「おほん」
結局のところ大吾が止めるまで自分から身を引くことはしなかった成美さんは、咳払いで気分の切り替えを試みるのでした。その割に、小声で「酒に手を付けてたら危なかったな……」とか言っちゃってたりもするわけですが。
「ご存じの通りわたしは猫だからな。例えそれが『膝の上が定位置になった』などというしょうもないことであっても、決まりごとができたというのは嬉しいし、有難いことなのだ。どんなに細かいことでも一つ一つ明確にしていかないと大変だからな、違う動物同士で添い遂げるなどというのは」
「ですよねえ」
「うむ。どうやら言うまでもなかったようでかなり恥ずかしいが」
真面目な話、と題打ってまでした話が言うまでもなかったとなれば、まあ話した本人としてはそんなふうになってしまうものなのかもしれません。もちろん、聞く側としては別にそんなこともなかったりするわけですけど。
とここで、もぞりと動いたのは栞でした。
「あとぉ、その話の為に大吾くんのなでなでを止めさせちゃったっていうのが勿体無かったりぃ?」
成美さん、はっとした顔になり、そののち悲しそうな顔で大吾を見遣るのでした。そんな顔するほどのことなんですか、なんて思わずにはいられなかったのですが、そんな顔するほどのことなんでしょうねやっぱり。
「食い終わったらこっち来りゃいいよ。どうせ酔っ払った後は面倒見なきゃなんねえんだし」
「本当か? それならさっさと食べ終え――てしまうのはそれはそれで勿体無いなこれは! ああ!」
「できたら落ち付いてくれ」
よかったよかった、なでなでに負けてないぞ美味しい料理。
ともあれ成美さんが幸せ責めでてんやわんやになり、それを見て大吾まで恥ずかしそうにし始めたところで、ならば話は回ってくるわけです。もちろん、今度は僕達に。
「日向さん達はどうですかな。と、間が長過ぎて元の話が飛んでいってしまってるかもしれませんが」
「一応、大丈夫です」
「大丈夫でぇ~す」
いくら大丈夫であっても大丈夫ではない栞に任せるのはいろいろ危険な気がするので、当初の予定というか諦めの通り、ここは僕が引き受けることにしましょう。
というわけで間が長くなってしまった元の話、付き合ってから変わったことはあるのか、ということなのですが。
「そもそも僕と栞の場合、仲良くなっていく過程で付き合うことになりましたからねえ。付き合ってようがそうでなかろうが変わっていってる最中だったわけで」
「んん? 付き合うことになりました? またまたぁ、無理矢理持っていったくせにぃ」
それは言いっこなしでしょうに、と言ったところで間違いなく無駄なので、ここは苦々しい笑みを返しておくに止めておきました。するとどうやら周囲のみんなもそれを察してくれたらしく、痛いところを突くような突っ込みが飛んでくることはなかったのでした。ありがたいことで。
「まあ、知り合ってすぐ付き合ったってんならそりゃそうなるんだろうな」
「あんたが言うとなんかヤな感じに聞こえちゃうわね」
「そうか?」
口宮さんが言うと、と異原さんはそう仰いますが、けれどそれは別に「じゃあ口宮さんじゃなかったら問題ないの?」と言われればそうでもなかったりするのでしょう。
「まーしかし知り合ったその場でどうのこうの、なんて話も別に珍しいわけじゃないしの。それを考えたら日向君達なんてまだまだ普通の範疇じゃろう」
別にそこで普通性を主張したかったりするわけではないのですが、しかし言われてみればそうかもしれないな、なんて。ただし同森さんはその後、「結婚は知らんがの」と笑いながらそう付け加えてもきたんですけどね。ええ、それについては甘んじてご評価を頂くしかないということで。
「むしろ……わたし達のほうこそ普通じゃなかったりするんじゃあ……?」
おずおずとそんな意見を挙げてきたのは音無さん。
数秒ほど、全員が静かになりました。もちろんその間も他のお客さん達は賑やかにしているわけで、ならば別にそれは場が静まり返ったとか、そういったものではなかったわけですが。
一度別れてしまっている二人。
幼馴染の二人。
人と猫な二人。
なるほど、確かにそうかもしれません。幼馴染だけちょっと非普通性が薄いような気がしますが、しかし考えてみれば滅多にないことではあるんでしょうしね。漫画とかドラマとかならともかく。
「でもそんなこと言い出したら僕達だっていろいろ普通じゃなかったり――って、ああいや、言えないことではあるんですけど」
「ねー」
