しかしまあ、何かあったのが外である以上は、その外を見れば何があったか分かるはず。当たり前ですね。ということで外を見ようとしたその時、
「どうしたでありますかーっ!」
「ワンッ! ワンッ!」
これだけ騒げばそうなるのも無理はないでしょう、居間のほうからウェンズデーとジョンも駆け付けてきました。が、
「あわわーっ!」
今度はウェンズデーまでもが悲鳴。しかも後ろに仰け反り両手を振り上げるという、漫画かと突っ込みたくなるように見事なリアクションまで付けて。
しかしそれはいいとして、玄関の手前から見える外の範囲なんていうのは、そう広くないのです。しかも玄関口に僕が突っ立ったままだということは、僕の背後くらいしか見えないのです。じゃあ、その僕の背後を見たウェンズデーが悲鳴を上げたということは――?
さすがに、恐る恐る後ろを振り返ってみる。
するとそこにあった恐ろしいものとは!
「き――」
き。
「き、清明くん!? ななななんでここに!? ちょっ、あの、今はその!」
顔を合わせたらまずは挨拶だろうとか、今の時間だとまだおはようかなあとか、そんなのはすっ飛ばして大慌て。しかしそれはもちろん、清明くん本人が恐ろしい人だからだというわけではなくて、清明くんの特徴と言うか何と言うか、まあ、「幽霊が近くにいると頭が痛くなる」という症状のためなのです。
という状況を鑑みたうえで再び後ろを振り向くと、栞さんとウェンズデーは既に居間の奥まで引っ込んでいました。部屋自体はそう広いとは言えなくとも、玄関口からあちらまでのこの距離なら、何とか大丈夫だろうか?
――と、楽観的に考えることで何とか落ち着きを取り戻そうとする。ふう。
「えーと、まず、おはよう」
「おはようございます……」
頭は痛くないだろうかと恐る恐るなこちら。すると、清明くんもどうしてだか声に張りがない。いや、元々からしてそう元気一杯って印象がある子でもなかったけど、今回はそれに輪が掛かっているような感じだ。目もなんだか虚ろと言うか、眠そうと言うか。
……ぶっちゃけ、フラフラだし。
「あの、いろいろと言いたかったり聞きたかったりすることはあるんだけどその前に……大丈夫? 見るからに体調が良くなさそうなんだけど」
「あの僕、今日、風邪で学校休んでて……それに、熱も結構……」
ああ、そう言えばまだ学校が終わってる時間じゃないなあ全然。――じゃなくて、
「それでなんでこんなところに? 外出てる場合じゃないよ、どう見ても」
いくらなんでも、口調を厳しいものにせざるを得なかった。頭を痛がる様子はないから霊障のほうは大丈夫なんだろうけど、だったら万事問題なし、とはいかないだろう。
「ごめんなさい」
そんな僕に対して何一つ言い訳を持ってくるでもなく、清明くんはただ頭を下げた。
もちろん、言い訳をしろと言いたいわけじゃない。だけど……素直に謝るのなら余計、どうしてここへ、という疑問が大きくなってしまう。
「……僕の部屋で良かったら、布団とかお昼ご飯くらいは出してあげられるけど」
下がったまま、上げることすら億劫そうだった清明くんの頭が、すいと持ち上げられる。その表情からは疲労と衰弱が痛いくらいに伝わってくるけど、でも、僕の提案が光明であるかのような喜びも、弱々しくながら見受けられる。
「ただし、大人しく寝てないと駄目だからね?」
「ありがとうございます」
思った通り、清明くんは提案に乗ってきた。家に帰らせることも考えないではないけど、それを強行しようとするには清明くんの弱りようが尋常でないように思え、なのでこのまま話を通すことに。
――それに僕は清明くんがここに来る事情を知っていて、そちらだけを踏まえるとしてもやっぱり、即座に帰れとは言えないのでした。
「下の部屋は、別の人の部屋なんですか?」
「あ、えーと、まあね。僕の部屋は204号室で……あー、ジョンの面倒を見るように頼まれてたと言うか」
102号室を出て階段に足を掛け、二階への移動中。のっけから大ミス発覚ですがしかし、他人の住居を自分の部屋だと言い張るのも中々に勇気がいると言うか、それはそれで危ない橋なんじゃないだろうかと言うか。
自分の部屋として振舞うには、何があるか分からないしなあ。なんせ清さんの部屋だし。
「前に来た時も確か、お兄さんと管理人さんがあの部屋から……じゃああそこ、管理人さんの部屋なんですか?」
「う、うん。まあ、そういうことになるよね」
ここに住んでいるのは、僕と管理人さんとジョンだけ。その「前に来た時」にそう説明していた覚えがあるので、つまりはそういうことになってしまうのでした。
ヤバイぞ僕、だとしたら女性の部屋に無断で入っていたことに――いや、無断ではないという設定だけど、それでもやっぱり問題があるよこれは。もし本当にそうだったとして、家守さんは気にしなさそうだけど。
そんなことを考えている間にも、弱った清明くんを連れていて歩みが遅いとは言え、二階に到着。
しかしそこでまた新たな問題が。ここから数メートル先、202号室には、大吾と成美さんがいるのです。もしその二人のうちどちらか一方だけでも廊下側に近い場所に立っていたりしたら、清明くんが。
……あれ? でも待てよ、そういうことならさっきにも。
「あの、清明くん?」
「はい?」
一応は202号室前に差し掛からないよう足を止め、尋ねてみる。
「下の部屋で僕と会った時、頭痛くなったりはしなかった? いやほら、前にあったしさ、そういうこと」
不審な質問だと思われないように補足してみるも、余計に不審な感じになってしまったような気がする。だけどそれは二の次だ。今肝心なのは、質問の内容。
あの時、すぐに離れて短い間だったとは言え、栞さんもウェンズデーも清明くんの近くにいた。栞さんは靴を脱ごうとバタバタしていた時間、ウェンズデーは驚いて動きが止まってしまっていた時間がそれだ。なのに、清明くんに頭を痛がる様子はなかったように思う。
風邪の気だるさで紛れてしまう程度の痛みでないことは、知っていた。
「いえ、それは今日、大丈夫みたいです。風邪のせいでちょっとは痛いんですけどね」
……冗談交じりで返されてしまった。体調的にキツいだろうに、笑顔まで。
うむむ、これはどういう……?
