「夜中に降ってたんでしょうかねえ」
「みたいだねー」
おはようございます。204号室住人、日向孝一です。
朝一番。カーテンを開け放つと、そこには一面雨の跡。それでも元気なお日様の光を受けて、そこら中がキラキラしちゃってました。なかなかにいい眺めで。
――というわけで、今日も朝食をご一緒する栞さんと、そのことについて会話をしているところなのです。
「でも、晴れてくれてよかったね」
「ですねえ」
降っていたのが夜中なのはまあ確定なのでしょうが、しかし現在の空模様は一転、雲一つない快晴です。夜中のうちにやってきた雨雲は、夜中のうちに去っていったようなのです。せっかちですね。
一人暮らしである以上は、一日雨だった程度で洗濯物に困るということもそうないのですが、それでもやっぱり雨よりは晴れのほうがいいですよね。
ちなみに焼いた食パン一枚という簡素なメニューであることが多い僕の朝食ですが、今回はそうではありません。なんと、栞さんが味噌汁と目玉焼きを作ってくれたのです。しかも目玉焼きには焼いたハムが添えてあります。だから主食はパンでなく、白米です。
「味、どうかな。って言っても、誰が作っても同じようなものだろうけど」
「いえいえそんな、美味しいですよ」
木曜日である本日も、大学の講義は一限から。その点では朝食が食パン一枚である理由の一つ、「時間の問題」は、今日のこの食卓にも適用されるはずだったのです。……もちろん、時間の問題以外にも「朝から何か作るのはしんどい」という、自称料理好きとして大きな声では言えないような理由もあるのですが。
さてそんなことはいいとして今回は、栞さんが朝から頑張ってくださいました。それを見て、実際に食べて、美味しくないなんて思うわけがありません。誰が作っても同じだなんて、考えるわけがありません。そもそも、栞さんが作る味噌汁は普段から美味しいのです。だから美味しいのです。何も問題はありません。
「それにお味噌汁だけで言うなら昨日だって作ってもらいましたし、清明くんからも美味しいって言われてたじゃないですか」
「あ、うん。あれは嬉しかった」
昨日、風邪をひきつつもここへやってきた清明くん。そんな彼へ、栞さんはお粥と味噌汁を作ったのでした。僕が作ったということにして、という注釈はつきますが。
「だから今回だって美味しいですよ。贔屓とかなしで」
「良かった」
そう言いながら微笑む栞さんですが、もちろん栞さん自身も自分の作った朝食を食べています。でも、味の良し悪しの判断を自分で下すというのは、なかなか難しいのかもしれません。それにまあ誰だって(もちろん僕だって)、自分で褒めるよりは他の人から褒められたほうが嬉しいでしょうしね。
「ところでさ、ちょっと気になったんだけど」
話は変わるようです。はい、どうぞ。
「楓さんの車の音、今日はまだしてないよね?」
「えーと……」
起きてからこれまでを思い返す。雨の跡やら朝食やらでどこか浮かれたような気分が続く今朝ですが、はて、それらの中でいつものあの音は?
「そう言えば、まだしてないですね」
でもまあ、そう珍しいことでもないんですけどね。ということで、
「今日、お休みなのかな?」
「かもしれませんね」
そう珍しいでもないなりの、そんな予想。度々あることなのです。
――さてさて、これを食べ終わって暫くしたら、今日も大学へ出発です。
「今日は講義、どれだけあるんだっけ?」
「一二三四です。……言うだけで疲れそうですけど」
「ふふ。まあ、分かってて確認しただけなんだけどね」
おや酷い。
しかし美味しいです。
「え? 今日は午後の講義ないぞ?」
『え?』
言うだけで疲れてしまう予定が詰まった大学。
一限終了のチャイムのあと、栞さんを挟んだ二つ隣の席でうつらうつらしていた明くんにお別れを告げ、ついでに二限で本日の講義終了な彼を羨むような物言いをしてみたところ、そんな答えが返ってきました。
え?
「それって、全部の講義が?」
「全部の講義が。……いやお前、ちゃんと見とけよ掲示板。俺達に関係ないような行事でもこういうことになったりするんだし」
えぇー。
「間抜けなのを認めるようで、喜ぶに喜べない」
「いやお前、それは別に喜んどけよ。午後から予定なしっつったら、喜坂さんと出掛けたりできるだろ」
それはそうなんだけど、ともやもやしたものを頭に浮かべていたところ、逆に明くんが疲れたような顔に。
「俺なんか最初っから二限までだからさあ、お得感なんて全くないんだぞ? むしろ孝一のほうがラッキーだろこの場合」
「なるほど、それはそうかもね。そう思ったら素直に嬉しいよ」
「くそう、そう言われたらそう言われたで頭に来るものがあるぞ。なんて羨ましい」
「まあまあ、午後の講義が無しだっていうのはどっちも同じなんだから」
なだめてもらったお礼になだめ返してみますが、明くんは頬杖をついて眉を吊り上げたまま。眠り癖があると言えども不真面目だというわけではない明くんだけど、やっぱりこういうことは後に残るようです。まあ、学生なんてものは学業に対して相当熱心でもない限り、そういうものなんでしょう。僕だってそうなんですから。
「それで日永さん、やっぱり午後は彼女さんとですか?」
そういうわけで、というわけなのかどうかは定かでないですけど、学生どうのとは別の面から栞さんが話を切り出します。さて明くん、どう出る。
「あー、そういう予定があるってわけじゃないですけど……こういう天気じゃあ、そうなるんでしょうね。その辺ぶらぶらすんの好きですから、あいつ」
「いい天気ですもんね、今日」
雨が降った痕跡はそこらにあるものの、本日は晴天なり。晴天に雲一つありませんなり。動物の世話係によってほぼ毎日散歩が行われている我等が住居ですが、それでもなるほど、今日のような天気だと外を歩きたくなってもおかしくはないのでしょう。
と思ったのですがしかし、明くんは「ちょっと違うんですよ」と苦笑い。
「夜中に雨降ったでしょ? 水溜りとか、何となく湿っぽい空気とか、そういうのがいいらしいんですよ。下手したら雨降ってる最中でも外に出たがりますし」
苦笑いとは言え、笑みは笑み。斜めになってしまった明くんの機嫌は、割とあっさり直ってくれたのでした。
「って言っても、単なる晴れでも結局は連れ出されるんですけどね」
「そうなんですか」
人の彼女に自分の彼女との惚気話を披露できるんですから、その直りっぷりはかなりのものなのでしょう。疲労されている栞さんも楽しそうですし、いやはや。
……それにしても、散歩かあ。散歩と言えば昨日、清明くんと庄子ちゃんがジョンを連れてのお出掛けを約束してたみたいだけど、あれはいつになるんだろうか?
