(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第十五章 遠出 四

2008-06-02 20:59:41 | 新転地はお化け屋敷
「ふう。開いたよ孝一くん、入ろ入ろ」
「あ、はい」
 すいません周りに気をとられて手伝えなくて。とは言うもののやっぱり怖……おや?
「ああ、こんなでもやっぱり日本家屋なんですねえ」
「ん? どういう事?」
 外見は洋館だけど、ドアを開いた先には「建物に入る際には履物を脱ぐ」という日本の慣わしが形で示されていた。どんな不気味な展望が繰り広げられるんだろうと思ったところへ馴染みのある様子が飛び込んできたので、胸の辺りで張り詰めていた物がほぐれたような心地に。と言ってもまあ、やたら横に広いんですけどね。旅館みたいな感じ?
「……靴、脱いだほうがいいんですかね?」
「うーん。そうしたほうがいいんだろうけど、でも中グチャグチャだよ? 病院と違って床掃除もされてないし、割れたガラスとか危ないから脱がないほうがいいと思う。前に来た時もみんなそうしてたし」
「ですよねやっぱり」
 廃墟に来て何を言ってるんだ僕は。
 でもまあそれはともかく、
『お邪魔します』
 と二人同時に中に入ってみれば「独りでにドアが閉じる」だとか言ったお約束な展開があるわけでもなく、むしろ立て付けが悪いせいか開き切った位置で引っ掛かってびくともしない様子。頼りになるドアですね。
「変わってないなあ、前来た時から」
 入口のドアが開きっ放しなのとドアの上にあるガラス窓のおかげで、外からの明かりが周囲を照らす。その照らされた狭い範囲だけでも、屋敷の内部はものの見事に荒れ放題だった。埃っぽいのはもはや当然としても、空いたジュースの缶やペットボトルやお菓子の袋なんかがちらほらしている上、まさか自然にそうなったとは思えないように柱が削れて凹んでいたり、その削りカスらしきものがそこいらに散らばっていたり。そして室内だというのに、砂や土が廊下にまで入り込んでいた。
 つまるところ、僕達のようにここへ立ち寄った人達の仕業なんだろう。
「見た感じ、こっちは誰も住んでなさそうですけど……」
「そのはずだよ。少なくとも前にみんなでここに来た時には、誰も住んでなかった」
 そして幽霊さんが住んでる病院とは違って掃除する人がいない、と。
 一応、中へ踏み入る前に爪先でとんとんと床を叩いて靴底の砂を落としておく。それに気付いた栞さんも僕と同じようにとんとんと床を叩き、その音が止んでから、僕達は玄関から左右に伸びる、先に行くほど薄暗くなっている二本の廊下の内の右側へ、足を進ませた。当然土足のまま。
「明らかに洋風なのに入口で靴を脱ぐっていうのも、なんとなく変な感じですね」
「でも今は靴履いてるんだけどね、結局」
「まあそうですけど」
 栞さんが玄関のドアを開ける前の予想では、ドアのすぐ向こうにあるのはだだっ広いホールだと思っていた。それが実際にはさっきの純日本風な玄関があるだけで、左右には廊下、奥には二階への階段があるだけ。この屋敷、横には長いけど奥行きはそれほどでもないのかもしれない。……と言って、廊下の両側に部屋が点在している事と普段の自分の住まいの事を考えるに「狭い」とも言えないわけですが。
「暗いですね」
「そうだねー」
 廊下の両側に部屋があるという構造上、廊下にある窓は突き当たりの一つだけ。言うまでも無く電灯なんかは機能していないので、はっきり言って病院以上の薄暗さです。となると病院以上に不気味なわけで、ついつい辺りをきょろきょろと――
「部屋、入ってみる?」
「あ、そうですね」
 丁度廊下の真ん中辺りだろうか。栞さんがある部屋の前で立ち止まり、誘ってきた。その口調はなんとも思ってなさそうなものだったけど、「やっぱりただ廊下を歩いてるだけなのは、一切怖がってない栞さんからすればつまらなかったのかな」と浮き足立っていた自分をちょっと反省。そして、ドアに手をかける栞さんの背後で悟られないように深呼吸。