しかしともかく、202号室の前は通らなくてはならない。と言ってまさかこの清明くんがすぐ隣にいる状況で、中にいる大吾と成美さんに呼び掛けるわけにもいかないし。
「なら、いいんだけどね」
思い付いた攻略法は、速足でさっさとやり過ごすこと。一階での出来事の解釈を「短い時間なら意外と大丈夫だったりする」と結論付けるなら、これで大丈夫なはずだ。
と、202号室の台所の窓が開いていることに気がつく。
でももし、もし大吾か成美さんが完璧なタイミングであそこからひょっこり顔を出したりしても、無視してしまえば。
「おう孝一、さっき下で何か――」
「ね、猫か鼠でも入り込んでたんじゃないかなあははー……」
もしもの時のためのお客様用布団を引っ張り出しつつ、大吾が発したドタバタ音を誤魔化す僕。まさか本当に顔を出すなんて思わなかった。
でもまあ頭痛はまたしてもなかったみたいだし、それについてはめでたし、ということで。
「空き部屋でも窓の鍵とか、開いてるものなんですね」
「ああ、まあ、そういうものなんじゃないかなあ。ここ以外のことはよく知らないけど」
こう言っておくしかないとはいえ、どうなんだろうこの口から出任せは。管理人たる家守さんの品位を勝手に落としてしまっていることになりはしないだろうか?
「はいどうぞ。準備ができたからにはしっかり寝てるようにね」
「ありがとうございます、すいません」
「飲み物とか食べ物とか、欲しいものがあったら遠慮なく言うように」
「はい……」
強引な話を強引に塗り替え、清明くんを布団に追い込む。弱っているせいなのか、強引な話への突っ込みはないようだ。良かった良かった。
しかしまあ、お客様用布団の使用者第一号が病人さんだとは。普通だったらそこは遊びにきた友人とか、もしかしたら友人以上の関係になった――。……あ、いえ、そちらの方は、この布団を使わなかったんですけど……。
は、置いといて。
「熱もあるんだよね? 水枕とかあったらいいんだけど……。タオルだけ、絞ってくるよ」
「ありがとうございます」
横になってしまうと、このまますぐにでも寝に入ってしまうんじゃないかと思えてくるほど表情が弱々しい。それでも律儀に頭を下げたりしているのは、感心と言うよりはいっそ、そうさせてしまうことを申し訳無く思ってしまうほどだった。
僕でもこうなんだから、清さんとか明美さんとかだったらもっと――。
「あ、そうだ」
「どうかしましたか?」
「お母さんに連絡入れたほうがいいよね? 多分、勝手に出てきちゃったんだろうし」
ただでさえ気の篭らない清明くんの表情が、より一層に曇ってしまう。つまり、図星なのだろう。
「……今は仕事だろうから、掛けても出られないと思いますけど」
「留守電に伝言入れとくだけでもいいんだし」
渋る清明くん。気持ちはまあ、分からないでもない。
「分かりました、番号言いますね」
まさか番号を暗唱できるんだろうか、なんて思ったところ、布団の下から顔を出したのは携帯電話。そりゃそうだよね――と言い切ってしまえるものなのかどうかは、判断の難しいところだけど。
「――あ、もしかしてもう知ってますか? お兄さん、お母さんと知り合いみたいだし」
「いやいや、知り合いって言ってもそこまでじゃなくて……えー、知らないです」
知り合いって言っても、ほんのちょっと会ったことがあるってだけだしね。
ところで、清明くんのお母さん、つまり明美さんは、仕事中。特に明美さん本人とそのことについての話をしたわけじゃないけど、明美さんが仕事をしているということだけは、聞くまでもなく知っていた。
世間的には。あくまで世間的にはだけどそれは、清明くんの家庭が、お父さんがもうこの世を去ってしまったという状況にあるからだ。
「じゃ、ゆっくりしててね。終わったらタオル、持ってくるから」
「はい」
番号を教えてもらった僕は、明美さんへ連絡を取るにあたって、その場を離れることにした。その連絡の中では当然清明くんの話をするわけだけど、その清明くん本人の前でするには不都合のある話題を持ち出そうとしていたからだ。
というわけで台所。大声で話したりしないのであれば、ここでも充分だろう。清明くんが寝ている私室とその隣の居間、居間とここを繋ぐ二箇所のふすまも、閉じたことだし。
あとは発信ボタンを押すだけであちらへ掛かるところまで操作してあった携帯の、最後の一押し。はてさて、できれば留守電でなく直接掛かって欲しいところだけど……。
『もしもし』
おお、掛かった。ということで二種類用意していた台詞を掛かった場合のほうに絞り、
「もしもし、日向です。前にあまくに荘でお会いした――」
『ああ、日向さん。こんにちは。……あら、でもどうして私なんかに?』
詳しく説明するまでもなく覚えてもらえていたらしく、小さなことだとは言っても、それはそれでやっぱり嬉しかったり。
でも今それは、横に置いておきましょう。
「実はあの、清明くんがあまくに荘に来てまして。でも体調が優れないようだったのでそのまま僕の部屋で今、横になってもらってるんです」
『あらまあ、あの子ったら。学校まで休んだのに――。すいません日向さん、お手数をお掛けしまして。すぐに帰らせて頂いて結構ですから』
「いえいえ実は、今日はもう大学の講義も終わっちゃってまして。だもんで、こちらとしては全然構わないです」
と答えてから、それだけが理由ではないんだろうと思い至る。いや、思い至るも何も、僕だってそれについての話をしようとしてたんだけど。
つまり、体調が悪くなくてもここに来るのが危険な清明くんだから。だから体調が悪い今なんて、それこそ「帰らせても結構」どころか、「今すぐ帰らせるように」と言われてもおかしくはない。でも、今回はそこがどうも……。
僕は口元に手をあてがい、そのうえでやや声をひそめた。
「あの、清明くんの霊障のことなんですけど」
『えっ、あー、はい』
声のみとは言え、たじろいだ様子の明美さん。いきなりだとやっぱり、そういう反応をしてしまうものなんだろう。例えあまくに荘という単語が出た時点でそれを予期していたであろうにしても。
『……出ましたか? やっぱり』
こちらの調子に合わせたかのように、あちらの声も小さくなる。だけどそれは、僕がそうしたのとはまた違う理由からだろう。
「いえそれが、出なかったんです。みんなに近付いたのは確かなんですけど、本人はまるで平気だったみたいで」
言っている自分でも不思議だとしか思えない報告。それに対して返ってきたのは、溜息を吐いたような音だった。声では、なかった。少なくとも。そして声でない以上、それがどういう意味を持った音なのかは、僕には分からなかった。
面と向かっての会話ならまた違うんだろうけどなあ、というのは、言い訳じみているだろうか?
