時間帯でもない以上、ならばここにやってくる人達というのはその三組くらいのものなのでしょう。そして噂、つまり今まで話していた内容だけで、そのうち二組が登場しているわけで。噂をすれば影というよりは正解率が高いあてずっぽうですよね、こうなってくると。
というわけで、
「はーい」
玄関にお出迎えに上がってみたところ、ドアの向こうに立っていたのは口宮さんと異原さんなのでした。
「ええと、お邪魔させてもらって大丈夫かしら?」
「ええ。どうぞどうぞ」
遠慮がちに尋ねてくる異原さんでしたが、逆にお邪魔されて都合の悪いようなことって何なんでしょうね一体。というのはもちろん意地の悪い質問でしかないので、口にしたりはしませんでしたけどね。
「いらっしゃーい」
部屋の中へと二人をお通ししたところで栞からも歓迎の言葉が掛けられます。それはただ二人の来訪をというだけではなく、なんせタイミングがタイミングなので、もしかしたら自分達の部屋でしていたであろう話について何か聞けるかもしれない、というような期待もあったのかもしれません。というような想像を働かせてしまうということは、栞以前にまず僕がそれに当て嵌まっているんでしょうけどね。
適当に床へ腰を下ろしたところ、こちらとしては別に栞と並ぶような位置取りをしたつもりはなかったのですが、異原さんと口宮さんが腰を下ろした場所というのが明らかに僕と栞の二人に対面するような位置だったので、ならばこちらとしてもその体で位置を微調整してみたり。
ふむ、どうやら少なくとも雑談をしに来たというわけではなさそうです。
「ええと、どこから説明したらいいのか……」
先に口を開き始めたのは異原さんでしたが、しかしその時点で既に口宮さんへ助けを求めるような視線を投げ掛けているのでした。
その様子についてはともかく、説明というからにはこちらの想像、というか期待通り、自分達の部屋で話していたことについての、ということなのでしょう。
そして助けを求められた口宮さんは、ふんと鼻を鳴らしてから口を開き始めます。
「なんでここに来たかっつうのは、言わなくても分かってると思うけど風呂で俺と喋ってたのが兄ちゃんだからだな。奥さんもまあ、一部を除いて話は全部聞いてたってことだし」
「ごめんなさい」
「いや、俺はそういうの全然気になりませんから」
頭を下げる栞でしたが、口宮さんはきっぱりとそう言い切ってみせるのでした。風呂場での会話を思い出すだけでもそれは確かにその通りであるらしく、ならば気にするのは異原さんということになるのですが、その異原さんにしたって栞や音無さん、あとナタリーにも知られるのを承知で成美さんに聞こえたことを話させていたわけで、ならばそこは問題になりようがないのでしょう。
とはいえ、だから栞に謝る必要がなかった、ということでもないんでしょうけどね。やっぱり。
「で、その聞こえなかった一部ってのも由江には話したんだけど――兄ちゃん、覚えてるよな? 混浴がどうのこうのの話」
「えーと、ええ、はい」
ざっくりし過ぎてちょっと考えてしまいましたが、混浴に入ることについて「彼氏にもまだ裸見せてないとしたら、んなこと平然とはできねえんじゃねえかな」でしたよね。音無さんを例に挙げて。
「俺らも入ることになったから。混浴」
「あ、はい。…………え? はい?」
あの話を切り出してのこの結論ということはつまり?
風呂を出て部屋に戻ってからこれまで、そういうことを?