さて。寝てる間に雨が降っていたり、家守さんのお仕事が休みっぽかったり、思いがけず午後の予定が未定になってしまったりといろいろなことが重なる日ですが、それらの間に関連性がまるでないので、特にどう思うということもありません。すごい偶然でも何でもないです。
「それじゃあ、また後で」
「ご苦労様です」
すごい偶然でも何でもないのですが、それら一つ一つの影響はもちろんあるわけです。二限も終えて帰ってきた今で言うなら、今後が暇であるということ、そして栞さんの庭掃除がちょっとやり辛くなってしまっているということでしょうか。水浸しというほどではないにせよ、土がやや湿っているのです。
まあ掃除をする本人からすれば、今更そんなことは気になるほどのことでもないのでしょうが。なんせこの道四年のベテランですし。
ちなみに二階へ上がる前、家守さんは本当にお休みなんだろうかと101号室を眺めてみたところ、台所の窓が開いていたので、どうやらやっぱりお休みであるようです。となればこちらもそのうち、何らかの影響を及ぼしてくることになるのかもしれません。振って湧いた暇に任せて訪ねてみるとか、逆に訪ねられたりとか。
それについてはどんと来いなので成り行き任せでいいとして、取り敢えずいま成すべきは昼食の準備です。朝に作ってもらった味噌汁がまだ残っているので、それももちろん組み込んで。
さてどうしましょうか。親子丼にでもしましょうか。
『いただきます』
「――そうだ孝一くん、裏庭の掃除してる時にね、みんなから呼ばれたよ」
「みんなっていうのは、みんなですか?」
「うんみんな。清さんの部屋に集まってた」
「じゃあ、食べ終わったら行きましょうか」
「うん。……呼ばれた時に栞もそう言ったんだけどね、『孝一くんの所でお昼ご飯食べたら来ますね』って。そしたら、羨ましがられちゃった」
「嫌味な感じにですか? 家守さん辺りに」
「嫌味な感じにだね。楓さんに」
「余分に作ってたらお裾分けでご機嫌取りとかもできたんでしょうけど、みんないるとなると、余分どころの量じゃないですしねえ」
「そっちがメインになっちゃうよねえ。まあ、楓さんに意地悪されるのも面白いと言えば面白いし、諦めて食べちゃおう」
「そうですね。面白いものだと決めて掛かればいくらか気が楽には……うう」
「頑張って頑張って」
「栞さんは平気そうですね?」
「平気じゃないなんて言ったら贅沢だしね、ご飯美味しいし。なんたって、仕事の後ですから」
「ああ、なるほどですねえ。一仕事の後の食事はそりゃあ美味しいでしょうねえ」
「ですねえ」
「冷えたお茶ならまだ追加できますが?」
「是非お願いします」
『ごちそうさま』
ということで、さっそく目指すは102号室。拭えぬ不安はもちろんあるのですが、拭う時間を稼げるほど目的地は遠くなく、また拭えるまで204号室に待機するというほどの問題でもないのですぐさま向かわざるを得ないというのは、心理的に見るとなかなか厄介な組み合わせの状況なのではないでしょうか。本当に時間を稼ごうと思えばいくらでも可能なのに、そうしないように誘導されているというか。
「まあまあ、そこまで引きつった顔しなくても」
階段を下りているところで、前を歩く栞さんからそんなことを言われました。そう、つまり、ここまで思い詰めるほどの問題ではないということなのです。そしてそれが問題なのです。
――ところでそれはいいとして、
「今日はこれ、階段も掃除したんですか?」
「そうだよ。よく気付いたね」
階段を下りる以上は視線を床へ落とすのが普通なのですが、その落としっぷりが必要以上ですからね。
栞さんのお仕事。表裏の庭掃除は毎日ですが、それ以外の場所については思い立ったが吉日方式なのだそうです。空き部屋の中とか、掃除用具等いろいろごちゃごちゃしている倉庫内とか、その隣の自転車置き場とか。そんなわけで今日は、この階段なのでした。
そう長い階段でもないのでもう終わりそうで、しかも下り切ってしまえば目的地はもうすぐそこなのですが、さて、普段は砂やら土やらが隅のほうに貯まっている階段すらさっぱり綺麗になっているのに、今の僕はなんだ?――と、心理状態に無理矢理合わせた意味不明な叱咤を自分に浴びせてみます。
……うん、地味に効果はあったような気がします。意味が分からないのは気にしないでおきましょう。
なんてやってるうちに102号室のドアの前です。
「はいはーい」
ここは清さんの部屋です。が、チャイムを鳴らして返ってきたのは、明らかに清さんの声ではありませんでした。
「美味しかった?」
「美味しかったですよ」
その声の主と栞さんが受け答えをするわけですが、主語をはっきりさせてくださいお願いします。普通に考えればそりゃあ昼食のことなんでしょうけど、なんせ家守さんです。ニヤニヤしてるんです。なんといやらしい。
「なんだったら楓さんもどうですか? 今日の晩ご飯、同じものにしてもらって」
「おや、それは面白そうだねえ。アタシも味わえるわけだ」
「孝一くんほど上手にできるかどうかは分からないですけどね。いつも通り」
「ああじゃあ、さっきのお昼ご飯はこーちゃん任せだったんだ?」
「はい。あ、でも、今日の朝ご飯は栞が作ってみたんです」
「へえなるほど。しぃちゃんもそこそこ慣れてきた?」
「まあその、毎晩頑張ってますから。それに比べたら朝ご飯なんて、ちょっとしたものですし」
「そっかそっか、ちょっとしたものかぁ。しぃちゃんも成長したもんだねえ」
「してなかったら困りますよぉ。孝一くんからあれだけいろいろ教えてもらってるのに」
……すいません、もう中に入らせてくれませんか? それとも、僕が止めるまで止まりませんかこれ?
