(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第四十六章 日向家 九

2012-03-17 21:03:02 | 新転地はお化け屋敷
『ごちそうさまでした』
「ふう。――あはは、これでもちょっと苦しいかな、お腹」
「いくら僕の料理が別腹だからって、料理の腕が殆ど関係しない献立だったしねえ」
 まあそれ以前に、少し前の話だとその別腹がいっぱいってことだったんですけどね。
「それはほら、食べてる時の話だよ。孝さんと一緒だと何しても楽しいって」
「ほう?」
「ご飯を食べる場合なら、何食べても美味しいってことだよね」
 無茶のある理屈なのは承知のうえながら、まあしかし、分からない話でもありません。なんせ自分の料理哲学なので何度だって言いますが、気分とか雰囲気とか、そういったものだって料理にとっては非常に大事なのです。
 今のこれとは逆パターンですが、ドラマとかでよくありますよね。食事中にいざこざが発生して「飯が不味くなる」なんて言っちゃうような場面。現実でそれを言うようなことはまずないんでしょうけど、でも、間違ってはいないのです。腹を立てながら食べる食事が美味しいわけがありません。正確には、美味しく感じられるわけがない、なんでしょうけど。
「でも、何を食べても美味しいって言っちゃうと栞、別腹の話がもう初めから意味をなさなくなるんじゃない?」
 美味しいものは別腹へ。僕と一緒だと何を食べても美味しい。少し前にも同じような話になりましたが、それだと別腹が全然「別」じゃないのです。そっちがメインです。
「あはは、『でも』だって。納得してはくれてるんだ? 何食べても美味しいって話」
「納得するもなにも、そういうふうに教えた張本人だし」
「ん? あ、そうだった」
「そうだったって……」
 自分で言うのもなんだけど、忘れられるほど馴染みの薄い話じゃないと思うんだけどなあ。
「お出掛け気分になっちゃってるのかなあ、先生じゃなくて恋人――でもなくて、今は旦那さんか。完全にそっちの気分だったよ」
「まあサンドイッチで先生扱いされても教えることないし、それに、そのことを抜きにしても歓迎だけどね。まさか、毎回先生扱いしろなんて言えないしさ」
「これからは毎食一緒なんだもんね。もちろん大学で食べる時とか、例外だってあるけど」
「旦那さんだからね」
 そしてそれは、食事だけに限らず、なのです。何から何までとは言わないまでも、いろんなことが「一緒」なのです。なんせ、同じ部屋に住んでいるわけですし。
「お風呂どうしよっか? もう沸かしてくる?」
 僕の言葉ににこりと笑みだけした栞、僕の分も含めて空いた食器を重ね、それを持ち上げて立ち上がったのですがしかし、台所へ移動する前にこちらを振り返ってそう尋ねてきました。
「ああ、うん。お願いしていいかな」
「はーい」
 …………。
 食事だけに限らず、いろんなことが一緒。
 けれどこれについては、一緒に、とは言えませんでした。いえ、言ってもいい立場ではあるんでしょうし、言って不興を買ってしまうというようなこともないんでしょうけど。
 言えませんでした、といって言えるタイミングが今の一瞬だけだったというわけでもなく、ならば後からいくらでも挽回――挽回なんて言っちゃって、我ながら――はできるわけですが、しかしまあ、一瞬とはいえせっかく諦めたんだしということで、これについてはこれっきりにしておきましょう。
 というわけで栞が台所、そして風呂場へ向かって、一時的ながらも僕一人。大したことではありませんが、栞についてちょっと思うことがありました。
 というのも、風呂のことです。いえ、一緒に入るって話ではなくて。
