「ふふっ。――やっぱり、こっちのほうがいいよね」
見えない人が多いという状況だからか、口数が少なめだった栞さん。しかし謝罪の対象として注目されるぐらいなら周りが賑やかなのを眺めているほうがいい、ということだろう。同じく謝罪の対象だった僕も、それは同じだ。
「そうですね」
謝られたことを迷惑だと言いたいわけじゃない。むしろ、「それが謝るに値する行いである」と思ってもらえたのが嬉しいくらいだ。幽霊のことなんて知ったばかりだというのにそんなの、実にいい人達じゃないですか。
そしていい人達だからこそ、今の騒がしい状況のほうがしっくりくる。
「ははあ、なるほど。それでチューズデーと怒橋君を二人きりにした、というわけですね。んっふっふ、お優しいんですね、哀沢さんは」
「優しいなどという類いのものではないさ。あいつには少々負い目があったからな、それを清算しようとしただけだよ」
「負い目、ですか。ふむ、詳しくお聞きしても?」
「はは、詳しく言うほどのことでもないがな。――わたしと大吾が同じ部屋に住むようになって、そうしたら途端に今日のこれだ。やはりあいつはわたしと大吾が一緒になるまで身を引いていてくれたのか、とな」
「なるほど」
「ワウ」
「あの、でも、哀沢さんは怒橋さんと一緒になったんでしょう? だったらそうやって気を遣わなくてもいいんじゃあ。堂々と一緒に散歩するのは、駄目なんですか?」
「いやナタリー、あのな……はは、そう言えばこれもチューズデーに言われたんだったか」
「なんですか?」
「お前は猫だったが、今ではもうすっかり人間だ、とな。確かにその通りらしい。そしてどうやら人間は、男女の仲に関して言えば、一度に一人の相手としか想い合えないようでな。――という人間の見方でチューズデーの立場を考えると、こうしてやりたくもなるのだよ」
「うーん、やっぱり人間って不思議です……。それに、チューズデーさんは『男女の仲の相手』として怒橋さんを見てたわけじゃないんじゃあ?」
「もしここにわたしがいなかったらどうなっていただろうか、ってな。わたしという邪魔がなく思う存分大吾と触れ合えていたなら、いずれわたしのようになっていたかもしれん。わたしだって、初めからあいつを異性として好いていたわけじゃないしな」
「でも、チューズデーさんは猫です。今でも」
「わたしだって、姿が人間になったからってすぐに中身まで人間になったわけじゃないさ。服を着ずに外へ出ようとしたこともある。……まあしかし、今言った『一度に一人の相手』というのは初めからそうだったんだがな、実は」
「人間じゃないのに、ですか?」
「うむ。だから、猫だった時のわたしの夫――あー、つがい、か。つがいはな、ただの一人だけだった。もちろんそのつがいは他の相手を探して去ってしまったがな」
「……寂しくはなかったんですか? ずっと一人だったなんて」
「子ども達も立派に育って去ったあととなると、さすがに寂しい時もあったさ。だがその寂しさは他の男では拭えない、と思ったのだ。だからわたしはそれから先、思い出にすがって生きていた。天寿を全うするまでな。……そうそうには、悪くない生き方だったと思うぞ?」
「んー……ごめんなさい。やっぱり、難しいです」
「ナタリー。哀沢さんは何も、無理に分かって貰おうとしているわけではないと思いますよ?」
「うむ、その通りだ。言ってみればただの幸せな思い出自慢だな」
「今も幸せそうだっていうのは、私でも分かるんですけど……」
「もちろんだ。しかしそっちは現在進行中でな、残念ながら『思い出』の話はそう思い付かん」
「ワウゥ」
「おやおやジョン、残念ですか? それとも、ホッとしましたか?」
「……しまった。時間を潰すだけのつもりが、本腰入れて話してしまったな。楽の趣味の話じゃああるまいに」
「そんな、私の趣味話ごときと一緒にされるなんて恐れ多いですよ哀沢さん。んっふっふ」
「そういう捉え方をするのか、お前は」
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「あら何かしら」
暫く賑やかな時間が続いて、しかし僕達はまだ、食堂から動いていなかった。賑やか過ぎて動くのを忘れていたというか――食堂で行うべき食事は、とっくに済んでいるんですけどね。まあ、急いで移動する必要があるわけでもないですけど。
「相談に来た口宮さんと当事者の異原さんはいいとしても、音無さんと同森さん達は、どうしてあっさり信じてくれたんですか?」
音無さんについては小さなごたごたもあったけど、それは本当に小さなものでしかない。逃げ出して気絶して介抱されて説明されてようやく、などこかの誰かとは大違いだ。
真っ先に答え始めたのは、一貴さん。
「あたしは……そうねえ、第一には静音ちゃんが泣いちゃってたからかしら?」
泣いてたからですか? という疑問が顔に表れたか、一貴さんが僅かに口の端を持ち上げる。
「静音ちゃんが泣いてるのに嘘で追い詰め続けるなんて、異原さんはそんな女の子じゃないもの。嘘じゃないとなったら、じゃあ本当のことよね」
「ワシもそれかの。まあ話に聞いただけで、実際に泣いてたところを見たわけじゃないが」
「……泣いてはいませんけど……わたしもそれと……殆ど同じだと思います……」
なるほど大いに納得のいく答えだ、と内心頷いてみるも、しかし一貴さん、何やら弟さんに生暖かい視線。
「……何じゃ、変なこと言うたか?」
「見れなくて残念なんだ? 静音ちゃんの泣いてたところ」
「何を言うか! そんなもん、小さい頃にいくらでも見たわ!」
「あ、あの……だから、泣いては……いないですって……。それに、小さい頃の話なんて……」
……まあ、止めたほうがいいのだろう。放置したらそれこそ音無さんが泣いてしまう展開になりかねない。多分。
「だ、第二は何なんですか? 一貴さんが信じた理由」
「それはねえ」
話の逸らしっぷりが凄いと思ったら、戻りっぷりもまた凄い。まるでたった今からかっった弟さんの存在なんて忘れてしまったかのようだ。「ふん、まったく」「あうう……」なんて声が周囲から聞こえてきても、それは変わらず。
弄り終わっても名残惜しいと思わせるくらいにニヤニヤし続けてる管理人さんとは、同じ弄るにしてもまた趣きが違うもので。
「あたしみたいな男がいちゃうのよ? 喜坂さんのことくらい、それに比べたら不思議度合いが不足よぉ。違うかしら?」
大いに違うと存じますが、という雰囲気が僕以外の方々からも。
しかし一貴さんは一向に圧される気配はなく、
「人に関わる不思議なら、まずは受け入れてあげないと。疑うのは自分の不利益を感じる時か、疑わなきゃならない理由ができてからでも遅くないわ。じゃないとあたし、真っ先に自分を疑わなくちゃならなくなるもの」
そういうことを笑顔で言っちゃいますか、お兄さん。……格好いいと思ったのは、別に間違いじゃないですよね?