いくら頭が緩んでいても回転数のほうはちゃんとしているらしく、言えないことは言えないこととして扱ってくれる栞なのでした。まあ自分のことだったりもするわけですしね、というわけでそれはもちろん、傷跡の跡とそれに纏わるあれやこれやの話です。
という話は今言った通り口にするようなものではないとして、するとここで、大吾が手をぱたぱたと振りながら言いました。
「いやいや孝一、慣れ過ぎて気にならねえのは分かるけど、相手が幽霊だって時点で普通ってことはねえから」
『あ』
まあよくある展開なんですけどね……って、栞も驚いたよね今。
無言のままにそう尋ねてみたところ栞はぷるぷると首を横に振っていました。笑っちゃってましたけどね。
「んにゅふふふー」
「なんかもう別の生き物になってないかオマエ」
「なってようがなってなかろうがして欲しいことは同じだぞー?」
一番に食べ終わった成美さんはならば即座に大吾のもとへ移動してきたわけですが、しかしその頃には既に酒にも手を付けていたので、既にそんな調子だったりもするのでした。
「はいはい。オレまだ食ってんだからあんま無茶言うなよ」
「うむー」
大人の身体なのでいつものように膝の上に座ることはしない成美さんでしたが、腰をずらして中途半端に横になったような体勢をとり、無理矢理大吾の胸板へ顔を押し付けるのでした。
で、して欲しいことというのはもちろんアレなわけで、ならば大吾、空いている方の手で成美さんの頭をわしわしと。すると成美さん、もはや声と言っていいのかどうかも怪しい「きゅうう」という幸せいっぱいの音を喉から絞り出し、ますます大吾の胸にすがりつくのでした。
「す、凄いわね」
「どういう意味での『凄い』なのかちょっと説明してみ」
「お断りしますっ!」
そろそろ口宮さんに茶化されるのは慣れてきたということなのかそうでないのか、なんとも判断の難しい反応をしてみせる異原さんなのでした。取り敢えず、顔は赤かったです。
「こーおーさぁん?」
呼ばれました。こっちは成美さんと比べて酔い始めてから時間が経っているせいか、困ったことにふわふわしていた口調がなんだか色っぽくなりつつあったりします。ええ、そりゃもう困ったことに。
ともあれ呼ばれたならばそちらを見てみるわけですが、すると栞、その途端にぱんと手を合わせてこう言うのでした。
「へへ、ご馳走様でしたぁ」
…………。
「何が言いたいかは分かったつもりだけど、一応、ちゃんと食器に向けてね」
「はぁい」
というわけで、空になった食器へ向けて再度手を合わせる栞なのでした。うむうむ、さすがは栞。酔っていながらしっかり聞き分けてくれたものです。
「日向さん……お父さんみたいですね……」
「そういうもんなんじゃろうな、酒に酔った人の相手っちゅうのは」
いやあ多分違うんじゃないですかねえ、なんて、自分で言うのもなんですが。
「それで日向君、日向さんが言いたいことっていうのは何だったんじゃ?」
言っている間に栞が僕にしな垂れかかってきてたりするわけですが、そうですか。分からないというのは仕方がないとして、言葉での説明をお求めになりますか同森さん。
「要するに、成美さんと同じことして欲しいってことなんでしょうね」
ということでその栗色の髪へ手を伸ばすわけですが、となると「酔っ払った妻の頭を撫でる夫」という構図が二つ、しかも隣に並んでいる状態になるわけです。
それが一体周囲からどう見えるものなのかというのはしかし、あまり考えないようにしておきましょう。同森さん達だけならともかく、なんせ赤の他人さん方がひしめき合っている中でのことなんですし。
「んーっ」
成美さんに比べればまだ声として認識できる程度ではありましたが、気持ち良さそうに喉を鳴らす栞なのでした。二人っきりだったらこっちまでデレデレになってるところなんでしょうね、多分。
「そういうことするっちゅうのは、今初めてなんかの? 隣の真似ってことなら」
「……いえ、実はそうでもなかったりするんですけどね」
尋ねてくる時点で言われるまでもなくある程度はそうでないと思っている、ということではあるのでしょうが、そう思っていてもやはり照れ臭いものは照れ臭いものでして。
「孝さん、私の髪、好きって言ってくれるんですよぉ」
「というわけで、まあ、普段からちょくちょく」
「はは、そりゃ中の好いことじゃの」
幸いなことに引かれたりはしていないようでした。と言っても、髪を触るぐらいだったら別にそう珍しいことでもないんでしょうけどね。
といったところで一つ思い付いたのですが、髪と言えばこの人だって。
「同森さんはどうですか? 音無さんの髪触るとかって」
「お、おう」
…………。
え? 終わり?
