(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第六十章 生きる、ということ 十四

2014-08-31 20:54:07 | 新転地はお化け屋敷
 ちなみにその「混浴をご一緒した」というのは厳密に言えば一度でなく二度あったことなのですが、しかしその二度目についてはノーカウントということにしておきます。顔を確認しなかった、というか背中しか見えていなかったので、その時はたまたま居合わせた他のお客さんだと思い込んでいたわけですしね。しかもそれが家守さんだったと知ったのは、混浴を出た後どころか後日になってからだったりもしましたし。
「やらしいなあ」
 そんな話になったところで栞、厭らしい笑みを浮かべながらそんなふうに。
「化粧の話なんだからそっちじゃなくて顔の話でしょうに」
 そういう反応は予想できていたというか、冗談であれ本気であれ間違いなくそうなるところではあるのでしょう。ということなので、
「私、どこの話とは言ってないけどね?」
「言わずもがなだしね?」
 来ると分かっている引っ掛けで動じるようなことも勿論ながらないのでした。
「まあまあしぃちゃん、あの時はみんなタオル巻いてたんだし」
 家守さんとしても二度目はノーカウントなのか、持ち出してきたのは一度目の話。二度目に大学の友人を連れて入った際にはすっぽんぽんだったことを考えると、その一度目の入浴に気楽さ、そしてタオル着用での入浴がマナー違反であることに後ろめたさがあったりもするのですが、しかしそれはどちらも後付けではあります。後からどう思おうと必死だったんですよ、あの時は。
「混浴かあ。この中で俺だけご一緒できてないんだよなあ、一度も」
 とここで言葉以上に残念そうにしながらそう言ったのは、高次さん。この四方院家の次男ということなら最も縁がありそうなところですが、逆に一人だけご一緒できてないんですよね。
 となれば今日にでも暇があれば、なんてふうにも思わないではないわけですが、
「あー、うーん、それアタシとしてはちょっとキツいなあ」
 却下という程ではないにしろ、言い出す前から家守さんに難色を示されてしまうのでした。とはいえそれは自分が裸になることに対してではなく、裸の高次さんと一緒なのが、ということではあるんでしょうけどね。タオル巻いたり背中向けてたりしたにはせよご一緒したことはあるわけですし、そしてそれより何より家守さんですし。
「何だったら楓だけパスにして他のみんなで、とか?」
「そんな寂しいことになるくらいだったら我慢してでも付いて行くけどさあ。こーちゃんのお友達の女の子――異原さんだっけ? も、頑張ってたっていうし」
 確かにそれはそうなんですけど、自分が裸になることは大して問題にならないという一点について、異原さんよりは随分マシな位置にいらっしゃるってことになるんですけどね。
 ……いやまあ、それを理由に「だから大丈夫ですよ」なんてふうには言いませんけどね? 栞や成美さんならともかく僕が、というか男が混浴を勧めるというのは、冗談ということではあるにせよ「そういう話」になってしまうわけですし。
 で。
「んなことより今は化粧の話だよ高次さん」
「受難が続くな」
「ごもっともで」
 すいませんね家守さん。僕が謝るようなことでもないんでしょうけど。
「つーわけでこーちゃんの話に戻させてもらうけど、一回化粧バッチリなしぃちゃんに見惚れて、というか見惚れ過ぎて怒られたってことなら、その後また見惚れちゃったっていうのは? そっちは怒られたりしなかったの?」
「二回目っていうのは式が始まってからのことで、だからまあ、人目も憚らずに怒ったりはできなかったっていうのもあるのかもしれませんけど……」
 と、向けられた疑問に答え始めつつ、その怒ったりしかねなかった人を横目でちらっと窺ってみたりもしていたところ、
「ないよ、そんなこと」
 断言されてしまうのでした。
「あの時はちゃんと私を見てくれてたしね。なんて、感覚の話でしかなくはあるんだけど」
「嫌ではなかった、ということか?」
「うん」
 成美さんの問い掛けにはにっこりとそう返した栞は、するとその笑みを若干照れ臭そうなものへ移行させつつ、引き続き成美さんに対してこんなふうにも。
「一度ちゃんと分かってくれたことを二度も繰り返す人じゃないしね」
「ははは、成程な」
 いやあ、お恥ずかしい。
 …………。
「方向音痴とすぐ自分を悪者にしちゃう癖を除いて、だけど」
「うん、同じこと考えるよねそりゃあ」
 さすが生活を共にする人、といったところでしょうか。 