『すいません、それじゃあ、連絡がなければ仕事の帰りに迎えに行かせてもらいます』
「はい。宜しくお願いします」
『こちらこそ、ありがとうございます色々と。……あの、日向さん。最後に一つだけ』
「何でしょうか?」
『今そちらに、夫はいますでしょうか?』
「いえ、今日は出掛けてるみたいですね」
『そうですか』
終わり際にそんな遣り取りがあったりして、明美さんへの連絡は終了した。
この状況だ、清さんの動向が気に掛かるのはそりゃあ分かる。だけど気になるのは、出掛けていると聞いた時の明美さんが、ほっとしたような声色だったことだ。
しかしまあ清さんと明美さんの両者不在な今、それはともかくとして。
電話を掛けても出ないだろうと言っていた清明くんの言葉に反してあっさり出てきた明美さんは、そのことについて笑いながらこう言っていた。
『何かありそうな時くらいはいつでも出られるようにしますよ、それは』
風邪をひいた程度だと言えばそりゃそうなんだろうけど、それでも心配するかどうかと訊かれれば、心配するんだろう。やっぱり。訊くまでもないことだな、と思えたのは訊いた後だったけど。
『でも、清明にも言ってから家を出たはずなんですけどねえ?』
清明くんは……まあ、あの体調だ。一つや二つの聞き逃しくらいはあっても仕方がないだろうということで。
電話と、そしてもう一つの用事を済ませ、清明くんが寝ている私室へ戻る。ふすまが開く音にゆっくりと首をこちらへ傾けた清明くんは、横になっていてもやっぱり辛そうだった。
「タオル、持ってきたよ」
「ありがとうございます。それで、連絡のほうは?」
「ああ、お母さんが出てくれたよ。帰りに迎えに来るってさ」
軽く絞っただけなのでまだまだ水分たっぷりのタオルを、ぺたりとその額へ。しかしこの様子だと、体温で温まってしまうのにそれほど時間は掛からないだろう。改めて、よくまあこんなところまで外出する気になったなと。
――タオルが乗ったことで、視線はともかく顔は上を向けていなければならなくなった清明くんに、その辺りのことを尋ねてみる。
「どうして今日、ここに来ようと思ったの?」
「……ごめんなさい」
「あ、いやいや、怒ってるわけじゃなくてね」
つくづく、礼儀正しい子だと思う。子どもっぽい無邪気さだとか悪気のなさだとか、ほんの少しでも持ち合わせているんだろうか? 清明くんは。
いやもちろん、それが悪いって言いたいわけじゃないけどね。
「そんなにしんどそうなのに、どうして今日だったのかなって」
「それは……」
そこで視線までもが僕から逸れ、天井を見上げる。
清明くんがここに来る理由は、承知している。亡くなったお父さんが「お化け屋敷」と評判のここにいるのではないかと、希望に近い疑いを持っているのだ。それは前回会った時点で、よく分かった。
だけど分からないのは、どうして今日なのかということ。来るだけならいつでもいいだろうに、わざわざ体調を崩して学校を休んだ今日だった理由が分からない。僕が見付けなかったらそこらで倒れていたんじゃないかというほどフラフラだった、今日である理由が。
「昨日の夜から調子が悪くて、ずっと寝てたんです」
「うん」
「今日になってもやっぱり良くなってなくて、だから学校休んでずっと寝てたんですけど……夢を、見たんです。悪夢でした」
「悪夢?」
「お父さんの夢です」
そこで、話が途切れた。言い出しにくかっただろう話を、いざ言い出し始めればすらすらと続けてくれた清明くん。なのに、僕が話を途切れさせてしまった。
そして僕が何も言わないから、止めに入らないから、清明くんは夢の中身について語りだす。
「お父さんの夢だったのに、悪夢だったんです。お父さんとお母さんと僕とでただ一緒にご飯を、ハンバーグを食べてるだけの夢だったのに……悪夢、だったんです。目が覚めたら僕、汗だらけで、被ってた布団はぐちゃぐちゃで、しかも泣いてました。その時丁度お母さんが仕事に出るところで、何か言ってたみたいだったけど、『いってらっしゃい』ってだけ言って、全然頭に入ってませんでした。怖かったんです、凄く。お父さんの夢なのに。嬉しい夢だったのに」
そう言っている間にも、清明くんの目尻からは涙が溢れ始めていた。話し終わってついにそれが流れ始めようとした時、清明くんはタオルをずらして目を覆い、同時に涙をそこに染み込ませた。
何も言えなかった。お父さんがここにいると知っていて、なのに清明くんにはそれを教えてあげられない僕には、何も言えなかった。
タオルが再び額へ持ち上げられる。するともう、清明くんは微笑んでいた。
清さんのように。
「ごめんなさい、困りますよねこんなこと言われても。どうして今日ここに来たのかっていう質問の答えにもなってないですし」
「……いや、今ので充分だよ。こっちこそごめん、思い出させるようなことしちゃって」
「あはは、無理に押しかけてお世話になっちゃってるんですから、これくらい。怒られて追い返されても文句は言えないのに」
――怒る。
今僕が君を怒るとしたらそれは、「もうちょっと子どもっぽくてもいいんじゃないか」という内容でだ。もちろん本当に怒ったりはできるわけもないけど、でももしここで君が八つ当たりで喚き散らしたりしても、きっと僕は君を怒れない。