「ここは建て付けマシだったねー」
 ドアノブが回る小さな音以外には目立った音を立てず、すっと開いたそのドアに、こちらを振り向いた栞さんはにっこり。
「あれ、この部屋は意外と綺麗ですね」
「そうだね。窓も割れてないし」
 知ってて入ったというわけでもなさそうで、狸に化かされたかのような表情で部屋内を見回す栞さん。始めてここに来た僕も当然、それと同様に。
「書斎……ってやつですかね」
「みたいだね。本がいっぱい」
 ドア側から見て向かい側、窓がある壁。その窓は、洋館らしく外開きのものが左右二枚組み合わせられた構造。そしてそこ以外の三辺の壁は、本棚にきっちりと埋められていて全く見えないのでした。もちろん本棚には本が納められていて、だからこそ栞さんは「本がいっぱい」と口にしたわけですが、この状況ではそうなって当然と言うかなんと言うか、持ち去られたような感じで本が足りていなかったり床に数冊落ちていたり。
 それでもまあ廊下の荒れっぷりに比べれば全然大した事の無いレベルで、なんとなく気分がすっとした僕は部屋の真ん中にある高価そうな皮製のソファに腰を掛けてみた。目の前には木のこれまた高そうなテーブルがあり、なるほどこれなら読書には最適な環境なのかもしれない。
 なんて思っていると、
「栞さん、何してるんですか?」
「ん? 見ての通り、片付けだよ。本は本棚にね」
 それはまあ分かりますが、と本を拾っては本棚に仕舞い込むその様子を眺めていると、「意味が無いのは分かってるけどね」と半分困ったような笑いを向けられた。
 分かっていてもやらなければ気が済まない。うんうん、ありますよねそういうの。例えば周りから何と言われようと目玉焼きにはソースだとか――あれ、ちょっと違うかも。でもまあそれはいいとして、僕の足元、つまりテーブルの下にも一冊本が落ちていたので、それを拾い上げる。
「手伝います」
「あ、うん。ありがとう」
 とは言っても、落ちている本の数はざっと見て十冊に満たない程度。一人だろうが二人だろうが作業がそんなに長引くはずも無く、僕と栞さんはそれぞれ手近にある最後の一冊を手に取って――
「わわーっ!」
「どうしました!?」
 突然の叫び声に、本に掛かりかけていた手を止めて腰を上げる。すると栞さんは、前屈みの姿勢からひっくり返って尻餅をつき、ドアの方へ見開いた目を向けていた。何があるのかとそっちを見てみれば、
「うわっ、蛇!?」
 薄く開いたままだったドアへ、軽く日焼けしたような薄茶色に焦げ茶色の斑点な体色の、細長い生き物が横に波打って這っている真っ最中。僕と栞さんはそれから口を動かさず身体も微動だにさせず、その蛇がドアと壁の隙間からしゅるしゅると這い出すのを見守っていました。
「……ふう、出てってくれた。あーびっくりしたー、いきなり目の前に出てくるんだもん」
「あはは、ひっくり返るほどですもんねえ」
 拾う直前で手を止めた本を改めて拾い上げながらそんな事を言ってみると、栞さんの口が若干への字に。
「むっ。孝一くんだって驚いてたじゃない」
「驚きはしましたけど、僕はひっくり返ってませんから」
「孝一くんは遠巻きに見ただけだもん。栞みたいに目の前に急に出てきたら絶対」
 とここで、尻餅をついたままの栞さんに手を差し伸べてみる。
「……ありがとう」
 手を取った栞さんは立ち上がりながら、バツが悪そうに口を尖らせてお礼を言ってくる。うん、非情に可愛らしい。
「絶対、孝一くんだって栞みたいになってたもん」
「その時は今みたいに引っ張り上げてくださいね」
「……意地悪だよ、孝一くん」
 怒りに任せて「嫌だ」と言う事ができないその人柄がまた――と、そろそろ戯れではなく本気で怒られそうなので栞さん虐めはここまで。尻餅をついた際に床に落ちた本を拾い上げ、本棚に戻して、これにてお勤め終了。
「さて、椅子が二つあったらここで休憩もできるんですけどね」
