意識して緩やかな口調にしたつもりでしたし、自分の耳で聞いた限りは実際にもちゃんとその通りの口調になってはいました。
けれど当然、そんなものは焼け石に水です。絶句し、そしてじわりと困惑し始める両親の様子は、痛みを伴うくらい如実にこちらへ伝わってくるのでした。
「……今の、どういう意味?」
こちらから畳みかけるように話をするわけにもいかず、なのでお父さんかお母さんの反応を待っていたわけですが、先に動いたのはお母さんなのでした。
「ごめんね。ちょっと今、何が起こったのかもよく分かってなくて。だから――ええと、だから、孝一が言ったことの意味もちょっと……」
その言葉は、思っていることを正確に表せてはいないのでしょう。僕が言ったことの意味は理解できた筈なのです。僕の隣に喜坂栞さんがいる、と。なんせ特に小難しい言い方をしたわけでもない、単純な説明だったのですから。
けれどその理解した内容がお母さんの中の常識に即しておらず、なのでああも動揺し、微かながら声を震わせているのでしょう。
「何が起こった、から話すよ」
「え、ええ」
理解はしている筈なのに、納得することができない。なので僕は知ってさえいれば見たままでしかない状況を、そこに書かれている通りのことを、僕の言葉に置き直してもう一度。
「僕の彼女がそのノートにこのシャーペンで挨拶と自己紹介を書いたんだ。……信じられないだろうけど、それだけのことだよ。今ここで起こったのは」
ノートとシャーペンを用意したのはお母さんだから種も仕掛けもないよ、なんてことをわざわざ言うつもりはありません。多分、そういうことを自分から言い出すというのは、種か仕掛けがある時だけなんでしょうし。
しかしもちろん、それで説明が終わりということはありません。けれど僕はそれを切り出すタイミングを見計らって――いや、そう言えば聞こえはいいでしょうけど、実際のところは分からないだけなのです。更なる説明をいつ切り出せばいいのか、が。
「彼女が書いたったって、だって孝一、今あんた」
「いい、母さん。俺が話す」
その声を聞いてということなのか、それともその前からそうするつもりだったのかは分かりませんが、お母さんの声が上ずり始めたところでお父さんが割って入ってきました。
しかし、次にお父さんの口が開くまではやや時間がありました。
そしてその間、ふわりとした感触に手元を見下ろしてみれば、そこには栞さんの手が重ねられていました。
おかげで気付けたことが一つ。僕の手は、異様なほどの力でズボンの裾を握り込んでいました。そしてそのまま固まってしまっているのか、力を抜くことに力を込める必要があったのでした。
その意思に沿わない握力の出所は、いったい何だったのか? その答えは、口を開いたお父さんの言葉の中にありました。
「ないとは思いたいが、一応訊いておくぞ。母さんを悲しませてまで冗談を言った、なんてことではないんだろうな?」
すぐ横で俯いてしまっているお母さん。
特別親と仲が良かったわけでも、逆に仲が悪かったというわけでもない僕ですら、今のお母さんの様子には打ちのめされるものがありました。
「その人のために」という名目で大切な人を悲しませたことはあります。けれど今回はそれとはまるで違い、ただ単に悲しませただけなのです。必要なこととはいえそれは自分のためであって、悲しませた相手には非も何もなく、しかもそれが自分の親なのです。
お父さんは怒っていました。当たり前でしょう、お父さんにとってのお母さんは僕にとっての栞さんと同じ立場の人なのですから。――自分の親についてこんなことを真剣に考えたのは、恥ずかしながら生まれて初めてだったりするわけですが。
夫婦、なんだよなあ。僕と栞さんが、求めに求めている。
「ない。絶対にないよ」
「だったら説明してくれ。まだ説明が足りてないことは分かるだろう」
「……はい」
いつ話せばいいだろうかと迷っていたことは結局、あちらから求められる形でそのタイミングを迎えたのでした。それが正解なのか不正解なのかを考える余裕なんて、ありはしませんでした。
「栞さ――喜坂栞さんは、お父さんとお母さんには見えてないだろうけど僕には見えてて、ちゃんと僕の隣に座ってる。さっきノートとシャーペンが消えたように見えたと思うけど、それは栞さんが触れたからなんだよ」
一旦そこで間を取ってみましたが、あちらから反応は無し。お母さんは話せない状態なのだとしても、お父さんが何も言わないというのはつまり、まだ足りないということなのでしょう。
最後の一言。それを絞り出すのにはかなりの胆力が必要になりましたが、しかしその一言がこの場でどれだけ必要とされているかを考えれば、僕一人の胸中なんて軽んじて然るべきなのでしょう。
「栞さんは、幽霊なんだ」
その短い言葉を言い終えることで高まりに高まっていた緊張は一気にほぐれますが、しかしだからといって、じゃあ幽霊って具体的にどんなのなんだ、というような説明はもちろんしません。どれだけ空気が重くても、今は返事を待つべきでしょう。
――…………。
「孝一」
数分間ぐらいに感じられましたが、恐らく実際には数秒なのでしょう。やはり――と言ってしまっていいものなのかどうか――口を開いたのは、お父さんなのでした。
「今、目の前で説明のつかないことが起こったのは認める。認めるが、その原因が幽霊だなんて話は信じてやれん。悪いがな」
悪いがな、と思ってくれるだけむしろ救われた気分だよ。
ありがとう、お父さん。
「いや、僕だって初めからそのつもりでここに来てるから」
そして栞さんも。とは、言わないでおいたというか、言えませんでした。問題になっている当人への情に訴えるというのは、卑怯な気がしたのです。