話を聞いているだけで、お父さんが好きなんだなと分かる。そんな人を亡くしてしまって、しかもその人の話をして、なのにこの対応? つい先日に中学校に上がったばかりの子が? そんなの、辛過ぎるよ。僕なんかが軽々しく言っていいことじゃないけど、でも、辛過ぎる。
「……また、寝れそう?」
「はい。このお布団、気持ちいいですから」
「あ、それは良かった。なんせお客様用だし、寝心地は良くないとね。……それじゃあ僕、ちょっと下の部屋に行ってくるよ。さっき、忘れ物してきたみたいで」
「あ、そうなんですか。じゃあ、いってらっしゃい」
「いってきます」
布団の寝心地なんて、気にしていられるはずがなかった。
寝ればまた夢を見る。それは、今の清明くんからすれば、怖いことであるはずだった。
「あ、孝一くん? え、あれ、ここに来て大丈夫なの?」
さて。実のところ、102号室に戻るというのは栞さん達に会うためだったりします。だけど、ならば忘れ物をしたというのは嘘だったのかと問われれば、嘘でもなかったりしまして。
「カバン、置きっ放しにしちゃってたんで。清明くんは僕の部屋で休んでもらってます」
大学へ通う際の唯一の手荷物、カバン。自分の部屋へ戻る前にこの102号室へ来、そして清明くんの訪問を受けて大慌てな中そのまま自分の部屋へ直行した僕が、これを自分の部屋に運び込めているわけもなく。
――しかしまあ、そんな事情はどうでもいいんですけどね。
「声掛けられねえから仕方ないにしても、いきなり目の前にいた時はびびったぞ……」
「反射的に窓を閉めたりしなかっただけ良かった、ということにしておけ。音は立ててしまったにしても、決定的に不審がられるようなことはなかったんだろう?」
そもそも無人なはずの部屋の窓が空いていた時点で、とは言いますまい。閉まっていたりしたら逆に大吾がガラリと開け放つ可能性もあったわけで、あれは本当、運が良かった。
というわけで、このお二人も102号室に集まっていました。あれだけ騒げばそりゃ気になりますよね。主には栞さんが、なのですが。
「いやまあ、そっちは良かったってことにできてもなあ……。あー、なあ孝一、清明くん、大丈夫だったか? 少しの間っつってもオレ、かなり近くにいたわけだし……」
「それだったら、自分と栞殿もであります」
不安そうに唇を歪める大吾に続き、唇に限って言えば歪みようのないウェンズデーが。
おお、こちらから何を言うまでもなくそう来ましたか。
「そのこともあって戻ってきたんだけど、清明くん、全然そんなふうじゃなかったんだよね。さっき明美さんに清明くんがここに来てるってこと連絡して、その時そのことも言ってみたんだけど、明美さんにもよく分からないって感じだったし」
「……治った、ってことなのかな? それって」
一番初めに答えてくれたのは、栞さんだった。そしてその答えは、誰もが一番に考えるであろうものでありながらしかし、口に出し辛かったりもするというものだった。そしてだからなのだろう、栞さんは、恐る恐るといったふうな口調。
「まだ断言はできないんでしょうけど、でも、もしかしたらそうかもしれないです」
口調に合わせるように曇っていた栞さんの表情は、晴れない。もちろん、他のみんなも。
まるで頼りない結論、ということだ。それは僕にも分かっている。そして僕はそんな頼りのない結論以前のものを、付きつけてしまった。あの人に。
「それを確かめたいんです。考えなしに明美さんにこのことを言ってしまって、だったら僕達なんかよりもずっと気にしてると思うんです。なら、気にさせてしまった僕が何もしないっていうのは良くない気がして」
「成程な。だが、どうやって調べるんだ?」
「清サンがいりゃあ、楓サンに連絡も取れるんだけどなあ」
そう、今回は家守さんがいない。こういう時にとてつもなく頼りになるあの人は、今日もいつも通りにお仕事中だ。その家守さんとメールで連絡を取れる清さんも、今日はナタリーさんと一緒にお出かけ中だし。ううむ、こういう時のためにメールアドレスを教えてもらっておくべきだろうか。
……というのは後の祭りでしかないので、今僕がどうするのかを考える。つまり成美さんが今言った、どうやって調べるのかという問題。
しかしいくら考えたところで方法なんか一つしかなさそうで、だから僕は、それほど長く考えはしなかった。
「誰か一人、僕と一緒に来てもらえませんか? 霊障が出そうだったらすぐに離れてもらうってことで」
「どうしたでありますかーっ!」
「ワンッ! ワンッ!」
これだけ騒げばそうなるのも無理はないでしょう、居間のほうからウェンズデーとジョンも駆け付けてきました。が、
「あわわーっ!」
今度はウェンズデーまでもが悲鳴。しかも後ろに仰け反り両手を振り上げるという、漫画かと突っ込みたくなるように見事なリアクションまで付けて。
しかしそれはいいとして、玄関の手前から見える外の範囲なんていうのは、そう広くないのです。しかも玄関口に僕が突っ立ったままだということは、僕の背後くらいしか見えないのです。じゃあ、その僕の背後を見たウェンズデーが悲鳴を上げたということは――?