「ふふ……哲くん、目が合ったら照れちゃうもんね……。前髪越しでだって合ってるのは合ってるんだから、気にしなくてもいいのに……」
言いつつ、思わせぶりに前髪をくりくりし始める音無さん。そしてどうやらその話には嘘も誇張もないらしく、同森さんはわざとであることを隠す余裕すらなさそうに、ぱっとそっぽを向いてしまうのでした。
見た目に似合わずなんとも可愛らしいことでしたが――しかし、僕だって人のことは言えなかったりもするのです。高校の頃、どうして碌に喋ったことすらない音無さんを好きになったかと言われたら、今は見えないその前髪の向こう側が、とても綺麗だったからなのです。
今はもちろん栞一筋な僕ではあるのですが、でも音無さんの素顔を見てしまった時にそれをどう思うかというのは、良くも悪くも断言できないというのが正直なところなのでした。
無論、そういう感想を持てるというのは、それを受け入れてくれる寛大なお嫁さんあってのことではあるんですけどね。
「ってことは逆に言って、目が合うことがあるってことだよな。前髪取っ払って」
「取っ払うってなんか雑な言い方だけど、まあそうなるわよね」
取っ払っておでこ丸出しな異原さんの台詞とは思えませんが、なんて失礼の極みにあるような話はともかく、それは確かにそうなのかもしれません。
――どうなんでしょう。それがどういう時なのか、物凄く訊いてみたいんですけど。
と実に邪ながらそう思っていたところ、
「えーっと……寝転がった時とかは、やっぱり横に流れちゃいますし……」
さも平気そうな様子で自分から語り始める音無さんなのでした。
寝転がった時。恋人である同森さんの前で。
ええと、それというのはその、「そういう話」をすることに抵抗が無いということなのか、それとも「そういう話」ではないからこそさらっとそんなことを口走れるということなのか、どちらなんでしょうか?
「そほれってやっぱりひ」
「息漏れてるぞドスケベ」
「ドスケっ!?」
ああ、異原さん。
「あはは、そういうことじゃないんですけどね……。部屋があんまり広くないから……二人でいる時でも、自分だけベッドでごろごろしてたりすることがあるだけで……」
なるほどなるほどそういうことですか、と何故かほっとしていたりする僕なのですが、もちろんそれは余計なお世話というものです。ちなみに異原さんも同じような顔をしていましたが、それはきっと中身が違うことでしょう。
「なんていうか……」
そんなことを考えていたところ、音無さんの話にはまだ続きがあるようでした。
「もしそういうことがあったとしたら、それってもう……目が合ったくらいで照れてる場合じゃないですよね……?」
確かに!
といったところでついに、同森さんが「そこらへんで勘弁しとくれ静音」と。
「今日は部屋が一緒なんじゃ、あんまり言われると夜寝る時なんかに意識してしまいかねん」
「ふふ……。そうだね、ごめんなさい……」
そういえばそうでした。今日はその音無さんが横になっているという状況を避けることができないんですよね、同森さんは。なまじただ場所が無くてベッドに横になっているというわけでなく、本当に寝るために横になっているとなると、雰囲気も込みというかなんというか。となったらそりゃもう意識しまくりなんでしょうね――。
と。
そんなふうに思ったところで、しかし僕は嫌な予感に背中をぞくりとさせられてしまうのでした。意識してしまう。それはなにも、同森さんだけに限った話ではありません。僕だって音無さんに対して重要な話を抱えたままなのです。
別にその際横になるわけでなし、ならば目が合ってどうのこうのという話ではないのですが、同森さんとの仲が窺えるような話というのはきっとその時に響いてくると思うのです。
なんせ僕は、今現在付き合っている男性がいる人に対して、「かつて好きだった」ということを告げようとしているのですから。
……ついで程度の話としましては、混浴に行く前に済ませたほうがいいだろう、という考えもあったりするわけですし。
ともあれ、それこそ意識し始めてしまうともう居ても立ってもいられなくなってしまうわけです。これ以上話が広がり始める前になんとか話ができる状況に。無論それは、僕と音無さんの二人きりという――。
いや。
「音無さん」
「はい……?」
「あと同森さんも」
「ん? なんじゃな?」
「ちょっと話したいことがありまして。食べ終わったら、一緒に出てもらっていいですか?」