けれど栞さんにまで伝えられないというのは心苦しく、なので再度、その手を握っておきました。
あちらから握り返されたことを「意図が伝わった証」ということにしておいて、引き続き、僕はお父さんと真っ直ぐに見詰め合います。睨み合う、という表現のほうが相応しいのかもしれませんが。
そして、また暫くの間。けれどそれは、何もない空白の時間というわけではなく。
「……お前がどういう奴なのかは父さん、よく分かってるつもりだ。でもだからと言って、幽霊なんて言われてもどうしようもないぞ。家を出てから二月も経っていないのに、一体何があったんだ?」
「特別なことは何もなかったよ。なんにも特別じゃないくらい、あまくに荘の人達はみんな、いい人達だったから」
「その言い方だと、そこに住んでる全員が幽霊みたいだぞ」
「うん。管理人さんとその旦那さんと、あと飼い犬のジョン以外は、みんな幽霊だよ」
きっぱりそう言い放つと、お父さんは目頭を押さえて俯いてしまいます。お母さんに至っては、完全にそっぽを向いてしまいました。
そうなるともう胸が痛むどころの話ではなくなってくるわけですが、しかしそれでも僕は、ここで後ろ向きになるわけにはいかないのです。初めからそのつもりで、つまり初めから親を悲しませることになるのは分かったうえでここへ来てこの話をしているわけですから、ならば途中で折れるというのは、むしろ親不孝というものなのでしょう。悲しませるだけ悲しませてそれっきりだなんてこと、絶対に許容できません。
これまでより随分と語気を弱めて、お父さんが再度話し掛けてきました。
「もう、なんて言ったらいいのか皆目見当もつかんが……孝一、特別なことは何もなかったと言ったが、お前は幽霊が見えでもしているのか? 今そこにいるっていう――ええと、喜坂さんも?」
「うん。僕だってあっちに済み始めるまでは幽霊が見えてるなんて全然知らなかったけど、見えてるんだよ」
この場に幽霊がいると言い、そしてその幽霊が見えている、とも。信じようが信じまいが普通なら気味悪がるところなのでしょうが、しかしお父さんはひたすら困惑しているばかりで、気味悪がる様子は全くないのでした。
それはつまり、お父さんにとってはそれ以前の問題だということなのでしょう。幽霊がどうのこうのではなく、僕のことのみが問題であると。
「こんなこと、できれば訊きたくもないが……何か証拠はあるか? お前の隣に父さんと母さんには見えない何かがいて、それが幽霊だという証拠は」
見えない何か呼ばわり。それは確認するまでもなく栞さんにとって非常に辛いことなのでしょうが、しかし、耐えてもらわなくてはなりません。
「幽霊かどうかはともかく、見えない何かがいるっていうのは、そのノートじゃあ証明にならない?」
開かれたまま、テーブルの中央に置かれっ放しのノート。そこには依然、栞さんが書いた文章が。少なくともそれが僕の字でないことは、お父さんとお母さんなら一目で分かるでしょう。
「……もう一回だ。もう一回、何か書いてみてくれないか」
お父さんが頼んだ相手は「見えない何か」ではなく、僕なのでした。
信じていないならそうなるしかないのですが、しかしそれでもやはり寂しいだとか不満だとか、そういった気持ちは湧いてきてしまいます。
栞さんがノートへ手を伸ばし、それを手元へ引き寄せます。ならばその間また両親の目からノートが突然消えたわけで、前方からは溜息が聞こえてくるのでした。
栞さんが文章を書き始めます。
今度は、少し長いようでした。
両親からすれば栞さん自身はもちろんシャーペンもノートも、そして書き連ねられていく文字列も、同様に見えてはいません。しかし栞さん、だというのに文字を腕で隠して外から見えないようにしようとしていて、僕からも「さっきより長い文章らしい」ということしか分からないのでした。
……これってもしかして、実際にも僕に見られたくないってことなんでしょうか? 隠す相手、他にいませんし。
なんてことを考えていたら、栞さんがこちらをちらりと。
ちらりと、である以上はまたすぐにノートへ視線を落としてしまうのですが、
「ちょっと、ごめん」
こちらを向かないままそう呟いた栞さんは自分の右側、つまり僕とは反対方向の床へノートを下ろし、その場で書く作業を続け始めるのでした。ということになればもちろん、覗きこみでもしない限り、僕からは完全にノートが見えません。もちろん栞さんはそれを望んでそうしているわけですから、覗きこむなんてことはしませんが。
しかしそうなると、僕としてはやれることがなくて間がもたない――いや、
「もうちょっと掛かるみたい」
ちょっとしたことですが、両親にそれだけ告げておきました。というのも、僕がそれを言わないでいるといずれ両親のほうから「まだか?」という言葉が出てくるでしょうし、そして栞さんからすればそれは、非常に焦らされるものなんでしょうしね。
気遣いと言っていいのかすら疑わしいほど細やかなことですが、やることがないなんて思う暇があるくらいなら、それくらいはしておくべきなのでしょう。
「そうか」
お父さんからの返事はそれだけなのでした。あちらの立場で考えれば、それだけでは済ませられないくらい気になっておかしくない場面なのでしょう。どうして今回は時間が掛かるのかとか、何を書いているのかとか。
なのにそれだけで済ませてしまうというのは、良い方に考えれば「状況を詳しく説明しない僕の意図を汲んだ」といったところになりましょうか。
けれどもちろん、それは願望でしかありません。どちらかと言えば、「不可解に過ぎて下手に声を掛けられない」というほうが現実に即しているのでしょう。怖がられているのです、要するに。