さすがに、恐る恐る後ろを振り返ってみる。
するとそこにあった恐ろしいものとは!
「き――」
き。
「き、清明くん!? ななななんでここに!? ちょっ、あの、今はその!」
顔を合わせたらまずは挨拶だろうとか、今の時間だとまだおはようかなあとか、そんなのはすっ飛ばして大慌て。しかしそれはもちろん、清明くん本人が恐ろしい人だからだというわけではなくて、清明くんの特徴と言うか何と言うか、まあ、「幽霊が近くにいると頭が痛くなる」という症状のためなのです。
という状況を鑑みたうえで再び後ろを振り向くと、栞さんとウェンズデーは既に居間の奥まで引っ込んでいました。部屋自体はそう広いとは言えなくとも、玄関口からあちらまでのこの距離なら、何とか大丈夫だろうか?
――と、楽観的に考えることで何とか落ち着きを取り戻そうとする。ふう。
「えーと、まず、おはよう」
「おはようございます……」
頭は痛くないだろうかと恐る恐るなこちら。すると、清明くんもどうしてだか声に張りがない。いや、元々からしてそう元気一杯って印象がある子でもなかったけど、今回はそれに輪が掛かっているような感じだ。目もなんだか虚ろと言うか、眠そうと言うか。
……ぶっちゃけ、フラフラだし。
「あの、いろいろと言いたかったり聞きたかったりすることはあるんだけどその前に……大丈夫? 見るからに体調が良くなさそうなんだけど」
「あの僕、今日、風邪で学校休んでて……それに、熱も結構……」
ああ、そう言えばまだ学校が終わってる時間じゃないなあ全然。――じゃなくて、
「それでなんでこんなところに? 外出てる場合じゃないよ、どう見ても」
いくらなんでも、口調を厳しいものにせざるを得なかった。頭を痛がる様子はないから霊障のほうは大丈夫なんだろうけど、だったら万事問題なし、とはいかないだろう。
「ごめんなさい」
そんな僕に対して何一つ言い訳を持ってくるでもなく、清明くんはただ頭を下げた。
もちろん、言い訳をしろと言いたいわけじゃない。だけど……素直に謝るのなら余計、どうしてここへ、という疑問が大きくなってしまう。
「……僕の部屋で良かったら、布団とかお昼ご飯くらいは出してあげられるけど」
下がったまま、上げることすら億劫そうだった清明くんの頭が、すいと持ち上げられる。その表情からは疲労と衰弱が痛いくらいに伝わってくるけど、でも、僕の提案が光明であるかのような喜びも、弱々しくながら見受けられる。
「ただし、大人しく寝てないと駄目だからね?」
「ありがとうございます」
思った通り、清明くんは提案に乗ってきた。家に帰らせることも考えないではないけど、それを強行しようとするには清明くんの弱りようが尋常でないように思え、なのでこのまま話を通すことに。
――それに僕は清明くんがここに来る事情を知っていて、そちらだけを踏まえるとしてもやっぱり、即座に帰れとは言えないのでした。
「下の部屋は、別の人の部屋なんですか?」
「あ、えーと、まあね。僕の部屋は204号室で……あー、ジョンの面倒を見るように頼まれてたと言うか」
102号室を出て階段に足を掛け、二階への移動中。のっけから大ミス発覚ですがしかし、他人の住居を自分の部屋だと言い張るのも中々に勇気がいると言うか、それはそれで危ない橋なんじゃないだろうかと言うか。
自分の部屋として振舞うには、何があるか分からないしなあ。なんせ清さんの部屋だし。
「前に来た時も確か、お兄さんと管理人さんがあの部屋から……じゃああそこ、管理人さんの部屋なんですか?」
「う、うん。まあ、そういうことになるよね」
ここに住んでいるのは、僕と管理人さんとジョンだけ。その「前に来た時」にそう説明していた覚えがあるので、つまりはそういうことになってしまうのでした。
ヤバイぞ僕、だとしたら女性の部屋に無断で入っていたことに――いや、無断ではないという設定だけど、それでもやっぱり問題があるよこれは。もし本当にそうだったとして、家守さんは気にしなさそうだけど。
そんなことを考えている間にも、弱った清明くんを連れていて歩みが遅いとは言え、二階に到着。
しかしそこでまた新たな問題が。ここから数メートル先、202号室には、大吾と成美さんがいるのです。もしその二人のうちどちらか一方だけでも廊下側に近い場所に立っていたりしたら、清明くんが。
……あれ? でも待てよ、そういうことならさっきにも。
「あの、清明くん?」
「はい?」
一応は202号室前に差し掛からないよう足を止め、尋ねてみる。
「下の部屋で僕と会った時、頭痛くなったりはしなかった? いやほら、前にあったしさ、そういうこと」
不審な質問だと思われないように補足してみるも、余計に不審な感じになってしまったような気がする。だけどそれは二の次だ。今肝心なのは、質問の内容。
あの時、すぐに離れて短い間だったとは言え、栞さんもウェンズデーも清明くんの近くにいた。栞さんは靴を脱ごうとバタバタしていた時間、ウェンズデーは驚いて動きが止まってしまっていた時間がそれだ。なのに、清明くんに頭を痛がる様子はなかったように思う。
風邪の気だるさで紛れてしまう程度の痛みでないことは、知っていた。
「いえ、それは今日、大丈夫みたいです。風邪のせいでちょっとは痛いんですけどね」
……冗談交じりで返されてしまった。体調的にキツいだろうに、笑顔まで。
うむむ、これはどういう……?
