(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十章 期待と不安と 一

2009-10-03 20:52:34 | 新転地はお化け屋敷
 ある程度の睡眠時間さえ挟めば、目覚ましがなくても起きれるほうです。おはようございます、204号室住人、日向孝一です。
 これまでは目が覚めて暫く経つと栞さんがここへやってきて――目が覚めた時点でもういる、ということもありましたが――二人で朝食を摂っていました。が、今朝はそうではなく、なので栞さんがいないこの部屋において唯一、栞さんに関連するものであるところのやたらにリアルな熊の置物へ、代わりに「おはようございます」と言ってみました。
 返事がないので両手を掲げ、熊と同じ威嚇のポーズで向き合ってみました。
 がおー。
 何をやってるんだ僕は。

「はーい」
 203号室、玄関口。返事とともにガチャリと開いたドアから出てくるのは、言うまでもありませんが栞さんです。
「ちょっと待っててね、すぐ出るよ」
 僕が口を開くよりも前にそう言って、栞さんは再度部屋の奥へ。
 今日は月曜日。月曜日は一限から講義があり、なので同行する栞さんを呼びに訪れたというわけです。栞さんが204号室へ来なくなっても結局は僕のほうからこうして顔をだすわけですが、まあ、あの約束の本質は「単純に会っている時間を減らそう」というものではないので、こんなふうに一見ちぐはぐな行動にもなってしまいます。
「お待たせー」
 本当にすぐ出てきました。まあすぐそこの大学へ赴くのに荷物があるわけでなし、そんなものなのでしょう。もちろん、学生である僕はカバンを持っているわけですが。
「いつも食べてたものが急になくなっちゃったら、身体のほうが『お腹空いた』って勘違いしないかな?」
「ああ、そういうのはあるかもしれませんねえ。いくら幽霊でも」
 歩き始めながら、切り出しはそんな会話。ここ数日間は僕の部屋で朝食をとっていた栞さんですが、それはなしにしようということで本日は――というか本日からこの先ずっと、栞さんは僕の部屋で朝食をご一緒することがなくなりました。時間単位ではなく機会単位で考えて二人でいるのを減らそう、ということなのです。
「でも栞さん、僕の部屋で食べないからって、何も食べちゃいけないってわけでもないんですから」
「ん? どういうこと?」
「どういうことって――栞さんが栞さんの部屋で、自分の朝ご飯を作ればいいだけの話じゃないんですか?」
 まさかここでそんな反応が返ってくるとは思ってもみなかったので、もしかして自分が何かおかしいことを言っているのかと不安になったりもしたのですが、
「あ」
 驚いたような目をされてしまいました。
「……気付かなかったんですか? もしかして」
「ごめん。今かなり、恥ずかしい」
 驚いた目はさっと下を向いてしまいました。まあ、階段を下りている最中だったのでさほど不自然なわけでもないのですが、それとこれとは別問題でしょう。
 階段を下りきってあまくに荘正面玄関を抜け、更に少し歩いてからようやく、栞さんは顔を上げました。
 ただし、上げ過ぎて天を見上げるほどに。
「あー、こりゃあ駄目だー。浮かれ過ぎていろいろすっ飛んじゃってるなー」
 何故か棒読みな口調で空高くそう呟いた栞さん、そのまま暫く空を見上げ続け、そしてガクンと重力に任せた自由落下。鞭打ちも辞さない覚悟なのでしょうか。何を覚悟した結果がこうなんだって話ですけど。
「いやいや、お腹が空かないっていうなら、そうなってしまうことも充分に在り得るんじゃないかと」
「在り得ちゃったから駄目なんだよう……」
 今度はいじけているようでした。うむむ、朝から落差の激しいことで――と思ったら今度はしゃっきりと顔を上げ、
「でも、今日気付けたからいいよね!『あんまりイチャイチャするのは止めにしよう』のおかげで気付けたんだもんね! 大成功だよね!」
「だ、大丈夫ですか栞さん?」
「――――…………。うん、大丈夫じゃない……」
 空元気でした。
 まあ、賑やかなので僕としてはいいんですけども。
「いやでも本当、朝ご飯なしにして良かったよ。『朝ご飯は孝一くんが作ってくれるものだ』なんて、なんかもう、お料理教えてもらってるのにごめんなさいっていうか……」
 落ち込んだ声のままで前向きな栞さん。変幻自在です。
「料理好きとしてはそれ、ある意味願ったり叶ったりだったりもしますけどね。なのでまあ栞さん、そう落ち込まずに」
 言いながら、ぽん、と肩を叩いてみました。初めから下を向いた顔で「うん」と控えめに頷く横顔は儚げで、それはそれで良かったりしないでもないです。もちろんそういう問題じゃあないんですけど。
「……あ、そうだ。もういっこ忘れてた」
 え? まだ何か?