なんてふうに考えていたその時、横からぐすりと鼻をすする音が。
「大丈夫ですか?」
これまでは栞さんに話しかけることを控えていたものの、これにはさすがに、肩を叩いて声を掛けました。僕です不安を覚える状況なのですから、栞さんからすればそれが更に厳しく感じられるのは疑いようもないでしょう。
「大丈夫」
こちらを振り向かず、声の調子も普段から変えないまま、栞さんはそう答えました。ただ、少しの間だけ、肩へ乗せた僕の手に自分の手を重ねたりも。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもないって。僕の思い過ごしだった」
「大丈夫」と「何でもない」では随分と意味が違ってきますが、お父さんからの質問に対して、僕はそう答えておきました。
僕に見せたくないという姿勢は最後の最後まで続き、一度目は僕が親に広げて見せたノートですが、今度は栞さんが直接両親の前に広げるのでした。
予兆も無しにいきなり現れたノートに両親は少し驚いた様子でしたが、慣れてきたのかそれとも心労が勝ってしまっているのか、少しだけなのでした。そして僕からは、一応ながら「何が書いてあるか、僕は見てないから」と言い加えておきました。
「…………」
長いと言っても黙読だけならそう時間が掛かることもなかったのですが、しかしそれでも、両親がノートの文章を読んでいる時間は長く感じられたのでした。自分がその中身を全く知らない、というのも恐らくは影響を及ぼしていたのでしょう。
「孝一」
お母さんが読み終えたことを確認するような仕草ののち、先に読み終えていたお父さんが声を掛けてきました。相変わらず、相手は僕でしたが。
「幽霊かどうかはひとまず横に置いておくが、もしこれを書いたのが本当に『喜坂栞さん』だとするなら――」
思う所があるのか、お父さんはそこで一旦言葉を切りました。しかし何を思ったのかまでは分からず、見当を付けることすらできないのでした。
「お前の言った通り、いい人なんだろうな」
「何が書いてあったの?」
文面を直接見るのは避けていましたが、そうして尋ねるくらいは許されるでしょう。というか、そうでないと書いてあることについての会話ができないので非常に困ってしまいます。
で、お父さんの口から語られるその内容ですが。
「謝られたよ、物凄く丁寧に。あと、謝るようなことになると分かったうえでここに来たことと、分かったうえでここに来るほど――なんだ、お前のことを愛していると、そういうことも書いてあった」
ことここに来て「恥ずかしいから」なんてことはないでしょう。ならば栞さんが僕に見せたくなかったのは、丁寧な謝罪の部分だったのではないでしょうか。
書いている時点でそれを見たなら、僕はきっと口を出さずにはいられなかったでしょう。栞さんもそれを分かっていて、更に言えばそのことを悪くも思っていなくて、けれどそれでも謝らなければならない。
僕の両親に対して栞さんがそういうスタンスであるというのは、以前からずっと聞かされていました。「自分は幽霊だから」と。ならば、栞さんの行動は正しかったんだと思います。
少々気疲れが窺える顔色ではありつつも、横を向いた僕と目が合うと、栞さんは笑みを浮かべてくれました。
なんだったらもっと誇らしげにしてもらっても問題ないんですけどね、なんてことを考えていたらその視界外、正面方向から声を掛けられました。
「少し、時間を貰っていいか?」
「時間?」
「母さんと話がしたくてな、今のことについて」
なるほど、そりゃあお父さんだけの意見で結論を出すというわけにもいかないのでしょう。元々そのためにお父さんとお母さんの両方がここにいるというのもありますし、それを抜きにして考えても、一人であれこれ考えるには異常事態に過ぎるんでしょうしね。
ならばその持ち掛けにはもちろん応じるとして、
「分かった。僕と栞さん、出てた方がいい?」
「そこまでは――」
言い掛けたお父さんはしかし、言葉を詰まらせるのでした。
「……いや、そうしてくれ。そのほうがいいだろう」
どうしてそのほうがいいのか、お父さんは口にしませんでした。そして、同様に「そのほうがいい」と思って提案した僕も、それと同じく。
少し考えれば分かろうというものです。僕はともかく、栞さんの目の前で「栞さんの存在の真否を語る」なんてことは避けるべきであると。そして、だからといって栞さんだけを退室させるわけにもいかず、ならば僕と栞さんの二人で席を外すしかないのだと。
とはいえもちろん、両親にとって栞さんはまだ「存在するという結論が出せていない人物」、つまり結局は「存在しない人物」なわけですから、本来ならば目の前にいるかどうかなんて考証に値しないことだったりもします。だというのに僕の意図を察してくれたらしいというのは、信じる方に傾いてくれていると見るべきか、ただ僕の顔を立ててくれたと見るべきか。
……まあ、その答えは次にこの部屋へ入った時にはっきりするでしょう。
そしてこの部屋を出るということであれば、それはそれでやることもあります。
「じゃあちょっと、車で待ってもらってる人達のとこに行ってるね」
というのはもちろん家守さんと高次さんのことです。出番が来たら呼ぶという話でしたが、それ以外のところで話す機会を得られたというのは、見逃すわけにはいかないでしょう。
「その人達も喜坂さんの話は知っているのか?」
部屋を出ようと立ち上がったところへ、そんな質問が。
「喜坂さんのこと」でなく「喜坂さんの話」である辺りに不信感が見て取れる気がしますが、今重要なのはそこではなく。