「ふん。受け入れるくらいなら正して欲しいもんじゃな、身内としては」
「あら駄目よ、このあたしを好きになってくれた人がいるんだもの。我慢してちょうだい」
「へっ、そもそも一貴さんのこと言えるほど没個性でもねえだろおめえは。ムッキムキで『ワシ』なんて、今時どこにいるんだっつの」
「本当に没個性のあんたよりはマシだわよ。ステレオタイプな不良のナリしちゃって」
「な……ナリって言っても、髪の色だけなんじゃあ……」
事前に、と付け加えるべきなのかどうかはともかく、なだめに入る音無さんがまた個性的なのが何とも。
「髪の色って言ったら、私も茶髪ですね」
「あ、喜坂さんのはいいんですよ。似合ってるし可愛いし」
とてつもなく同意します異原さん。
「でもそれって、染めてるんですか?」
「いえ、地毛です。……変ですか? やっぱり」
「いえいえそんなこと。羨ましい――けど、あたしには似合わないかなあ」
そこからは「そんなことないと思いますよ?」「いやいやいやいや」なんておだてと謙遜の応酬が暫く続いたのですが、その途中で一貴さんが「男子諸君、黒と茶色はどっちが好み?」なんて議題を持ってきた。実際に栞さんの髪の色なんて見えているはずもなく、しかしその割には見えているかのような順応をしてみせる辺り、ただものではない人なのかもしれない。もちろん、それ以外の意味でもだけど。
で、それに対する返答。
「別にどっちでもいーっすね」
「むう、黒……かの、やっぱり。茶色らしい喜坂さんには悪いが」
「俺も黒ですね。もっと言うなら長めなほうが良かったり」
「あれ、茶色派って僕だけですか?」
口宮さん以外は思いっきり自分の彼女に影響されてるような気もしますが、と言うかそうだとしか考えられないのですが、まあその彼女さんがたが目の前にいるんじゃあ、仮に本心がそうじゃないにしてもそう応えるしかないのでしょう。
そして口宮さん以外は、ということで、
「別に文句があるわけじゃないけど、あんただけそういう答えってのは気に掛かるわね引っ掛かるわね。もうちょっと空気読んでもいいんじゃないの?」
とのお言葉。さっきこれと関連する件で口宮さんの頭に平手打ちをかましたのは、水に流したのか開き直ったのか。まあ、こういう人と言えばこういう人なのかもしれないけど。
「あら、こんなのは考えようよ? 異原さん。髪の色がどうでもいいって言うなら口宮くんはきっと、異原さんが異原さんであるだけで満足ってことなのよぉ。現状に満足してるなら、わざわざそこに変化は望まないわよねぇ?」
「そっ、あっ、えっあんた本当に今の一貴さんの? いや、えっとあのその」
「落ち着けアホ」
「まあ、いくら何でもそろそろおかしいね。どういうことなのか、大方の見当はついているが。あれだろう? わたしと大吾を二人きりにしようと哀沢が持ちかけた話なのだろう? なあ、大吾」
「完っ璧にその通りだよ」
「くくく、やはり哀沢か。お前から持ち掛けるような話ではないしね」
「なんだ、気分悪い話だってんなら謝るし、今からでも引き返すけど」
「気分が悪いというほどでもないさ。そういう気遣いが心苦しいと思いはしてもね」
「悪い」
「ふ、そうやって頭を下げられるようになったのか。となれば幸せなのだろうね、あいつは」
「……ご機嫌取りで頭下げてるわけじゃねえぞ」
「分かっているさ。だからこそ、だよ。少し前のお前は、何かあっても言い返してばかりだったろう? そういうところが面白くもあったから、それが悪いとまでは言わないがね」
「なら、それでなんで成美が幸せだってことになるんだ?」
「簡単さ。お前にそんな変化をもたらすことができるほど近しい存在になれたから、だな。惚れ込んだ相手と親密になるのは、誰にとっても幸せだろう?」
「…………」
「おいおい、そこで申し訳なさそうな顔をしてくれるな。全く、実に分かりやすい」
「つったって、俺」
「ハッキリ言っておくが――わたしは確かにお前が好きだ。わたし達の中で一番好きだ。だがそれは、異性としてではない。友人としての好き、なのだよ」
「そりゃ、前にも聞いたけど。でもよ、その――オレと成美が同じ部屋に住み始めた途端に今日の話だと、それだけって感じじゃあ。……悪い、自惚れてるだけかもしんねえな」
「……あながち、自惚れだと言い切ることもできんがね」
「え?」
「哀沢は人間になった。もしもわたしが同じようにしていたら、わたしもお前を異性として好いていたのかもしれない。まあ、もともと人間に近い恋愛感を持っていた哀沢ほど、すんなりとはいかなかっただろうがね」
「人間に近い、か」
「ふむ、訳知り顔だね。いいことだ。一人の相手をずっと想い続けるなど珍しい考え方なのだが、哀沢はそうだった。もちろん、珍しいと言っても間違っているわけじゃあない。おかげで、心の底から人間の男を愛せているのだからね。お前からも愛しているだろう? 元は猫であるはずの、あいつを」
「……ああ」
「しっかり愛してやれ。あいつは現在、お前一人しか愛せないのだからね」
「…………」
「申し訳なさそうな顔をするなと言っているではないかね。――しかしまあ、これは丁度いい。哀沢に感謝だね」
「丁度いいって、何がだよ?」
「問題があるなら解決せねばならないだろう? つまり、今ここでその申し訳なさそうな顔を見納めにしてやろうと言うのさ」