なんてことをそりゃもちろん避けようもなく想像してしまっていたところ、すると口宮さん、「そう、そういうの」とまっすぐに僕を見ながら言うのでした。
「誰にも気付かれずに混浴行くなんて無理だと思うし、だからって気付かれたらそういう想像されちまうだろうしなってことで、それを防ぐためにここに説明しに来たわけ」
「あ、ああ、なるほど」
混浴についての話は女湯側に届かなかったわけで、ならば口宮さんから知らされたらしい異原さんはともかく栞は今でも全く何も知らないわけですが、しかし口宮さんは、だからといって栞に退席を求めたりはしないのでした。
口宮さん、ちらりとだけ異原さんのほうを窺ってから、再度口を開き始めます。
「ぶっちゃけ、見ただけだから」
「というのは、何を?」
「話に出てきた通りのもんを」
「…………」
裸。
なのでしょう、他に候補もない以上。そして見た「だけ」とも。
緩めればいいのか硬くすればいいのか、と自分が浮かべるべき表情について悩み始めたところ、すると今度は異原さんが、下を向いたまま話し掛けてきました。
「そ、その、こいつから聞かされた話っていうのはもっともだと思ったし、それに普通の人でそうなんだったらあたしなんかそれでもまだ足りないのかもしれないけど、でも少なくともそれだけはしとかないとって、そう思ったから」
そう思ったから。ということであるなら、無理にそうさせられたとか、そういうことではないのでしょう。まあ口宮さんですからそんなことはまずしないでしょうけど――というふうに思えるようになってから、まだ一時間と経ってなかったりもするんですけどね。
「思ってたよりスタイル良かったな」
「ひぎゃあ!」
なんてふうに思った途端にこれだったりもするんですけどね。
「あああんたここでそんなこと言う!? ていうか身体の線だけなら別に今まで水着でだって!」
「まあまあ、今回は純粋に褒めてんだから怒んなって」
「TPOを弁えろっつってんのよこの馬鹿! こっちだって今回は純粋に感謝してたのに台無しじゃないのよ!」
「台無しったって、そのほうが俺らっぽいし?」
「ぐうう!」
もはや怒りで言葉にならない唸り声を上げさえする異原さんでしたが、しかし。
「否定できないし!」
とのことなのでした。
「いーわよいーわよ、本当はあたしにベタ惚れだって今回のことでよーく分かったし。さっきまですっごい優しくしてくれてたもんねえ? あんた」
「そういうこと言われても平気なんだけどな、俺」
「それくらい知ってるし、なんだっていいわよもう。どれだけ反論したってあたしがあんたにベタ惚れなのも変わらないんだもの」
……投げ遣りにも程がある異原さんでしたが、果たして大丈夫なのでしょうか。後から今の台詞を思い返して真っ赤になって床を転げまわったりないでしょうか。
「あのー」
心配しているのは僕だけではないようで、栞も同じような表情を浮かべながらゆっくりと手を上げるのでした。
「あ、なんですか栞さん?」
顔も声もぱっと女友達へ向けるそれへ入れ替えてみせる異原さん。ううむ、器用なのか不器用なのか。
「スタイルとか、身体の線なら水着でもとか……異原さんが口宮さんに何を見せたか想像がついちゃったんですけど、いいんでしょうか?」
間。
「はひ」
異原さん、返事し切れてません。
「まあ、いや、でも、彼氏なんだから時間の問題っていうか? それにほらさっきこいつが言った通りまだ見てもらっただけではあるわけだから、変な想像されるよりはこっちのほうが――あ、ああぁぁ」
途中までは頑張ったのですが、しかし志半ばで力尽き、その場にへなへなとくずおれる異原さんなのでした。
が、そこへ栞が追い打ち――本人としてはフォローというか話題逸らしのつもりだったのかもしれませんが、こんな一言を。
「見てもらった、ですか」
「はがあっ!」
それまで脱力していた身体が針金でも通されたかのように勢い良く跳ね上がると、鞭打ちしてしまいそうにこれまた勢い良く、首をぐるんと口宮さんの方へ向ける異原さん。何がとは言いませんが、というか言うまでもないのですが、見事に真っ赤なのでした。
「そんな謙遜するほど貧相でもなかったろ」
「そういう話じゃないでしょうが!」
「んー、いや、俺は別に『そういう話』しても困らねえんだけど」
