おはようございますの時間ではないですけど、おはようございます。204号室住人、日向孝一です。現在は204号室の住人らしく204号室、つまりこのあまくに荘における自分の部屋でテーブルを前に座り込んでいるのですが、それは何もゆったりとくつろいでいる、というわけではありません。恋人であるところの隣人、つまり203号室住人の喜坂栞さんの不興を買い、怒らせ怒られ叱られて、テーブルを挟んだ反対側に向き合って座っているのに口を利いてもらえないという喜ばしくない状況が発生し、そしてそれは今もなお、続いているのです。
まあ、喜ばしくないというのは口を利いてもらえないというただその一点のみを捉えた場合の話であって、それ以外のもろもろをも含めて考えた場合、むしろ喜ばしいことに分類できる事態なのですが。
時計を見てみると、二時に近い。どうやら、会話がなくなってからもう三十分ほどが経過しているらしい。何かちょっとした変化でもあれば――例えば正座をしているこの足が痺れ始めるとか、そういうことでもあれば、この状況に動きをもたらせるかもしれない。しかしこういう時に限ってそういうことは起こらず、そもそも僕はそれを望んでいいような立場でもない。今は、栞さんの怒りに甘んじて反省すべき時なのだ。
僕が時計に向けていた視線を戻して栞さんを向き直ると、その栞さんもまた時計を眺めていた。
――どうも、怒っている側とは言え、栞さんにとってもこの状態は心苦しいらしい。行動とそのタイミングが同じなのなら理由もまた同じなのかもしれない、というのがその根拠だ。もちろん、根拠と言えるほどのものでないというのは、分かってるけど。
「二時になったら仲直り――に、するよ」
まるで独り言のような口調だった。けど、僕に対して言ったのは明らかで、叱ってくれたことや色々考えさせてくれたことに感謝しているとは言えど、やっぱりそれは嬉しいことだった。
「ただし、残り数分、気を抜いたりしないこと。それと――こっちはそうして欲しいってだけだけど、二時になったらすっぱり仲良しに戻ってほしい。これ以上謝って欲しいとは、思ってないから」
もうすっかりこちらに語り掛ける文章になってしまっていたけど、それでもやっぱり独り言の口調。だから僕は返事をせず、頷きもせず、引き続き石になったようにただ座ったままなのでした。
「ありがとうございました、栞さん」
分針が五十九分を指し、そのうえで秒針が真上を向いたと同時に、僕は思いっきり頭を下げた。
「…………っ」
栞さんもその瞬間に何かを言おうとしていたのか、しかしそれよりも早く僕が喋り出してしまったので、ものの見事に言葉に詰まっている様子だった。
「謝らないで欲しいとは言われましたけど、お礼を言わないで欲しいとは言われてませんよね?」
「い、言われると思わないよ、そんなの」
「でも、本当にありがとうございました。……それで、栞さんも何か言おうとしてましたよね?」
「その前に、何が『ありがとう』なのか教えて欲しいんだけど……」
「全部です」
「……そっか」
ほっとしたような表情だった。全部、の一言だけで伝わるというのもまた嬉しい。つまり、栞さん本人にとっても『僕のために』怒っていたと思ってくれている、ということなのだから。
「本当は二時になったよって言おうとしただけなんだけど――」
なんだそれだけだったんですか、とは言いますまい。二時になったらという条件を提示してきたのは栞さんなんだし、初めにそれを告げようとしていてもおかしくはない。
「じゃあ、栞からも。分かってくれてありがとう、孝一くん」
いつもの笑顔とともに、握手を求める手が差し出される。
笑顔と握手。実に分かりやすい「仲直り」だった。だけど、分かりやすいからこそ単純に嬉しく思え、そして分かりやすいからこそ、同じ間違いは二度とすまいと思わせられた。
差し出された手を握り、握り返され、そして離れる。
これでようやく元通りだ。……いや、栞さんから教えられたことがある分だけ、元より少し進んだと言ってもいいのかもしれない。
でもまあ何はともあれ、良くも悪くも、この件はここまでだ。「これ以上謝って欲しいとは思ってない」というのは、そういう意味でもあるんだろうし。
「お散歩組、今日はちょっと長いかな?」
向かい合う位置から僕の隣へと移動してきた栞さんは、そこへ座り込むとほぼ同時に、再び時計を見上げながらそう言った。
握手を終えた途端に隣に座るというのが「二時になったらすっぱり仲良し」を体現してくれてのことなのか、それとも自然にそうしているのかは――いや、それはわざわざ考えることじゃない。なぜならもう、すっぱり仲良しなのだから。
「ですねえ。特に大吾とチューズデーさんは先に出てたそうですし、そろそろ帰ってきてもいいんでしょうけど」
と、その時。「そろそろ帰ってきてもいいんでしょうけど」という自分の言葉通り、誰かが帰ってきた気配。……とは言え、僕は別にもの凄い気配察知能力を持っていたりするわけではないので、本当に誰かの気配を察知したというわけではありませんが。
具体的には、ジョンの声がしたのです。犬の鳴き声を聞き分けられるというわけでもないのですが、まあ、ジョンでしょう。
「成美ちゃん達のほうが先だったみたいだね」
「もしかしたら途中で大吾達と合流したのかもしれませんよ?」
「そうかもね。――お迎え、行く? 出掛け際、ちょっと心配掛けちゃったし」
「そうですね」
心配を掛けたというのは、本日の午前だけな大学の講義を終えて帰ってきた際、まさに散歩の出掛け際な成美さん達にばったりと出くわした場面のことなのです。のちに栞さんからお叱りを受ける件で暗い顔をしていたらしい僕は、それをジョンとナタリーさん、そして成美さんと清さんの目に留められ、なので「何かあったのか」という話に。
もちろんそれは栞さんのおかげでたった今解決したのですが、ならばその解決したことも、知らせたほうがいいのでしょう。