 今のようなことがもう一回起こるのかと思うと、それはそれで良かったり――じゃなくて、不安になります。しかしはてさて、食事のこと以外で何か特別なことってありましたっけ?
 ところが栞さん、何があったかはともかく、今度の表情はにこやかです。
「昨日のうちに決めておけばよかったんだろうけど、どうしようか?『孝一くん』か『こうくん』か」
「…………!」
 昨日、あまくに荘の全員(ジョン除く)と庄子ちゃんでプールへ遊びに行きました。その際、庄子ちゃんから僕と栞さんは付き合い始めてお互いの呼び方が変わったりはしないのかという話が持ち込まれ、それが発端となって、どうやら僕は栞さんに「こうくん」と呼ばれるらしいことにはなったのですが……。
「どう、しましょうかねえ」
 実際のところは、まだそれが正式な決定というわけではないのです。いやまあ正式も何もないってなものなんでしょうけど、これまではその「こうくん」をネタにちちくりあってただけと言いましょうか。
「それだけじゃなくて、孝一くんが栞をどう呼ぶかもはっきりさせておきたいかな」
「……うーん」
 こちらはそれほど本腰を入れた話ではなく、「こうくん」に対する冗談交じりな受け答えの一つとして、「栞さん」でなく「栞」と呼び捨てにする話もあるにはありました。僕としてはあまりしっくりこない呼び方ではありますが、しかしこれまでの呼び方というものがある以上、それは何も「栞」に限らずどんな呼び方でも初めのうちはそうなのかもしれない、とも。
「一応訊いておきますけど、栞さんとしては、呼び捨てにされることに抵抗があったりは?」
「ないよ? 全然」
 ですよねえ。
「栞からも一応言っておくけど、どっちのほうが年上だとか、そういうことは気にしてもらわなくてもいいからね?――というかその、気にして欲しくない、になるのかな」
 どっちのほうが年上、という話になればもちろん、栞さんのほうが年上なのです。なんせあちらはお酒を嗜める年齢であるわけで――嗜んだ程度で酔い潰れるほど弱くもあるのですが――そこへきて僕はまだ大学生になりたての未成年なので、必然的に。
 と言ってそこには「幽霊は年をとらない」という現象も関わってきて、栞さん、身体の年齢でいえば僕と同い年の十八歳なのです。気にして欲しくないというのはその辺りも絡んでのことなのでしょう。
「彼氏より年上っていうのは、ちょっとプレッシャーなんだよ?」
 違ったようです。もっと単純な話だったようです。栞さん、「女の人がみんなそう思うかどうかまでは分からないけど」と付け加えますが、確かに成美さんも大吾に対して同じようなことを言ってましたしねえ。
「あー、早く孝一くんと一緒にお酒飲んでみたいなあ」
「申し訳ありませんです。あと二年、お待ちください」
 今時の若者がいわゆる「お酒は二十歳になってから」をきっちりしっかり遵守しているかと問われれば対する返事は「そりゃあねえよ」ですが、今の言葉で決めました。待ってくれているのなら僕も待ちましょう。初めから積極的に飲もうとするほど好きでもありませんが。
「ちなみに、栞さんが僕をどう呼ぶかの話ですけど」
「ちなみにっていうか、そっちが本筋なんだけどね。うん、なに?」
「他の人の前でそう呼ばれるのはちょっと辛いかなあ、という意見は通りますでしょうか?」
「通りますとも。それ以外ではそう呼んでもいいってことなんだよね?」
「それはもちろん。で、それに応じて僕も栞さんを呼び捨てにすることが『あるかもしれない』、ということで」
「了解しました。じゃあ、そういうことで決定だね」
 結局のところ僕が出した答えがどういうものであっても栞さんは納得したような気もしますが、それはまあいいでしょう。恥ずかしいというだけであって、「こうくん」と呼ばれるのが嫌だというわけでもないんですし。