「あれあれ、しぃちゃんにいろいろ教えた先生が何だか疲れた顔になってるぞ」
ものすごく棒読みな家守さんなのでした。
「ん? 孝一くん、どうしたの?」
ものすごく無垢な栞さんなのでした。本当に気付いてなかったんでしょうか? 家守さんのあれこれに。
……まあ、気付いてなくても、気付いてそれに乗っかっていたとしても、問題があるというわけではないんですけどね。確実に「そういう意図」がある家守さんともどもに。
「ちょっと苛め過ぎたかな? そいじゃ、この辺にしとこうかな」
苛め「過ぎて」ようやくそういうことになるんですか。タチ悪いですね。
『お邪魔します』
玄関先での歓迎をやり過ごし、どうにかこうにかお邪魔しました。ようやく。
「いらっしゃい。んっふっふ、チャイムが鳴ってからやや時間が掛かりましたねえ」
「あらら可哀想に。楓のことだし、どうせやらしいこと言われてたんだろうなあ」
さすが夫、分かってらっしゃる。嫌らしくて厭らしいこと言われてましたよ高次さん。
「やっと揃ったな。と言っても、日向はこのあとまた大学へ行くんだったか?」
「ああ、本当ならその予定だったんですけど、なんか今日は午前だけみたいなんです」
「ん? じゃあ、今日はもう何もないのか?」
「そういうことになりますね」
成美さんが尋ねてくれたので、おさらいを。
暇です。今日はもう。
「ふむ。ならせっかくだ、一緒に来ないか? いつもの散歩」
「呼ばなくたって来るんだろうよ、暇だっつうなら」
「そうなんだろうが、お前に言わせると単なる憎まれ口だな」
大吾の話にも成美さんの話にも大いに頷きつつ、しかしそうなると今来たばかりなのにすぐさま出掛けることになるんだろうか、なんて。でもまあ、それに抵抗があるという話ではないんですけどね。散歩にご一緒させてもらうのはちょくちょくあることだし。
「あ、そうだ。孝一と喜坂、庄子の話はもう聞いてんだよな? 楓サンと高次サンから」
呼ばなくたって来るという自分の言い分を実践しているのか、こちらの返事を待たない大吾。ささっと切り替えた次の話題は、何の話かをはっきりさせるまでもない内容でした。
「うん、聞いた」
「良かったね、大吾くん」
はっきりさせるまでもないので、僕も栞さんもあえてそこへ触れるようなことはしません。大吾からこう訊いてきたということは、家守さん高次さんとそういう話になったんでしょうし。
大吾はにわかに表情を強張らせ、そしてそれを力ずくでほぐすように大きな溜息を一つ。
「なんつーか、えー……どうぞこれまで通り宜しくしてやってください」
言い辛いなら普段の口調でいいだろうに、一息かつ早口でまくしたてまでする大吾。加えて頭を下げてくる。そう来たのならこちらからも頭を下げ返すわけですが、
「ま、喜坂はともかく、孝一は全く何も変化なしなんだけどな」
なんという蛇足か。せっかくの慣れない口調で作り上げたものが一瞬でぶち壊しじゃないのよ。庄子ちゃんが幽霊を見られるようになったって話なんだからそりゃあ、間違いではないけどさ。
「そんなに照れなくてもいいだろう? 二度目なんだから」
「一度目とか二度目とか、そういう問題じゃねえよ」
「ふ、そうだな。照れ隠しに憎まれ口を叩ける相手がいるかいないかという問題か」
「説明すんなよ」
当たりなんですか。
そして僕なんですか。僕だけなんですか。家守さんと高次さんは昨日の時点で知ってたわけだし、すると成美さんの言う「一度目」の相手は清さんとサーズデイさんとナタリーさんと一応ジョンも……ああ、僕だけなんですね。
「あの、日向さん、どうかしましたか?」
「ぷい?」
「ワウ?」
よっぽどな落胆のさまだったんだろうか、たった今思い浮かべた蛇さんとマリモさんと犬さんから声を掛けられました。なんせ僕だけなんですから。
「まあその、捉えようによっては喜びようもあることですからね」
そんなことより散歩行きましょうよもう、なんて投げ遣りになりつつさえあったところへ、大吾がぽろりと。
「ん? 喜ぶとこだったのか今の?」
お前が言うでない。
もともと根底にそういう話があったりもしたので、話が終われば自然にそういう流れになります。
ということで、散歩です。大吾が言っていた呼ばれなくてもご一緒することになるんだろうという説の通り、しっかり呼ばれた僕と栞さん以外も全員参加です。
「……大人数ですね」
ジョンのリードを任され先頭を歩く僕。そこから後ろを振り返ると、言葉通りの光景が。
「まあまあ。大多数の人からすれば、俺と楓と日向くんの三人だけなんだし。あとジョン」
「それにしたって、どんな組み合わせだって話なんだけどねえ。アタシらおっちゃんおばちゃんと学生の三人がかりで犬の散歩って」
そして実際には、それ以上にどんな組み合わせなんだっていう。犬の背に蛇が乗ってたり、タンクトップ男の背に小さな女の子が背負われてたり、その女の子がマリモの入ったビンを持ってたり。栞さんと清さんに関しては、見えてもなんともなさそうですけど。
「んっふっふ、時間帯的にも妙ですよねえ。仕事と学業はどうなってるんだっていう」
「まだお昼ですもんねー」
見えてもなんともなさそうなお二人はそう仰りますがしかし、そのおかげで人通りは全くないと言ってもいいほどで、見られれば違和感のある集団でありながらそもそも見る人がいない、という状況なのです。まあ、毎度のことなんですけどね。