ここで正直な答えを言ってしまうと不信感が更に増してしまうんじゃないだろうか、と少し悩みました。そうさせたのは無論僕ですが、なんせ両親からすれば、それが誰なのか全く分からないわけですから。
けれど、結局は。
「うん」
「そうか」
素直に認めておきました。なんせこの後の展開がどうなろうと、家守さんと高次さんには必ずここへ来てもらうことになるのです。だったらここで嘘をついてもその時絶対にばれるわけで、そんなことをしても結局は何の得にもなりませんしね。
「じゃあ、話が済んだら呼びに行くからな」
「分かった」
そうして僕と栞さんは、一旦車へと戻ることになりました。
部屋を出る際、栞さんは頭を下げていました。ノートの文面を見たお父さんの感想と同じく、とても丁寧に。
「出番?」
車に近付くと、開いた窓越しに家守さんがそう声を掛けてきました。
「いえ、両親が話をしたいってことなんで、その間ちょっと出てきました」
「そっか。じゃあまあ立ちっ放しもなんだし、どうぞ遠慮なくお上がり下さいな。車だけどさ」
「お邪魔します」
僕自身もそうではあったのですが、後ろからは栞さんのくすくすという密やかな笑い声が。たったそれだけのことと言えばそうなのですが、さっきまでの強い閉塞感もあってか、やっぱりこの人は心強いなあ、と。
「話はどのへんまで?」
栞さんと二人並んで後部座席に座り込んだところ、ふうと一息つくだけの間を開けてから、高次さんが話を切り出してきました。こちらについても、たった今の家守さんへのそれと同じ感情を抱かずにはいられません。
「栞さんに筆談をしてもらったところです。とは言っても両親はそれを読んだだけで、会話をしたってわけじゃないんですけど」
「まあ最初はそうだろうね、やっぱり。で、感触はどんな感じだった?」
「全くに取り合ってもらえないってほどのことはなくて、というかむしろ、大分いい感じだったとは思うんですけど……それでも信じてもらえたって感じではなかったですねえ、やっぱり」
「いや、充分充分。まだ俺と楓が控えててそれだったら、むしろ安心してもいいくらいだと思うよ」
「そうそう。なんせアタシら、プロフェッショナルってやつなんだしさ」
それはもちろん、僕と栞さんを気遣った言葉ではあったのでしょう。
けれどそう思っていながらまんまと安心させられてしまう辺り、さすが冗談とはいえプロフェッショナルを自称できるだけあるなあ、なんて。
もちろん冗談抜きでもプロフェッショナルなんですけどね、文句無しに。
「ところでしぃちゃん、筆談のほうはどういうこと書いたの?」
家守さんからそんな質問が。当然ながらそれは大事でかつ貴重な情報であって、だったらそれこそプロフェッショナルであるところの家守さんがそれを見逃さないのは当たり前、なのですが。
しかし栞さんは先程、それを僕に見せずに終わっていたのです。家守さんなら大丈夫だろうか、と短時間ながら頭をフル回転させてみたところ、けれども結局はどちらとも言えずじまいなのでした。僕が駄目なら家守さんも駄目だろうというのも、僕が駄目でも家守さんならいいだろうというのも、どちらも非常にあり得そうなのです。
さて。プロの霊能者であるところの家守さんはしかし、仕事の遂行のみが長けているというわけではありません。栞さんの隣で僕がそんなことを考えているならば、その様子を見ておおよそのことは察してしまわれるわけです。
「ああ、無理してまで教えてくれなくていいからね?」
もしかしたらそういう心配りも仕事のうちってことだったりするのかもしれませんが、しかし仕事外での家守さんもよく知っている身としては、やっぱりそれは家守さん自身の性格がなせるものなんだろうなと思わざるを得ないのでした。
で、僕がそんなふうに思うのであれば、栞さんはそれ以上にそう思うわけで。
「いえ、大丈夫です」
必要以上に元気なその口調は、家守さんの気遣いに応えたくてちょっと無理をした、という部分もあるにはあるでしょう。
しかしそうは思っていながら、僕は不安なくその様子を眺めていました。栞さんはちょっと程度でない無理をするほど向こう見ずではないだろうし、家守さんはちょっと程度の無理であればやんわり受け止める程度の度量があるだろうし、というのがその理由です。
で、ならばそちらはともかく、
「僕はここに居て大丈夫なんでしょうか?」
ということに。だってそりゃあ、書いた文章を僕には見せなかった、というところから始まった問題なんですから。
「あはは、『何が書いてあるの?』ってお父さんに訊いちゃってたのに、今更そんなこと言うんだ?」
「むぐ」
確かにそう訊きはしましたし、口頭でとはいえばっちり説明してもらってはいるわけですけども、だからってそんなあっさり。
「大丈夫だよ、ここに居てもらってても。というか、居て欲しいかな」
「分かりました」
どうして居て欲しいのかということを考えてみるに……あっさり、ということでもなかったようです。僕が思っていたのとは逆方向に。
さて、僕の処遇が決定したところで栞さんによる説明が始まるわけですが、しかし本人の口からとはいえお父さんの時と同じく口頭での説明とあって、内容はそれとほぼ一緒なのでした。
まあ、だからこそ僕にも聞かせられたということなのかもしれませんし、それにいつ両親からお呼びが掛かるか分からない以上、あまり長々とした説明をしてもいられない、ということもあったりしますしね。
「謝った、かあ。こんなふうに言っちゃうと狙ってやったみたいで変な感じだけど、良かったと思うよ、それ」
短い説明が終わると、高次さんがそんな感想。いい印象を与えただろうな、というのはその後の反応も知っている僕からすれば疑いようのないことですが、そういう話ってことでいいんでしょうか?