「ところで今がまさにその、周囲に誰もいない状況なんだけど――それではこうくん! 今日もお勉強頑張ってください!」
「頑張りますとも」
 ……ここは、ちょっと話を引き延ばしてでも呼び捨てを実行してみる場面だったんではないだろうか? 正式な決定からの一発目ということでそんなことを思ってしまったりもしつつ、話している間に目の前にまで迫っていた大学の校門を、今日ものんびりと通り抜けるのでした。
 ちなみに、周囲に誰もいない状況とは言ってもここは朝の校門。僕以外の学生もわんさと各自の教室へ向かっているわけですが、まあさすがにそれを指して周囲に人がいるとは言いません。幽霊だから見えない聞こえないといった話以前に、赤の他人まで気にはしないものでしょうし。
 なんてことを、やっぱりちょっと気にしている自分へ言い聞かせていたところ。
「じゃあこうくん、栞はどこか別の教室に紛れ込んでくるね」
 栞さん――いや、栞は、そんなことを言ってきました。
「あれ? 今日の午前中は一緒にいられる教室ですけど」
「そうだけど、たまにはね。朝ご飯みたいにこれからずっととまでは言わないけど」
「ああ、なるほど。それじゃあ――えーと、栞、二限の教室で合流しましょう」
 やっぱりちょっと照れ臭いですが、言うだけ言ってみました。
「これなら一限が終わってからでも二限が終わってからでもすれ違うことはないですし」
「うん。でもこうくん」
「はい?」
「呼び捨てにしながら丁寧な言葉遣いだけそのままっていうのは、ちょっと面白いかも」
「あ」
 なんとか抑え込んでいた照れ臭さがぽこぽこと音を立てて沸騰し始めた僕へ「いつもの授業のノート、あとで見せてねー」と言い残し、栞さんはにこやかに去っていきました。ううむ、僕の中ではやっぱり「栞」ではなく「栞さん」なんだなあ。

 いつもだったら栞さんと二人で受ける講義。厳密に言えば栞さんは大胆かつこっそりと紛れ込んでいるだけなのですが、それはともかく。二人だからといっても講義の最中ならば私語は慎むわけで、ならば栞さんがここにいなくとも僕の状況はあまり変わらないのですが、それでもやっぱり隣の席に誰も座っていないというのはちょいと風通しが良過ぎます。
 また、ちょくちょく顔を合わせる明くんも月曜日だけはずっといませんし。もしいてくれれば、「起きて起きて」と声をかけなきゃならない以上、ここまで空虚な気分にはならないんでしょうけどねえ。
「ちょっと早いですが、キリがいいので今日はここまでにしますねー」
 普段なら結構嬉しい先生のその言葉も、今回ばかりはそれほどでもありません。なんせ休み時間もどうせ暇だし、加えて早く終わった分だけ二限で使う教室が空くまで待たなきゃならないしで、あんまりメリットがないのです。
 ……まあしかし、そんなことをぼやいていても仕方がない。誰かと一緒ならぼやきだって笑い話に昇華できるんでしょうが、一人でぼやいても気分が沈むばかりですし。
 そんなわけで気分を切り替えた(ということにした)僕は、どうせ待たされることになるであろう次に向かうべき教室へ、足を運ぶことにしました。

 はぁ。
 と小さく溜息をつきつつ、ほんの少しだけ開いた両開きのドアから顔を離します。その隙間から内部を覗いていたわけですが、案の定、まだ講義は終わっていませんでした。
 大学というのはおおらかなものでして、もしも僕がこのまま室内に踏み入って空いている席を占領したとしても、恐らく誰も何も言ってきたりはしないでしょう。ですがやっぱり、それを実行するような気分にはなれません。
 ちなみに、廊下にだっていくつかは座れる場所が用意してあったりするのですが、それは僕と同じような身の上らしい人達によって占領済みです。ならばもう仕方がない、立って待つことにしましょう。