ただ、前者は怒られるどころかむしろ面白がられているくらいですし、後者についてもまあ、注意こそ頻繁にされているものの怒られるという程ではないわけで、ならば特例として除くまでもなく初めから別扱いなのかもしれませんけどね。
「いいねえ、その良いところも悪いところも飲み込んでる感じ。いかにも奥さんっぽい」
「逆に言って、そうでもないと夫婦になろうなんて思えないですし」
 家守さんからのお褒めの言葉には少々照れながらそう返す栞でしたが、でもまあ、その通りではあるのでしょう。悪いところには目をつぶって、なんて調子じゃあ同棲なんてどう考えても上手くいきそうにないですし、悪いところを直し直されした後で、ということであっても、同棲を始めた後にまた別の悪いところが見付かったら、という話にもなるわけですしね。
 ……式の直後にこんなことを言うのも何ですが、何だかんだ言っても元は赤の他人同士なわけです。何十年と一緒に暮らしていく中で癇に障るようなことが何一つない、なんてことはまずないんでしょうしね。
 で、もちろんながらそれらは僕と栞にのみ当て嵌まる話であるわけもなく、
「まあね」
「うむ」
 と、家守さん成美さんのお二人はそれぞれの「元赤の他人」を見遣りながら、かつどういうわけか勝ち誇ったような顔だったりもしながら、栞の言い分に同意してみせるのでした。
「……いや楓、なんか『言ってやった』みたいな顔してるけど、旦那側からしても同じことだからな?」
「ですよね」
 もちろんそれはそうでしょう、ということで、高次さんと大吾からも同様に。
「キシシ、これからも宜しくね。――っていかんいかん、こういうのはこの後だ」
「ん? はっは、そういえばそうだったな俺達の場合」
 そういえば、なんて扱いで出てくる話でないのは間違いないわけですが、そうなんですよね。僕達と大吾達はもう済んでますけど。
 で、そういう話になってくると、
「さすがにそろそろ出ましょうか、僕達」
 時間には余裕がある、という状況は未だ崩れてはいないわけですが、しかしだからといってギリギリまで居座る必要があるってわけでもないんですしね。ということでそうお尋ねしてみたところ、
「ね。お話するだけならここじゃなくてもいいんだし」
 どうやら栞も同じ意見であるらしく、家守さん高次さんが返事をしてくるよりも先にそう付け加えてくるのでした。
 僕一人だけが言ったのであれば「いいっていいって」というような流れでこの状態が継続されたのかもしれませんが、しかし二人揃ってとなってくると、なかなかそうもいかないわけでして、
「んー、そう? それじゃあ……」
「まあ無理して居座ってもらうこともないしな」
 ということに。
 と思ったら、
「しめしめ、提案を受け入れる体で化粧の話を回避できそうだぞ」
「少しは隠そうとしたらどうだ?」
 ということでもあるらしいのでした。いやまあ、途切れそうになった化粧の話を再開させたのは家守さんなわけで、ならばまあ本気で避けようとしたわけではないんでしょうけどね。
 ということでいいんですよね?
「隠して若返れるってんならいくらでも隠すけどね――とまあそれはともかく、じゃあしぃちゃんこーちゃん、アタシらはお先に失礼」
 なんだかそれも冗談という以上に嘘臭いなあ、なんて思っていたところ、想定以上にさっさと引き上げに掛かる家守さん。となれば高次さん、そして大吾と成美さんもそれに続こうとするわけですが、
「あ、いえ、私達ももう出られますよ?」
「荷物取ってくるだけですし」
 今いるこの部屋に置いてあるものに対して「取ってくる」なんて言い方になってしまうのは、ここより狭い部屋を住居としているからなのでしょうか――なんてことを管理人さんの目の前で口に出しはしませんが、ともあれどうやらまた栞と同意見だったようでした。
 が、
「無理して居座ってもらうこともない、なんてうちの旦那が言ったばっかりではあるけど、まあまあそれは一旦忘れて最後にちょっとだけ二人だけになってみてもいいんじゃない? こっから先はずっと集団行動だよ? もう」
「全部済んだあとにこっそり二人だけで混浴に行ったりでもしない限りはな」
「いやオマエ、そこは別に混浴に限定しなくてもいいだろ」
 それは察してくれってことなんじゃないかなあ大吾。と、そういう話ではなくて。
「……どうする?」
「そうさせてもらっちゃおうか」

「二人にそういう機会を与えることで、自分達の時も当然のようにそれを享受することができるわけだよ。しかも後ろに待ってる人がいないからゆっくりと」