「というのは?」
そう尋ね返したのは僕でなく栞さん。簡潔でありかつ不意に湧いたモヤっと感を払拭してくれるであろう、いい質問でした。
「信じてくれたくれないはともかく、幽霊って世間的には『恐ろしいもの』だからね。だからって『本当は怖くないんですよ』なんて言っても嘘っぽくなっちゃうところはあるから、それとは別のところでそんなに怖くないなと思わせられるなら、それが一番いいってわけ」
なるほど。
「そういうこと、全然考えてなかったです。自分の言いたいことばっかり書いちゃって……」
「ああ、それは全然悪いことじゃないよ喜坂さん」
「だからこそ嘘っぽくないわけだし、それに本題は飽くまでもしぃちゃんの気持ちなんだしね」
そこでなんだか落ち込み気味になってしまうのは栞さんらしいといえばらしいのでしょうが、今回はさすがに高次さんと家守さんに全面的な賛成を表明しますとも。
「言いたいこと引っ込めてご機嫌取りなんかし始めたら、それこそ僕が怒りますよ?」
実際にノートを僕に見せなかったことについては、その意図が察せられ、かつ納得できるものだったからこそ、内容を知った後でも何も言わなかったわけです。
それがもし今言った通りであれば、きっと何も言わずにはいられなかったでしょう。
「あはは、そっか。じゃあ、良かった」
「うーん、その言い方で丸く収まるってのが本当、ねえ? 高次さん」
「はっは、本当にな」
本当に何なんでしょうかね。いやまあ、大体分かりますけど。
けれど当然、そんなものは焼け石に水です。絶句し、そしてじわりと困惑し始める両親の様子は、痛みを伴うくらい如実にこちらへ伝わってくるのでした。
「……今の、どういう意味?」
こちらから畳みかけるように話をするわけにもいかず、なのでお父さんかお母さんの反応を待っていたわけですが、先に動いたのはお母さんなのでした。
「ごめんね。ちょっと今、何が起こったのかもよく分かってなくて。だから――ええと、だから、孝一が言ったことの意味もちょっと……」
その言葉は、思っていることを正確に表せてはいないのでしょう。僕が言ったことの意味は理解できた筈なのです。僕の隣に喜坂栞さんがいる、と。なんせ特に小難しい言い方をしたわけでもない、単純な説明だったのですから。
けれどその理解した内容がお母さんの中の常識に即しておらず、なのでああも動揺し、微かながら声を震わせているのでしょう。
「何が起こった、から話すよ」
「え、ええ」
理解はしている筈なのに、納得することができない。なので僕は知ってさえいれば見たままでしかない状況を、そこに書かれている通りのことを、僕の言葉に置き直してもう一度。
「僕の彼女がそのノートにこのシャーペンで挨拶と自己紹介を書いたんだ。……信じられないだろうけど、それだけのことだよ。今ここで起こったのは」
ノートとシャーペンを用意したのはお母さんだから種も仕掛けもないよ、なんてことをわざわざ言うつもりはありません。多分、そういうことを自分から言い出すというのは、種か仕掛けがある時だけなんでしょうし。
しかしもちろん、それで説明が終わりということはありません。けれど僕はそれを切り出すタイミングを見計らって――いや、そう言えば聞こえはいいでしょうけど、実際のところは分からないだけなのです。更なる説明をいつ切り出せばいいのか、が。
「彼女が書いたったって、だって孝一、今あんた」
「いい、母さん。俺が話す」
その声を聞いてということなのか、それともその前からそうするつもりだったのかは分かりませんが、お母さんの声が上ずり始めたところでお父さんが割って入ってきました。
しかし、次にお父さんの口が開くまではやや時間がありました。
そしてその間、ふわりとした感触に手元を見下ろしてみれば、そこには栞さんの手が重ねられていました。
おかげで気付けたことが一つ。僕の手は、異様なほどの力でズボンの裾を握り込んでいました。そしてそのまま固まってしまっているのか、力を抜くことに力を込める必要があったのでした。
その意思に沿わない握力の出所は、いったい何だったのか? その答えは、口を開いたお父さんの言葉の中にありました。
「ないとは思いたいが、一応訊いておくぞ。母さんを悲しませてまで冗談を言った、なんてことではないんだろうな?」
すぐ横で俯いてしまっているお母さん。
特別親と仲が良かったわけでも、逆に仲が悪かったというわけでもない僕ですら、今のお母さんの様子には打ちのめされるものがありました。
「その人のために」という名目で大切な人を悲しませたことはあります。けれど今回はそれとはまるで違い、ただ単に悲しませただけなのです。必要なこととはいえそれは自分のためであって、悲しませた相手には非も何もなく、しかもそれが自分の親なのです。
お父さんは怒っていました。当たり前でしょう、お父さんにとってのお母さんは僕にとっての栞さんと同じ立場の人なのですから。――自分の親についてこんなことを真剣に考えたのは、恥ずかしながら生まれて初めてだったりするわけですが。
夫婦、なんだよなあ。僕と栞さんが、求めに求めている。
「ない。絶対にないよ」
「だったら説明してくれ。まだ説明が足りてないことは分かるだろう」
「……はい」
いつ話せばいいだろうかと迷っていたことは結局、あちらから求められる形でそのタイミングを迎えたのでした。それが正解なのか不正解なのかを考える余裕なんて、ありはしませんでした。
「栞さ――喜坂栞さんは、お父さんとお母さんには見えてないだろうけど僕には見えてて、ちゃんと僕の隣に座ってる。さっきノートとシャーペンが消えたように見えたと思うけど、それは栞さんが触れたからなんだよ」
一旦そこで間を取ってみましたが、あちらから反応は無し。お母さんは話せない状態なのだとしても、お父さんが何も言わないというのはつまり、まだ足りないということなのでしょう。
最後の一言。それを絞り出すのにはかなりの胆力が必要になりましたが、しかしその一言がこの場でどれだけ必要とされているかを考えれば、僕一人の胸中なんて軽んじて然るべきなのでしょう。
「栞さんは、幽霊なんだ」
その短い言葉を言い終えることで高まりに高まっていた緊張は一気にほぐれますが、しかしだからといって、じゃあ幽霊って具体的にどんなのなんだ、というような説明はもちろんしません。どれだけ空気が重くても、今は返事を待つべきでしょう。
――…………。
「孝一」