二人は顔を見合わせていましたが、しかし有難いことに断られるようなことはなく――と言っても逆に断る理由がないってことではあるんでしょうけど――分かった、という旨のお返事が頂けたのでした。
「ふふっ」
僕にだけ聞こえるくらいの小さな声で、栞が笑いました。
栞とのあれこれについて、問題を発見したならば出来る限り速やかにそれを取り除いてきた、という自負がある僕は、ならば今回のこれもそういうことなんだろうなと思いそうにはなったのですが、でも今回はそういうことでもないんじゃないかな、なんてふうにも。
確かにさっき、「まずい」と思った途端に音無さんと同森さんに声を掛けたわけですが、しかしそもそもの話、これは高校時代から引きずり続けている話なのです。それを踏まえて出来る限り速やかだったかと考えれば、やっぱりそんなふうには言い切れないわけで。
「日向さんはよかったんじゃろうかの?」
「手、振ってたし……」
僕の後ろをついてきた二人は、どこか不安げにそう言っていました。詳細を告げられないまま呼び出されればそりゃあそうもなるでしょうし、それに僕が一人だというのも、気になるところではあるのでしょう。常に栞と二人で行動していたところでいきなり、ですもんね。
「すいません、いきなりで」
「いやいや、構わんのじゃが」
不安そうにしているところを見て連れ出した側がだんまりっていうのもな、ということで一言詫びてみたところ、同森さんはそう言って手を振ってみせるのでした。もちろん有難いことではあるのですがしかし、その後訪れるであろう落差を考えると、それはそれでちょっと不安になってしまったりもするのでした。
――ともあれ、そんなことを言っているうちに。
「どうぞ」
誰の部屋でも大して違いはないのですが、僕と栞の部屋に付きました。ここなら間違いなく三人だけになれるというわけです。
何がどうなっても、助けも邪魔も入らないわけです。
「で、話っちゅうのは?」
内容は一切伝えていないのですが、しかしそれでも察するところはあるということなのでしょう。座布団の上に腰を落ち着けた途端、同森さんは極めて真面目な口調でそう尋ねてくるのでした。
となればこちらとしても、変に長引かせたりするわけにもいきません。もちろん初めからそんなつもりはありませんでしたが、そこはあまり関係ないのでしょう。
「話自体は音無さんのことです。ただ、同森さんにも聞いてもらったほうがいいと思って」
「ふむ。なら口は出さんでおこうかの」
出してもらっても構わないですけどね、とは、言えませんでした。同森さんの意思を尊重したということなのか、それとも単に自分に都合のいい話に乗っただけなのかは、もう自分でもよく分かりませんでした。
緊張はしています。当たり前ですが。
「ただ日向くん、一つだけ」
「はい」
「その話は、ここの仕事に関係するようなことなんかの?」
ここの仕事。旅館――では、ないでしょう。心配するようなこととなると、霊能者業。
「いえ、そうじゃないです。僕の個人的な話です」
「そうか」
その顔をよく見ていなければ分からない程度にだけ、ということはつまり僕は今同森さんの顔をそれこそ食い入るように見詰めているということなのですが、ともかく同森さんはほっとしたような表情を浮かべたのでした。
「すいません、それくらいは先に言っておくべきでしたよね」
「いやいや。こっちこそすまんの、もう話に移ってくれて構わんぞ」
場所が場所です、ごもっともな心配ではあったのでしょう。反省しつつ、一方でこの人を呼んで良かったな、とそう思わされるのでした。
「音無さん」
「はい」
雰囲気を汲んで、ということではあるのでしょうが、その雰囲気というのは果たしてこの場全体を見てのものか、それとも同森さんだけを見てのものなのか。
どちらなのかは分かりませんが、音無さんは声を硬くしていました。
「高校一年の時、同じクラスになりましたよね」
「はい」
「僕はその頃、あなたのことが好きでした」
…………。
思っていたより、というか、むしろ全くの想定外と言っていいほど、それはすらすらと声に出すことができました。失礼ながら、音無さんの相槌を待つのが煩わしいと感じたほどに。
…………。
静かでした。同森さんは宣言通りに何も言いませんし、僕としてもこれ以上何か言うのは音無さんの反応を待ってからということになりますし、そして音無さんは何も言いませんでした。