 などと言い残して去っていった家守さんではありましたが、式が済んだ後にもまだ披露宴が残っている、というのは果たして伝えておいた方が良かったんでしょうか? 伝えておきませんでしたけど。
「で」
「はい」
「また二人だけになったわけですが」
「わけですね」
 立ち話も何なので、向かい合うようにして手近なテーブルに着いたりしながら状況を再確認。また、ということで今初めてこうなったというわけではないのですが、しかしそれでもやはり先程までの賑やかさ、そして部屋の広さもあってか、静かだな、と。
 ただまあ、そうはいってもそれは居心地が悪いという話ではありません。居心地が悪いということであればそれは「間が持たない」ということになってくるのでしょうが、なんせ僕達はついさっき式を挙げたばかりの新婚夫婦です。間がどうの、なんてことを気にする必要がない――少々今の立場と雰囲気に浸ってみるなら、挟んでいるテーブル一つ分の身体的な距離はともかく、精神的なほうについては間なんてものがそもそも存在しない、というか。
「ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ」
 会話の上では脈絡もなくぺこりと頭を下げてみたところ、しかしあちらも動じることなくそれに応じてくれました。恥ずかしい思考だというのを承知で思ったことではありますが、案外的を射ていたりするのかもしれませんね。間なんてものが存在しない、というのは。
 で、だとするならこのまま視線を交差させながらただ黙ってじっとしているだけでも良い時間を過ごせることになるのでしょうが、
「こうなっちゃうと、なんかあれだね」
 と、栞。
「着替えのためだけに来た部屋だったけど、ここを出るのが勿体無くなっちゃうっていうか」
「また来るんだけどね、一応」
「あはは、そうなんだけどね」
 これもまた間の話になるのでしょうが、特に変に思うこともなくそんな指摘ができたというのは、僕も同じようなことを考えたからなのでした。
 この後の家守さんと高次さんの式に参列するためまたスーツと私服に戻った僕と栞ではありますが、披露宴の際にはまたまたそれ用のスーツとドレスに着替えるわけで、ならばその際にはやはりこの控室を使用することにはなるわけです。
 が、それが分かっているのに今この部屋を出てしまうのが惜しい、という話。
「二人の結婚式っていうのは、ここまでだからさ」
 テーブルの上に左腕を伸ばし、指もぴんと張りながらそんなふうに言う栞。一方右手の指は大事そうに――話の内容を考えれば、名残惜しそうに、ということになるのでしょうか――左手に嵌められた指輪の上を、滑らせているのでした。
「まあ、ね」
 ここまでと同じく、ここでも同意してみせる僕。しかし今回はそれだけでなく、三組同時の披露宴なんて他じゃ絶対ないんだろうなあ、なんてことを考えてしまいちょっと笑ってみせたりも。
 と、しかしその笑みについてはともかく、僕も栞と同じように。つまりは同じように薬指に指輪を嵌めた左手を前に伸ばし、ならば同じようにそこにある栞の左手と、指と指を絡めるようにして繋ぎ合わせました。
 かち、という指輪同士がぶつかった小さな音が耳に届いたところ、するとそれに続いて、くす、という小さな笑い声も。
「今までだって沢山教えてもらってきたけど……こんな感じなんだね、幸せって」
「みたいだね」
 一方的に教えるだけのものではない以上、僕だってそれは栞から沢山教えてもらってはきました。なのでこれがこういうものだというのはそれらの体験を通して知っている筈なのですが、だというのにどうしてだか、イメージをそれに合わせることができないでもいるのでした。
「感動し過ぎて泣いちゃうとか、あると思ってたんだけどなあ」
「今に限らなかったら割とあるよね、栞は」
「今に限る話なんだけどね? いや、今というか、一緒に暮らしてることについての話に限るってことにはなるんだろうけど、その中でも特に今はっていうか……うーん、上手く言えてないね私」
「あはは、大丈夫。分かるよ僕も」
 何の事件もない――胸の傷跡の跡やお互いの家族の話すら絡めない、僕達の今の生活についての話。朝に揃って目を覚ました時や一緒に食事を摂る時に涙を流せとは言いませんが、今こうして互いが幸せの中にあるということを確認した瞬間でさえ、ということであるのなら、やはりこれはこういうものなのでしょう。
 涙を流すほど激しいものではなく、けれどくっきりと力強くはある。
 ささやかな幸せ――なんて、聞き慣れた言い回しで表現するのはちょっと勿体無いような気はするんですけどね。
「それにしても、慣れるものだねえ」
「ん?」