「……どうすりゃいいんだよ、そんなの」
「これも簡単さ。異性だ友人だの際のところでウジウジしているから問題に着手し辛いのであってだね――おほん。つまり、わたしから告白したという状況を想定したうえで、わたしを振れ。何なら実演してもよろしいが?」
「き、急に何言い出すんだよ」
「……大吾、好きだ。前からずっと好きだった。わたしと一緒に……いや、わたしと付き合ってはくれないか?」
さて。いろいろありましましたが、お昼休みはそんなに長くないのです。と言っても五十分もあるんですけど、まあ長いだ短いだはさておいて、午後の講義の時間なのです。
先ほどまで食堂で騒いでいたメンバーの中で午後から講義があるのは、明くん、異原さん、一貴さんの三名。というわけで、残りのメンバーは帰宅のお時間なのです。
で。
「音無さんと一緒じゃなくていいんですか?」
あまくに荘までの五分の道のり。僕と栞さんに並んで歩くのは、駅に向かう同森さん。付き合っていると聞いた以上は「へえそうですか」で済ませられるはずもなく、少々お尋ね申し上げてみる。
するとこちらを向くのは、苦い顔。
「そういうことを言ってくるような人じゃったか、日向くんは」
「ああいえいえ、意地悪とかじゃなくて」
と言ってそういう気持ちがまるでなかったと言えばそりゃ嘘ですが、まあ、ねえ?
「駄目だよ、孝一くん」
なんて言う栞さんも楽しそうにしているところを見ると、やっぱり、ねえ?
「何もずっと一緒じゃなけりゃならん、というわけでもないじゃろう。……まあ当然、こういう仲になった以上、それ相応の行動はするつもりじゃが」
「それなんですけど、同森さんと音無さんって幼馴染みなんですよね? 最近なんですか? その、付き合いたいとか思うようになったのって」
と質問しておいてから、心に小さな違和感が。はて、僕はどうしてこんなことを尋ねているのだろう? こういう話に興味があるのは否定しないけど、それにしたってぶしつけにこんな質問を投げ掛けるほど、積極的な興味だっただろうか?
――やっぱりこれって、対象があの人だから?
「いや、別に……まあ、大分前からじゃの。あいつを……その、好きだと、思っとったのは」
質問しておいて自問自答という我ながらよく分からない行動をしているうちに、もやが掛かったようにぼそぼそとではあるものの、答え始めていた同森さん。――あ、とんでもなく失礼だな自分で尋ねておいて。
「大分前からなんじゃが……しかし、どうして今の今まで?」
僕の質問に対する返答だったはずなのに、どうしてだか疑問形。栞さんが「同森さん?」と独り言の調子で呟くも、しかしそれが呼び掛けの調子であったところで同森さんの耳に栞さんの声は届かず、なので聞こえたか聞こえなかったかと言われれば確実に聞こえていなくて、だから同森さんは止まらない。
「何でなんじゃろうなあ? はて、少なくとも高校卒業までは、毎朝のように顔を合わせてたんじゃがなあ」
栞さんが一緒にいると知ってはいても、同森さんには僕しか見えていない。だから同森さんは、僕のほうを向いた。
「何でなんじゃろうな?」
――はてさて、ごっつい問題を引っ張り出してしまったもので。そんな「面白いなぞなぞ思い付いた」みたいな嬉しそうな顔で訊かれても、僕には到底分かりませんよ同森さん。
「うーん、やっぱり告白するのが怖かったから、かな? 真っ先に思い付くのは」
分からなければ探っていけばいい、ということですか栞さん。なるほど、そりゃ名案。
「告白するのに不安があったからじゃないか、って栞さんが」
「ふむ」
耳にして即イエスかノーではなく、しばし考える時間を置く同森さん。で、返答。
「……多分、違うだろうの。いや、多分でしかないんじゃが」
「自信があったってことですか?」
「自信があったんですか、って栞さんが」
ううむ、なぜ栞さんに先手を取られるんだろう。
「自信。むう……なかった、とは言い切れんの。幼馴染みだもんで仲は良かったし――と言うか実際のところ、あっちから好かれてるとも思っとったし。いや、自惚れてるだけかもしれんがの」
「分かったろう? 自惚れなどではないさ。わたしが告白をし、大吾が受け入れなかった。それはもう事実なのだからな、これで」
「……ごめんな、チューズデー」
「もう聞いた。一度目、お断りの意味での『ごめん』は聞き入れるが、二度目、謝罪の意味での『ごめん』は聞き入れてあげないよ? 謝られるどころか、こちらから礼を言うべきなのだからね」
「聞き入れてくれなくてもいい。オレが勝手に謝りてえだけだ」
「……やれやれ、振られる時くらいは後腐れのないようにしたいものだが――そこで優しくしてくれるな。ちょっとはこっちの気持ちも汲んでくれないものかね」
「…………」
「まあ、そういう人間でなければ、そもそもこんなややこしい話にはなっていないのだろうがね。――しかし、それもここまでだ。異性としての好意は思い出になって、友人としての好意だけが続いていく。とういわけで、これからもよろしく頼むよ?」
「ああ。ありがとうなチューズデー、オレなんかのことを好きでいてくれて」
「こちらこそ、と言ってしまってもいいのかね。これからも変わらず好きだろうから、良ければ散歩に付き合ってやってくれると嬉しいよ。ただし、次からは哀沢も一緒にね」