 ――しかし、おかしなもので。今回のような突発的なものに限らずとも一人で講義を受ける場合はあるわけで、けれどそういう時は一々こんなふうに暇をもてあましたり溜息をついたりはしないのですが……本来ならばこうではなかったのに、と思ってしまえる状況というのは、なかなかに厄介なものですねえ。――そういえば、今朝の朝食の件なんかは栞さんが自らその状況を作ったんだよなあ、なんて考えていたところ。
「あれ、もういた」
「ん?」
 聞き覚えのある声、というかまあ噂をすれば何とやらそのものな声なんですけど、とにかくそんな声がして、僕はそちらを向き増ました。
 栞さんがいました。
 それに、見覚えのあるおでこ――もとい、異原さんもいました。
 おやおやこれは、どういう組み合わせで? 栞さんが戻ってきたのは分かるにしても、異原さんがここの教室だったって記憶はありませんし。
 しかし何にせよ、まずはやはりご挨拶から。
「おはようございます、異原さん」
「おはよう、日向くん。いやー、偶然喜坂さんと会ってね」
 一つ上の先輩になるこの人はもともと霊感を持っていて、そしてつい最近、家守さんと高次さんのおかげで幽霊が見えるようになって――そういえば、あれからぴったり一週間か。
「適当に入ってみた教室にね、異原さんがいたんだよ。……それにしても孝一くん、私達のほうが早く着くと思ってたんだけど」
「ああ、何も一限をさぼったってわけじゃないですよ? ちょっと早く終わっただけです。そのおかげでこんなところで突っ立つ羽目になってるんですけどね」
 自分のことを「私」と呼ぶ栞さん。それは現在の状況を見ればいつものことで、ならば今になって気にしたりすることもないのでしょう。なのですがしかし、お互いの呼び方がどうだという話を今朝したばかりなので、それに関連して気にならないこともありません。
「あたしのほうでもちょっと早めだったのに、随分早く終わったのねえ」
「あはは、結果こうして暇してるんじゃあ、あんまり嬉しくもないですけどね」
 もちろん話し相手が二人も現れた今となっては、その不満点も解消されたわけですけども。
 そう思いはしても――その二人が二人とも女性だったせいもあってか、ということになるのでしょうか? なんとなくそこまでは言わずにおいておきたくなり、なのでその通りにし、するとそこへ異原さん。
「えーと実は、喜坂さんと話をしてて、昼休みに遊びに行かせてもらうことになったんだけど……せっかくだしあいつらも呼ぼうかなーなんて思ってて、でもそうしたらまず間違いなく日向くんのご厄介にもなるだろうし、だからそれで、了承を得られればということで」
 了承を得られればということで、用事があるわけでもないこの教室の前までわざわざお越しいただいたと。
「もちろん、栞さんと同じく歓迎ですよ。先週もそうでしたけど僕、月曜日は三限なしで四限だけあるんで、昼はちょっと暇なんです」
「先週……ね。あの時はありがとうございました、日向くん」
「ああ、いえいえそんな」
 何もそんなつもりで先週という単語を口にしたわけではないのですが、丁寧に頭を下げられてしまいました。しかしもちろん、あの日異原さんを助けようとしたのは口宮さんで、実際に助けたのが家守さんと高次さん。僕はその両者と知り合いだったおかげで話を通せた、というだけなのです。
 あいつら、と異原さんは言いました。それは口宮さんと同森さん、そして音無さんと、もしかしたらあのオカマチックな同森さんのお兄さんも含んでの「あいつら」なんでしょう。でもそれを「あいつ」と「ら」に分解した場合、「あいつ」にあたるのはやっぱり、口宮さんなんだろうなあ。