 表情を変えずに問い掛けてきた栞は、僕が軽く首を傾けてみせたところ、繋いでいる手に二、三度軽く力を加えながら「手」と。
「こうして繋いでるの、違和感がないっていうかさ」
「そりゃまあ、しょっちゅう、とまでは言わないけどそこそこ繋ぐ機会もあるしね」
 と反射的にはそう返しつつ、でも考えてみればそれについては機会が減ってるのかな、とも。一緒に歩きはしなくなったわけですしね、登下校。
 とはいえ減る一方というわけでもなく、他の機会というと例えば夜――ああまあ、こういう状況だからといってそこまで明言しないではおきますけど。
 なんてことを考えたり考えなかったことにしたりしていたところ、
「いやいや」
 と、栞。
「案外そんな簡単なものでもないんだよ? 自分の右手左手ですら、親指が前に来る方を逆にするだけで違和感あったりするし」
 とのこと。
 ……なのですが、
「試せないね?」
「試させないしね?」
 というわけで、繋いでいる左手を解放してくれはしない栞なのでした。まあいいですけどね、僕だってもう暫くは繋いだままでいたいところですし。なんせ仰るとおりに違和感がない、どころか心地良くすらあるわけですし。
「そりゃあ私達こういう関係なんだし、だからこうして手を繋ぐのもそんな珍しいって程のことじゃあないんだけどさ。でもそれにしたって、回数以上のことなんじゃない? この形が『いつもの形』になっちゃうっていうのは」
「んー、そうかもね。言われてみれば」
 頻度がどうあろうと、という話。ここで出てこざるを得ないのは、やはり僕達が知り合ってからここまでの期間の短さなのでしょう。いや、こうして手を繋いでいることが主題である以上、付き合い始めてからを始点とすべきなのかもしれませんが――当然ながら、そうすると更に期間は短くなるわけで。
 なんせ、一日一回手を繋いでいたとしても百回に届かないのです。それもギリギリではなく、百回を区切りとして持ってくること自体が間違いだと言いたくなるくらい全然に。たったそれだけの回数でこうして馴染み切ってしまっているというのであれば、これは確かに栞の言う通りということになってくるのでしょう。
「手だけの話だと、大したことじゃないふうに思えちゃうかもしれないけどさ。でもこう、具体的な形があるものっていうの? それでこんなふうになるっていうのは、やっぱり凄いことだと思うんだよね。だから――」
「心なんかそれより簡単なんだし、じゃあもうとっくにデロデロに混ざり合っちゃってるよね、みたいな?」
「あはは、そんな言い方はしなかったかなあ。そうだけど」
 まあ大体想像が付きますしね。形あるもの、なんて言い方が出てきたら。とはいえもちろん、それはこちらにも同様の感覚があってこそ、ではあるんでしょうけど。
「でも、簡単っていうのはあんまり聞こえが良くないかな。って、ああ、孝さんの言い方が悪いっていう話じゃなくてね?」
 少々びくっとさせられましたが、どうやらそういうことではないようで一安心。
 というわけでそれを簡単とすべきか否かという話なのですが、
「うーん、いや、簡単ってことでいいんじゃないかなあ。そうなれる相手を見付けるのは難しいってことになるだろうけど、今してるのってそこから後の話だろうし」
 要するには知り合った後、もしくは付き合い始めた後の話ということになるわけです。ここでもまた。
 そりゃまあその付き合いの中で怒ったり怒られたり泣いたり泣かれたりしてはきましたが、しかしそれらはなるようになった、したいようにしてきただけであって、別に苦難の道のりだったというわけではないんですしね。もちろん、お互いに。
「そっか」
 と、これまで以上に頬を緩ませながらそう言った栞は、
「孝さんのそういうところ、大好き」
 とも。
 …………。
 結婚式ともなると「愛」という言葉の使用頻度が急上昇しているわけで、その中でそれを口にされてみると、どういうわけだか妙に気恥ずかしいのでした。今日がこういう日というだけであって、これまではそれこそ手を繋ぐ並によくあることだった筈なんですが。
「あはは、照れた照れた」
「すいませんね。僕もだよ、みたいなこと言えなくて」
「大丈夫。とっくにデロデロに混ざり合っちゃってますから、それくらい言われなくたって知ってます」
「持ち上げてくれてる筈なのにこの敗北感……」
 ここまで来ても敵わないものは敵わないままなんですね、やっぱり。
 と言ってもまあ、栞のそういうところが大好き、ということにはなるわけですが。
「さてさて、いい感じに砕けてきたところで」
「ところで?」