数分間ぐらいに感じられましたが、恐らく実際には数秒なのでしょう。やはり――と言ってしまっていいものなのかどうか――口を開いたのは、お父さんなのでした。
「今、目の前で説明のつかないことが起こったのは認める。認めるが、その原因が幽霊だなんて話は信じてやれん。悪いがな」
悪いがな、と思ってくれるだけむしろ救われた気分だよ。
ありがとう、お父さん。
「いや、僕だって初めからそのつもりでここに来てるから」
そして栞さんも。とは、言わないでおいたというか、言えませんでした。問題になっている当人への情に訴えるというのは、卑怯な気がしたのです。
けれど栞さんにまで伝えられないというのは心苦しく、なので再度、その手を握っておきました。
あちらから握り返されたことを「意図が伝わった証」ということにしておいて、引き続き、僕はお父さんと真っ直ぐに見詰め合います。睨み合う、という表現のほうが相応しいのかもしれませんが。
そして、また暫くの間。けれどそれは、何もない空白の時間というわけではなく。
「……お前がどういう奴なのかは父さん、よく分かってるつもりだ。でもだからと言って、幽霊なんて言われてもどうしようもないぞ。家を出てから二月も経っていないのに、一体何があったんだ?」
「特別なことは何もなかったよ。なんにも特別じゃないくらい、あまくに荘の人達はみんな、いい人達だったから」
「その言い方だと、そこに住んでる全員が幽霊みたいだぞ」
「うん。管理人さんとその旦那さんと、あと飼い犬のジョン以外は、みんな幽霊だよ」
きっぱりそう言い放つと、お父さんは目頭を押さえて俯いてしまいます。お母さんに至っては、完全にそっぽを向いてしまいました。
そうなるともう胸が痛むどころの話ではなくなってくるわけですが、しかしそれでも僕は、ここで後ろ向きになるわけにはいかないのです。初めからそのつもりで、つまり初めから親を悲しませることになるのは分かったうえでここへ来てこの話をしているわけですから、ならば途中で折れるというのは、むしろ親不孝というものなのでしょう。悲しませるだけ悲しませてそれっきりだなんてこと、絶対に許容できません。
これまでより随分と語気を弱めて、お父さんが再度話し掛けてきました。
「もう、なんて言ったらいいのか皆目見当もつかんが……孝一、特別なことは何もなかったと言ったが、お前は幽霊が見えでもしているのか? 今そこにいるっていう――ええと、喜坂さんも?」
「うん。僕だってあっちに済み始めるまでは幽霊が見えてるなんて全然知らなかったけど、見えてるんだよ」
この場に幽霊がいると言い、そしてその幽霊が見えている、とも。信じようが信じまいが普通なら気味悪がるところなのでしょうが、しかしお父さんはひたすら困惑しているばかりで、気味悪がる様子は全くないのでした。
それはつまり、お父さんにとってはそれ以前の問題だということなのでしょう。幽霊がどうのこうのではなく、僕のことのみが問題であると。
「こんなこと、できれば訊きたくもないが……何か証拠はあるか? お前の隣に父さんと母さんには見えない何かがいて、それが幽霊だという証拠は」
見えない何か呼ばわり。それは確認するまでもなく栞さんにとって非常に辛いことなのでしょうが、しかし、耐えてもらわなくてはなりません。
「幽霊かどうかはともかく、見えない何かがいるっていうのは、そのノートじゃあ証明にならない?」
開かれたまま、テーブルの中央に置かれっ放しのノート。そこには依然、栞さんが書いた文章が。少なくともそれが僕の字でないことは、お父さんとお母さんなら一目で分かるでしょう。
「……もう一回だ。もう一回、何か書いてみてくれないか」
お父さんが頼んだ相手は「見えない何か」ではなく、僕なのでした。
信じていないならそうなるしかないのですが、しかしそれでもやはり寂しいだとか不満だとか、そういった気持ちは湧いてきてしまいます。
栞さんがノートへ手を伸ばし、それを手元へ引き寄せます。ならばその間また両親の目からノートが突然消えたわけで、前方からは溜息が聞こえてくるのでした。
栞さんが文章を書き始めます。
今度は、少し長いようでした。
両親からすれば栞さん自身はもちろんシャーペンもノートも、そして書き連ねられていく文字列も、同様に見えてはいません。しかし栞さん、だというのに文字を腕で隠して外から見えないようにしようとしていて、僕からも「さっきより長い文章らしい」ということしか分からないのでした。
……これってもしかして、実際にも僕に見られたくないってことなんでしょうか? 隠す相手、他にいませんし。
なんてことを考えていたら、栞さんがこちらをちらりと。
ちらりと、である以上はまたすぐにノートへ視線を落としてしまうのですが、
「ちょっと、ごめん」
こちらを向かないままそう呟いた栞さんは自分の右側、つまり僕とは反対方向の床へノートを下ろし、その場で書く作業を続け始めるのでした。ということになればもちろん、覗きこみでもしない限り、僕からは完全にノートが見えません。もちろん栞さんはそれを望んでそうしているわけですから、覗きこむなんてことはしませんが。
しかしそうなると、僕としてはやれることがなくて間がもたない――いや、
「もうちょっと掛かるみたい」
ちょっとしたことですが、両親にそれだけ告げておきました。というのも、僕がそれを言わないでいるといずれ両親のほうから「まだか?」という言葉が出てくるでしょうし、そして栞さんからすればそれは、非常に焦らされるものなんでしょうしね。
気遣いと言っていいのかすら疑わしいほど細やかなことですが、やることがないなんて思う暇があるくらいなら、それくらいはしておくべきなのでしょう。
「そうか」
お父さんからの返事はそれだけなのでした。あちらの立場で考えれば、それだけでは済ませられないくらい気になっておかしくない場面なのでしょう。どうして今回は時間が掛かるのかとか、何を書いているのかとか。
なのにそれだけで済ませてしまうというのは、良い方に考えれば「状況を詳しく説明しない僕の意図を汲んだ」といったところになりましょうか。
けれどもちろん、それは願望でしかありません。どちらかと言えば、「不可解に過ぎて下手に声を掛けられない」というほうが現実に即しているのでしょう。怖がられているのです、要するに。
なんてふうに考えていたその時、横からぐすりと鼻をすする音が。
「大丈夫ですか?」