ということで。
「お帰りなさーい」
部屋を出てすぐの場所、つまり二階の廊下から、栞さんが呼び掛ける。見たところ清さんの部屋である102号室へ入ろうとしているようだった皆さんは、なので残らずこちらを見上げました。
「ただいま帰りました」
「大吾達は帰ってきているか?」
「あの、日向さん、元気になりましたか?」
「ワンッ」
返ってくる相槌に紛れて、質問が二つ。
そのうちの一つ――成美さんは最近、大吾を「大吾」と呼ぶようになった。最近に過ぎて、わざわざ回想するまでもないけど。
「もうすっかりです。ご心配をお掛けしました」
一方的に心配だけを掛けた手前、顔を出し辛い心境ではあったけど、ナタリーさんの質問のおかげでその切っ掛けを得ることができた。それでもまだちょっと恥ずかしく、頭に手を当てながらの返事ではあったけど。
「大吾くん達、一緒じゃないの?」
「うむ、ずっと別行動のままで――ということは、まだ帰ってきていないのか?」
帰ってきていれば、ジョンの声のようなものがなくてもドアの開け閉めの音で気付けただろう。だけど確認したというわけでもないので、「えーっと」と202号室の前まで小さく駆ける栞さん。呼び鈴を鳴らして暫らく待ち、そして結局何の反応もなく、
「うん、まだだよー」
「そうか、遅いなあ。……ふ、まあいい。そうさせたのはわたしだからな」
小さく、しかしそれでも二階の僕達が何とか聞き取れるくらいの声でそう言うと、
「このまま楽の部屋に上がらせてもらうところだったのだが、お前達もどうだ? 散歩は一緒に行けなかったが……」
「あ、うん。ぜひお邪魔させてもらうよ。――孝一くん、もう大丈夫だよね?」
「ええ、もちろん」
そうして102号室へ向かうことに。その際、たった今栞さんが呼び鈴を鳴らした202号室のドアを見る。もちろんそこには今確認した通りに誰もいないけど、でも成美さんが大吾を大吾と呼ぶようになったのと同じく、この部屋にも最近、変化があった。
あっという間にその前を通り過ぎ、しかし考え続ける。
202号室。かつての大吾の部屋であり、しかし現在は大吾と成美さんの部屋だ。大吾はこれまで通りここに帰ってくるけど、成美さんの帰ってくる場所もここになった。それは大吾が望んだことであって、その理由は成美さんへの覚悟の形。覚悟だけでも成美さんは納得したと――僕は完全に部外者だけど、そう思う。
だけど、大吾本人がそれだけでは良しとしなかった。と言ってまさかその手段が同じ部屋に住む――つまるところ同棲生活を始める、なんていう思い切ったものだとは思わなかったけど。
そうこう考えているうちに階段を降り終え、ならば目指す102号室は目と鼻の先。そんな時、またしても考える。
……はてさてしかし、成美さんが大吾の呼び方を変えた件についても含め、僕はどうして今こんなことを考えているんだろう? もしそれが202号室の前を通ったからというものなら、二階の隅の部屋にすんでいる以上、どこかへ行こうとする度にここを通るんだけど。今朝だって通ったし、大学から帰ってきた時だって。
しかしその答えは、現在の目的地である102号室に到着するよりも前に思い付くことができた。そしていざ思い付いてみればそれは実に簡単、散歩の終わりに大吾がいないという、いつもとはほんのちょっと違うシチュエーションのせいなのでした。
大吾、どこで何やってるんだろう?
「いやはや、たまに散歩に付き合ってみただけの割に、面白いことになったものだね」
「まあなんだ、成美達と出くわさねえように普段通らねえ道歩いてたからな。……いやまあ、この場合それはあんま関係ねえのかもしんねえけど」
「しかしそのせいで遅くなってしまったね。くくく、わたしの恋敵のためにも、少し急いで帰るとしよう」
「冗談交じりに言ってくれんなよ。オレ、あん時は結構真剣にだな」
「もちろんわたしも真剣だったよ? そして真剣にことを進めた結果があれだ。ならばその後にまで引きずることはないと思うがね」
「……結構いいヤツだよな、お前」
「逃した魚は大きい、というやつだね。本当に魚ならむしろご馳走になりたいくらいだが」
「その場合の魚ってのはオマエ自身だろがよ」
「ほほう、大きいと認めてくれるのかね? 仮定としての告白ではあったが、惜しんでくれるというのなら悪い気はしないところだね」
「口の減らねえ――ああ、大きいっつったらビッグマウスではあるな。普通言わねえよ、自分に向かって逃した魚は大きい、だなんて」
「ビッグマウス……今度は鼠かね?」
「違えよ。食い意地ばっか張んなよ自分に向けて」
「違う? ふむ……ああいや、そもそもそういう話をする状況ではないのだったね、今は」
「あー、そうだったそうだった。……忘れそうになるな、なんか」
「結局のところ、日向は何をどうして気を落としていたのだ?」
と、室内に入ればニット帽を脱いで猫耳な成美さん。
「それは教えられないけど、良くないことが理由だったので栞が叱っておきました」
と、楽しげな栞さん。
「……日向さん、叱られたのに今、元気になってるんですか?」
と、真っ直ぐにこちらを見詰めて微動だにしないナタリーさん。
「危険な香りがしますねえ」
と、いつもの表情の清さん。
「ワウゥ」
と、ナタリーさんの後ろで丸くなっているジョン。
虐められています。僕は現在、虐められています。多分被害妄想だろうけど、でも虐められているということにしておきます。少なくともナタリーさんなんかはそんなつもりなんて全くないんでしょうけど、それでも。
「元気になった、って部分だけ肯定しておきます……」
「いえあの、私、他に何も言ってないような」
ぐぬ。
――確かに叱られて嬉しいとも思いましたよ? でも、そういう意味じゃないんです。危険な香りとかじゃなくて、極めて健全な意味で――ああいや、叱られてたのに健全もなにもあったもんじゃないですけどねそりゃ。