 なんせ夕食には栞と家守さん、そして高次さんが来、そしてその後も栞が暫く部屋に残るわけで、僕の生活スケジュールの中で入浴というものは、寝る直前と言ってもいいようなタイミングに配置されていました。そしてそれはもちろん、栞だってそうだった筈なのです。自分の部屋に戻ってから入るわけですから、毎日よっぽど夜更かしをしていたりしない限りは。
 で、ならば今です。「もう沸かしてくる?」なんて言われてその通りにしてもらっているわけですが、今は寝る直前どころかまだ夕食直後なのです。
 もちろん、二人で一緒に暮らすことになった以上はそれで何か不自然というわけでも、ましてや不都合があるというわけでもありません。あったら言ってますしね、さっき。
 しかしそれでも、こう思ったりもわけです。「なんでこんなに早い時間に?」と。
「多分、早くベッドに入りたいってことなんだろうなあ」
 さっさと風呂に入ってしまって、早くベッドに横になりたい。その日の全ての活動を終えてから入らなければならない、というルールなんて一切ないわけですが、しかしまあ、栞はそう考えていることでしょう。そうでなければ、もうとっくにベッドに飛び込んでいることでしょうしね。自分に厳しい、というほどのことではないのですが、そうだとすれば栞らしいことで。
「……あ、そういえば」
 風呂に上がってすぐベッドに横になるということは、これって結局、「風呂は寝る直前」は満たすことになるんでしょうか。なんせベッドが新品なこともあって、暫く横になっていれば眠たくもなることでしょうし。
 …………しまった。
 なんて考えたのは、しばしぼーっとしてからのことでした。
 昨日までこの部屋は独り暮らしの男が一人で使っていた、なんてのは今更説明するまでもないことなのですが、ならばつまり、風呂はそんなにすぐ汚れるようなこともないわけです。もちろん、どのくらいの頻度で掃除をするかは人それぞれなわけですが。
 で、栞のこの遅さ。間違いなく風呂場の掃除も始めちゃってるなあ、と。
「栞ー」
 風呂場の前まで行って呼び掛けてみたところ、風呂場特有の響いた声で「はーい」と。掛かっている時間はもちろん、明らかに湯張りのそれでない水音からしても、掃除を始めているのは間違いなさそうです。
 が、それでも一応は。
「ここ開けて大丈夫?」
「ああ、うん。あはは、掃除してるだけだしね」
 だよね。
「あ、掃除じゃなかったら開けちゃ駄目ってことでもないからね?」
 だよね……いや、だよなくないかなそれは。
 ともあれ僕は浴室のドア――ドアでいいんでしょうか? この二つに折れる奴って。ともかくそのドアを開き、ならばそこには、ブラシで床を磨いている栞の姿が。
「それでも開けていいかどうかの確認くらいはするけどね」
「うん、それは是非そうして欲しいけどね」
 そりゃね。初めから一緒に入るつもりならともかく、こうして後から入り込むって流れじゃあね。……いや、自分の度胸のなさを考えると、初めから一緒に入るつもりでも確認しそうな気はしますが。
 で。
「それで孝さん、どうかした?――って、ああ、もしかしてもうお掃除済ませてたとか? 聞かずに始めちゃってたけど」
「それなんだけどさ、栞」
「ん?」
「風呂場の掃除って、どれくらいの間隔でやってる?」
「え、私は毎日やってたけど」
 そうだよね、掃除好きだもんね。
 ……いやしかし、ここは正直に言っておこう。
「僕は二日、下手したらたまに三日に一回くらいの割合だったんだよね。あー、汚いと思われるかもしれないけど」
「下手したら」とか「たまに」とか、事実とはいえ言い訳がましい単語がついつい。
「もちろん掃除してもらって困るなんてことはないんだけどね? ええと、だからこれからどうしようかっていう」
 汚いと思われるかもしれないけど、そう思われたくはない。当たり前といえば当たり前ながらそんなふうに思っている僕は、なので話をさっさと先に進めます。
 風呂掃除の周期の話。細かいことではありますが、違う人間(どれだけ親しくとも、そのことに変わりはないでしょう)が同じ部屋で暮らすのなら、似たような話はいくつも出てくることでしょう。