 その台詞から、機を見て、ということになるのでしょう。何やら動きを見せ始めた栞でしたが、「砕けてきたのは間違いないけどこの状況でそれは『いい感じ』ってことになるのかなあ」なんてふうに思わないでもありません。しかしデロデロ言い出して砕かせ始めたのはこの僕なので、それについては思うだけで口にはしないでおきました。
 で、栞が見せ始めた動きについてなのですが、繋いだ左手の指を繋いだまま器用に……というかかなりぎこちなく動かし、右手の薬指から結婚指輪ではないもう一つの指輪を外してみせるのでした。
 明らかに邪魔になっているので手を離そうかともそりゃあ思ったわけですが、しかしどうもそういうわけではないらしい、というか意地でもこのまま行動を完了させようとしているようだったので、そのままにさせてもらっておきました。
 で、ならばそれはともかく。
 もう一つの指輪こと、婚約指輪。通常そちらも結婚指輪と同じく左手の薬指に嵌めるものなのですが、式の際の指輪交換もあり、その間だけ右手側に避難――という言い方もどうかとは思いますが、まあ、移動させていたわけです。
 そしてそれを今、左手側に戻すと。
「あんまり見ない気もするけどね、同じ指に二つも指輪付けてる人って」
 その二つめの指輪を嵌め直しながら、そんなふうに言う栞。タイミング的に照れ隠しのように聞こえなくもなかったのですが、しかし照れるような場面でもないでしょうし、ならばそういうことでもないのでしょう。
 という状況からの判断もある一方、こうしている間も繋いだままの左手から照れに類するようなものが感じ取れない、ということもあって、そう結論付けておきました。
「だからって両手に一つずつっていうのも見ないと思うけど」
「となると殆どの人が結婚指輪しかしてないか……あはは、そもそも見る側が他人の指輪に関心を向けてないかのどっちかだね。で、はい、出来上がり」
 言っている間に婚約指輪の移動が終わり、これで栞の左手薬指には二つの指輪が。
 といったところで栞、見せ付けるように指をくいくいさせながら、
「へっへっへー、いーだろー」
 などと。
 ただし薬指だけ動かすというのは難しいようで中指と人差し指も釣られて動いてしまっており、ぱっと見では何が言いたいのかよく分からない動きだったりも。でもまあ、それについては勘弁しておいてあげましょう。
「そりゃ男は結婚指輪だけだけど、そもそも婚約指輪って僕がプレゼントしたものだからね? 自慢されても喜ぶだけだよ? そんなに喜んでくれますかって」
「あっ」
 はい。
「いや、あはは、もちろん分かってるけどね?」
「ふふふ、だよねもちろん」
 もっと言えば結婚指輪だって交換と称して互いに贈り合っている以上、婚約指輪と同様男からプレゼントしたもの、ということにはなるわけです。
 というところまで言ってやろうかとは思いましたが、あんまり虐めるのもどうかとは思いますし、あと僕達の場合は四方院さんに用意してもらったものだというのもあって、これについてもやはり勘弁しておいてあげることに。
 そしてそんな僕の対応に対しては栞、必要以上に胸を張って「ともかく」と。
「指輪の位置を直したところで、これでようやく孝さんの奥さんである『日向栞』が完成したことになるわけです」
「奥さんってことなら結婚した瞬間からそうだったけど……でもまあ、形の上では、ってことならそうなるかな」
「うむ。で、形というものがどれだけ大事か知らない孝さんではないわけです」
 言いながら、栞の右手は自身の胸へと。
 なるほど。形、ね。
「ちょっと反則っぽいけどね、それ持ち出してくるのは」
「うーん、言い方の問題かなあ。反則じゃなくて奥の手ってことでひとつ」
 形を失っても大事な、いや、大事だからこそ形を失わせたそれを持ち出されてしまうと、僕は栞の意に添わざるを得なくなってしまいます。ただそれは、もちろんのこと、それについての栞の意を尊重していて、かつ正しいと信じられるからこそではあるわけですが。
 ……正しい、という点を取り上げるなら、確かにそれは反則というよりは奥の手ということになるのでしょう。
「で、孝さん」
「ん?」
「この話、というか婚約指輪のとこからだけど、なんで砕けた雰囲気になるまで待ってたと思う?」
「ああ、そう言えば言ってたねそんなこと。なんで?」
 全く考える様子を見せないまま即座に訊き返した僕に、けれど栞は軽く笑みを浮かべすらしながらこう答えてきました。
「泣いちゃうかなって」
 …………。
 そうか。話の流れで出てきたんじゃなくて、栞の中では最初から、それは傷跡の跡と同じ話だったのか。


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