「まあまあ楽もナタリーも、その辺にしておいてやれ。何があったかは知らんが、せっかく立ち直ったのをまた落ち込ませてどうする」
「それもそうですねえ。んっふっふ、失礼しました日向君」
「……私、変なこと訊いちゃいましたか?」
この場合、自覚のある清さんと自覚のないナタリーさん、程度としてどちらが悪いのでしょうね。僕からすればどちらも悪いことに変わりはありませんけど。
「ついさっきまで怒ってたんだし、これくらいだったら笑い過ごせちゃうかなあ」
と、本当にニコニコしながら仰る栞さん。二時になったらすっぱり仲良しというのはどうやら、当人同士の遣り取りのみについての話だったようで。
「おや、立ち直らせた本人からお許しが出てしまったぞ? これは大変だな日向」
「ワフッ」
「あの、じゃあ、叱られて元気になったっていうのがどういうことか訊いても?」
「んっふっふっふっふっふっふ」
ああ、チューズデーさん――いや、もうこの際大吾でもいいや。早いこと帰ってきてこの場の空気を入れ替えてください。二人が帰ってくれば二人の話に移行するのは分かり切ってるんです。
――助けてください。
「さてさて、ついに到着目前だが」
「文句は言われねえよな? こんくらいで」
「ふむ、それはどちらの話だね? わたしの話か、それとも――」
「オマエの話なんかそれこそ今更だっつーの。大体、それについちゃあ成美から持ち掛けた話だろうが」
「まあ、そうなのだが――くくく、気に掛かるのはやはり哀沢だけなのか」
「…………こっちの話にしたところで、まず成美で問題ねえだろ? 部屋が、その」
「そうだね、まずは202号室だ。先に帰っているかどうかは入ってみないと分からないにしろ、迷惑になるとすればまずはその同居人だね」
「きっぱり迷惑っつっちまうのはどうなんだ?」
「むむ、それは確かに。これは失敬、わたしとしたことが」
「……んじゃ、ま、行くかね」
「いや待て大吾。どうやら、わたし達の行き先は愛の巣ではないようだ」
「愛の巣って――いや、突っ込んでやらねえ。で、どうかしたのか?」
「一階から声だ。恐らく、全員が楽君の部屋に集まっているね。となればわたし達もそちらへ行くのだろう? 言うまでもなく」
助けてください、と願ってからどれくらい経ったのだろうか。そんなに長くはないと思うけど、でももしかしたら実際はそんな体感よりもっと短い時間だったのかもしれない。辛い時間は長く感じてしまうものですし。
さて、しかし少なくとも体感では十分程度虐められ続けたのだということになっているのですが(特に悪気の一切ないナタリーさんは強敵でした)、そろそろ精神的に白旗が上がって塞ぎ込むかむしろ全部話してしまいそうになっていたその時、
「おや? ――んっふっふ、ようやくお帰りですかね?」
部屋のチャイムが鳴り響き、部屋の主である清さんが立ち上がる。そしてその清さんが呟いた通り、今このタイミングでここを訪れる客というのは、やっぱり大吾とチューズデーさんなんでしょう。
つまり、これで恐らくは助かったのです。
「日向さん、元気があるんだかないんだかよく分からないです」
よく分からなくしてるのは主に貴女なんですよナタリーさん。うふふふ。
目は玄関へ向かう清さんの背を追いつつ、頭の中でそんなことを言ってみる。しかしまあ、悪気があるわけでないのは本当なのでそれはそれとしてしておいて、
「お帰りなさい、お二人とも」
「うむ。遅くなってしまったようだが、ただいま楽君」
「他みんな、来てますよね?」
「ええ。なので怒橋君もさっそく上がってもらって――おや?」
期待通りに来客はチューズデーさんと大吾だったようだけど、ここで清さん、何やら気が付くところがあったようで。と言っても居間にいる僕からじゃあ姿が見えないので、何が何やらですが。
そしてそんな清さんに続くのは、何やら失速気味な大吾。
「あー、あの、一緒にいいですか? 散歩先でちょっと……」
「ええ、もちろん構いませんよ。今日は賑やかですねえ、んっふっふ」
……というのは、誰かを連れてきたということなのだろうか? だとしたらその割に、その誰かの声は全然聞こえてこないけど。
「それではどうぞお上がりください。噂をしていたわけではありませんが、みなさんお待ちかねだった筈ですよ」
ずっと僕の話でしたもんねえ、そりゃ。で、そんなのはもういいとしまして。
誰が来たんでしょう? 大吾が連れてくるとなると、あの元気な妹さんを思い浮かべたりしないでもないですけど。
「積極的に待たれていたわけではないらしいが、それでもお待たせしたね。今帰ったよ皆」
「積極的に待たれても困るだけだけどな。つーわけでただいま」
話の焦点を自分から逸らしたい今の状況なら、大吾と成美さんがいる場に庄子ちゃんが加わるというのは実にありがたい。――と思ったんだけど、そもそも中学生である庄子ちゃんがこんな午後の授業の真っ最中な時間にやってくる筈がなく、そしてその通り、お客さんは庄子ちゃんではありませんでした。
そしてそのお客について、大吾から紹介が。
「あーっと、散歩先で見付けたんだけど……オレ等についてくるって話になったらしい、なんか」
自分が連れてきた割には自信なさげな大吾。だけどどうしてそんな調子なのかは、この場にいる誰の目から見ても一目瞭然なのでした。
大吾の横に並んでいるチューズデーさん。その後ろに並んで彼、もしくは彼女は、鋭い視線で周囲を見渡しつつ、その場にゆっくりと座り込む。
「人間と一緒に歩いているわたしが珍しかったようだね」
お客さんと話をしたのはチューズデーさんだそうで。
そう、そのお客さんとは、猫だったのです。白を基調に灰色のぶちが入った落ち着きのある色合いでありながら、獲物でも見付けたかのように細められた目付きが印象的な……まさか、ナタリーさん辺りを本当に獲物として捉えてたりはしないですよね?