「むー、誰もおばちゃんって部分に突っ込んでくれないよう。しぃちゃんにくらいは望みがあると思ってたのにぃ」
ぶー垂れないでください家守さん。分かりましたから、お姉さんですから。
「俺はむしろ喜ばしいけどなあ、おっちゃんおばちゃん。親しみがあるって言うかさ」
「んはーっ、男ってなあ気楽だあねえ。女がどおぉんだけみっともなくお肌べたべたこねくり回してるか、毎朝毎晩実際に目にしててもこの言い様だよ」
なんとなく耳にしてはいけないことを聞いたような。栞さん……は、首をぶんぶんと横に振ってますけど。成美さんにいたっては首を傾げてますけど。
「それなんだけどさあ、あれってやるとやらないでそんなに変わるもんなのか? 綺麗になりたいってのはそりゃ分かるけど、止めた途端にガッサガサの鮫肌状態になるってわけでもないっしょ?」
「継続は力なり。継続無きは無力なり。万が一を考えると怖くて止められなくなるものなのだよ、高次さん」
「うーん、男には――少なくとも俺には、分からんなあ」
「キシシ、分からなくていいって。分かられて行動に移されたら気色悪いし。パック面の高次さんとか……ぷっ、くくくく」
「笑われるのは癪だけど、確かにそりゃ気色悪い。これ以上考えるのは止めとこう」
話が切り上げられたところで、首を横に振った栞さんと首を傾げた成美さん以外にももう一人女性がいたことを思い出す。ジョンの背中で進行方向とは逆を向いて佇んでいる、ナタリーさんです。
しかし、見るまでもなく成美さんと同じ感想なのでしょうがと予想を立てていたものの、彼女はただじっと家守夫妻を見詰め続けているだけなのでした。動きがないという点については、いつもそうだと言えばいつもそう。なのですが、無言というのはどうでしょう? いつもなら疑問に思ったことはずばずば訊いてくるんですけど。
「ところで日向くん、今これ、どこに向かってるの?」
先頭を歩いているのが僕ということで、歩く方向は僕の一存という状況。だけど、
「あ、どこに向かうとかは別にないです。適当に歩き回ってるだけで」
ということになるのです。リードを預かっているジョンも、あんまり先々進んだりはしないですし。
「オレ等の散歩っていつもこんな感じなんですよ、高次サン。どこ通るとかもそんなにしっかり決めてないですし」
と、いつもなら先頭を歩いている大吾から。それを知っているから僕も適当にぶらぶらと歩いているわけですが、そこで成美さんが大吾の背からひょっこりと顔を出します。
「とは言え、ある程度の方向くらいは決まっているがな。つい先日、たまたまそれを外れて思わぬ拾い物があったばかりだろう?」
「ん? なんだっけか。……あ、いや待て思い出した。二日前のことだよな」
「そうそれだ」
「広い物っつうから本当に物拾ったのかと思ったぞ。財布とか」
二日前と言えば――成美さんが猫だった時の旦那さんがやって来た日だったっけ。
あれは大きな出来事だったので、それを思い出した今は誰かしらが何かしら、大吾と成美さんに声を掛けたくなるような場面だったんだろう。
「にこっ」
だけども成美さんが持つ水入りのビンからそんな声が上がったので、出番を奪われた他の全員、誰も何も言わないのでした。それ以上は野暮ったくなるとでも言いましょうか。全ての代弁になり得てしまうんですよねえ、サーズデイさんの喋り方って。
「拾い物とはちょっと違いますが、私達も昨日、ちょっとした出会いがあったんですよ。ねえナタリー?」
「あ、はい。清さんと一緒に山へ行った時に」
清さんから話を振られ、これまで静かだったナタリーさんがようやく口を開く。
昨日といえば清明くんと庄子ちゃんが僕の部屋を訪ねてきたことが真っ先に思い浮かびますが、その出来事の中ほどまで、ナタリーさんと清さんは山へお出掛けしていたのです。
しかし清明くんと庄子ちゃんのこともあって、お出掛けについての話はここまで聞けず仕舞い。ということで、
「出会いって、どんなですか?」
ナタリーさんに尋ねてみました。
これまで後ろのみんなを見ていた顔が、くいとこちらへ向けて持ち上げられます。
「女の方に会ったんです。――あ、その方は蛇なんですけど、蛇の中でも私とはまた別の種族で。最初は言葉が通じるかどうか不安だったんですけど、それも問題がなくて」
「みたいだねー」
おはようございます。204号室住人、日向孝一です。
朝一番。カーテンを開け放つと、そこには一面雨の跡。それでも元気なお日様の光を受けて、そこら中がキラキラしちゃってました。なかなかにいい眺めで。
――というわけで、今日も朝食をご一緒する栞さんと、そのことについて会話をしているところなのです。
「でも、晴れてくれてよかったね」
「ですねえ」
降っていたのが夜中なのはまあ確定なのでしょうが、しかし現在の空模様は一転、雲一つない快晴です。夜中のうちにやってきた雨雲は、夜中のうちに去っていったようなのです。せっかちですね。
一人暮らしである以上は、一日雨だった程度で洗濯物に困るということもそうないのですが、それでもやっぱり雨よりは晴れのほうがいいですよね。
ちなみに焼いた食パン一枚という簡素なメニューであることが多い僕の朝食ですが、今回はそうではありません。なんと、栞さんが味噌汁と目玉焼きを作ってくれたのです。しかも目玉焼きには焼いたハムが添えてあります。だから主食はパンでなく、白米です。
「味、どうかな。って言っても、誰が作っても同じようなものだろうけど」