うぐ、と非常に分かり易く言葉に詰まる異原さんなのでした。そう、ここで流れに沿った話をしてしまうと、口宮さんは何も困らないというのに、その一方で異原さんは大弱りなのです。
「……ごめん。ありがとう」
「おう」
実は普段の軽口もこういう意味があってのことなのかも、と一瞬そう考えたりもしたのですが、でもそれはさすがに言い過ぎですよねやっぱり。別に軽口が出た時は必ずこういう話題だったってわけでもないんですし。
などと思いはしつつ、でも普段通りの対応で問題が解決できるっていうならそれが最善でもあるのかな、とも。偶然そうなったのか、意図してそうしているのかまでは分かりませんが、結局のところ僕の中の口宮さんの株は上がり続けていくのでした。
けれどその一方で、こんな疑問も。
「でもなんでそこまでして混浴に? こんなこと言っちゃったらあれですけど、入らなかったらそれで済むって話ではあるような」
「あー、ええと……それはそうなんだけど、なんていうか『恥ずかしくて入れなかった』なんて思い出は残したくないなあって。引きずっちゃいそうなのよね、なんか」
口宮さんに問い掛けたつもりが異原さんにお答えいただけましたが、ということで引き続き「あ、言い出したのはこいつじゃなくてあたしなんだけどね?」とも仰る異原さんなのでした。なるほど、そういうことなら。
そしてそのこいつこと口宮さんですが、異原さんのクールダウンを確認してからこう切り出してきました。
「いきなり押し掛けといてこう言うのもなんだけど、じゃあ、俺らはそろそろ。伝えることは伝えちまったし」
「あ、そうですね」
今は出来るだけ二人きりのほうがいいでしょうしね、とは言いませんでしたが、けれど間違いなくそうなんでしょうし、口宮さんも分かっててそう言っているのでしょう。これ以上ここにいてもあとは異原さんが困り続ける展開しか起こりそうにないですしね。
「ええと、もしかしてまたのぼせちゃったとか?」
「い、いや、大丈夫だから」
お二人の親切心からくる心配も、今の反省と自虐に溢れる僕にとっては傷口に塩を擦り込まれているようなものなのでした。もちろんそれだって消毒にはなるんでしょうけども。
ごめんなさい成美さん、それに栞も。聞こえてたんなら分かってるんでしょうけど、僕は二人に心配してもらえるような清らかな人間ではないのです。ああ、それを承知のうえで心配してくれるなんて二人はなんて優しいんでしょうか。
「そうか?――ああ、あと、途中で何か言っているのは分かるがよく聞こえなかった部分があってな。そこは異原に伝えようがなくて、だからなんだ、もしかしたら話の繋がりが変なことになっているかもしれないんだが」
あれ。そういえば声落としてましたっけ、あの話をしてた時は。
ということは、もしかして?
「……なんだ? 今度は急に元気そうになったぞ? あれはどういうことなんだ日向?」
「さ、さあ? うーん、また変なことぐるぐる考えてるんじゃないかなあ。孝さん、ちょくちょくそういうことあるし」
さすがは奥さん、見事正解です。
「なんかキモいなオマエ」
それも正解なんだろうけどさすがにちょっと酷くないかな大吾。
「それで結局、どういう話だったんですかな」
「け、喧嘩ですか?」
口宮さんと僕の会話が成美さんに聞かれてしまっていた、というだけでは、そりゃまあ何があったか分かったと言えはしないのでしょう。そういうわけで同森さんと義春くんがそう尋ねてくるわけですが、大吾もそういう反応をしてくれたらよかったのに――というのはともかく、するとそのふたりににっこりとしながら答え始めたのは、音無さんでした。
「大丈夫だよ……。由依さん、怒るどころかすっごい嬉しそうにしてたから……」
ここで顔を合わせてからの展開だけを見るととてもそうは見えなかったわけで、ならばそれは女湯で成美さんから話を聞いている最中のことなのでしょう。
もちろんそこで注目、というか傾聴されていたのは僕でなく口宮さんの言葉だったのでしょうが、気付かないところで熱心に耳を傾けられていたというのはなんだか、今からでも背中がむずむずしてくるのでした。そりゃあ成美さんと異原さんだけってことはなかったんでしょうしね、話を聞いていたのは。
「そうですか」