「ああ。嫌がっても引っ張り出してやるよ」
「じゃあ、うーん……」
あっさりとノーを突き付けられてしまった栞さん、下を向いて悩んでいる。ならば今ここで僕が何か質問を思い付けば栞さんより早く――とは思うもののしかし、何も思い付かない。まだまだありったけの質問をぶつけたわけでもなし、考えられる可能性はいくらでもありそうなものなんだけどなあ。
いやそもそも、僕はどうして栞さんより早く何かを言おうとしてるんだろう? 言うことも決まってないし、それにどうせ、それが栞さんの質問であったとしても、僕が伝えることになるのに。
「ん? あー、ここらでもう帰り道の半分くらいになるんかの?」
「あ、そうですね」
こんな返答ならさらっと口からでるんだけどなあ。
「楽でいいのう。電車通学だと、定期代も結構になるし。――いやしかし、一人暮らしっちゅうのはそもそも大変なものじゃな。かはは」
「始めてみたらそうでもないですよ? まあ、隣人に恵まれたってのもありますけどね」
そうなれば僕の目は自然とその隣人の一人である栞さんへ向いてしまうのですが、この期に及んでわざわざ明言しなくても、自分もそれに含まれていると思ってもらえているんでしょう。にっこりと微笑んでもらえました。
「ほう、そういうもんか」
一方で一人暮らしを大変なのだろうと笑った同森さんはしかし、そうでもないという僕の答えに興味ありげな表情を見せた。話に出た隣人というものの過半数――というかほぼ全てが幽霊だというのは、いろいろと説明した中でもう伝えてある。それでこの反応なのなら少なくとも、特別視するような存在ではないということは伝わっているんだろう。……と、なんでこの話にはするりと舌が回ったんだろうか?
そんなことを考えている間に、またしても栞さん。
「こういうことを訊いてもいいかどうか不安なんですけど、告白はどっちからだったんですか?」
「都合が悪いなら無理に答えてもらわなくてもいいですけど告白はどっちからだったんですか、って栞さんが」
なんでこの話になるとこうなんだろうとしつこく思いつつも、同森さんが腕を組んで眉を寄せているところを見てしまうと、意識がそちらへ。
「言うことに抵抗があるわけじゃないんじゃが……はて、どちらとも言い切れんのう。あいつから呼び出されて会いに行って――告白するつもりで呼び出したのはまあ、言葉の節々やら妙にあわあわした様子やらで、会ってすぐに察しがついたんじゃが」
「どうなったんですか?」
「どうなりました?」
「ずっとあわあわしたままいつまで経っても本題に入ってもらえなかったんじゃ。なんで、告白そのものはこっちから」
その瞬間栞さんが慌てた様子で口元に手をあてがい始め、それはどう見ても笑いを堪えていた。どうせ笑っても気付かれないんですから、とつい声を掛けそうになったのは僕も堪えておく。
「まあ、そういう顔されるのも無理はないかの」
「あれ、僕どんな顔してます?」
「笑っとるな、思いっきり」
両方堪えるのは無理だったようです。
「喜坂さんもかの?」
「そうですね」
「ちょ、ちょっと孝一くん」
同森さん本人もそんなことを訊いていながら笑ってしまっていたりするのですが、しかし僕と栞さんより早くその笑い顔を元に戻して前を向く。
「じゃがまあ、あいつはそういうやつじゃからな。小さい頃からずっと――いや、待てよ?」
僕から視線を外して思い出話に移行しかけ、しかし何かを思い付いたかと思うと、その視線を再び僕へ。
「日向くんは高校の頃にあいつと同じクラスになったことがあるんじゃったな? あいつの印象とか、どうじゃった? まあ正直言って目立たんやつじゃし、覚えてないかもしらんが」
「印象、ですか」
ここで初めて僕と栞さんでなく、僕個人への質問がきた。自分でも何を拘っているのかは分からないけど、これでようやく僕が答えられる。返答だって思い付くし。――とここで、その返答の内容とともに、僕は気がついた。どうして自分が答えることに拘ったのか、そしてどうしてその答えが思い付けなかったのか。
僕は音無さんが好きだった。
初めからそれしかなかったのだ、僕の頭の中には。返答がそれしか存在しないのなら、返答に合致する質問がこない限り、答えられるはずがない。二と答えたいがために一足す一という問題を待ち続けていたようなものだ。
そして僕は、それが言いたくて言いたくて仕方がなかった。こんなことを聞かされたって同森さんは困るだけだろうし、以前その話をしたとは言っても、栞さんだって困るだろう。なら、どうしてそんなに言ってしまいたいのか?
簡単だ。僕は音無さんを過去の人――つまり、思い出の人にしたかった。いや、自分の心の中ではとっくにそうなってはいるんだろう。なんたって今、栞さんという女性に持つ感情に嘘偽りはないからだ。同時に、その感情こそが、音無さんを思い出の人にしたいと僕に思わせる働きを持つからだ。
ということはつまり、より正確に言い換えるならば、音無さんが既に思い出の人であると周囲にアピールしたかったのだろう。そうすることで、心の中でだけそうなっているという曖昧な状態のものを、揺るぎないものにしたかったのだろう。
――しかしそれは、許されることなのだろうか?