「いえいえそんな、美味しいですよ」
木曜日である本日も、大学の講義は一限から。その点では朝食が食パン一枚である理由の一つ、「時間の問題」は、今日のこの食卓にも適用されるはずだったのです。……もちろん、時間の問題以外にも「朝から何か作るのはしんどい」という、自称料理好きとして大きな声では言えないような理由もあるのですが。
さてそんなことはいいとして今回は、栞さんが朝から頑張ってくださいました。それを見て、実際に食べて、美味しくないなんて思うわけがありません。誰が作っても同じだなんて、考えるわけがありません。そもそも、栞さんが作る味噌汁は普段から美味しいのです。だから美味しいのです。何も問題はありません。
「それにお味噌汁だけで言うなら昨日だって作ってもらいましたし、清明くんからも美味しいって言われてたじゃないですか」
「あ、うん。あれは嬉しかった」
昨日、風邪をひきつつもここへやってきた清明くん。そんな彼へ、栞さんはお粥と味噌汁を作ったのでした。僕が作ったということにして、という注釈はつきますが。
「だから今回だって美味しいですよ。贔屓とかなしで」
「良かった」
そう言いながら微笑む栞さんですが、もちろん栞さん自身も自分の作った朝食を食べています。でも、味の良し悪しの判断を自分で下すというのは、なかなか難しいのかもしれません。それにまあ誰だって(もちろん僕だって)、自分で褒めるよりは他の人から褒められたほうが嬉しいでしょうしね。
「ところでさ、ちょっと気になったんだけど」
話は変わるようです。はい、どうぞ。
「楓さんの車の音、今日はまだしてないよね?」
「えーと……」
起きてからこれまでを思い返す。雨の跡やら朝食やらでどこか浮かれたような気分が続く今朝ですが、はて、それらの中でいつものあの音は?
「そう言えば、まだしてないですね」
でもまあ、そう珍しいことでもないんですけどね。ということで、
「今日、お休みなのかな?」
「かもしれませんね」
そう珍しいでもないなりの、そんな予想。度々あることなのです。
――さてさて、これを食べ終わって暫くしたら、今日も大学へ出発です。
「今日は講義、どれだけあるんだっけ?」
「一二三四です。……言うだけで疲れそうですけど」
「ふふ。まあ、分かってて確認しただけなんだけどね」
おや酷い。
しかし美味しいです。
「え? 今日は午後の講義ないぞ?」
『え?』
言うだけで疲れてしまう予定が詰まった大学。
一限終了のチャイムのあと、栞さんを挟んだ二つ隣の席でうつらうつらしていた明くんにお別れを告げ、ついでに二限で本日の講義終了な彼を羨むような物言いをしてみたところ、そんな答えが返ってきました。
え?
「それって、全部の講義が?」
「全部の講義が。……いやお前、ちゃんと見とけよ掲示板。俺達に関係ないような行事でもこういうことになったりするんだし」
えぇー。
「間抜けなのを認めるようで、喜ぶに喜べない」
「いやお前、それは別に喜んどけよ。午後から予定なしっつったら、喜坂さんと出掛けたりできるだろ」
それはそうなんだけど、ともやもやしたものを頭に浮かべていたところ、逆に明くんが疲れたような顔に。
「俺なんか最初っから二限までだからさあ、お得感なんて全くないんだぞ? むしろ孝一のほうがラッキーだろこの場合」
「なるほど、それはそうかもね。そう思ったら素直に嬉しいよ」
「くそう、そう言われたらそう言われたで頭に来るものがあるぞ。なんて羨ましい」
「まあまあ、午後の講義が無しだっていうのはどっちも同じなんだから」
なだめてもらったお礼になだめ返してみますが、明くんは頬杖をついて眉を吊り上げたまま。眠り癖があると言えども不真面目だというわけではない明くんだけど、やっぱりこういうことは後に残るようです。まあ、学生なんてものは学業に対して相当熱心でもない限り、そういうものなんでしょう。僕だってそうなんですから。
「それで日永さん、やっぱり午後は彼女さんとですか?」
そういうわけで、というわけなのかどうかは定かでないですけど、学生どうのとは別の面から栞さんが話を切り出します。さて明くん、どう出る。
「あー、そういう予定があるってわけじゃないですけど……こういう天気じゃあ、そうなるんでしょうね。その辺ぶらぶらすんの好きですから、あいつ」
「いい天気ですもんね、今日」
雨が降った痕跡はそこらにあるものの、本日は晴天なり。晴天に雲一つありませんなり。動物の世話係によってほぼ毎日散歩が行われている我等が住居ですが、それでもなるほど、今日のような天気だと外を歩きたくなってもおかしくはないのでしょう。
と思ったのですがしかし、明くんは「ちょっと違うんですよ」と苦笑い。
「夜中に雨降ったでしょ? 水溜りとか、何となく湿っぽい空気とか、そういうのがいいらしいんですよ。下手したら雨降ってる最中でも外に出たがりますし」
苦笑いとは言え、笑みは笑み。斜めになってしまった明くんの機嫌は、割とあっさり直ってくれたのでした。
「って言っても、単なる晴れでも結局は連れ出されるんですけどね」
「そうなんですか」
人の彼女に自分の彼女との惚気話を披露できるんですから、その直りっぷりはかなりのものなのでしょう。疲労されている栞さんも楽しそうですし、いやはや。
……それにしても、散歩かあ。散歩と言えば昨日、清明くんと庄子ちゃんがジョンを連れてのお出掛けを約束してたみたいだけど、あれはいつになるんだろうか?