 もちろんこうして明言までせずとも、なんとなく、で済ませてしまって問題ないことではあるんでしょうけど。
 すると栞は、「あはは、それなら簡単だよ孝さん」と笑いながら。どうやら汚いとは思われなかったようで、などと、話を進ませたのは自分なのに我ながら小心なことで。
「簡単?」
「うん。私が毎日すればいいだけのことだし」
「…………」
「知らないわけじゃないでしょ? お掃除するのは好きなんだよ、私。だから自分しか使わないのに毎日掃除してたわけだしね、お風呂」
 もちろん知っていますとも。知る、などという言葉では物足りなくて、理解しているとかいっそ脳に刻み込まれてるとか、そんな表現を持ち出したくなるくらいに。
 なんせ僕は、掃除をしている時の栞が好きなのです。
「……頼んじゃっていい?」
「喜んで。ふふ、家族って感じだね、家事の分担って」
 心底うれしそうにしている栞。好きな掃除を頼まれたから、というのももちろんあるのでしょうが、それだけでもないのでしょう。
 家事の分担。家族って感じ。栞だけでなく僕にとっても、響きのいい言葉なのでした。
「頼んでおいて変な話なんだけどさ」
「ん?」
「見てていい? ここで」
 すると栞、「あれ」と意外そうな顔。
「いつもなら『手伝わせて』なのに」
「頼んじゃったしねえ、掃除してって。まあ、だったらここに残ること自体が変なんだけど」
「ふふ、まあ、嫌とは言わないよ。でも孝さん、一つだけ」
「なに?」
「私だからいいけど、他の人からだとちょっと変態さんみたいに見られるかもしれないよ? 掃除してる女の人が好きって」
 ……変態って、何もそこまで。女性のああいう仕草が好きとかこんなことしてるところが好きとか、飽くまでそういうありふれた話と同レベルの――とは思ったものの、しょっちゅうこうして見られている栞からすればそんな心配が出てくるのも仕方ないのかなあ、とも。
 けれど、そもそもです。
「大丈夫。『掃除してる女の人』が好きなんじゃなくて、『掃除してる栞』が好きなだけだから。栞以外の人に知られることは絶対にないよ」
「うーん、それはそれで……あはは、冗談冗談。そんなショック受けたような顔しないで大丈夫だよ」
 ぐふう。

「で、孝さん」
「ん?」
 風呂掃除が終わり――いや、僕の立場的には風呂掃除を眺め終わり、でしょうか――今度は湯張りが終わるまでの、暇な時間。居間のテーブルを二人で囲んだというか挟んだところで、栞から質問が。
「お風呂掃除の担当が決まったところでもう一個決めようと思うんだけど、お風呂、どっちが先に入る?」
 ――うむ。そりゃまあ、そういう話も出てきましょう。絶対にこうだと決めなきゃならないようなことではありませんが、でも大体は決まってるものでしょうしね。家族ごとに、どんな順番で風呂に入るかっていう。
「ちなみに栞は希望とかある? 先がいいか後がいいかって」
「うーん、そりゃまあ、どっちがいいかって言われたら後かなあ。寒くても平気っていっても、やっぱり温まってるほうが気持ちよくはあるし」
 それはなんとも期待通りの返事なのでした。でしょうともね、わざわざ寒いほうを好む理由なんかあるわけもなく。他に先を選ぶ理由があるとすれば、「誰かが入った後はお湯が汚れるから嫌」という思春期の少年少女のような理由ですが、結婚したばかりの奥さんからそれを言われたらちょっと暫く立ち直れなさそうです。
 よかった、後がいいって言ってくれて。
「じゃあそういうことでいいよ、僕が先で」
「そう言うと思ったけど、それはちょっとストップだよ孝さん」
「ん? なんで?」
 二人だけとはいえ満場一致、異見の上がりようもなく決定したかと思いきや、栞から待ったが掛かりました。しかもそれだけでなくむっとした表情を浮かべていたりもするわけですが、はて。