音無さんの言葉を受けて、ほっとした様子の義春くん。しかし一方で同森さんからは、
「口宮のやつが異原を喜ばせるような話をしたっちゅうことか? 信じられんのう」
その異原さんのれっきとした彼氏だというのにこんな物言いをされてしまう口宮さんなのでした。いやまあ、分からないでもないというか、いっそよく分かりますけど。
「ふふ……ほんとにね……」
音無さんまでそんなことを言い出したところで、するとその肩の上に鎮座していたナタリーさんが頭を持ち上げました。
「普段はあんまりそういう話はしないんですかね? あんなに優しい人なのに」
「優しい? そうか、ナタリーさんの前ではあいつ、いい子ぶっとるみたいですからな。普段と言ったらそれこそ、人から『優しい』なんて絶対に言われなさそうなやつですよ。異原からもしょっちゅうどつかれとりますし――はは、とはいえどっちが性根かまでは知りませんが」
「ふふ、そうなんですか」
例え本当に知らないとしても間違いなく決め付けてはいるであろう笑みを同森さんが浮かべると、ならばナタリーさんも釣られて微笑むのでした。今ここでナタリーさんの評価がひっくり返るようなことはまずないとして、同森さんにしたって何だかんだ言いながら友達付き合いはしているわけですしね。そりゃまあそんな笑みも浮かべることでしょう。
といったところで話は変わりまして、今度は大吾がこんな一言を。
「ナタリーが食い付いたってことはそういう話なんだな」
ああ。
「えっ? えーと怒橋さん、どういう話だと思ったんですか?」
とぼけているのか本当に分かっていないのかナタリーさんはそう尋ね返したわけですが、しかしその頃にはもう成美さんと栞が「あちゃー」然とした表情をしてしまっていたので、全てが手遅れなのでした。食い付いたと言っても長々喋ったわけでなし、内容を別にしてもお気に入りであるらしい口宮さん絡みの話でもあったということで、展開によっては誤魔化すことも不可能ではなかったんでしょうけどね。
というわけで、ナタリーさんは色恋沙汰についてのお話を大好物としてらっしゃいます。本人の自覚の有無はともかく。
そんなナタリーさんからの問いかけに対し、大吾は苦い顔を。
「どういう話かって言われたら、言っていいものかどうかって話になるんだけどな。隠したそうな雰囲気ではあるみたいだし」
だったら初めからナタリーさんがどうのとか言わなきゃいいのに、という話ではあるのですが、まあしかし気持ちは分かるというか何と言うか。それに、隠そうとしたところでこの時点でもう分かってないのは同森さんと義春くんの二人だけ、というのもありますし。ジョンは――まあ、数に含めなくていいとして。
「中身を詳しく説明するとかじゃなければ……大丈夫だと思いますよ、さすがに……」
口宮さんはまるで気にしないであろう、というのは僕も知っていることとして、ならば問題は異原さんがどう思うかという点です。そしてその異原さん当人は現在この場にいないわけで、ならば今この中で最も説得力を持つのは普段から仲がいい――かつ同性である、というのも一応ポイントになるでしょう――音無さんである、ということに疑問を持つ人はいないでしょう。
というわけで、その音無さんがそう言ったのなら「じゃあ」と大吾は口を開き始めるわけです。
「付き合ってるもん同士のあれやこれや、みたいな話だろ?」
「えーと、まあ正解ですかね、一応は」
「なんでちょっと張り合おうとしてんだよ」
「問題ないにしても、私が原因でばれたというのは中々心苦しくて……」
「ごめん」
何故か最終的に大吾が謝ることになってしまいましたが、まあそれはそれとして。
見事に正解だったらしい大吾の回答に義春くんはにこにこ、同森さんは眉をひそめるのでした。要するについさっきと同じ反応ではあるのですが、
「それを日向くんと話しとったってことなんじゃな? なら日向君、一つ訊いてみたいんじゃが」
「はい?」
「そんな話、どんな顔でするんじゃ? あいつは」
「照れたりは全くしてなくて、ほぼ素でしたね。ただまあ、思いの丈は言葉のほうにたっぷり詰まってたというか」
僕だって意外でしたけどね、という一言は、そう思いこそしたものの説明に加えずに済ませてしまう僕なのでした。軽口を挟むことを躊躇うほど意外だった、ということなんでしょうね、多分。