しかしともかく、202号室の前は通らなくてはならない。と言ってまさかこの清明くんがすぐ隣にいる状況で、中にいる大吾と成美さんに呼び掛けるわけにもいかないし。
「なら、いいんだけどね」
思い付いた攻略法は、速足でさっさとやり過ごすこと。一階での出来事の解釈を「短い時間なら意外と大丈夫だったりする」と結論付けるなら、これで大丈夫なはずだ。
と、202号室の台所の窓が開いていることに気がつく。
でももし、もし大吾か成美さんが完璧なタイミングであそこからひょっこり顔を出したりしても、無視してしまえば。
「おう孝一、さっき下で何か――」
「ね、猫か鼠でも入り込んでたんじゃないかなあははー……」
もしもの時のためのお客様用布団を引っ張り出しつつ、大吾が発したドタバタ音を誤魔化す僕。まさか本当に顔を出すなんて思わなかった。
でもまあ頭痛はまたしてもなかったみたいだし、それについてはめでたし、ということで。
「空き部屋でも窓の鍵とか、開いてるものなんですね」
「ああ、まあ、そういうものなんじゃないかなあ。ここ以外のことはよく知らないけど」
こう言っておくしかないとはいえ、どうなんだろうこの口から出任せは。管理人たる家守さんの品位を勝手に落としてしまっていることになりはしないだろうか?
「はいどうぞ。準備ができたからにはしっかり寝てるようにね」
「ありがとうございます、すいません」
「飲み物とか食べ物とか、欲しいものがあったら遠慮なく言うように」
「はい……」
強引な話を強引に塗り替え、清明くんを布団に追い込む。弱っているせいなのか、強引な話への突っ込みはないようだ。良かった良かった。
しかしまあ、お客様用布団の使用者第一号が病人さんだとは。普通だったらそこは遊びにきた友人とか、もしかしたら友人以上の関係になった――。……あ、いえ、そちらの方は、この布団を使わなかったんですけど……。
は、置いといて。
「熱もあるんだよね? 水枕とかあったらいいんだけど……。タオルだけ、絞ってくるよ」
「ありがとうございます」
横になってしまうと、このまますぐにでも寝に入ってしまうんじゃないかと思えてくるほど表情が弱々しい。それでも律儀に頭を下げたりしているのは、感心と言うよりはいっそ、そうさせてしまうことを申し訳無く思ってしまうほどだった。
僕でもこうなんだから、清さんとか明美さんとかだったらもっと――。
「あ、そうだ」
「どうかしましたか?」
「お母さんに連絡入れたほうがいいよね? 多分、勝手に出てきちゃったんだろうし」
ただでさえ気の篭らない清明くんの表情が、より一層に曇ってしまう。つまり、図星なのだろう。
「……今は仕事だろうから、掛けても出られないと思いますけど」
「留守電に伝言入れとくだけでもいいんだし」
渋る清明くん。気持ちはまあ、分からないでもない。
「分かりました、番号言いますね」
まさか番号を暗唱できるんだろうか、なんて思ったところ、布団の下から顔を出したのは携帯電話。そりゃそうだよね――と言い切ってしまえるものなのかどうかは、判断の難しいところだけど。
「――あ、もしかしてもう知ってますか? お兄さん、お母さんと知り合いみたいだし」
「いやいや、知り合いって言ってもそこまでじゃなくて……えー、知らないです」
知り合いって言っても、ほんのちょっと会ったことがあるってだけだしね。
ところで、清明くんのお母さん、つまり明美さんは、仕事中。特に明美さん本人とそのことについての話をしたわけじゃないけど、明美さんが仕事をしているということだけは、聞くまでもなく知っていた。
世間的には。あくまで世間的にはだけどそれは、清明くんの家庭が、お父さんがもうこの世を去ってしまったという状況にあるからだ。
「じゃ、ゆっくりしててね。終わったらタオル、持ってくるから」
「はい」
番号を教えてもらった僕は、明美さんへ連絡を取るにあたって、その場を離れることにした。その連絡の中では当然清明くんの話をするわけだけど、その清明くん本人の前でするには不都合のある話題を持ち出そうとしていたからだ。
というわけで台所。大声で話したりしないのであれば、ここでも充分だろう。清明くんが寝ている私室とその隣の居間、居間とここを繋ぐ二箇所のふすまも、閉じたことだし。
あとは発信ボタンを押すだけであちらへ掛かるところまで操作してあった携帯の、最後の一押し。はてさて、できれば留守電でなく直接掛かって欲しいところだけど……。
『もしもし』
おお、掛かった。ということで二種類用意していた台詞を掛かった場合のほうに絞り、
「もしもし、日向です。前にあまくに荘でお会いした――」
『ああ、日向さん。こんにちは。……あら、でもどうして私なんかに?』
詳しく説明するまでもなく覚えてもらえていたらしく、小さなことだとは言っても、それはそれでやっぱり嬉しかったり。
でも今それは、横に置いておきましょう。
「実はあの、清明くんがあまくに荘に来てまして。でも体調が優れないようだったのでそのまま僕の部屋で今、横になってもらってるんです」
『あらまあ、あの子ったら。学校まで休んだのに――。すいません日向さん、お手数をお掛けしまして。すぐに帰らせて頂いて結構ですから』
「いえいえ実は、今日はもう大学の講義も終わっちゃってまして。だもんで、こちらとしては全然構わないです」
と答えてから、それだけが理由ではないんだろうと思い至る。いや、思い至るも何も、僕だってそれについての話をしようとしてたんだけど。
つまり、体調が悪くなくてもここに来るのが危険な清明くんだから。だから体調が悪い今なんて、それこそ「帰らせても結構」どころか、「今すぐ帰らせるように」と言われてもおかしくはない。でも、今回はそこがどうも……。
僕は口元に手をあてがい、そのうえでやや声をひそめた。
「あの、清明くんの霊障のことなんですけど」
『えっ、あー、はい』
声のみとは言え、たじろいだ様子の明美さん。いきなりだとやっぱり、そういう反応をしてしまうものなんだろう。例えあまくに荘という単語が出た時点でそれを予期していたであろうにしても。
『……出ましたか? やっぱり』
こちらの調子に合わせたかのように、あちらの声も小さくなる。だけどそれは、僕がそうしたのとはまた違う理由からだろう。
「いえそれが、出なかったんです。みんなに近付いたのは確かなんですけど、本人はまるで平気だったみたいで」
言っている自分でも不思議だとしか思えない報告。それに対して返ってきたのは、溜息を吐いたような音だった。声では、なかった。少なくとも。そして声でない以上、それがどういう意味を持った音なのかは、僕には分からなかった。
面と向かっての会話ならまた違うんだろうけどなあ、というのは、言い訳じみているだろうか?