「まあ、珍しいと思ったのはこちらもなのだが――」
その言葉に「同じく猫であるチューズデーさんが何を珍しがるんだろう」なんて思ったその矢先、
「ちょっと待て!」
そう広くもない室内にこれでもかと響く、大きな声。声のしたほう、つまり猫さんを見ていた向きからほぼ真後ろの方向を振り返ると、そこで目を見開いていたのは成美さん。
「な、何だよ急にでけえ声出して」
「成美ちゃん?」
「あの、どうかしましたか?」
大吾、栞さん、ナタリーさんの順に声が掛かって、でもその間、成美さんはある一点を凝視し、何かを言わんとしているような半開きの口のまま。つまりはよほど驚くことがあったのでしょうが、しかし動きがないのでその視線の先に何があるかを確認してみたところ、そこにはたった今ここへやってきた猫さんが。
だからと言って再度まじまじと眺めてみても特に驚く要素が見当たらず、しかしチューズデーさんも珍しいと言っていたのだから、同じ猫なら分かる何かがあるのでしょうか? いえ、今の成美さんを猫と言ってしまっていいのかどうかは分かりませんけど。
「……散歩の途中にたまたま出会っただけ、なのか?」
「む? ああ、まさしくその言葉の通りだが。どうした哀沢、彼が何か?」
彼、ということはこの猫さん、雄なようで。しかしそれもやはり驚く要素にはなり得るはずもなく、はて、成美さんはいったい?
「わたしの……前の夫だ。その男は」
――それを聞いた瞬間、室内がどよめいたのは言うまでもない。
しかし成美さんは、猫さんと自分へ交互に向けられる戸惑いの視線など気にする様子もなく立ち上がり、猫さんの目前まで移動し、その場に膝をついた。
「また会えるなんて……また会いたいと思えすらしないくらいに、想像できなかった……」
嬉しそうな、どころか嬉し過ぎて涙を流してしまいそうな成美さん。抱き寄せようとしたのか両手を差し出すも――
猫さんは、その手からするりと逃れてしまった。鳴き声一つすら上げずに。
「……はは、そうだったな。お前は人間が嫌いで、今のわたしは人間なのだったな」
「……哀沢。そういうことなら、わたしがお前のことを伝えてもいいが」
「ああ。頼む、チューズデー」
成美さん本人以外でこの事態を一番早く飲み込んだのは、チューズデーさんだった。声も表情もこれまでで一番優しく、柔らかくなっている成美さんに対し、しかしチューズデーさんの声色はどこか固い。
そしてそれは突然の出来事に動揺してのものではなく、
「大吾、それでいいかね?」
「え? あ、ああ。……いや、何でオレに訊くんだよ」
半ば放心状態の大吾を気遣ってのものだった。
すると、それを耳に下成美さんが大吾へとその顔を向ける。自分と大吾の間に成美さんがいる、という位置に座っている僕からでは、その時の成美さんの表情は覗えなかったけど、覗った大吾は成美さんへ笑い掛けてみせ、猫耳の生えた頭へその手を被せる。
「んな顔すんなよアホ。なんつーか、まあ、気にしなくてくれていいぞ」
「大吾……」
「いきなりだったからちょっと驚いただけだっての。……これでも色々考えてんだよ、あんまナメんなって。旦那サンの話だってこないだ訊いただろ?」
「……そうだな。すまない」
弱々しくながらも微笑んでいるのが分かるような声になる成美さん。その頭を一度だけくしゃっと撫で、大吾は手を下ろした。――と思ったら周りを見渡して、
「あんま見てくんなよ。……しゃーねえだろ? そういう展開なんだし」
確かに見てることは見てるけど、からかおうとしてるとかじゃないんだけどなあ。しかし視線を避けたくなる気持ちも十分に理解できるので、ここは大人しく言われた通りにしておく。
言われた通りにした結果、僕の視線の先で猫さんはどうしているのかと言うと――綺麗な姿勢で座ったままなのでした。何事も起こっていないかのように。
「それじゃあチューズデー、頼む」
人間の言葉を遣えるようになったチューズデーさんとは違って身体そのものを人間に変えた成美さんは猫と会話ができない、というのは実際のところ、たった今知ったことだった。身の周りの猫がチューズデーさんだけだったから、これまで気になりさえしなかったと言うか。
しかし、たった今知ったそのことが――「また会いたいと思えすらしないくらい」というさっきの言葉を、より深く意識に染み込ませてくる。
こうして会ってしまえばこんなにも喜ぶことになるのに、会話すらできない。つまり、本当に、成美さんにとってこれは想定外の出来事なのだ。その時のために猫の言葉を残しておこうとすら考えておけなかったほどに。
チューズデーさんは猫さんに事情を説明した。後ろに座っている白髪白肌の人間の女性が幽霊であり、生きていた頃は白猫であり、そして猫さんのつがいの一人であったと。その説明の間、成美さんは何も口を挟まなかった。
そして猫さんも鳴き声一つ、つまり返事一つしなかった。目の前で話し続けるチューズデーさんをその細められた目でじっと見詰め続け、頭の先から尻尾の先まで、何一つの動きを見せなかった。
まあ、喜ばしくないというのは口を利いてもらえないというただその一点のみを捉えた場合の話であって、それ以外のもろもろをも含めて考えた場合、むしろ喜ばしいことに分類できる事態なのですが。
時計を見てみると、二時に近い。どうやら、会話がなくなってからもう三十分ほどが経過しているらしい。何かちょっとした変化でもあれば――例えば正座をしているこの足が痺れ始めるとか、そういうことでもあれば、この状況に動きをもたらせるかもしれない。しかしこういう時に限ってそういうことは起こらず、そもそも僕はそれを望んでいいような立場でもない。今は、栞さんの怒りに甘んじて反省すべき時なのだ。