「ほう、そりゃまた意外じゃのう。そういう話をすること自体だって意外なんじゃが、するにしても冗談交じりみたいな様子しか想像できんがの」
加えずに済ませた一言はしかし、そうしたところで他の人が同じような感想を持ってしまうのでした。そうもなりますよね、やっぱり。
「逆に言って……由依さんは、口宮さんが本当はそういう人だって知ってたから……好きになったんじゃないかな……?」
ここで音無さんからそんな予想が。
聞いた瞬間は僕も「ああそうかもな」と頭の中で同意しはしたものの、けれど数瞬ほど経った頃には「そうとも言い切れないんじゃなかろうか?」とも。
口宮さんが変なこと言って異原さんが怒ったり困ったり時には手が出たり、といういつものあの様子も、好意的に見るまでもなく楽しそうではありますしね。……まあ、時には、というほど稀なことでもなかったりするんですけどね、手が出るのは。
しかし、じゃあ実際のところどっちなんだろうかという考察については、
「ああ、ここであれこれ言い始めちゃったら……詳しく説明するっていうのとそんなに変わらなくなっちゃいますよね……」
という音無さんの言葉によって中断させられることになったのでした。そういえばそうですよね。
「それを抜きにしてもずっとこんな所で立ち話というのもなんだし、一旦部屋に戻るか?」
これまたそういえばそうですよね、脱いだ私服やタオルなんかも抱えたままですし。
というわけで、その成美さんの提案を受けて各自部屋に戻ることになった僕達なのでした。
「義春くんはどうする? もうちょいジョン達と遊んどきたいってことなら、オレらの部屋に一緒に来てもらっていいけど」
「あ、じゃあ、お邪魔させてもらいたいです」
お邪魔してるのはどっちかっていうと宿泊客である僕達なんだけどね、というややこしい話はともかく、あちらはそういうことになったようでした。
「すごかったよー、音無さんの胸」
「すごいのは真っ先にその話題を振ってくる栞だよ」
その「すごい」の内訳については最早何も言うまいといったところではあるのですが、部屋に戻った途端、相変わらず栞はそんな調子なのでした。
「楓さんより大きいかも」
「それは……」
すごい、と言い掛けて、しかしそこは何とか踏み止まっておきました。栞のほうがすごい、なんて言った直後にそれを口走ってしまったら負けじゃないですか、やっぱり。
「そんなこと言ったら同森さんだってすごかったよ?」
「あー、そうだろうねえ」
対抗心……では、ないのでしょうこの場合。自分の話ではないわけですし。だったら何なのかと言われたら困ってしまうのですが、ともあれここで同森さんの話を持ち出す僕なのでした。
「それが女の人で言う『胸が大きい』に該当するようなことなのかどうかは、ちょっと自信が持てないけど」
「うーん、男らしい女らしいってことなら、そうだって言えないこともないんじゃないかなあ」
女性である栞がそう言うのであれば、少なくとも僕が言うよりは説得力があるということなのでしょう。ならばそれはそれでいいとしておきまして、
「となると、男も女もトップが圧倒的過ぎて他が霞むってことになりかねなくない?」
同森さんについてはこの目で見たのではっきりしていますし、音無さんのほうは話を聞いての想像でしかないとはいえ、家守さんよりもとなったらやっぱりそれと同じことになっちゃいそうな。それこそ家守さん、もしくはその家守さんと同格である椛さんでも連れてこないと、対抗できる人がそもそもいないっていう。
けれどそんな若干の残念さ漂う話に対して、栞はあっけらかんとしたもので。
「それは大丈夫だと思うよ? 今更霞んだところでみんな貰い手がいるわけだし」
「それは、まあ確かに」
貰われてしまえば霞むも何もあったもんじゃないしね、と今現在会話をしている相手を眺めながら。あっちも同じふうに思ってくれているということについても、今更疑う余地なんかありはしませんし。
ということで僕と栞についてはともかく、「みんな」という話。考えてみればカップル四組で旅行なんてなかなか特殊なケースのような気もしますが、しかしそれが普段からしょっちゅう顔を合わせる人達だったりもするので、そこらへんはすっかり麻痺してしまっているのでした。