 ここはお爺さんかお婆さんどちらかの私室になるんだろうか、テーブル一つに対してソファも一つ。二人でお邪魔している僕達には席の足りない部屋なのでした。
「無理矢理二人で座る? 後ろから抱っこしてもらうみたいな感じで」
「……せめて『どっちか一方がテーブルに座る』とかそういう案は出してもらえないでしょうか」
 いや、誰も見てないんだから悪くないっちゃあ悪くないんですが、しかしそれはこんな所でする事でもないような気もしないではない行為だと思いますがどうでしょう。
「ふふ、冗談だよ」
「冗談ぽくない冗談は対応に困るんで、勘弁してください」
「困らせるのが目的だよ。さっきのお返しだもん」
 なるほどそりゃ一本取られましたなわっはっは。はぁ。
 ――とまあそんなわけで栞さんがソファに座り、言い出しっぺの僕がテーブルに腰掛ける。テーブルとは言えさすが高級品、座り心地もかなりのもの……なんて事があるわけもなく。まあいいんですけどね。
「蛇が出ましたね」
「びっくりしたねー」
「まだこの屋敷のどこかにいるかもしれないですよね」
「ちょっと怖いね。って言うか、毒蛇だったりしたら怖いどころじゃないね」
「ですね。なので僕は、ここから出る事を提案します。来たばっかりですけど」
「うーん、正直かなり残念だけど、仕方ないよね。危ないし」
 と言う割に、なんだか気の抜けた感じで進行する相談。まあ危ない動物一匹見かけたっていうのは案外こんな物なのかもしれない。動物園を除いた屋外で蛇に会ったのは初めてだけど。
「でもちょっと可愛いかも。びっくりして逃げちゃったのに、また来てまた引っ込むって」
「怖がりなのかもしれませんね。まあ、こっちも怖がったんですけど」
 まあそれほど大きくもなかったから――それでも真っ直ぐ伸ばしたら一メートルはあるだろうけど、そんなだから可愛いと言ってしまえるのも分かるような、やっぱり分からないような。そう言えば爬虫類って家にはいないけど、動物好きの大吾としてはどうなんだろう? 爬虫類。
 今頃は成美さんとチューズデーさんの寄り合いから除け者にされてるのか、それとももしかしたら加えてもらってるのかもしれないあのツンツン頭を思い出しつつも、それはともかく。
 僕の返事ににこりと首を傾げると、栞さんは唯一本棚のない方角の壁、つまり窓のほうへと顔を向けた。
「まだ廊下にいるかもしれないし、窓から出たりしてみる?」
「そうですね。そうしましょうか」
 それだって面白半分なんだけどね。僕も栞さんも、その口調からして。
 大学生の年齢になってまで言う事じゃないとは思うけど、窓から外へ抜け出すっていうのは何て言うかこう、心地良い程度の背徳感と言うか、ちょっと童心に返る感じ? 大学の鬼ごっこの時は必死だったから、そんなノスタルジーに浸る間もなかったわけですがね。
 そうと決まれば早速、と二人同時に立ち上がった時、わざわざさっきの蛇が戻ってくる事もないと思うけどそう言えばドアが開けっ放しだったな、とドアのほうへ目を遣ってみる。
「ん? ――えっ!?」
 それを捉え、しかし頭がそれを把握できず、いったん目を細めて再確認した後、またも驚きの声を上げてしまった。
「どうしたの?」
「いえあの、蛇が……多分さっきのやつだと思うんですけど」
 驚いた僕の声に驚いたのか、また引っ込んでしまって今はもう見えてないけど、
「ドアから――ドアと壁の隙間じゃなくて、ドアそのものから、頭だけ出してたんですよ。幽霊がものをすり抜ける時みたいに」
「え、じゃあ、あの蛇も幽霊って事?」
 僕はこくりと頷いた。そうじゃなかったらあの蛇は今頃晒し首みたいになっちゃってるはずだから、そうだとしか考えられない。
「もしかして、ここのお爺さんお婆さんに飼われてたのかな? チューズデー達みたいに」
 ここにいる動物で、しかもそれが幽霊だという事になれば、家にいるみんなの事を思い浮かべてそういうふうに考えるのもまあ自然と言えば自然な流れ。でも、そうじゃなくて、この山に済んでる野良の蛇って事も。と言うか、多分そっちの可能性のほうが高いんじゃあ?