僕が時計に向けていた視線を戻して栞さんを向き直ると、その栞さんもまた時計を眺めていた。
――どうも、怒っている側とは言え、栞さんにとってもこの状態は心苦しいらしい。行動とそのタイミングが同じなのなら理由もまた同じなのかもしれない、というのがその根拠だ。もちろん、根拠と言えるほどのものでないというのは、分かってるけど。
「二時になったら仲直り――に、するよ」
まるで独り言のような口調だった。けど、僕に対して言ったのは明らかで、叱ってくれたことや色々考えさせてくれたことに感謝しているとは言えど、やっぱりそれは嬉しいことだった。
「ただし、残り数分、気を抜いたりしないこと。それと――こっちはそうして欲しいってだけだけど、二時になったらすっぱり仲良しに戻ってほしい。これ以上謝って欲しいとは、思ってないから」
もうすっかりこちらに語り掛ける文章になってしまっていたけど、それでもやっぱり独り言の口調。だから僕は返事をせず、頷きもせず、引き続き石になったようにただ座ったままなのでした。
「ありがとうございました、栞さん」
分針が五十九分を指し、そのうえで秒針が真上を向いたと同時に、僕は思いっきり頭を下げた。
「…………っ」
栞さんもその瞬間に何かを言おうとしていたのか、しかしそれよりも早く僕が喋り出してしまったので、ものの見事に言葉に詰まっている様子だった。
「謝らないで欲しいとは言われましたけど、お礼を言わないで欲しいとは言われてませんよね?」
「い、言われると思わないよ、そんなの」
「でも、本当にありがとうございました。……それで、栞さんも何か言おうとしてましたよね?」
「その前に、何が『ありがとう』なのか教えて欲しいんだけど……」
「全部です」
「……そっか」
ほっとしたような表情だった。全部、の一言だけで伝わるというのもまた嬉しい。つまり、栞さん本人にとっても『僕のために』怒っていたと思ってくれている、ということなのだから。
「本当は二時になったよって言おうとしただけなんだけど――」
なんだそれだけだったんですか、とは言いますまい。二時になったらという条件を提示してきたのは栞さんなんだし、初めにそれを告げようとしていてもおかしくはない。
「じゃあ、栞からも。分かってくれてありがとう、孝一くん」
いつもの笑顔とともに、握手を求める手が差し出される。
笑顔と握手。実に分かりやすい「仲直り」だった。だけど、分かりやすいからこそ単純に嬉しく思え、そして分かりやすいからこそ、同じ間違いは二度とすまいと思わせられた。
差し出された手を握り、握り返され、そして離れる。
これでようやく元通りだ。……いや、栞さんから教えられたことがある分だけ、元より少し進んだと言ってもいいのかもしれない。
でもまあ何はともあれ、良くも悪くも、この件はここまでだ。「これ以上謝って欲しいとは思ってない」というのは、そういう意味でもあるんだろうし。
「お散歩組、今日はちょっと長いかな?」
向かい合う位置から僕の隣へと移動してきた栞さんは、そこへ座り込むとほぼ同時に、再び時計を見上げながらそう言った。
握手を終えた途端に隣に座るというのが「二時になったらすっぱり仲良し」を体現してくれてのことなのか、それとも自然にそうしているのかは――いや、それはわざわざ考えることじゃない。なぜならもう、すっぱり仲良しなのだから。
「ですねえ。特に大吾とチューズデーさんは先に出てたそうですし、そろそろ帰ってきてもいいんでしょうけど」
と、その時。「そろそろ帰ってきてもいいんでしょうけど」という自分の言葉通り、誰かが帰ってきた気配。……とは言え、僕は別にもの凄い気配察知能力を持っていたりするわけではないので、本当に誰かの気配を察知したというわけではありませんが。
具体的には、ジョンの声がしたのです。犬の鳴き声を聞き分けられるというわけでもないのですが、まあ、ジョンでしょう。
「成美ちゃん達のほうが先だったみたいだね」
「もしかしたら途中で大吾達と合流したのかもしれませんよ?」
「そうかもね。――お迎え、行く? 出掛け際、ちょっと心配掛けちゃったし」
「そうですね」
心配を掛けたというのは、本日の午前だけな大学の講義を終えて帰ってきた際、まさに散歩の出掛け際な成美さん達にばったりと出くわした場面のことなのです。のちに栞さんからお叱りを受ける件で暗い顔をしていたらしい僕は、それをジョンとナタリーさん、そして成美さんと清さんの目に留められ、なので「何かあったのか」という話に。
もちろんそれは栞さんのおかげでたった今解決したのですが、ならばその解決したことも、知らせたほうがいいのでしょう。
ということで。
「お帰りなさーい」
部屋を出てすぐの場所、つまり二階の廊下から、栞さんが呼び掛ける。見たところ清さんの部屋である102号室へ入ろうとしているようだった皆さんは、なので残らずこちらを見上げました。
「ただいま帰りました」
「大吾達は帰ってきているか?」
「あの、日向さん、元気になりましたか?」
「ワンッ」
返ってくる相槌に紛れて、質問が二つ。
そのうちの一つ――成美さんは最近、大吾を「大吾」と呼ぶようになった。最近に過ぎて、わざわざ回想するまでもないけど。
「もうすっかりです。ご心配をお掛けしました」