「よかったね孝さん、振られっ放しじゃなくて」
うぐっ。
「いやいや、振られる段階まですら行かなかったわけだから」
「ん? あ、いや、音無さんじゃなくて私の話だよ? ほら、最初振ろうとしちゃったし」
…………。
「ごめんなさいでした」
頭を下げてみせたところ、すると栞は腕を組みながらうーんと唸るのでした。
「私、しょっちゅう音無さんの話してるからねえ。自業自得――ふふ、なんて言うほど嫌だったってわけでもないんだけどさ、これくらい」
というのは強がりでもなんでもなく、実際その通りなのでしょう。そうじゃなかったらそもそもしょっちゅう音無さんの話をしたりしませんしね。
これまで何度も同じようなことを思ってはいるのですが、しかし今回についてはこれまでとはちょっと事情が違ったりしないでもないのでした。というのも――ええ、今回のこの一泊旅行は、「いい機会」だと思うのです。
「ねえ栞」
「ん?」
「もし僕がその音無さんの話に決着を付けようとしたとしたら、それも『嫌じゃない』で済ませてくれる?」
「どころか歓迎するけど?」
「うん、そう言ってくれるとは思ってたんだけどね」
決着を付けようとする、というのは逆に言って、未だに引きずっているということにもなるわけです。僕は今それを表明してしまったわけですが、けれど栞はこれまでの音無さん関連の話と同じく、平然としたものなのでした。
「振られっ放しじゃなくてよかったよ、本当に」
「こっちこそ、振っちゃわなくてよかった」
ありとあらゆる場合において、前に進むためには最低でも一度、何をどう前に進めるかを確認するために後ろを振り向かなくてはなりません。そしてそれは時に自分一人だけの話ではなく、近しい人にもその「後ろ」を見られてしまうことにもなります。情けなかったり、恥ずかしかったり、怖かったりする、けれど否定のしようもなく自分の一部であるものを。
栞はこんなです。
「後ろ」を見られてしまうことを、躊躇わせてすらくれません。
「そう言えるようにしてくれたのは孝さんなんだしね」
自分のためだけでなく、この人のためにも。
心からそう思える相手に巡り合えたことを、この先何度感謝することになるんでしょうね。なんせこれから先、ずっと一緒に暮らし続けるわけですし。
「異原さんと口宮さんも今頃――」
これと似たような話をしているんだろう、ということなのでしょう。そう言って冗談めいた笑みを浮かべつつ壁のほう、正確にはその異原さんと口宮さんの部屋がある方角を向いた栞だったのですが、
「おっ?」
するとその時、異原さんと口宮さんの、ではなくこの部屋のドアがこんこんとノックされたのでした。
「噂をすれば影ってやつかな?」
「うーん、その噂がカバーする範囲が広過ぎるというか」
「あはは、それもそっか」
口宮さんと異原さん、同森さんと音無さん、あとジョン達と義春くんも含めた大吾と成美さん達。夕食時なんかであるなら四方院の人が来たりもするかもしれませんがそんな時間帯でもない以上、ならばここにやってくる人達というのはその三組くらいのものなのでしょう。そして噂、つまり今まで話していた内容だけで、そのうち二組が登場しているわけで。噂をすれば影というよりは正解率が高いあてずっぽうですよね、こうなってくると。
というわけで、
「はーい」
玄関にお出迎えに上がってみたところ、ドアの向こうに立っていたのは口宮さんと異原さんなのでした。
「ええと、お邪魔させてもらって大丈夫かしら?」
「ええ。どうぞどうぞ」
遠慮がちに尋ねてくる異原さんでしたが、逆にお邪魔されて都合の悪いようなことって何なんでしょうね一体。というのはもちろん意地の悪い質問でしかないので、口にしたりはしませんでしたけどね。
「いらっしゃーい」
部屋の中へと二人をお通ししたところで栞からも歓迎の言葉が掛けられます。それはただ二人の来訪をというだけではなく、なんせタイミングがタイミングなので、もしかしたら自分達の部屋でしていたであろう話について何か聞けるかもしれない、というような期待もあったのかもしれません。というような想像を働かせてしまうということは、栞以前にまず僕がそれに当て嵌まっているんでしょうけどね。