見えない人が多いという状況だからか、口数が少なめだった栞さん。しかし謝罪の対象として注目されるぐらいなら周りが賑やかなのを眺めているほうがいい、ということだろう。同じく謝罪の対象だった僕も、それは同じだ。
「そうですね」
謝られたことを迷惑だと言いたいわけじゃない。むしろ、「それが謝るに値する行いである」と思ってもらえたのが嬉しいくらいだ。幽霊のことなんて知ったばかりだというのにそんなの、実にいい人達じゃないですか。
そしていい人達だからこそ、今の騒がしい状況のほうがしっくりくる。
「ははあ、なるほど。それでチューズデーと怒橋君を二人きりにした、というわけですね。んっふっふ、お優しいんですね、哀沢さんは」
「優しいなどという類いのものではないさ。あいつには少々負い目があったからな、それを清算しようとしただけだよ」
「負い目、ですか。ふむ、詳しくお聞きしても?」
「はは、詳しく言うほどのことでもないがな。――わたしと大吾が同じ部屋に住むようになって、そうしたら途端に今日のこれだ。やはりあいつはわたしと大吾が一緒になるまで身を引いていてくれたのか、とな」
「なるほど」
「ワウ」
「あの、でも、哀沢さんは怒橋さんと一緒になったんでしょう? だったらそうやって気を遣わなくてもいいんじゃあ。堂々と一緒に散歩するのは、駄目なんですか?」
「いやナタリー、あのな……はは、そう言えばこれもチューズデーに言われたんだったか」
「なんですか?」
「お前は猫だったが、今ではもうすっかり人間だ、とな。確かにその通りらしい。そしてどうやら人間は、男女の仲に関して言えば、一度に一人の相手としか想い合えないようでな。――という人間の見方でチューズデーの立場を考えると、こうしてやりたくもなるのだよ」
「うーん、やっぱり人間って不思議です……。それに、チューズデーさんは『男女の仲の相手』として怒橋さんを見てたわけじゃないんじゃあ?」
「もしここにわたしがいなかったらどうなっていただろうか、ってな。わたしという邪魔がなく思う存分大吾と触れ合えていたなら、いずれわたしのようになっていたかもしれん。わたしだって、初めからあいつを異性として好いていたわけじゃないしな」
「でも、チューズデーさんは猫です。今でも」
「わたしだって、姿が人間になったからってすぐに中身まで人間になったわけじゃないさ。服を着ずに外へ出ようとしたこともある。……まあしかし、今言った『一度に一人の相手』というのは初めからそうだったんだがな、実は」
「人間じゃないのに、ですか?」
「うむ。だから、猫だった時のわたしの夫――あー、つがい、か。つがいはな、ただの一人だけだった。もちろんそのつがいは他の相手を探して去ってしまったがな」
「……寂しくはなかったんですか? ずっと一人だったなんて」
「子ども達も立派に育って去ったあととなると、さすがに寂しい時もあったさ。だがその寂しさは他の男では拭えない、と思ったのだ。だからわたしはそれから先、思い出にすがって生きていた。天寿を全うするまでな。……そうそうには、悪くない生き方だったと思うぞ?」
「んー……ごめんなさい。やっぱり、難しいです」
「ナタリー。哀沢さんは何も、無理に分かって貰おうとしているわけではないと思いますよ?」
「うむ、その通りだ。言ってみればただの幸せな思い出自慢だな」
「今も幸せそうだっていうのは、私でも分かるんですけど……」
「もちろんだ。しかしそっちは現在進行中でな、残念ながら『思い出』の話はそう思い付かん」
「ワウゥ」
「おやおやジョン、残念ですか? それとも、ホッとしましたか?」
「……しまった。時間を潰すだけのつもりが、本腰入れて話してしまったな。楽の趣味の話じゃああるまいに」
「そんな、私の趣味話ごときと一緒にされるなんて恐れ多いですよ哀沢さん。んっふっふ」
「そういう捉え方をするのか、お前は」
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「あら何かしら」
暫く賑やかな時間が続いて、しかし僕達はまだ、食堂から動いていなかった。賑やか過ぎて動くのを忘れていたというか――食堂で行うべき食事は、とっくに済んでいるんですけどね。まあ、急いで移動する必要があるわけでもないですけど。
「相談に来た口宮さんと当事者の異原さんはいいとしても、音無さんと同森さん達は、どうしてあっさり信じてくれたんですか?」
音無さんについては小さなごたごたもあったけど、それは本当に小さなものでしかない。逃げ出して気絶して介抱されて説明されてようやく、などこかの誰かとは大違いだ。
真っ先に答え始めたのは、一貴さん。
「あたしは……そうねえ、第一には静音ちゃんが泣いちゃってたからかしら?」
泣いてたからですか? という疑問が顔に表れたか、一貴さんが僅かに口の端を持ち上げる。
「静音ちゃんが泣いてるのに嘘で追い詰め続けるなんて、異原さんはそんな女の子じゃないもの。嘘じゃないとなったら、じゃあ本当のことよね」
「ワシもそれかの。まあ話に聞いただけで、実際に泣いてたところを見たわけじゃないが」
「……泣いてはいませんけど……わたしもそれと……殆ど同じだと思います……」
なるほど大いに納得のいく答えだ、と内心頷いてみるも、しかし一貴さん、何やら弟さんに生暖かい視線。
「……何じゃ、変なこと言うたか?」
「見れなくて残念なんだ? 静音ちゃんの泣いてたところ」
「何を言うか! そんなもん、小さい頃にいくらでも見たわ!」
「あ、あの……だから、泣いては……いないですって……。それに、小さい頃の話なんて……」
……まあ、止めたほうがいいのだろう。放置したらそれこそ音無さんが泣いてしまう展開になりかねない。多分。
「だ、第二は何なんですか? 一貴さんが信じた理由」
「それはねえ」
話の逸らしっぷりが凄いと思ったら、戻りっぷりもまた凄い。まるでたった今からかっった弟さんの存在なんて忘れてしまったかのようだ。「ふん、まったく」「あうう……」なんて声が周囲から聞こえてきても、それは変わらず。
弄り終わっても名残惜しいと思わせるくらいにニヤニヤし続けてる管理人さんとは、同じ弄るにしてもまた趣きが違うもので。
「あたしみたいな男がいちゃうのよ? 喜坂さんのことくらい、それに比べたら不思議度合いが不足よぉ。違うかしら?」
大いに違うと存じますが、という雰囲気が僕以外の方々からも。
しかし一貴さんは一向に圧される気配はなく、
「人に関わる不思議なら、まずは受け入れてあげないと。疑うのは自分の不利益を感じる時か、疑わなきゃならない理由ができてからでも遅くないわ。じゃないとあたし、真っ先に自分を疑わなくちゃならなくなるもの」
そういうことを笑顔で言っちゃいますか、お兄さん。……格好いいと思ったのは、別に間違いじゃないですよね?