「まあとにかく、出ましょう出ましょう」
 臆病な蛇なのか元々こんなものなのか、こっちの声に驚いて引っ込んでしまった蛇。でもまたいつ戻ってくるのか分からないんだから、しかもドア閉めても無駄っぽいし、さっさと行動したほうが良さそうだ。――という考えに恐怖心をプラスしてへっぴり腰もいいところな僕は、栞さんへの返答もそこそこに窓へと歩み寄る。
「じゃ、お先に」
「転ばないようにね」
 ドアと同じく素直に開いた窓に足を掛け、栞さんの注意を念頭に置いてひらりと宙に舞う。と言っても一階だから、大した高さじゃないんだけどね。
 さて、次は上から栞さんが降ってくるわけですが――と、
「……あれ? 孝一くん、どうかした?」
 窓を無視し、壁をすり抜けて直接外へ出てきた栞さんは空きっ放しの窓をぱたんぱたんと閉めながら、その予想外のすり抜け発動にぽかんとしている僕へ首を傾げてみせた。いや、そりゃそうなんですけどね。
「てっきり、僕と同じように窓から出てくると思ってたもんで」
「普段しないからこういう何でもない時は忘れがちになるけど、さっきの蛇のおかげでね」
 ですか。……むむう、蛇のあれを見た上で忘れてた僕は随分とお間抜けって事になるんでしょうねえ。
「二階とかも見て回りたかったなあ」
 玄関に停めた自転車へと向かう間、栞さんは今回の短過ぎる訪問が相当に心残りな様子だった。僕もそれは同じ気持ちだったけど、「案内するのが楽しい」と言っていた栞さんの事を思うと、素直に自分も二階に行きたかったですとは言えなかった。なんとなく。
「機会があったらまた来ましょう。その時は案内、よろしくお願いしますね」
「うん」
 この屋敷だけじゃなくて、山を下った所の景色もいいし。病院は……まあ、今回みたいに栞さんとしっとりした話ができるならアリなのかな。どう考えてもそのために行くような場所じゃないし、そもそもお住まいかもしれない幽霊さんに大迷惑なんですけどね。
「さっきの蛇、また来ないかなあ」
 玄関傍に停めた自転車に鍵を差し込んでいると、開いたままだった立て付けの悪いドアに手を掛けながら、栞さんはその中を覗いていた。閉めたって幽霊だから出てこれるのに、ドアを閉め切るのが名残惜しいご様子。可愛いって言ってましたもんね。
「その蛇から逃げようとしてるんですけどね、僕達」
「ま、まあね。でも今ここに楓さんがいたら、お話もできるんだけどなあ」
 ぶっちゃけ僕にはよく分からないけど、どうやら相当にあの蛇がお気に召したようで。
「……でも、仕方ないよね。もしも孝一くんが噛まれちゃって、しかも毒持ってたら大変だし」
 それを聞いた僕は一瞬、どうして噛まれたら大変という話の前にわざわざ「孝一くんが」と付け加えたのかが気になった。噛まれて大変なのは栞さんだって同じだろうに、と。でもその突っ掛かりに対する答えは、栞さんに尋ねるまでもなくふっと頭に浮かぶ。合ってるのかどうかはともかくとして。
 つまり、栞さんについては命の危険を心配する必要がないという事だ。
「ぃよいしょっ……!」
 そしてその答えが頭に浮かぶとほぼ同時に、閉める必要性が特に見当たらない立て付けの悪い大きなドアが、軋むような音とともにドアとしての機能を果たせる位置へ戻った。
「――じゃあ、行こっか」
 あの蛇がまたひょっこり顔を出してくるという希望を捨て切れないのか、それとも全然屋敷を歩き回れなかった事が心残りなのか、既に閉まり切ったドアに少しの間だけ手を当てたまま動きを止めた栞さんは、その「少しの間」が過ぎると切り替わって嬉しそうにこちらを振り向いた。その時点で既に自転車に跨っていた僕は、
「はい。じゃあ、後ろにどうぞ」
 普通こういう時は漕ぎ出してある程度勢いを付けてから乗ってもらったほうが楽なんだろうけど、なんとなくそれはしない。そうすると栞さんはなんだか転んでしまいそうで――いや、なんとなく。