適当に床へ腰を下ろしたところ、こちらとしては別に栞と並ぶような位置取りをしたつもりはなかったのですが、異原さんと口宮さんが腰を下ろした場所というのが明らかに僕と栞の二人に対面するような位置だったので、ならばこちらとしてもその体で位置を微調整してみたり。
ふむ、どうやら少なくとも雑談をしに来たというわけではなさそうです。
「ええと、どこから説明したらいいのか……」
先に口を開き始めたのは異原さんでしたが、しかしその時点で既に口宮さんへ助けを求めるような視線を投げ掛けているのでした。
その様子についてはともかく、説明というからにはこちらの想像、というか期待通り、自分達の部屋で話していたことについての、ということなのでしょう。
そして助けを求められた口宮さんは、ふんと鼻を鳴らしてから口を開き始めます。
「なんでここに来たかっつうのは、言わなくても分かってると思うけど風呂で俺と喋ってたのが兄ちゃんだからだな。奥さんもまあ、一部を除いて話は全部聞いてたってことだし」
「ごめんなさい」
「いや、俺はそういうの全然気になりませんから」
頭を下げる栞でしたが、口宮さんはきっぱりとそう言い切ってみせるのでした。風呂場での会話を思い出すだけでもそれは確かにその通りであるらしく、ならば気にするのは異原さんということになるのですが、その異原さんにしたって栞や音無さん、あとナタリーにも知られるのを承知で成美さんに聞こえたことを話させていたわけで、ならばそこは問題になりようがないのでしょう。
とはいえ、だから栞に謝る必要がなかった、ということでもないんでしょうけどね。やっぱり。
「で、その聞こえなかった一部ってのも由江には話したんだけど――兄ちゃん、覚えてるよな? 混浴がどうのこうのの話」
「えーと、ええ、はい」
ざっくりし過ぎてちょっと考えてしまいましたが、混浴に入ることについて「彼氏にもまだ裸見せてないとしたら、んなこと平然とはできねえんじゃねえかな」でしたよね。音無さんを例に挙げて。
「俺らも入ることになったから。混浴」
「あ、はい。…………え? はい?」
あの話を切り出してのこの結論ということはつまり?
風呂を出て部屋に戻ってからこれまで、そういうことを?
なんてことをそりゃもちろん避けようもなく想像してしまっていたところ、すると口宮さん、「そう、そういうの」とまっすぐに僕を見ながら言うのでした。
「誰にも気付かれずに混浴行くなんて無理だと思うし、だからって気付かれたらそういう想像されちまうだろうしなってことで、それを防ぐためにここに説明しに来たわけ」
「あ、ああ、なるほど」
混浴についての話は女湯側に届かなかったわけで、ならば口宮さんから知らされたらしい異原さんはともかく栞は今でも全く何も知らないわけですが、しかし口宮さんは、だからといって栞に退席を求めたりはしないのでした。
口宮さん、ちらりとだけ異原さんのほうを窺ってから、再度口を開き始めます。
「ぶっちゃけ、見ただけだから」
「というのは、何を?」
「話に出てきた通りのもんを」
「…………」
裸。
なのでしょう、他に候補もない以上。そして見た「だけ」とも。
緩めればいいのか硬くすればいいのか、と自分が浮かべるべき表情について悩み始めたところ、すると今度は異原さんが、下を向いたまま話し掛けてきました。
「そ、その、こいつから聞かされた話っていうのはもっともだと思ったし、それに普通の人でそうなんだったらあたしなんかそれでもまだ足りないのかもしれないけど、でも少なくともそれだけはしとかないとって、そう思ったから」
そう思ったから。ということであるなら、無理にそうさせられたとか、そういうことではないのでしょう。まあ口宮さんですからそんなことはまずしないでしょうけど――というふうに思えるようになってから、まだ一時間と経ってなかったりもするんですけどね。
「思ってたよりスタイル良かったな」
「ひぎゃあ!」
なんてふうに思った途端にこれだったりもするんですけどね。
「あああんたここでそんなこと言う!? ていうか身体の線だけなら別に今まで水着でだって!」
「まあまあ、今回は純粋に褒めてんだから怒んなって」
「TPOを弁えろっつってんのよこの馬鹿! こっちだって今回は純粋に感謝してたのに台無しじゃないのよ!」