一方的に心配だけを掛けた手前、顔を出し辛い心境ではあったけど、ナタリーさんの質問のおかげでその切っ掛けを得ることができた。それでもまだちょっと恥ずかしく、頭に手を当てながらの返事ではあったけど。
「大吾くん達、一緒じゃないの?」
「うむ、ずっと別行動のままで――ということは、まだ帰ってきていないのか?」
帰ってきていれば、ジョンの声のようなものがなくてもドアの開け閉めの音で気付けただろう。だけど確認したというわけでもないので、「えーっと」と202号室の前まで小さく駆ける栞さん。呼び鈴を鳴らして暫らく待ち、そして結局何の反応もなく、
「うん、まだだよー」
「そうか、遅いなあ。……ふ、まあいい。そうさせたのはわたしだからな」
小さく、しかしそれでも二階の僕達が何とか聞き取れるくらいの声でそう言うと、
「このまま楽の部屋に上がらせてもらうところだったのだが、お前達もどうだ? 散歩は一緒に行けなかったが……」
「あ、うん。ぜひお邪魔させてもらうよ。――孝一くん、もう大丈夫だよね?」
「ええ、もちろん」
そうして102号室へ向かうことに。その際、たった今栞さんが呼び鈴を鳴らした202号室のドアを見る。もちろんそこには今確認した通りに誰もいないけど、でも成美さんが大吾を大吾と呼ぶようになったのと同じく、この部屋にも最近、変化があった。
あっという間にその前を通り過ぎ、しかし考え続ける。
202号室。かつての大吾の部屋であり、しかし現在は大吾と成美さんの部屋だ。大吾はこれまで通りここに帰ってくるけど、成美さんの帰ってくる場所もここになった。それは大吾が望んだことであって、その理由は成美さんへの覚悟の形。覚悟だけでも成美さんは納得したと――僕は完全に部外者だけど、そう思う。
だけど、大吾本人がそれだけでは良しとしなかった。と言ってまさかその手段が同じ部屋に住む――つまるところ同棲生活を始める、なんていう思い切ったものだとは思わなかったけど。
そうこう考えているうちに階段を降り終え、ならば目指す102号室は目と鼻の先。そんな時、またしても考える。
……はてさてしかし、成美さんが大吾の呼び方を変えた件についても含め、僕はどうして今こんなことを考えているんだろう? もしそれが202号室の前を通ったからというものなら、二階の隅の部屋にすんでいる以上、どこかへ行こうとする度にここを通るんだけど。今朝だって通ったし、大学から帰ってきた時だって。
しかしその答えは、現在の目的地である102号室に到着するよりも前に思い付くことができた。そしていざ思い付いてみればそれは実に簡単、散歩の終わりに大吾がいないという、いつもとはほんのちょっと違うシチュエーションのせいなのでした。
大吾、どこで何やってるんだろう?
「いやはや、たまに散歩に付き合ってみただけの割に、面白いことになったものだね」
「まあなんだ、成美達と出くわさねえように普段通らねえ道歩いてたからな。……いやまあ、この場合それはあんま関係ねえのかもしんねえけど」
「しかしそのせいで遅くなってしまったね。くくく、わたしの恋敵のためにも、少し急いで帰るとしよう」
「冗談交じりに言ってくれんなよ。オレ、あん時は結構真剣にだな」
「もちろんわたしも真剣だったよ? そして真剣にことを進めた結果があれだ。ならばその後にまで引きずることはないと思うがね」
「……結構いいヤツだよな、お前」
「逃した魚は大きい、というやつだね。本当に魚ならむしろご馳走になりたいくらいだが」
「その場合の魚ってのはオマエ自身だろがよ」
「ほほう、大きいと認めてくれるのかね? 仮定としての告白ではあったが、惜しんでくれるというのなら悪い気はしないところだね」
「口の減らねえ――ああ、大きいっつったらビッグマウスではあるな。普通言わねえよ、自分に向かって逃した魚は大きい、だなんて」
「ビッグマウス……今度は鼠かね?」
「違えよ。食い意地ばっか張んなよ自分に向けて」
「違う? ふむ……ああいや、そもそもそういう話をする状況ではないのだったね、今は」
「あー、そうだったそうだった。……忘れそうになるな、なんか」
「結局のところ、日向は何をどうして気を落としていたのだ?」
と、室内に入ればニット帽を脱いで猫耳な成美さん。
「それは教えられないけど、良くないことが理由だったので栞が叱っておきました」
と、楽しげな栞さん。
「……日向さん、叱られたのに今、元気になってるんですか?」
と、真っ直ぐにこちらを見詰めて微動だにしないナタリーさん。
「危険な香りがしますねえ」
と、いつもの表情の清さん。
「ワウゥ」
と、ナタリーさんの後ろで丸くなっているジョン。
虐められています。僕は現在、虐められています。多分被害妄想だろうけど、でも虐められているということにしておきます。少なくともナタリーさんなんかはそんなつもりなんて全くないんでしょうけど、それでも。
「元気になった、って部分だけ肯定しておきます……」
「いえあの、私、他に何も言ってないような」
ぐぬ。
――確かに叱られて嬉しいとも思いましたよ? でも、そういう意味じゃないんです。危険な香りとかじゃなくて、極めて健全な意味で――ああいや、叱られてたのに健全もなにもあったもんじゃないですけどねそりゃ。
「まあまあ楽もナタリーも、その辺にしておいてやれ。何があったかは知らんが、せっかく立ち直ったのをまた落ち込ませてどうする」
「それもそうですねえ。んっふっふ、失礼しました日向君」
「……私、変なこと訊いちゃいましたか?」