「失礼しまーす」
 その声とともに自転車が後輪側へ、ぎりぎり体感できるレベルでちょっとだけ傾く。幽霊にもきちんと体重があるという事をこの身を以って体感できるというのは、意外と贅沢な事だったりするんだろうか? なあんて。
 さあ出発しましょうか。よっ……こら、しょっと。
「――あっ。ごめん孝一くん、ちょっと待って」
 二人分の体重がプラスされた自転車がえっちらおっちら進み始めると、その言葉と一緒に背中をぽんぽんと叩かれた。とくればまあ、止まりますよね当然。
「どうかしました?」
「蛇、出てきたよ」
 後ろを見たまま栞さんがそう言うので、体を横に逸らして栞さんを視界の中心から外し、栞さんが向いているのと同じ方向を見てみた。するとそこには、あの立て付けの悪いドアの前には、言葉通りにさっきの蛇が。当然あの重いドアを開けられるはずもなく、すり抜けて外へ出てきたんだろう。
 見る前から「いる」と言われていた事に加えてやや距離があったので、驚いて声を上げるような事もなく。そしてあちらも、逃げ出すような事はなく。
「狙われてるんですかね、僕達」
「気に入られたのかもね」
「それはないと思いますけど……」
「無闇に人を狙うのだって、ないと思うよ?」
 そりゃまあ、そうなんでしょうけど。チューズデーさん達を見る限り、よく言われる「本能赴くまま」って印象はないですからね。やたらめったら襲い掛かるような事はないんでしょうけど――あ、まさか。
「まさか栞さん、近付いてみようとか思っちゃってません?」
「思っちゃってます」
 やっぱり。
 そんな溜息と同時にあからさまなくらい肩を落としてみせると、
「大丈夫だよ、栞は幽霊だから噛まれても平気だし。……暫らくは痛かったりするだろうけどね」
 それって結局危ないって事なんじゃないでしょうか? とこれまたあからさまに顔をしかめてみせると、
「じゃ、ちょっと待っててね」
「あ、ちょっと栞さん」
 荷台からすとんと降りて、蛇の元へと歩き始めてしまいました。この状況で待っててと言われたってそんな、ついて行かざるを得ませんよやっぱり。危ないですけど、危ないですから。


 さすがに全く警戒しないわけでもないのか、ある程度近付いたところから栞さんの歩行速度が遅くなる。それでもそろりそろりと確実に近付いていき、最終的には手を伸ばせばその頭に触れられるくらいの距離へ。ちなみにその間、蛇はとぐろを巻いて舌をチロチロさせながらこちらを見詰め、しかしまるでその場から動かない。もう一つちなみに、僕は栞さんより後ろへ一歩分ほど蛇から離れた位置が限界でした。
「ま、まずはどうコミュニケーションをとるべきなのかな」
「分かりませんよ、そんなの」
 隙を見て頭押さえつけるのは捕まえる時だし、尻尾持ってグルグル回すのは捕まえるのは……やっぱり捕まえる時だし。他にはなんだろう、腕に巻きつけたりマフラーみたいに首に掛けたり? でもこれって仲良くなった後の話だし。
「わ、わ、こっち来たよ」
 僕がテレビなり何なりで見た人と蛇の絡みの場面を必死で思い出そうとしている間にそろりそろりと蛇の頭へ手を伸ばし始めていた栞さんはしかし、蛇がするすると行動を開始すると、慌てて手を引っ込めた。足は引かなかったけど、もしかしたら竦んで動けなかっただけなのかもしれない。少なくとも僕はそうだった。
 そしてその蛇がどうしたかと言うと、
「な、なな、何かな?」
 栞さんの足元で再びとぐろを作り、さっきより高く頭を持ち上げて、その目は明らかに栞さんの顔を見上げていた。その間も相変わらず、先っちょが二股の舌はチロチロと口から出たり入ったりしている。
「威嚇、ではないような気もしますけど」