これまでは栞さんに話しかけることを控えていたものの、これにはさすがに、肩を叩いて声を掛けました。僕です不安を覚える状況なのですから、栞さんからすればそれが更に厳しく感じられるのは疑いようもないでしょう。
「大丈夫」
こちらを振り向かず、声の調子も普段から変えないまま、栞さんはそう答えました。ただ、少しの間だけ、肩へ乗せた僕の手に自分の手を重ねたりも。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもないって。僕の思い過ごしだった」
「大丈夫」と「何でもない」では随分と意味が違ってきますが、お父さんからの質問に対して、僕はそう答えておきました。
僕に見せたくないという姿勢は最後の最後まで続き、一度目は僕が親に広げて見せたノートですが、今度は栞さんが直接両親の前に広げるのでした。
予兆も無しにいきなり現れたノートに両親は少し驚いた様子でしたが、慣れてきたのかそれとも心労が勝ってしまっているのか、少しだけなのでした。そして僕からは、一応ながら「何が書いてあるか、僕は見てないから」と言い加えておきました。
「…………」
長いと言っても黙読だけならそう時間が掛かることもなかったのですが、しかしそれでも、両親がノートの文章を読んでいる時間は長く感じられたのでした。自分がその中身を全く知らない、というのも恐らくは影響を及ぼしていたのでしょう。
「孝一」
お母さんが読み終えたことを確認するような仕草ののち、先に読み終えていたお父さんが声を掛けてきました。相変わらず、相手は僕でしたが。
「幽霊かどうかはひとまず横に置いておくが、もしこれを書いたのが本当に『喜坂栞さん』だとするなら――」
思う所があるのか、お父さんはそこで一旦言葉を切りました。しかし何を思ったのかまでは分からず、見当を付けることすらできないのでした。
「お前の言った通り、いい人なんだろうな」
「何が書いてあったの?」
文面を直接見るのは避けていましたが、そうして尋ねるくらいは許されるでしょう。というか、そうでないと書いてあることについての会話ができないので非常に困ってしまいます。
で、お父さんの口から語られるその内容ですが。
「謝られたよ、物凄く丁寧に。あと、謝るようなことになると分かったうえでここに来たことと、分かったうえでここに来るほど――なんだ、お前のことを愛していると、そういうことも書いてあった」
ことここに来て「恥ずかしいから」なんてことはないでしょう。ならば栞さんが僕に見せたくなかったのは、丁寧な謝罪の部分だったのではないでしょうか。
書いている時点でそれを見たなら、僕はきっと口を出さずにはいられなかったでしょう。栞さんもそれを分かっていて、更に言えばそのことを悪くも思っていなくて、けれどそれでも謝らなければならない。
僕の両親に対して栞さんがそういうスタンスであるというのは、以前からずっと聞かされていました。「自分は幽霊だから」と。ならば、栞さんの行動は正しかったんだと思います。
少々気疲れが窺える顔色ではありつつも、横を向いた僕と目が合うと、栞さんは笑みを浮かべてくれました。
なんだったらもっと誇らしげにしてもらっても問題ないんですけどね、なんてことを考えていたらその視界外、正面方向から声を掛けられました。
「少し、時間を貰っていいか?」
「時間?」
「母さんと話がしたくてな、今のことについて」
なるほど、そりゃあお父さんだけの意見で結論を出すというわけにもいかないのでしょう。元々そのためにお父さんとお母さんの両方がここにいるというのもありますし、それを抜きにして考えても、一人であれこれ考えるには異常事態に過ぎるんでしょうしね。
ならばその持ち掛けにはもちろん応じるとして、
「分かった。僕と栞さん、出てた方がいい?」
「そこまでは――」
言い掛けたお父さんはしかし、言葉を詰まらせるのでした。
「……いや、そうしてくれ。そのほうがいいだろう」
どうしてそのほうがいいのか、お父さんは口にしませんでした。そして、同様に「そのほうがいい」と思って提案した僕も、それと同じく。
少し考えれば分かろうというものです。僕はともかく、栞さんの目の前で「栞さんの存在の真否を語る」なんてことは避けるべきであると。そして、だからといって栞さんだけを退室させるわけにもいかず、ならば僕と栞さんの二人で席を外すしかないのだと。
とはいえもちろん、両親にとって栞さんはまだ「存在するという結論が出せていない人物」、つまり結局は「存在しない人物」なわけですから、本来ならば目の前にいるかどうかなんて考証に値しないことだったりもします。だというのに僕の意図を察してくれたらしいというのは、信じる方に傾いてくれていると見るべきか、ただ僕の顔を立ててくれたと見るべきか。
……まあ、その答えは次にこの部屋へ入った時にはっきりするでしょう。
そしてこの部屋を出るということであれば、それはそれでやることもあります。
「じゃあちょっと、車で待ってもらってる人達のとこに行ってるね」
というのはもちろん家守さんと高次さんのことです。出番が来たら呼ぶという話でしたが、それ以外のところで話す機会を得られたというのは、見逃すわけにはいかないでしょう。
「その人達も喜坂さんの話は知っているのか?」
部屋を出ようと立ち上がったところへ、そんな質問が。
「喜坂さんのこと」でなく「喜坂さんの話」である辺りに不信感が見て取れる気がしますが、今重要なのはそこではなく。
ここで正直な答えを言ってしまうと不信感が更に増してしまうんじゃないだろうか、と少し悩みました。そうさせたのは無論僕ですが、なんせ両親からすれば、それが誰なのか全く分からないわけですから。
けれど、結局は。
「うん」
「そうか」
素直に認めておきました。なんせこの後の展開がどうなろうと、家守さんと高次さんには必ずここへ来てもらうことになるのです。だったらここで嘘をついてもその時絶対にばれるわけで、そんなことをしても結局は何の得にもなりませんしね。
「じゃあ、話が済んだら呼びに行くからな」
「分かった」
そうして僕と栞さんは、一旦車へと戻ることになりました。
部屋を出る際、栞さんは頭を下げていました。ノートの文面を見たお父さんの感想と同じく、とても丁寧に。
「出番?」
車に近付くと、開いた窓越しに家守さんがそう声を掛けてきました。
「いえ、両親が話をしたいってことなんで、その間ちょっと出てきました」