「孝さん、先に入りたいからそう言ったってわけじゃないでしょ? 今の」
「えーと、まあ、栞が『後がいい』って言ったからではあるけど」
 なんて言い返すからにはそりゃあ、栞が言いたいことには気付きました。気遣いだけで決められてもすっきりしないと、そういった話なのでしょう。
「その時その時だけのことで親切にしてもらうのは嬉しいし、大歓迎だけど、こういうことは駄目だよ。多分、今ここで決めた順番がこれからずーっと続くんだよ? お風呂に入る順番なんて、そりゃあ大したことじゃないのかもしれないけどさ」
「うーん、まあ、そうなんだろうけど」
「さっきは任せてくれたじゃない、お風呂掃除。あれと同じでいいんだよ、遠慮なんかしないでさ」
 さすがに、自分の行動を持ち出されると反論のしようがありませんでした。掃除の話もやり直すのかってことになっちゃいますしね。
「そうだね。ごめん、もうちょっとちゃんと話して決めよう」
 栞が言った通りこれは大した話ではなく、なので謝りまでするのは大袈裟なのかもしれませんが、しかしそう思っていつつも僕は謝るのでした。たまたま「風呂に入る順番」という大したことのない話だっただけであって、大した話でも同じことが言えるんですしね、これって。
 ――と思い直したところで栞、それまでむっとしていたその顔を、何やらこそばゆそうな表情に。
「孝さん。その、決めるにあたってさ」
「ん? うん」
「話し合うのはもちろんだけど、実際に試してみてどうかっていうのも、判断材料になると思わない?」
「実際に試す……って、そりゃあ、僕も栞もこれから風呂に入るところではあるんだけどさ」
 その順番をどうするのかって話なんだけども。
「ああ、今日と明日で順番を入れ替えてみるとかってこと?」
「いやいや。――えー、その、二人とも一番に入っちゃえばどうかなーって」
「二人とも一番?」
 なんとも矛盾した提案に首を捻ってみせたところ、あからさまに焦りを見せ始める栞。しかしはて、二人とも一番とは一体どういう――あ。
「一緒に入らない? って、いう……あはははは! もちろん冗談なんだけどね! えへへ!」
「…………」
「忘れてください……」
 自分から言い出して、自分のほうが大ダメージを負ってしまう。ううむ、前にもこんなことがあったような。
 だったら最初から止めとけばいいのに、と思う反面、いやしかしそれは僕の話の拾い方でどうとでもなるんじゃなかろうか? とも。
「いやでも、栞がそのつもりなんだったら僕はいいよ? それでも」
「あっ、いやその、忘れてとは言ったけど嘘じゃなくてさ、今の。だからあの、本当に冗談のつもりで」
「……冗談のつもりで言ってすら今みたいになっちゃうの?」
「面目ないです……」
 だから本当は冗談のつもりじゃなかったんだろう、という考え方も出来るのでしょうが、けれど栞を良く知る身としては、それはないんだろうなと。つまり、本当に冗談だったのにあの大ダメージっぷりだったんだろうなと。
 こういうところで嘘を持ち出す人じゃないですしね、栞って。いや別に褒めてるとかじゃなく。
「あの、さ」
 少し間を置いて落ち着きを取り戻したらしい栞は、落ち着いた顔と声で改めて話し始めます。
「順序っていうか段階っていうか、いきなりそういうふうなことになっちゃうのはちょっと違うかなあって。――ああ、でももちろん、もし孝さんがそうしたいって言ってくれたりした時にそれが理由で断るってほどのことじゃないんだけど」
 順序、段階、そういうふうなこと。
 ふむ、まあ、分からないでもないでしょう。
 が、一つだけ。
「ねえ栞」
「ん?」
「別に、一緒に入ったからって絶対に『そういうふうなこと』になるってわけじゃないんじゃあ?」
 大吾と成美さんだって特訓と称して――と余所様の話を持ち出すのは止めておくにしても、
「ほら、高次さんの実家でさ。二人だけじゃなかったにしても、一緒に混浴の風呂に入ったこともあるわけだし」