「ふん。受け入れるくらいなら正して欲しいもんじゃな、身内としては」
「あら駄目よ、このあたしを好きになってくれた人がいるんだもの。我慢してちょうだい」
「へっ、そもそも一貴さんのこと言えるほど没個性でもねえだろおめえは。ムッキムキで『ワシ』なんて、今時どこにいるんだっつの」
「本当に没個性のあんたよりはマシだわよ。ステレオタイプな不良のナリしちゃって」
「な……ナリって言っても、髪の色だけなんじゃあ……」
事前に、と付け加えるべきなのかどうかはともかく、なだめに入る音無さんがまた個性的なのが何とも。
「髪の色って言ったら、私も茶髪ですね」
「あ、喜坂さんのはいいんですよ。似合ってるし可愛いし」
とてつもなく同意します異原さん。
「でもそれって、染めてるんですか?」
「いえ、地毛です。……変ですか? やっぱり」
「いえいえそんなこと。羨ましい――けど、あたしには似合わないかなあ」
そこからは「そんなことないと思いますよ?」「いやいやいやいや」なんておだてと謙遜の応酬が暫く続いたのですが、その途中で一貴さんが「男子諸君、黒と茶色はどっちが好み?」なんて議題を持ってきた。実際に栞さんの髪の色なんて見えているはずもなく、しかしその割には見えているかのような順応をしてみせる辺り、ただものではない人なのかもしれない。もちろん、それ以外の意味でもだけど。
で、それに対する返答。
「別にどっちでもいーっすね」
「むう、黒……かの、やっぱり。茶色らしい喜坂さんには悪いが」
「俺も黒ですね。もっと言うなら長めなほうが良かったり」
「あれ、茶色派って僕だけですか?」
口宮さん以外は思いっきり自分の彼女に影響されてるような気もしますが、と言うかそうだとしか考えられないのですが、まあその彼女さんがたが目の前にいるんじゃあ、仮に本心がそうじゃないにしてもそう応えるしかないのでしょう。
そして口宮さん以外は、ということで、
「別に文句があるわけじゃないけど、あんただけそういう答えってのは気に掛かるわね引っ掛かるわね。もうちょっと空気読んでもいいんじゃないの?」
とのお言葉。さっきこれと関連する件で口宮さんの頭に平手打ちをかましたのは、水に流したのか開き直ったのか。まあ、こういう人と言えばこういう人なのかもしれないけど。
「あら、こんなのは考えようよ? 異原さん。髪の色がどうでもいいって言うなら口宮くんはきっと、異原さんが異原さんであるだけで満足ってことなのよぉ。現状に満足してるなら、わざわざそこに変化は望まないわよねぇ?」
「そっ、あっ、えっあんた本当に今の一貴さんの? いや、えっとあのその」
「落ち着けアホ」
「まあ、いくら何でもそろそろおかしいね。どういうことなのか、大方の見当はついているが。あれだろう? わたしと大吾を二人きりにしようと哀沢が持ちかけた話なのだろう? なあ、大吾」
「完っ璧にその通りだよ」
「くくく、やはり哀沢か。お前から持ち掛けるような話ではないしね」
「なんだ、気分悪い話だってんなら謝るし、今からでも引き返すけど」
「気分が悪いというほどでもないさ。そういう気遣いが心苦しいと思いはしてもね」
「悪い」
「ふ、そうやって頭を下げられるようになったのか。となれば幸せなのだろうね、あいつは」
「……ご機嫌取りで頭下げてるわけじゃねえぞ」
「分かっているさ。だからこそ、だよ。少し前のお前は、何かあっても言い返してばかりだったろう? そういうところが面白くもあったから、それが悪いとまでは言わないがね」
「なら、それでなんで成美が幸せだってことになるんだ?」
「簡単さ。お前にそんな変化をもたらすことができるほど近しい存在になれたから、だな。惚れ込んだ相手と親密になるのは、誰にとっても幸せだろう?」
「…………」
「おいおい、そこで申し訳なさそうな顔をしてくれるな。全く、実に分かりやすい」
「つったって、俺」
「ハッキリ言っておくが――わたしは確かにお前が好きだ。わたし達の中で一番好きだ。だがそれは、異性としてではない。友人としての好き、なのだよ」
「そりゃ、前にも聞いたけど。でもよ、その――オレと成美が同じ部屋に住み始めた途端に今日の話だと、それだけって感じじゃあ。……悪い、自惚れてるだけかもしんねえな」
「……あながち、自惚れだと言い切ることもできんがね」
「え?」
「哀沢は人間になった。もしもわたしが同じようにしていたら、わたしもお前を異性として好いていたのかもしれない。まあ、もともと人間に近い恋愛感を持っていた哀沢ほど、すんなりとはいかなかっただろうがね」
「人間に近い、か」
「ふむ、訳知り顔だね。いいことだ。一人の相手をずっと想い続けるなど珍しい考え方なのだが、哀沢はそうだった。もちろん、珍しいと言っても間違っているわけじゃあない。おかげで、心の底から人間の男を愛せているのだからね。お前からも愛しているだろう? 元は猫であるはずの、あいつを」
「……ああ」
「しっかり愛してやれ。あいつは現在、お前一人しか愛せないのだからね」
「…………」
「申し訳なさそうな顔をするなと言っているではないかね。――しかしまあ、これは丁度いい。哀沢に感謝だね」
「丁度いいって、何がだよ?」
「問題があるなら解決せねばならないだろう? つまり、今ここでその申し訳なさそうな顔を見納めにしてやろうと言うのさ」