『すいません、それじゃあ、連絡がなければ仕事の帰りに迎えに行かせてもらいます』
「はい。宜しくお願いします」
『こちらこそ、ありがとうございます色々と。……あの、日向さん。最後に一つだけ』
「何でしょうか?」
『今そちらに、夫はいますでしょうか?』
「いえ、今日は出掛けてるみたいですね」
『そうですか』
終わり際にそんな遣り取りがあったりして、明美さんへの連絡は終了した。
この状況だ、清さんの動向が気に掛かるのはそりゃあ分かる。だけど気になるのは、出掛けていると聞いた時の明美さんが、ほっとしたような声色だったことだ。
しかしまあ清さんと明美さんの両者不在な今、それはともかくとして。
電話を掛けても出ないだろうと言っていた清明くんの言葉に反してあっさり出てきた明美さんは、そのことについて笑いながらこう言っていた。
『何かありそうな時くらいはいつでも出られるようにしますよ、それは』
風邪をひいた程度だと言えばそりゃそうなんだろうけど、それでも心配するかどうかと訊かれれば、心配するんだろう。やっぱり。訊くまでもないことだな、と思えたのは訊いた後だったけど。
『でも、清明にも言ってから家を出たはずなんですけどねえ?』
清明くんは……まあ、あの体調だ。一つや二つの聞き逃しくらいはあっても仕方がないだろうということで。
電話と、そしてもう一つの用事を済ませ、清明くんが寝ている私室へ戻る。ふすまが開く音にゆっくりと首をこちらへ傾けた清明くんは、横になっていてもやっぱり辛そうだった。
「タオル、持ってきたよ」
「ありがとうございます。それで、連絡のほうは?」
「ああ、お母さんが出てくれたよ。帰りに迎えに来るってさ」
軽く絞っただけなのでまだまだ水分たっぷりのタオルを、ぺたりとその額へ。しかしこの様子だと、体温で温まってしまうのにそれほど時間は掛からないだろう。改めて、よくまあこんなところまで外出する気になったなと。
――タオルが乗ったことで、視線はともかく顔は上を向けていなければならなくなった清明くんに、その辺りのことを尋ねてみる。
「どうして今日、ここに来ようと思ったの?」
「……ごめんなさい」
「あ、いやいや、怒ってるわけじゃなくてね」
つくづく、礼儀正しい子だと思う。子どもっぽい無邪気さだとか悪気のなさだとか、ほんの少しでも持ち合わせているんだろうか? 清明くんは。
いやもちろん、それが悪いって言いたいわけじゃないけどね。
「そんなにしんどそうなのに、どうして今日だったのかなって」
「それは……」
そこで視線までもが僕から逸れ、天井を見上げる。
清明くんがここに来る理由は、承知している。亡くなったお父さんが「お化け屋敷」と評判のここにいるのではないかと、希望に近い疑いを持っているのだ。それは前回会った時点で、よく分かった。
だけど分からないのは、どうして今日なのかということ。来るだけならいつでもいいだろうに、わざわざ体調を崩して学校を休んだ今日だった理由が分からない。僕が見付けなかったらそこらで倒れていたんじゃないかというほどフラフラだった、今日である理由が。
「昨日の夜から調子が悪くて、ずっと寝てたんです」
「うん」
「今日になってもやっぱり良くなってなくて、だから学校休んでずっと寝てたんですけど……夢を、見たんです。悪夢でした」
「悪夢?」
「お父さんの夢です」
そこで、話が途切れた。言い出しにくかっただろう話を、いざ言い出し始めればすらすらと続けてくれた清明くん。なのに、僕が話を途切れさせてしまった。
そして僕が何も言わないから、止めに入らないから、清明くんは夢の中身について語りだす。
「お父さんの夢だったのに、悪夢だったんです。お父さんとお母さんと僕とでただ一緒にご飯を、ハンバーグを食べてるだけの夢だったのに……悪夢、だったんです。目が覚めたら僕、汗だらけで、被ってた布団はぐちゃぐちゃで、しかも泣いてました。その時丁度お母さんが仕事に出るところで、何か言ってたみたいだったけど、『いってらっしゃい』ってだけ言って、全然頭に入ってませんでした。怖かったんです、凄く。お父さんの夢なのに。嬉しい夢だったのに」
そう言っている間にも、清明くんの目尻からは涙が溢れ始めていた。話し終わってついにそれが流れ始めようとした時、清明くんはタオルをずらして目を覆い、同時に涙をそこに染み込ませた。
何も言えなかった。お父さんがここにいると知っていて、なのに清明くんにはそれを教えてあげられない僕には、何も言えなかった。
タオルが再び額へ持ち上げられる。するともう、清明くんは微笑んでいた。
清さんのように。
「ごめんなさい、困りますよねこんなこと言われても。どうして今日ここに来たのかっていう質問の答えにもなってないですし」
「……いや、今ので充分だよ。こっちこそごめん、思い出させるようなことしちゃって」
「あはは、無理に押しかけてお世話になっちゃってるんですから、これくらい。怒られて追い返されても文句は言えないのに」