 という思い出には終わりまで聞かずとも気付いたのでしょう、途中で「あっ」と声を上げていた栞は、すると指摘が終わってからたっぷりと間を取ったのち、またも「あっ」と。
「うわ――――っ! わたわたわたし私、もしかして今ものすっごい恥ずかしい勘違いした!? しちゃった!? しちゃったよね!?」
「う、うん。多分」
 そりゃあ二人で一緒に風呂に入れば栞が想像したような展開にもなりましょうし、そうなる確率は高いか低いかで言えば高いのでしょうが、けれど今の栞の言い方だと、百パーセントそうなると思い込んでいたんでしょうし。いや、確率の話以前に、初めから「そうならない」という展開が無かったというべきか。
「あああ……! ああ、もうお嫁に行けない……!」
「行かれたら困るし」
 両の手の平で顔を覆い、そのうえですら僕と向き合っていられないと言わんばかりにこうべを垂れさせる栞でしたが、ともあれ僕の返事はそんなものなのでした。そりゃそうでしょうとも。
 しかしこのお嫁さんが嫁に行けないなどとのたまいだすのは、以前家守さんと高次さんがそれと同じような遣り取りをしていたような気も。しかしだからといって栞がそれを踏襲したのかどうかは不明ですが。――いや、というか、今の状態でそんなこと考えてる余裕なんてありはしないんでしょうけど。
 で。
「なんか訊くのも申し訳ない感じだけど、それで、どうしよっか? 取り敢えず、一緒に入るにしても『そういうふうなこと』はしないって約束するけど」
「あ、いや、だから、されて嫌ってほどのことじゃなくて――じゃなくてじゃなくて! ええっと、ええ!? うわあ、ど、どうしよう何言ってんの私!?」
「落ち着いてくださーい」
 こうなってしまうともう、本当に一緒に入ることになったとしても、そんな雰囲気にはなりようがないでしょう。なりかけたところで笑っちゃうでしょうしね、今の栞の混乱っぷりを思い出して。
 ともあれ栞、胸に手を当てて深呼吸。なんとも分かり易くかつそれらしい落ち付き方でしたが、しかし逆に言えば、そんな行動が必要なほど慌てていたということなのでしょう。
「ここでやっぱなしってことにしちゃうと、負けな気がする」
「負けって、何に?」
「自分に。お嫁に貰われてまでこんなことで慌ててるって、正直、落ち着いてみたらかなり許せない感じだし」
 許せないという言葉通り、言葉が覇気に満ち満ちている栞なのでした。ならば当然のように、表情のほうもそれに倣います。
 が、果たしてそうなるほどのことなのだろうか、という話もまた。
「家守さんだってなんかいっつもそんな感じだと思うけど……」
「どんな自分が正解なのかは人それぞれだよ。楓さん本人がいいんだったら楓さんはあれでよくて、だけど私は私についてそうは思わないってこと」
 家守さんが自分であれがいいと思っているかは謎ですが――しかしまあ、その謎についてすら家守さん本人、あとは精々高次さんを除いて、他の人間が口を出すべきではないと、恐らくはそういうことになるのでしょう。
 しかし、精々とはいえ高次さんが口を出していいとするならば。
「栞」
 栞の問題である今回の場合、その精々は僕に掛かるわけでして。
「な、なに?」
 強い意気込みに硬くなっていた頬。呼び掛けられると同時にそこを手で撫でられた栞は、少し驚いたような顔をしていました。
 うむ、それでよし。
「一緒に入るのはそれでいいとして、怖い顔は無しでお願いね」
「あっ、う、うん。分かった」
 わざわざそんな顔をしなくたって、栞がそういう人だってことは知ってるから――なんてことまでは、言いはしませんでしたが。照れ臭いですしね、やっぱり。
 ええ、そりゃあ知ってますとも。自分に厳しいとまでは言わずとも、自分に甘くないというか。そういうところが好きなんですしね、この人の。