「……どうすりゃいいんだよ、そんなの」
「これも簡単さ。異性だ友人だの際のところでウジウジしているから問題に着手し辛いのであってだね――おほん。つまり、わたしから告白したという状況を想定したうえで、わたしを振れ。何なら実演してもよろしいが?」
「き、急に何言い出すんだよ」
「……大吾、好きだ。前からずっと好きだった。わたしと一緒に……いや、わたしと付き合ってはくれないか?」
さて。いろいろありましましたが、お昼休みはそんなに長くないのです。と言っても五十分もあるんですけど、まあ長いだ短いだはさておいて、午後の講義の時間なのです。
先ほどまで食堂で騒いでいたメンバーの中で午後から講義があるのは、明くん、異原さん、一貴さんの三名。というわけで、残りのメンバーは帰宅のお時間なのです。
で。
「音無さんと一緒じゃなくていいんですか?」
あまくに荘までの五分の道のり。僕と栞さんに並んで歩くのは、駅に向かう同森さん。付き合っていると聞いた以上は「へえそうですか」で済ませられるはずもなく、少々お尋ね申し上げてみる。
するとこちらを向くのは、苦い顔。
「そういうことを言ってくるような人じゃったか、日向くんは」
「ああいえいえ、意地悪とかじゃなくて」
と言ってそういう気持ちがまるでなかったと言えばそりゃ嘘ですが、まあ、ねえ?
「駄目だよ、孝一くん」
なんて言う栞さんも楽しそうにしているところを見ると、やっぱり、ねえ?
「何もずっと一緒じゃなけりゃならん、というわけでもないじゃろう。……まあ当然、こういう仲になった以上、それ相応の行動はするつもりじゃが」
「それなんですけど、同森さんと音無さんって幼馴染みなんですよね? 最近なんですか? その、付き合いたいとか思うようになったのって」
と質問しておいてから、心に小さな違和感が。はて、僕はどうしてこんなことを尋ねているのだろう? こういう話に興味があるのは否定しないけど、それにしたってぶしつけにこんな質問を投げ掛けるほど、積極的な興味だっただろうか?
――やっぱりこれって、対象があの人だから?
「いや、別に……まあ、大分前からじゃの。あいつを……その、好きだと、思っとったのは」
質問しておいて自問自答という我ながらよく分からない行動をしているうちに、もやが掛かったようにぼそぼそとではあるものの、答え始めていた同森さん。――あ、とんでもなく失礼だな自分で尋ねておいて。
「大分前からなんじゃが……しかし、どうして今の今まで?」
僕の質問に対する返答だったはずなのに、どうしてだか疑問形。栞さんが「同森さん?」と独り言の調子で呟くも、しかしそれが呼び掛けの調子であったところで同森さんの耳に栞さんの声は届かず、なので聞こえたか聞こえなかったかと言われれば確実に聞こえていなくて、だから同森さんは止まらない。
「何でなんじゃろうなあ? はて、少なくとも高校卒業までは、毎朝のように顔を合わせてたんじゃがなあ」
栞さんが一緒にいると知ってはいても、同森さんには僕しか見えていない。だから同森さんは、僕のほうを向いた。
「何でなんじゃろうな?」
――はてさて、ごっつい問題を引っ張り出してしまったもので。そんな「面白いなぞなぞ思い付いた」みたいな嬉しそうな顔で訊かれても、僕には到底分かりませんよ同森さん。
「うーん、やっぱり告白するのが怖かったから、かな? 真っ先に思い付くのは」
分からなければ探っていけばいい、ということですか栞さん。なるほど、そりゃ名案。
「告白するのに不安があったからじゃないか、って栞さんが」
「ふむ」
耳にして即イエスかノーではなく、しばし考える時間を置く同森さん。で、返答。
「……多分、違うだろうの。いや、多分でしかないんじゃが」
「自信があったってことですか?」
「自信があったんですか、って栞さんが」
ううむ、なぜ栞さんに先手を取られるんだろう。
「自信。むう……なかった、とは言い切れんの。幼馴染みだもんで仲は良かったし――と言うか実際のところ、あっちから好かれてるとも思っとったし。いや、自惚れてるだけかもしれんがの」
「分かったろう? 自惚れなどではないさ。わたしが告白をし、大吾が受け入れなかった。それはもう事実なのだからな、これで」
「……ごめんな、チューズデー」
「もう聞いた。一度目、お断りの意味での『ごめん』は聞き入れるが、二度目、謝罪の意味での『ごめん』は聞き入れてあげないよ? 謝られるどころか、こちらから礼を言うべきなのだからね」
「聞き入れてくれなくてもいい。オレが勝手に謝りてえだけだ」
「……やれやれ、振られる時くらいは後腐れのないようにしたいものだが――そこで優しくしてくれるな。ちょっとはこっちの気持ちも汲んでくれないものかね」
「…………」
「まあ、そういう人間でなければ、そもそもこんなややこしい話にはなっていないのだろうがね。――しかし、それもここまでだ。異性としての好意は思い出になって、友人としての好意だけが続いていく。とういわけで、これからもよろしく頼むよ?」
「ああ。ありがとうなチューズデー、オレなんかのことを好きでいてくれて」
「こちらこそ、と言ってしまってもいいのかね。これからも変わらず好きだろうから、良ければ散歩に付き合ってやってくれると嬉しいよ。ただし、次からは哀沢も一緒にね」