――怒る。
今僕が君を怒るとしたらそれは、「もうちょっと子どもっぽくてもいいんじゃないか」という内容でだ。もちろん本当に怒ったりはできるわけもないけど、でももしここで君が八つ当たりで喚き散らしたりしても、きっと僕は君を怒れない。
話を聞いているだけで、お父さんが好きなんだなと分かる。そんな人を亡くしてしまって、しかもその人の話をして、なのにこの対応? つい先日に中学校に上がったばかりの子が? そんなの、辛過ぎるよ。僕なんかが軽々しく言っていいことじゃないけど、でも、辛過ぎる。
「……また、寝れそう?」
「はい。このお布団、気持ちいいですから」
「あ、それは良かった。なんせお客様用だし、寝心地は良くないとね。……それじゃあ僕、ちょっと下の部屋に行ってくるよ。さっき、忘れ物してきたみたいで」
「あ、そうなんですか。じゃあ、いってらっしゃい」
「いってきます」
布団の寝心地なんて、気にしていられるはずがなかった。
寝ればまた夢を見る。それは、今の清明くんからすれば、怖いことであるはずだった。
「あ、孝一くん? え、あれ、ここに来て大丈夫なの?」
さて。実のところ、102号室に戻るというのは栞さん達に会うためだったりします。だけど、ならば忘れ物をしたというのは嘘だったのかと問われれば、嘘でもなかったりしまして。
「カバン、置きっ放しにしちゃってたんで。清明くんは僕の部屋で休んでもらってます」
大学へ通う際の唯一の手荷物、カバン。自分の部屋へ戻る前にこの102号室へ来、そして清明くんの訪問を受けて大慌てな中そのまま自分の部屋へ直行した僕が、これを自分の部屋に運び込めているわけもなく。
――しかしまあ、そんな事情はどうでもいいんですけどね。
「声掛けられねえから仕方ないにしても、いきなり目の前にいた時はびびったぞ……」
「反射的に窓を閉めたりしなかっただけ良かった、ということにしておけ。音は立ててしまったにしても、決定的に不審がられるようなことはなかったんだろう?」
そもそも無人なはずの部屋の窓が空いていた時点で、とは言いますまい。閉まっていたりしたら逆に大吾がガラリと開け放つ可能性もあったわけで、あれは本当、運が良かった。
というわけで、このお二人も102号室に集まっていました。あれだけ騒げばそりゃ気になりますよね。主には栞さんが、なのですが。
「いやまあ、そっちは良かったってことにできてもなあ……。あー、なあ孝一、清明くん、大丈夫だったか? 少しの間っつってもオレ、かなり近くにいたわけだし……」
「それだったら、自分と栞殿もであります」
不安そうに唇を歪める大吾に続き、唇に限って言えば歪みようのないウェンズデーが。
おお、こちらから何を言うまでもなくそう来ましたか。
「そのこともあって戻ってきたんだけど、清明くん、全然そんなふうじゃなかったんだよね。さっき明美さんに清明くんがここに来てるってこと連絡して、その時そのことも言ってみたんだけど、明美さんにもよく分からないって感じだったし」
「……治った、ってことなのかな? それって」
一番初めに答えてくれたのは、栞さんだった。そしてその答えは、誰もが一番に考えるであろうものでありながらしかし、口に出し辛かったりもするというものだった。そしてだからなのだろう、栞さんは、恐る恐るといったふうな口調。
「まだ断言はできないんでしょうけど、でも、もしかしたらそうかもしれないです」
口調に合わせるように曇っていた栞さんの表情は、晴れない。もちろん、他のみんなも。
まるで頼りない結論、ということだ。それは僕にも分かっている。そして僕はそんな頼りのない結論以前のものを、付きつけてしまった。あの人に。
「それを確かめたいんです。考えなしに明美さんにこのことを言ってしまって、だったら僕達なんかよりもずっと気にしてると思うんです。なら、気にさせてしまった僕が何もしないっていうのは良くない気がして」
「成程な。だが、どうやって調べるんだ?」
「清サンがいりゃあ、楓サンに連絡も取れるんだけどなあ」
そう、今回は家守さんがいない。こういう時にとてつもなく頼りになるあの人は、今日もいつも通りにお仕事中だ。その家守さんとメールで連絡を取れる清さんも、今日はナタリーさんと一緒にお出かけ中だし。ううむ、こういう時のためにメールアドレスを教えてもらっておくべきだろうか。
……というのは後の祭りでしかないので、今僕がどうするのかを考える。つまり成美さんが今言った、どうやって調べるのかという問題。
しかしいくら考えたところで方法なんか一つしかなさそうで、だから僕は、それほど長く考えはしなかった。
「誰か一人、僕と一緒に来てもらえませんか? 霊障が出そうだったらすぐに離れてもらうってことで」
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