 そんなことを考えている間に頭を上げた異原さん、その仕草が仕切り直しの合図であるかのようにはにかむと、
「全員集まるかどうかは分からないけど声掛けてみるわね。それで喜坂さん、先に帰ってもらっててくれれば、こっちからお邪魔させてもらいますけど」
「分かりました、じゃあ先に帰って待ってますね」
 楽しみなのでしょう、返事が普段以上に明るい栞さんなのでした。
「それじゃあ喜坂さんに日向くん、またお昼に」
 最後にそう言いながら歩み出しつつ、それでもこちらを見返りながら小さく手を振り、異原さんは去っていきました。隣に残った栞さんは小さく振られる手へ、同じように小さく手を振り返していました。
「ねえ、孝一く……じゃなくて、こうくん」
「はい?」
「誰かのお客さんじゃなくて自分のお客さんがあまくに荘に来るなんて、初めてだよ」
 栞さんは、満面の笑みでした。期待がいっぱいまで詰められているような明るい笑顔でした。しかし僕は、そんな栞さんに対してどう返事をすればいいのか迷ってしまいました。
 204号室には友人が。202号室には住人の妹と元夫が。101号室には妹とその夫が。102号室には妻と、直接部屋へ上がりはできないものの息子が。
 なのに、203号室には、これまで誰も。
「あはは、ちょっとだけ緊張しちゃうかな。……ねえこうくん、次の授業は、一緒にいてもいいかな?」
「ええ」
 短くて小さい返事。それは周囲の人に不自然な独り言をしているやつがいると悟られない効果もあっただろうけど、僕としては、そのために短くて小さくしているわけではありませんでした。
 表情とは裏腹に、不安そうな動作で恐る恐る僕の左手へ触れてきたのは、栞さんの右手。僕はそれをしっかりと握り返し、いつまで経っても上手い言葉が出てこない口に代わっての返事としたのでした。
「ありがとう」
 栞さんの口調は、その表情に則った明るいものでした。
 でも、栞さん。そこは普通、「ありがとう」と言うような場面ではないんですよ?

 月曜日の二限はその講義内容の殆どを配布プリントによる説明で済ませてしまうので、他の講義ほどノートと黒板を睨み付けるようなことにはなりません。なので目だけでなく手のほうもゆったりできる時間であり、おかげで栞さんの手を握っていられる時間も多いわけです。
 とはいえノートへの筆記が全くないというわけでもなく、その時には繋いだ手を離すわけですが、しかしそれが終わればまた手を取るわけです。
 もちろん、普段からこうしているわけではありません。するしないの以前に講義の最中に手を繋ぐなんてのはこれまで思い付きすらしなかったほどですし、思い付いていたとしても、実行に移しまではしなかったでしょうし。
 ならばどうして現在はしっかりと手を繋いでいるのかということになるのですが……。
「ん? なに?」
 同じプリントを二人で覗き込んでいるだけあってそこそこに顔が接近していたので、栞さん、僕の視線に気付きました。あまり意味はないのかもしれませんが、講義中というだけあって小声です。
「……いえ」
 普通なら、恋人と手を握り合うというのは「イチャイチャしている」という部類の行動になるんでしょう。――なら、どうして今は、全くそういう気分にならないんだろうか? 栞さんはこんなにも、一片の淀みなく嬉しそうな表情をしているのに。
 もちろん、そういう気分にならないとはいえ、僕だって繋ぎたくて手を繋いでいるわけです。栞さんの手はいつも通りに温かいしいつも通りに柔らかいしで、こうしたくなるという気持ち自体は僕が一番よく分かっています。分かっているんですけど、異原さんが去った直後のことを思い出すと、どうもそれだけだとは。
「……あの、ごめんねこうくん。もうちょっとだけ、お願い」