「台無しったって、そのほうが俺らっぽいし?」
「ぐうう!」
もはや怒りで言葉にならない唸り声を上げさえする異原さんでしたが、しかし。
「否定できないし!」
とのことなのでした。
「いーわよいーわよ、本当はあたしにベタ惚れだって今回のことでよーく分かったし。さっきまですっごい優しくしてくれてたもんねえ? あんた」
「そういうこと言われても平気なんだけどな、俺」
「それくらい知ってるし、なんだっていいわよもう。どれだけ反論したってあたしがあんたにベタ惚れなのも変わらないんだもの」
……投げ遣りにも程がある異原さんでしたが、果たして大丈夫なのでしょうか。後から今の台詞を思い返して真っ赤になって床を転げまわったりないでしょうか。
「あのー」
心配しているのは僕だけではないようで、栞も同じような表情を浮かべながらゆっくりと手を上げるのでした。
「あ、なんですか栞さん?」
顔も声もぱっと女友達へ向けるそれへ入れ替えてみせる異原さん。ううむ、器用なのか不器用なのか。
「スタイルとか、身体の線なら水着でもとか……異原さんが口宮さんに何を見せたか想像がついちゃったんですけど、いいんでしょうか?」
間。
「はひ」
異原さん、返事し切れてません。
「まあ、いや、でも、彼氏なんだから時間の問題っていうか? それにほらさっきこいつが言った通りまだ見てもらっただけではあるわけだから、変な想像されるよりはこっちのほうが――あ、ああぁぁ」
途中までは頑張ったのですが、しかし志半ばで力尽き、その場にへなへなとくずおれる異原さんなのでした。
が、そこへ栞が追い打ち――本人としてはフォローというか話題逸らしのつもりだったのかもしれませんが、こんな一言を。
「見てもらった、ですか」
「はがあっ!」
それまで脱力していた身体が針金でも通されたかのように勢い良く跳ね上がると、鞭打ちしてしまいそうにこれまた勢い良く、首をぐるんと口宮さんの方へ向ける異原さん。何がとは言いませんが、というか言うまでもないのですが、見事に真っ赤なのでした。
「そんな謙遜するほど貧相でもなかったろ」
「そういう話じゃないでしょうが!」
「んー、いや、俺は別に『そういう話』しても困らねえんだけど」
うぐ、と非常に分かり易く言葉に詰まる異原さんなのでした。そう、ここで流れに沿った話をしてしまうと、口宮さんは何も困らないというのに、その一方で異原さんは大弱りなのです。
「……ごめん。ありがとう」
「おう」
実は普段の軽口もこういう意味があってのことなのかも、と一瞬そう考えたりもしたのですが、でもそれはさすがに言い過ぎですよねやっぱり。別に軽口が出た時は必ずこういう話題だったってわけでもないんですし。
などと思いはしつつ、でも普段通りの対応で問題が解決できるっていうならそれが最善でもあるのかな、とも。偶然そうなったのか、意図してそうしているのかまでは分かりませんが、結局のところ僕の中の口宮さんの株は上がり続けていくのでした。
けれどその一方で、こんな疑問も。
「でもなんでそこまでして混浴に? こんなこと言っちゃったらあれですけど、入らなかったらそれで済むって話ではあるような」
「あー、ええと……それはそうなんだけど、なんていうか『恥ずかしくて入れなかった』なんて思い出は残したくないなあって。引きずっちゃいそうなのよね、なんか」
口宮さんに問い掛けたつもりが異原さんにお答えいただけましたが、ということで引き続き「あ、言い出したのはこいつじゃなくてあたしなんだけどね?」とも仰る異原さんなのでした。なるほど、そういうことなら。
そしてそのこいつこと口宮さんですが、異原さんのクールダウンを確認してからこう切り出してきました。
「いきなり押し掛けといてこう言うのもなんだけど、じゃあ、俺らはそろそろ。伝えることは伝えちまったし」
「あ、そうですね」
今は出来るだけ二人きりのほうがいいでしょうしね、とは言いませんでしたが、けれど間違いなくそうなんでしょうし、口宮さんも分かっててそう言っているのでしょう。これ以上ここにいてもあとは異原さんが困り続ける展開しか起こりそうにないですしね。
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