「そっか。じゃあまあ立ちっ放しもなんだし、どうぞ遠慮なくお上がり下さいな。車だけどさ」
「お邪魔します」
僕自身もそうではあったのですが、後ろからは栞さんのくすくすという密やかな笑い声が。たったそれだけのことと言えばそうなのですが、さっきまでの強い閉塞感もあってか、やっぱりこの人は心強いなあ、と。
「話はどのへんまで?」
栞さんと二人並んで後部座席に座り込んだところ、ふうと一息つくだけの間を開けてから、高次さんが話を切り出してきました。こちらについても、たった今の家守さんへのそれと同じ感情を抱かずにはいられません。
「栞さんに筆談をしてもらったところです。とは言っても両親はそれを読んだだけで、会話をしたってわけじゃないんですけど」
「まあ最初はそうだろうね、やっぱり。で、感触はどんな感じだった?」
「全くに取り合ってもらえないってほどのことはなくて、というかむしろ、大分いい感じだったとは思うんですけど……それでも信じてもらえたって感じではなかったですねえ、やっぱり」
「いや、充分充分。まだ俺と楓が控えててそれだったら、むしろ安心してもいいくらいだと思うよ」
「そうそう。なんせアタシら、プロフェッショナルってやつなんだしさ」
それはもちろん、僕と栞さんを気遣った言葉ではあったのでしょう。
けれどそう思っていながらまんまと安心させられてしまう辺り、さすが冗談とはいえプロフェッショナルを自称できるだけあるなあ、なんて。
もちろん冗談抜きでもプロフェッショナルなんですけどね、文句無しに。
「ところでしぃちゃん、筆談のほうはどういうこと書いたの?」
家守さんからそんな質問が。当然ながらそれは大事でかつ貴重な情報であって、だったらそれこそプロフェッショナルであるところの家守さんがそれを見逃さないのは当たり前、なのですが。
しかし栞さんは先程、それを僕に見せずに終わっていたのです。家守さんなら大丈夫だろうか、と短時間ながら頭をフル回転させてみたところ、けれども結局はどちらとも言えずじまいなのでした。僕が駄目なら家守さんも駄目だろうというのも、僕が駄目でも家守さんならいいだろうというのも、どちらも非常にあり得そうなのです。
さて。プロの霊能者であるところの家守さんはしかし、仕事の遂行のみが長けているというわけではありません。栞さんの隣で僕がそんなことを考えているならば、その様子を見ておおよそのことは察してしまわれるわけです。
「ああ、無理してまで教えてくれなくていいからね?」
もしかしたらそういう心配りも仕事のうちってことだったりするのかもしれませんが、しかし仕事外での家守さんもよく知っている身としては、やっぱりそれは家守さん自身の性格がなせるものなんだろうなと思わざるを得ないのでした。
で、僕がそんなふうに思うのであれば、栞さんはそれ以上にそう思うわけで。
「いえ、大丈夫です」
必要以上に元気なその口調は、家守さんの気遣いに応えたくてちょっと無理をした、という部分もあるにはあるでしょう。
しかしそうは思っていながら、僕は不安なくその様子を眺めていました。栞さんはちょっと程度でない無理をするほど向こう見ずではないだろうし、家守さんはちょっと程度の無理であればやんわり受け止める程度の度量があるだろうし、というのがその理由です。
で、ならばそちらはともかく、
「僕はここに居て大丈夫なんでしょうか?」
ということに。だってそりゃあ、書いた文章を僕には見せなかった、というところから始まった問題なんですから。
「あはは、『何が書いてあるの?』ってお父さんに訊いちゃってたのに、今更そんなこと言うんだ?」
「むぐ」
確かにそう訊きはしましたし、口頭でとはいえばっちり説明してもらってはいるわけですけども、だからってそんなあっさり。
「大丈夫だよ、ここに居てもらってても。というか、居て欲しいかな」
「分かりました」
どうして居て欲しいのかということを考えてみるに……あっさり、ということでもなかったようです。僕が思っていたのとは逆方向に。
さて、僕の処遇が決定したところで栞さんによる説明が始まるわけですが、しかし本人の口からとはいえお父さんの時と同じく口頭での説明とあって、内容はそれとほぼ一緒なのでした。
まあ、だからこそ僕にも聞かせられたということなのかもしれませんし、それにいつ両親からお呼びが掛かるか分からない以上、あまり長々とした説明をしてもいられない、ということもあったりしますしね。
「謝った、かあ。こんなふうに言っちゃうと狙ってやったみたいで変な感じだけど、良かったと思うよ、それ」
短い説明が終わると、高次さんがそんな感想。いい印象を与えただろうな、というのはその後の反応も知っている僕からすれば疑いようのないことですが、そういう話ってことでいいんでしょうか?
「というのは?」
そう尋ね返したのは僕でなく栞さん。簡潔でありかつ不意に湧いたモヤっと感を払拭してくれるであろう、いい質問でした。
「信じてくれたくれないはともかく、幽霊って世間的には『恐ろしいもの』だからね。だからって『本当は怖くないんですよ』なんて言っても嘘っぽくなっちゃうところはあるから、それとは別のところでそんなに怖くないなと思わせられるなら、それが一番いいってわけ」
なるほど。
「そういうこと、全然考えてなかったです。自分の言いたいことばっかり書いちゃって……」
「ああ、それは全然悪いことじゃないよ喜坂さん」
「だからこそ嘘っぽくないわけだし、それに本題は飽くまでもしぃちゃんの気持ちなんだしね」
そこでなんだか落ち込み気味になってしまうのは栞さんらしいといえばらしいのでしょうが、今回はさすがに高次さんと家守さんに全面的な賛成を表明しますとも。
「言いたいこと引っ込めてご機嫌取りなんかし始めたら、それこそ僕が怒りますよ?」
実際にノートを僕に見せなかったことについては、その意図が察せられ、かつ納得できるものだったからこそ、内容を知った後でも何も言わなかったわけです。
それがもし今言った通りであれば、きっと何も言わずにはいられなかったでしょう。
「あはは、そっか。じゃあ、良かった」
「うーん、その言い方で丸く収まるってのが本当、ねえ? 高次さん」
「はっは、本当にな」
本当に何なんでしょうかね。いやまあ、大体分かりますけど。
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