この場合、自覚のある清さんと自覚のないナタリーさん、程度としてどちらが悪いのでしょうね。僕からすればどちらも悪いことに変わりはありませんけど。
「ついさっきまで怒ってたんだし、これくらいだったら笑い過ごせちゃうかなあ」
と、本当にニコニコしながら仰る栞さん。二時になったらすっぱり仲良しというのはどうやら、当人同士の遣り取りのみについての話だったようで。
「おや、立ち直らせた本人からお許しが出てしまったぞ? これは大変だな日向」
「ワフッ」
「あの、じゃあ、叱られて元気になったっていうのがどういうことか訊いても?」
「んっふっふっふっふっふっふ」
ああ、チューズデーさん――いや、もうこの際大吾でもいいや。早いこと帰ってきてこの場の空気を入れ替えてください。二人が帰ってくれば二人の話に移行するのは分かり切ってるんです。
――助けてください。
「さてさて、ついに到着目前だが」
「文句は言われねえよな? こんくらいで」
「ふむ、それはどちらの話だね? わたしの話か、それとも――」
「オマエの話なんかそれこそ今更だっつーの。大体、それについちゃあ成美から持ち掛けた話だろうが」
「まあ、そうなのだが――くくく、気に掛かるのはやはり哀沢だけなのか」
「…………こっちの話にしたところで、まず成美で問題ねえだろ? 部屋が、その」
「そうだね、まずは202号室だ。先に帰っているかどうかは入ってみないと分からないにしろ、迷惑になるとすればまずはその同居人だね」
「きっぱり迷惑っつっちまうのはどうなんだ?」
「むむ、それは確かに。これは失敬、わたしとしたことが」
「……んじゃ、ま、行くかね」
「いや待て大吾。どうやら、わたし達の行き先は愛の巣ではないようだ」
「愛の巣って――いや、突っ込んでやらねえ。で、どうかしたのか?」
「一階から声だ。恐らく、全員が楽君の部屋に集まっているね。となればわたし達もそちらへ行くのだろう? 言うまでもなく」
助けてください、と願ってからどれくらい経ったのだろうか。そんなに長くはないと思うけど、でももしかしたら実際はそんな体感よりもっと短い時間だったのかもしれない。辛い時間は長く感じてしまうものですし。
さて、しかし少なくとも体感では十分程度虐められ続けたのだということになっているのですが(特に悪気の一切ないナタリーさんは強敵でした)、そろそろ精神的に白旗が上がって塞ぎ込むかむしろ全部話してしまいそうになっていたその時、
「おや? ――んっふっふ、ようやくお帰りですかね?」
部屋のチャイムが鳴り響き、部屋の主である清さんが立ち上がる。そしてその清さんが呟いた通り、今このタイミングでここを訪れる客というのは、やっぱり大吾とチューズデーさんなんでしょう。
つまり、これで恐らくは助かったのです。
「日向さん、元気があるんだかないんだかよく分からないです」
よく分からなくしてるのは主に貴女なんですよナタリーさん。うふふふ。
目は玄関へ向かう清さんの背を追いつつ、頭の中でそんなことを言ってみる。しかしまあ、悪気があるわけでないのは本当なのでそれはそれとしてしておいて、
「お帰りなさい、お二人とも」
「うむ。遅くなってしまったようだが、ただいま楽君」
「他みんな、来てますよね?」
「ええ。なので怒橋君もさっそく上がってもらって――おや?」
期待通りに来客はチューズデーさんと大吾だったようだけど、ここで清さん、何やら気が付くところがあったようで。と言っても居間にいる僕からじゃあ姿が見えないので、何が何やらですが。
そしてそんな清さんに続くのは、何やら失速気味な大吾。
「あー、あの、一緒にいいですか? 散歩先でちょっと……」
「ええ、もちろん構いませんよ。今日は賑やかですねえ、んっふっふ」
……というのは、誰かを連れてきたということなのだろうか? だとしたらその割に、その誰かの声は全然聞こえてこないけど。
「それではどうぞお上がりください。噂をしていたわけではありませんが、みなさんお待ちかねだった筈ですよ」
ずっと僕の話でしたもんねえ、そりゃ。で、そんなのはもういいとしまして。
誰が来たんでしょう? 大吾が連れてくるとなると、あの元気な妹さんを思い浮かべたりしないでもないですけど。
「積極的に待たれていたわけではないらしいが、それでもお待たせしたね。今帰ったよ皆」
「積極的に待たれても困るだけだけどな。つーわけでただいま」
話の焦点を自分から逸らしたい今の状況なら、大吾と成美さんがいる場に庄子ちゃんが加わるというのは実にありがたい。――と思ったんだけど、そもそも中学生である庄子ちゃんがこんな午後の授業の真っ最中な時間にやってくる筈がなく、そしてその通り、お客さんは庄子ちゃんではありませんでした。
そしてそのお客について、大吾から紹介が。
「あーっと、散歩先で見付けたんだけど……オレ等についてくるって話になったらしい、なんか」
自分が連れてきた割には自信なさげな大吾。だけどどうしてそんな調子なのかは、この場にいる誰の目から見ても一目瞭然なのでした。
大吾の横に並んでいるチューズデーさん。その後ろに並んで彼、もしくは彼女は、鋭い視線で周囲を見渡しつつ、その場にゆっくりと座り込む。
「人間と一緒に歩いているわたしが珍しかったようだね」
お客さんと話をしたのはチューズデーさんだそうで。
そう、そのお客さんとは、猫だったのです。白を基調に灰色のぶちが入った落ち着きのある色合いでありながら、獲物でも見付けたかのように細められた目付きが印象的な……まさか、ナタリーさん辺りを本当に獲物として捉えてたりはしないですよね?