さて。寝てる間に雨が降っていたり、家守さんのお仕事が休みっぽかったり、思いがけず午後の予定が未定になってしまったりといろいろなことが重なる日ですが、それらの間に関連性がまるでないので、特にどう思うということもありません。すごい偶然でも何でもないです。
「それじゃあ、また後で」
「ご苦労様です」
すごい偶然でも何でもないのですが、それら一つ一つの影響はもちろんあるわけです。二限も終えて帰ってきた今で言うなら、今後が暇であるということ、そして栞さんの庭掃除がちょっとやり辛くなってしまっているということでしょうか。水浸しというほどではないにせよ、土がやや湿っているのです。
まあ掃除をする本人からすれば、今更そんなことは気になるほどのことでもないのでしょうが。なんせこの道四年のベテランですし。
ちなみに二階へ上がる前、家守さんは本当にお休みなんだろうかと101号室を眺めてみたところ、台所の窓が開いていたので、どうやらやっぱりお休みであるようです。となればこちらもそのうち、何らかの影響を及ぼしてくることになるのかもしれません。振って湧いた暇に任せて訪ねてみるとか、逆に訪ねられたりとか。
それについてはどんと来いなので成り行き任せでいいとして、取り敢えずいま成すべきは昼食の準備です。朝に作ってもらった味噌汁がまだ残っているので、それももちろん組み込んで。
さてどうしましょうか。親子丼にでもしましょうか。
『いただきます』
「――そうだ孝一くん、裏庭の掃除してる時にね、みんなから呼ばれたよ」
「みんなっていうのは、みんなですか?」
「うんみんな。清さんの部屋に集まってた」
「じゃあ、食べ終わったら行きましょうか」
「うん。……呼ばれた時に栞もそう言ったんだけどね、『孝一くんの所でお昼ご飯食べたら来ますね』って。そしたら、羨ましがられちゃった」
「嫌味な感じにですか? 家守さん辺りに」
「嫌味な感じにだね。楓さんに」
「余分に作ってたらお裾分けでご機嫌取りとかもできたんでしょうけど、みんないるとなると、余分どころの量じゃないですしねえ」
「そっちがメインになっちゃうよねえ。まあ、楓さんに意地悪されるのも面白いと言えば面白いし、諦めて食べちゃおう」
「そうですね。面白いものだと決めて掛かればいくらか気が楽には……うう」
「頑張って頑張って」
「栞さんは平気そうですね?」
「平気じゃないなんて言ったら贅沢だしね、ご飯美味しいし。なんたって、仕事の後ですから」
「ああ、なるほどですねえ。一仕事の後の食事はそりゃあ美味しいでしょうねえ」
「ですねえ」
「冷えたお茶ならまだ追加できますが?」
「是非お願いします」
『ごちそうさま』
ということで、さっそく目指すは102号室。拭えぬ不安はもちろんあるのですが、拭う時間を稼げるほど目的地は遠くなく、また拭えるまで204号室に待機するというほどの問題でもないのですぐさま向かわざるを得ないというのは、心理的に見るとなかなか厄介な組み合わせの状況なのではないでしょうか。本当に時間を稼ごうと思えばいくらでも可能なのに、そうしないように誘導されているというか。
「まあまあ、そこまで引きつった顔しなくても」
階段を下りているところで、前を歩く栞さんからそんなことを言われました。そう、つまり、ここまで思い詰めるほどの問題ではないということなのです。そしてそれが問題なのです。
――ところでそれはいいとして、
「今日はこれ、階段も掃除したんですか?」
「そうだよ。よく気付いたね」
階段を下りる以上は視線を床へ落とすのが普通なのですが、その落としっぷりが必要以上ですからね。
栞さんのお仕事。表裏の庭掃除は毎日ですが、それ以外の場所については思い立ったが吉日方式なのだそうです。空き部屋の中とか、掃除用具等いろいろごちゃごちゃしている倉庫内とか、その隣の自転車置き場とか。そんなわけで今日は、この階段なのでした。
そう長い階段でもないのでもう終わりそうで、しかも下り切ってしまえば目的地はもうすぐそこなのですが、さて、普段は砂やら土やらが隅のほうに貯まっている階段すらさっぱり綺麗になっているのに、今の僕はなんだ?――と、心理状態に無理矢理合わせた意味不明な叱咤を自分に浴びせてみます。
……うん、地味に効果はあったような気がします。意味が分からないのは気にしないでおきましょう。
なんてやってるうちに102号室のドアの前です。
「はいはーい」
ここは清さんの部屋です。が、チャイムを鳴らして返ってきたのは、明らかに清さんの声ではありませんでした。
「美味しかった?」
「美味しかったですよ」
その声の主と栞さんが受け答えをするわけですが、主語をはっきりさせてくださいお願いします。普通に考えればそりゃあ昼食のことなんでしょうけど、なんせ家守さんです。ニヤニヤしてるんです。なんといやらしい。
「なんだったら楓さんもどうですか? 今日の晩ご飯、同じものにしてもらって」
「おや、それは面白そうだねえ。アタシも味わえるわけだ」
「孝一くんほど上手にできるかどうかは分からないですけどね。いつも通り」
「ああじゃあ、さっきのお昼ご飯はこーちゃん任せだったんだ?」
「はい。あ、でも、今日の朝ご飯は栞が作ってみたんです」
「へえなるほど。しぃちゃんもそこそこ慣れてきた?」
「まあその、毎晩頑張ってますから。それに比べたら朝ご飯なんて、ちょっとしたものですし」
「そっかそっか、ちょっとしたものかぁ。しぃちゃんも成長したもんだねえ」
「してなかったら困りますよぉ。孝一くんからあれだけいろいろ教えてもらってるのに」
……すいません、もう中に入らせてくれませんか? それとも、僕が止めるまで止まりませんかこれ?