 湯張り完了を知らせる音楽が聞こえてきた折、ならばと立ち上がる前に「緊張するね、やっぱり」なんて言いつつ笑っていた栞ですが、しかしまあだからと言って怖気づくようなことはなく。むしろ「そうだね」などと同調してみせた僕を、「でも頑張ろうね」と励ましてくれるのでした。
 頑張るっていうのは何か違うような気もしますけどね、意気込みは分かるにしても。
 ……で。
「が、が、頑張ろうね?」
「いや、タイミング的には今がまさにその頑張ってる最中なんだけどね」
 脱衣場。脱衣場というからにはそこは脱衣をするための場所なわけで、ならばそりゃあまあ、脱衣するわけです。まさか服着たまま入るとか、そうでなくても風呂に入るのに水着着用とか、そんなことはないわけで。
 現実的なところで言うならタオルを巻く、でしょうか。それくらいなら笑い話になりこそすれ不自然とまでは言わないのでしょうが、しかしまあ、頑張ろうと言っている手前、それはちょっとということで、ならばそれすらもないわけで。
 いやね? ぶっちゃけ、今更照れるような場面でないのは分かってるわけですよ? 裸を晒すったってそこは夫婦、別に初めてというわけでなし。
「……なんでこんなに緊張するんだろうか」
「な、なんでだろうねえ? だって、今までだって、ねえ?」
 栞も僕と同じようなことを考えていた、というか僕と同じく自分にそう言い聞かせていたようです。
 どちらか一人でもすぱっとやっちゃえば、もう片方がそれに引っ張られるって形ですんなりいきそうなものなんですけどねえ。
 ――とはいえしかし、だからといって完全に手が止まるということもなく。なんだかんだでゆっくりもっさり、僕も栞も脱衣を完了させるのでした。
 ら、その途端。
「お背中お流ししますね!」
「あー、それまだちょっと早い」
 力強くタオルを握り締めながらやけっぱちな勢いでそう声を上げる栞。けれど脱衣を完了させた途端ということで、現在位置は未だ脱衣場なのでした。
「ほ、他に言うことが思い付かなくて」
「うーん……」
 それはまあ、僕もそうです。何か言えったって、その、やっぱり目も意識も栞の裸体にばかり向いてしまうわけでして。
 話もそちらに向けてしまって問題があるってわけじゃないんですよ? そりゃあ。けれど栞のこの様子じゃあ、それも躊躇われるというか。……いやすみません、強がりました。僕自身も無理です。
「あ、そうだ」
「なになに!?」
 浴場に踏み入りつつ話を切り出したところ、えらく食い付きのいい栞なのでした。頑張ってるなあ、言葉通り。
「背中を流すって話で思ったんだけど、栞、身体洗う時ってどこから洗い始める?」
「おお、定番の話題」
 ですともさ。緊急とまでは言わずとも窮した場面ではありますもの、使える知識は使います。知識、なんて大仰なものではないんでしょうけど。
「顔だね。その前に頭だけど、それを別とするなら」
「あれ? 顔も別扱いじゃない? こういう時って」
「え、そう?」
「…………」
「…………」
 いや、言葉に詰まるとこじゃないでしょうに。
「ま、まあそうでなくとも僕も頭の次に顔だから、どこから差がでるのかなってことで顔の次は?」
「ええと、首って顔のうちに入るのかな」
「あー、じゃあ、それも別で」
「となると……」
 ちなみにそんな遣り取りをしているうちに浴場への移動はとうに終わっており、ならば僕と栞は、シャワーを浴びるでもなく立ち呆けです。寒い。
 実際に動いて記憶を引き出そうとしているのか、顔や首を洗っているような動きをしている栞。そんな彼女に僕は、「シャワー浴びていい?」と。寒いのです。一番風呂ですし。
「あ、ど、どうぞどうぞごゆっくり」
 慌てた調子でそう返されたところで、いやわざわざ許可を貰うようなことじゃないじゃいか、と。ええ、僕だって慌てておりますとも。


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