「まあ、珍しいと思ったのはこちらもなのだが――」
その言葉に「同じく猫であるチューズデーさんが何を珍しがるんだろう」なんて思ったその矢先、
「ちょっと待て!」
そう広くもない室内にこれでもかと響く、大きな声。声のしたほう、つまり猫さんを見ていた向きからほぼ真後ろの方向を振り返ると、そこで目を見開いていたのは成美さん。
「な、何だよ急にでけえ声出して」
「成美ちゃん?」
「あの、どうかしましたか?」
大吾、栞さん、ナタリーさんの順に声が掛かって、でもその間、成美さんはある一点を凝視し、何かを言わんとしているような半開きの口のまま。つまりはよほど驚くことがあったのでしょうが、しかし動きがないのでその視線の先に何があるかを確認してみたところ、そこにはたった今ここへやってきた猫さんが。
だからと言って再度まじまじと眺めてみても特に驚く要素が見当たらず、しかしチューズデーさんも珍しいと言っていたのだから、同じ猫なら分かる何かがあるのでしょうか? いえ、今の成美さんを猫と言ってしまっていいのかどうかは分かりませんけど。
「……散歩の途中にたまたま出会っただけ、なのか?」
「む? ああ、まさしくその言葉の通りだが。どうした哀沢、彼が何か?」
彼、ということはこの猫さん、雄なようで。しかしそれもやはり驚く要素にはなり得るはずもなく、はて、成美さんはいったい?
「わたしの……前の夫だ。その男は」
――それを聞いた瞬間、室内がどよめいたのは言うまでもない。
しかし成美さんは、猫さんと自分へ交互に向けられる戸惑いの視線など気にする様子もなく立ち上がり、猫さんの目前まで移動し、その場に膝をついた。
「また会えるなんて……また会いたいと思えすらしないくらいに、想像できなかった……」
嬉しそうな、どころか嬉し過ぎて涙を流してしまいそうな成美さん。抱き寄せようとしたのか両手を差し出すも――
猫さんは、その手からするりと逃れてしまった。鳴き声一つすら上げずに。
「……はは、そうだったな。お前は人間が嫌いで、今のわたしは人間なのだったな」
「……哀沢。そういうことなら、わたしがお前のことを伝えてもいいが」
「ああ。頼む、チューズデー」
成美さん本人以外でこの事態を一番早く飲み込んだのは、チューズデーさんだった。声も表情もこれまでで一番優しく、柔らかくなっている成美さんに対し、しかしチューズデーさんの声色はどこか固い。
そしてそれは突然の出来事に動揺してのものではなく、
「大吾、それでいいかね?」
「え? あ、ああ。……いや、何でオレに訊くんだよ」
半ば放心状態の大吾を気遣ってのものだった。
すると、それを耳に下成美さんが大吾へとその顔を向ける。自分と大吾の間に成美さんがいる、という位置に座っている僕からでは、その時の成美さんの表情は覗えなかったけど、覗った大吾は成美さんへ笑い掛けてみせ、猫耳の生えた頭へその手を被せる。
「んな顔すんなよアホ。なんつーか、まあ、気にしなくてくれていいぞ」
「大吾……」
「いきなりだったからちょっと驚いただけだっての。……これでも色々考えてんだよ、あんまナメんなって。旦那サンの話だってこないだ訊いただろ?」
「……そうだな。すまない」
弱々しくながらも微笑んでいるのが分かるような声になる成美さん。その頭を一度だけくしゃっと撫で、大吾は手を下ろした。――と思ったら周りを見渡して、
「あんま見てくんなよ。……しゃーねえだろ? そういう展開なんだし」
確かに見てることは見てるけど、からかおうとしてるとかじゃないんだけどなあ。しかし視線を避けたくなる気持ちも十分に理解できるので、ここは大人しく言われた通りにしておく。
言われた通りにした結果、僕の視線の先で猫さんはどうしているのかと言うと――綺麗な姿勢で座ったままなのでした。何事も起こっていないかのように。
「それじゃあチューズデー、頼む」
人間の言葉を遣えるようになったチューズデーさんとは違って身体そのものを人間に変えた成美さんは猫と会話ができない、というのは実際のところ、たった今知ったことだった。身の周りの猫がチューズデーさんだけだったから、これまで気になりさえしなかったと言うか。
しかし、たった今知ったそのことが――「また会いたいと思えすらしないくらい」というさっきの言葉を、より深く意識に染み込ませてくる。
こうして会ってしまえばこんなにも喜ぶことになるのに、会話すらできない。つまり、本当に、成美さんにとってこれは想定外の出来事なのだ。その時のために猫の言葉を残しておこうとすら考えておけなかったほどに。
チューズデーさんは猫さんに事情を説明した。後ろに座っている白髪白肌の人間の女性が幽霊であり、生きていた頃は白猫であり、そして猫さんのつがいの一人であったと。その説明の間、成美さんは何も口を挟まなかった。
そして猫さんも鳴き声一つ、つまり返事一つしなかった。目の前で話し続けるチューズデーさんをその細められた目でじっと見詰め続け、頭の先から尻尾の先まで、何一つの動きを見せなかった。
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