「あれあれ、しぃちゃんにいろいろ教えた先生が何だか疲れた顔になってるぞ」
ものすごく棒読みな家守さんなのでした。
「ん? 孝一くん、どうしたの?」
ものすごく無垢な栞さんなのでした。本当に気付いてなかったんでしょうか? 家守さんのあれこれに。
……まあ、気付いてなくても、気付いてそれに乗っかっていたとしても、問題があるというわけではないんですけどね。確実に「そういう意図」がある家守さんともどもに。
「ちょっと苛め過ぎたかな? そいじゃ、この辺にしとこうかな」
苛め「過ぎて」ようやくそういうことになるんですか。タチ悪いですね。
『お邪魔します』
玄関先での歓迎をやり過ごし、どうにかこうにかお邪魔しました。ようやく。
「いらっしゃい。んっふっふ、チャイムが鳴ってからやや時間が掛かりましたねえ」
「あらら可哀想に。楓のことだし、どうせやらしいこと言われてたんだろうなあ」
さすが夫、分かってらっしゃる。嫌らしくて厭らしいこと言われてましたよ高次さん。
「やっと揃ったな。と言っても、日向はこのあとまた大学へ行くんだったか?」
「ああ、本当ならその予定だったんですけど、なんか今日は午前だけみたいなんです」
「ん? じゃあ、今日はもう何もないのか?」
「そういうことになりますね」
成美さんが尋ねてくれたので、おさらいを。
暇です。今日はもう。
「ふむ。ならせっかくだ、一緒に来ないか? いつもの散歩」
「呼ばなくたって来るんだろうよ、暇だっつうなら」
「そうなんだろうが、お前に言わせると単なる憎まれ口だな」
大吾の話にも成美さんの話にも大いに頷きつつ、しかしそうなると今来たばかりなのにすぐさま出掛けることになるんだろうか、なんて。でもまあ、それに抵抗があるという話ではないんですけどね。散歩にご一緒させてもらうのはちょくちょくあることだし。
「あ、そうだ。孝一と喜坂、庄子の話はもう聞いてんだよな? 楓サンと高次サンから」
呼ばなくたって来るという自分の言い分を実践しているのか、こちらの返事を待たない大吾。ささっと切り替えた次の話題は、何の話かをはっきりさせるまでもない内容でした。
「うん、聞いた」
「良かったね、大吾くん」
はっきりさせるまでもないので、僕も栞さんもあえてそこへ触れるようなことはしません。大吾からこう訊いてきたということは、家守さん高次さんとそういう話になったんでしょうし。
大吾はにわかに表情を強張らせ、そしてそれを力ずくでほぐすように大きな溜息を一つ。
「なんつーか、えー……どうぞこれまで通り宜しくしてやってください」
言い辛いなら普段の口調でいいだろうに、一息かつ早口でまくしたてまでする大吾。加えて頭を下げてくる。そう来たのならこちらからも頭を下げ返すわけですが、
「ま、喜坂はともかく、孝一は全く何も変化なしなんだけどな」
なんという蛇足か。せっかくの慣れない口調で作り上げたものが一瞬でぶち壊しじゃないのよ。庄子ちゃんが幽霊を見られるようになったって話なんだからそりゃあ、間違いではないけどさ。
「そんなに照れなくてもいいだろう? 二度目なんだから」
「一度目とか二度目とか、そういう問題じゃねえよ」
「ふ、そうだな。照れ隠しに憎まれ口を叩ける相手がいるかいないかという問題か」
「説明すんなよ」
当たりなんですか。
そして僕なんですか。僕だけなんですか。家守さんと高次さんは昨日の時点で知ってたわけだし、すると成美さんの言う「一度目」の相手は清さんとサーズデイさんとナタリーさんと一応ジョンも……ああ、僕だけなんですね。
「あの、日向さん、どうかしましたか?」
「ぷい?」
「ワウ?」
よっぽどな落胆のさまだったんだろうか、たった今思い浮かべた蛇さんとマリモさんと犬さんから声を掛けられました。なんせ僕だけなんですから。
「まあその、捉えようによっては喜びようもあることですからね」
そんなことより散歩行きましょうよもう、なんて投げ遣りになりつつさえあったところへ、大吾がぽろりと。
「ん? 喜ぶとこだったのか今の?」
お前が言うでない。
もともと根底にそういう話があったりもしたので、話が終われば自然にそういう流れになります。
ということで、散歩です。大吾が言っていた呼ばれなくてもご一緒することになるんだろうという説の通り、しっかり呼ばれた僕と栞さん以外も全員参加です。
「……大人数ですね」
ジョンのリードを任され先頭を歩く僕。そこから後ろを振り返ると、言葉通りの光景が。
「まあまあ。大多数の人からすれば、俺と楓と日向くんの三人だけなんだし。あとジョン」
「それにしたって、どんな組み合わせだって話なんだけどねえ。アタシらおっちゃんおばちゃんと学生の三人がかりで犬の散歩って」
そして実際には、それ以上にどんな組み合わせなんだっていう。犬の背に蛇が乗ってたり、タンクトップ男の背に小さな女の子が背負われてたり、その女の子がマリモの入ったビンを持ってたり。栞さんと清さんに関しては、見えてもなんともなさそうですけど。