 そうだとしたら近過ぎる。威嚇という事は警戒してるんだから、ここまで近付いては来ないはずだ。と、良い方へ良い方へ考える僕の頭。悪い方だったら大ピンチですし。……あ、そう言えば威嚇の時って音立てるんだっけ? シュルルルルって。今は静かにしてるし、大丈夫なのかな? うむむ、こんな時に大吾がいれば詳しく知ってるかもしれないのに。
「触っても大丈夫だと思う?」
「返事に責任持てませんよそんな事訊かれても」
「それもそっか」
 はいともいいえとも言えない僕に緊張した表情をくしゃっと潰すように破顔させた栞さんは、蛇のほうへ向き直る頃には再び緊張した表情へ。そしてゆっくりと、蛇の頭より随分と高い位置に手をかざし、これまたゆっくりと、その手を蛇の鼻先へ降下させていく。「気をつけて下さいね」の一言も言えないまま、栞さんの手の先と蛇の鼻先の間を視線が忙しく往復する。自分の喉を飲み込んだ唾が通る音は、騒々しく感じられた。
 ――そしてついに、
「触れたっ」
 指先と鼻先が触れると同時に、栞さんが小さく叫んだ。自分から手を伸ばしているのに触れて驚く、と言うのも変な話だけど、とにかく栞さんは子どもがマジックでも見せられたかのような表情をした。
 対して蛇のほうは微動だにせず。その様子は、まるで栞さんの次の行動を待っているとでも言わんばかり。
「――で、こ、ここからどうしようか」
「こ、これ以上ですか? ……持ち上げてみるとか?」
「それはさすがにちょっと」
「まあ、そうですよね」
 だったらどうすればいいのか、と蛇の鼻先に触れたところから進展しないまま考える。でも僕には、そして当然栞さんにも、蛇の手懐け方なんてものの知識はないわけで、結果時間が止まったようにその場の三名が揃って硬直。どうにもなりゃしません。
 ……一分くらいそのままだったでしょうか。ある時急に、
「うひゃあっ!」
 栞さんの背がびくりと跳ね、それに合わせて僕も全く同じ動きをするのと同時に、蛇が行動を開始しました。待ちくたびれられたのかな? だとか蛇の心情を考察する余裕は当然僕にも栞さんにもあるはずがなく、ただただ蛇の動きを見守るのみ。
 で、肝心なその蛇の動きですが。
「ひゃ、わ、ああああ」
 伸ばした首を下げて栞さんの足元までにじり寄ったその蛇は、なんとその足に体を沿わせて上へ上へとゆっくりゆっくり登り始めたのです。栞さんはいつも通りのスカート姿なので、すね辺りから上は当然素肌を曝け出していて、そこを蛇に這われたとなると一体どんな感触なのやら――と言うのはまあ、その震えた声を聞けば大体想像がつきますが。
「ちょ、ス、ストップ……!」
 しかし栞さん、だからと言ってただ蛇を上らせておく訳にもいかない。二度目になりますが栞さんが履いているのはズボンではなくスカートなので、そのまま足に沿って登られるととんでもない事になるのです。故に栞さんは、スカートの裾を必死で抑えます。その一歩後ろで僕は、なんだか妙な気分になってしまうのでした。
 いや、もちろん危険だって事が第一にあるんですけどね。しかし頭の片隅についつい。
「孝一くん、た、助けてえ」
 笑いそうな泣きそうな、そんな複雑な表情で栞さんが助けを求めてくる。かたや蛇のほうは、突然目の前に現れたスカートの裾を抑える手に困惑しているのか、その直前で動きを止めている。「栞さんが自分から蛇に近付いたんだし、これは自業自得なんじゃないかなあ」とか、「蛇は一体どういうつもりなんだろう?」とか、「動いてないし、今なら僕でも捕まえられるかもしれない」とか、「蛇になりたい」とか、まあ色々考える事はあったわけですが、状況を考えればどれを優先させるかは自ずと。


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