 栞さんのお願い。僕はそれに対して少しだけ手の握りを強くし、加えて控えめながら笑い掛けてもみましたが――少なくとも口では、何の返事もしませんでした。
 自分に会いに来る外からの客が、これまでなかったこと。例え控えめにしてもそこへ言及するなんて、やっぱり気が引けるじゃないですか。でもだからと言って栞さんを放置することもできるわけがなく、なので無言で繋いでいるこの手は、僕にとって最も都合のいい対応策だったのです。

 二限も終わり、昼休み。異原さん達は後からこちらへ来るということなので、僕と栞さんは先にあまくに荘へ帰ってきました。その頃にはもう栞さんから手を繋ぐよう頼まれるようなこともなく、残ったのは期待感溢れる笑顔のみ。
「あの、栞さん」
 庭掃除を始めようと、部屋へ戻るよりも前に掃除用具を取りに物置へ向かう栞さんへ、後ろから呼び掛けます。本来なら僕は昼ご飯を食べに部屋へ戻り、栞さんと一旦は別れる予定だったのですが。
「ん?」
 振り返った栞さんは、やはり嬉しそうな表情。これならもう大丈夫だろうか、と思いつつ、しかしだからと言って今この場でしなければならない話でもないんじゃないだろうか、とも。
「いえ、その」
 そうはいっても、既に話し掛けてしまっています。このことばかりが気になっていたおかげで代わりの話題をでっちあげる余裕もなく、なので結局は、言い掛けたそのままを。
「栞さん、大丈夫ですか?」
 何がどう大丈夫なのかとまでは、ここでもやっぱり口にはできませんでした。意味のない躊躇いだということは分かっているんですけど……。
 しかし栞さんからしても、何がどう大丈夫なのかということは、こちらから口にするまでもなく分かっているんでしょう。これまで分かっていながら何も口にしなかったというのは、なにも僕だけの話ではないんですから。
「うん、大丈夫。ちょっと緊張してるってくらいのことはあるけど、不安とまではいかないかな。さっきまでみたいな」
「そうですか、じゃあ……」
 ならばそれはそれでもういいだろう、と立ち去ろうとして、そこで一つ思い付きました。
「そうだ、どうせなら他のみんなも呼びませんか?」
 今回のお客さんは、栞さんに対してのお客さん。ですがまあまず間違いなくその場へは僕も混ざるのでしょうし、だったら僕だけにとどめる必要もないのではないかと。
「あ、そうだね。じゃあこうくん、みんなに声掛けてきてもらっていい?」
 なんともさらりと「こうくん」と呼んでくるようになった栞さん。一方で僕はわざわざそんなことを考えてしまう程度には気になっていて、となるとこの差はあちらの適応が早いのかそれともこちらの適応が遅いのか、という話にも。
 しかしもちろん、今しているのはそんな話ではなく。
「分かりました、行ってきます」
 家守さん夫妻は仕事でいないでしょうし、清さんももしかしたらどこかへ出掛けているかもしれません。けれども、他のみんなはまず大丈夫でしょう。異原さん達がここへ来るまでもそう時間は掛からないでしょうし、ならば昼食よりもまえにこっちでしょう。
 というわけで。
「あら、お友達ですか? お呼びいただけるのでしたら、わたくしは構いませんが」
「ワウ?」
「孝一さんのお友達が来るそうで、そこへわたくし達もご一緒しませんかというお話ですわ、ジョンさん」
「ワンッ!」
 結局のところ清さんは外出中だった、102号室。マンデーさんとジョンのお二方はそんな感じであっさりと来てくれることになり、
「少し前、家守さんの身体を借りて握手した人ですよね? 私も行きたいです」
 ただ遊びに来るということ以外の理由もあって、ナタリーさんも来てくれることになりました。


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