「んっふっふ、時間帯的にも妙ですよねえ。仕事と学業はどうなってるんだっていう」
「まだお昼ですもんねー」
見えてもなんともなさそうなお二人はそう仰りますがしかし、そのおかげで人通りは全くないと言ってもいいほどで、見られれば違和感のある集団でありながらそもそも見る人がいない、という状況なのです。まあ、毎度のことなんですけどね。
「むー、誰もおばちゃんって部分に突っ込んでくれないよう。しぃちゃんにくらいは望みがあると思ってたのにぃ」
ぶー垂れないでください家守さん。分かりましたから、お姉さんですから。
「俺はむしろ喜ばしいけどなあ、おっちゃんおばちゃん。親しみがあるって言うかさ」
「んはーっ、男ってなあ気楽だあねえ。女がどおぉんだけみっともなくお肌べたべたこねくり回してるか、毎朝毎晩実際に目にしててもこの言い様だよ」
なんとなく耳にしてはいけないことを聞いたような。栞さん……は、首をぶんぶんと横に振ってますけど。成美さんにいたっては首を傾げてますけど。
「それなんだけどさあ、あれってやるとやらないでそんなに変わるもんなのか? 綺麗になりたいってのはそりゃ分かるけど、止めた途端にガッサガサの鮫肌状態になるってわけでもないっしょ?」
「継続は力なり。継続無きは無力なり。万が一を考えると怖くて止められなくなるものなのだよ、高次さん」
「うーん、男には――少なくとも俺には、分からんなあ」
「キシシ、分からなくていいって。分かられて行動に移されたら気色悪いし。パック面の高次さんとか……ぷっ、くくくく」
「笑われるのは癪だけど、確かにそりゃ気色悪い。これ以上考えるのは止めとこう」
話が切り上げられたところで、首を横に振った栞さんと首を傾げた成美さん以外にももう一人女性がいたことを思い出す。ジョンの背中で進行方向とは逆を向いて佇んでいる、ナタリーさんです。
しかし、見るまでもなく成美さんと同じ感想なのでしょうがと予想を立てていたものの、彼女はただじっと家守夫妻を見詰め続けているだけなのでした。動きがないという点については、いつもそうだと言えばいつもそう。なのですが、無言というのはどうでしょう? いつもなら疑問に思ったことはずばずば訊いてくるんですけど。
「ところで日向くん、今これ、どこに向かってるの?」
先頭を歩いているのが僕ということで、歩く方向は僕の一存という状況。だけど、
「あ、どこに向かうとかは別にないです。適当に歩き回ってるだけで」
ということになるのです。リードを預かっているジョンも、あんまり先々進んだりはしないですし。
「オレ等の散歩っていつもこんな感じなんですよ、高次サン。どこ通るとかもそんなにしっかり決めてないですし」
と、いつもなら先頭を歩いている大吾から。それを知っているから僕も適当にぶらぶらと歩いているわけですが、そこで成美さんが大吾の背からひょっこりと顔を出します。
「とは言え、ある程度の方向くらいは決まっているがな。つい先日、たまたまそれを外れて思わぬ拾い物があったばかりだろう?」
「ん? なんだっけか。……あ、いや待て思い出した。二日前のことだよな」
「そうそれだ」
「広い物っつうから本当に物拾ったのかと思ったぞ。財布とか」
二日前と言えば――成美さんが猫だった時の旦那さんがやって来た日だったっけ。
あれは大きな出来事だったので、それを思い出した今は誰かしらが何かしら、大吾と成美さんに声を掛けたくなるような場面だったんだろう。
「にこっ」
だけども成美さんが持つ水入りのビンからそんな声が上がったので、出番を奪われた他の全員、誰も何も言わないのでした。それ以上は野暮ったくなるとでも言いましょうか。全ての代弁になり得てしまうんですよねえ、サーズデイさんの喋り方って。
「拾い物とはちょっと違いますが、私達も昨日、ちょっとした出会いがあったんですよ。ねえナタリー?」
「あ、はい。清さんと一緒に山へ行った時に」
清さんから話を振られ、これまで静かだったナタリーさんがようやく口を開く。
昨日といえば清明くんと庄子ちゃんが僕の部屋を訪ねてきたことが真っ先に思い浮かびますが、その出来事の中ほどまで、ナタリーさんと清さんは山へお出掛けしていたのです。
しかし清明くんと庄子ちゃんのこともあって、お出掛けについての話はここまで聞けず仕舞い。ということで、
「出会いって、どんなですか?」
ナタリーさんに尋ねてみました。
これまで後ろのみんなを見ていた顔が、くいとこちらへ向けて持ち上げられます。
「女の方に会ったんです。――あ、その方は蛇なんですけど、蛇の中でも私とはまた別の種族で。最初は言葉が通じるかどうか不安だったんですけど、それも問題がなくて」
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