「ああ。嫌がっても引っ張り出してやるよ」
「じゃあ、うーん……」
あっさりとノーを突き付けられてしまった栞さん、下を向いて悩んでいる。ならば今ここで僕が何か質問を思い付けば栞さんより早く――とは思うもののしかし、何も思い付かない。まだまだありったけの質問をぶつけたわけでもなし、考えられる可能性はいくらでもありそうなものなんだけどなあ。
いやそもそも、僕はどうして栞さんより早く何かを言おうとしてるんだろう? 言うことも決まってないし、それにどうせ、それが栞さんの質問であったとしても、僕が伝えることになるのに。
「ん? あー、ここらでもう帰り道の半分くらいになるんかの?」
「あ、そうですね」
こんな返答ならさらっと口からでるんだけどなあ。
「楽でいいのう。電車通学だと、定期代も結構になるし。――いやしかし、一人暮らしっちゅうのはそもそも大変なものじゃな。かはは」
「始めてみたらそうでもないですよ? まあ、隣人に恵まれたってのもありますけどね」
そうなれば僕の目は自然とその隣人の一人である栞さんへ向いてしまうのですが、この期に及んでわざわざ明言しなくても、自分もそれに含まれていると思ってもらえているんでしょう。にっこりと微笑んでもらえました。
「ほう、そういうもんか」
一方で一人暮らしを大変なのだろうと笑った同森さんはしかし、そうでもないという僕の答えに興味ありげな表情を見せた。話に出た隣人というものの過半数――というかほぼ全てが幽霊だというのは、いろいろと説明した中でもう伝えてある。それでこの反応なのなら少なくとも、特別視するような存在ではないということは伝わっているんだろう。……と、なんでこの話にはするりと舌が回ったんだろうか?
そんなことを考えている間に、またしても栞さん。
「こういうことを訊いてもいいかどうか不安なんですけど、告白はどっちからだったんですか?」
「都合が悪いなら無理に答えてもらわなくてもいいですけど告白はどっちからだったんですか、って栞さんが」
なんでこの話になるとこうなんだろうとしつこく思いつつも、同森さんが腕を組んで眉を寄せているところを見てしまうと、意識がそちらへ。
「言うことに抵抗があるわけじゃないんじゃが……はて、どちらとも言い切れんのう。あいつから呼び出されて会いに行って――告白するつもりで呼び出したのはまあ、言葉の節々やら妙にあわあわした様子やらで、会ってすぐに察しがついたんじゃが」
「どうなったんですか?」
「どうなりました?」
「ずっとあわあわしたままいつまで経っても本題に入ってもらえなかったんじゃ。なんで、告白そのものはこっちから」
その瞬間栞さんが慌てた様子で口元に手をあてがい始め、それはどう見ても笑いを堪えていた。どうせ笑っても気付かれないんですから、とつい声を掛けそうになったのは僕も堪えておく。
「まあ、そういう顔されるのも無理はないかの」
「あれ、僕どんな顔してます?」
「笑っとるな、思いっきり」
両方堪えるのは無理だったようです。
「喜坂さんもかの?」
「そうですね」
「ちょ、ちょっと孝一くん」
同森さん本人もそんなことを訊いていながら笑ってしまっていたりするのですが、しかし僕と栞さんより早くその笑い顔を元に戻して前を向く。
「じゃがまあ、あいつはそういうやつじゃからな。小さい頃からずっと――いや、待てよ?」
僕から視線を外して思い出話に移行しかけ、しかし何かを思い付いたかと思うと、その視線を再び僕へ。
「日向くんは高校の頃にあいつと同じクラスになったことがあるんじゃったな? あいつの印象とか、どうじゃった? まあ正直言って目立たんやつじゃし、覚えてないかもしらんが」
「印象、ですか」
ここで初めて僕と栞さんでなく、僕個人への質問がきた。自分でも何を拘っているのかは分からないけど、これでようやく僕が答えられる。返答だって思い付くし。――とここで、その返答の内容とともに、僕は気がついた。どうして自分が答えることに拘ったのか、そしてどうしてその答えが思い付けなかったのか。
僕は音無さんが好きだった。
初めからそれしかなかったのだ、僕の頭の中には。返答がそれしか存在しないのなら、返答に合致する質問がこない限り、答えられるはずがない。二と答えたいがために一足す一という問題を待ち続けていたようなものだ。
そして僕は、それが言いたくて言いたくて仕方がなかった。こんなことを聞かされたって同森さんは困るだけだろうし、以前その話をしたとは言っても、栞さんだって困るだろう。なら、どうしてそんなに言ってしまいたいのか?
簡単だ。僕は音無さんを過去の人――つまり、思い出の人にしたかった。いや、自分の心の中ではとっくにそうなってはいるんだろう。なんたって今、栞さんという女性に持つ感情に嘘偽りはないからだ。同時に、その感情こそが、音無さんを思い出の人にしたいと僕に思わせる働きを持つからだ。
ということはつまり、より正確に言い換えるならば、音無さんが既に思い出の人であると周囲にアピールしたかったのだろう。そうすることで、心の中でだけそうなっているという曖昧な状態のものを、揺るぎないものにしたかったのだろう。
――しかしそれは、許されることなのだろうか?
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