とはいえそれは、対応に困っている、というふうではありませんでした。もちろん前髪はいつも通りその顔の殆どを覆い隠しているのですが、けれど間違いなく、音無さんはその向こう側から僕の目をじっと見詰めてきていました。
その数年後、それ以上に惚れ込む女性と巡り合うことになるとはいえ、だからといってこちらの恋が軽いものだというわけではありませんでした。本気で好きだったのです、音無さんのことが。
だというのに。
だというのに僕は今、その本気で好きになった人からじっと見詰められて、喜ぶどころか萎縮していました。怖かったのです。ならば目を逸らせばいいのに、そうすることができないほどに。
「日向さん」
「はい」
「わたしはその頃、あなたのことを知りませんでした」
「はい」
「好きとか嫌いとか以前の問題でした」
「はい」
「しかもその頃にはもう、他に好きな男の人がいました」
「はい」
「だから、ごめんなさい。一応真剣には考えてみましたけど、いいお返事ができる要素は一つもなかったです」
「…………」
ものの見事にズタボロでした。いっそ、ボロすらありませんでした。
でもむしろ、身体が軽くなるのでした。ほんの少しでもチャンスがあったとしたら、それこそ後悔が残ることになってたんでしょうけどね。
「ふふ、でも……」
「はい?」
「そんなふうに思ってもらえてたのは……ちょっとだけ、嬉しいかもです……」
「はは、そうですか」
ああ。
外見だけを好きになるなんて勿体無いことしたもんだなあ、あの頃の僕は。この中身にほんの少しでも触れていたならもっと惚れ込んで――まあ、どのみち玉砕してはいたんでしょうけどね。
というわけで、三年越しに惚れ直すと同時に十数秒越しに振られ直した僕なのでした。
まあ、三年も十数秒も過去は過去。同じものです、結局は。
「そういうわけで……これからもお友達でいてください、ということでお願いしますね……」
「はい。こちらこそ宜しくお願いします」
上手くはいかなかった恋だけど、間違ってはいなかったな。
なんて。
というわけで僕からの話はこれで終わりなわけですが、するとここで同森さん、まるで今まで息を止めていたかのように大きく息を吐くのでした。
「もういいんじゃよな?」
「あ、はい。すいませんお待たせしまして」
「いやいや、驚いとるうちに終わってしまったようなもんで――そう、もう、えらい驚かされたわい。いきなりあんな話とは」
ということであるなら重ね重ね申し訳ないのですがしかし、ならばと頭を下げそうになったところで浮かんだのは、栞によくされているあの注意。なんせ直前までしていた話が話だったりもするので今の僕は想像の中の栞にすら頭が上がらず、従ってここは愛想笑いを浮かべるに止めておくことになりました。
そしてどうやらその判断は正しかったらしく、話を続ける同森さんは笑い返してくれたりもしているのでした。
「口を挟まんとは言ったが、話が終わったってことなら質問とかしてもいいじゃろうか?」
「それはもう」
それが駄目だとしたら何のために一緒に来てもらったんだってことにもなっちゃいますしね。むしろ彼氏という立場から意見を言ってもらうために呼んだという側面もあるわけで――極端な話、「何考えてんだ」と怒られるのだって覚悟の上だったわけです。
「日向さん、というか奥さんは、このことは知っとるんじゃろうか? まあ出てくる時の様子からして大体見当は付いとるんじゃが」
「そうですね、知ってます」
ということではあるのですが、もちろんそれだけで済ませられる話でもないわけで。
「というか、栞がこの話をさせてくれたってくらいだったりするんです。前にこのことでウジウジしてたら、そりゃもうこっぴどく怒られちゃいまして。もしかしたら変に聞こえるかもしれないですけど、音無さんの話したらむしろ喜ぶんですよあの人」
「そりゃなんとも豪胆というか、器が広いというか」
「という評価を頂けて今かなりほっとしてます」
「かはは」
よかったよかった、一応は普通の人にも理解してもらえる話だったようで。
なんて言ってしまうとまるで栞が普通じゃないみたいですが、もちろんそんなつもりではなく。傾向でなく程度の話としてなら、普通を逸脱して魅力的な人ではあるわけですけどね。
などという与太話が出てきてしまうのは、いま目の前に比較対象となり得る音無さんがいるからなのでしょう。というわけで、告白して振られて、惚れ直して振られ直した今でもやっぱり、僕にとっての一番は微動だにしていなかったりするのでした。
「そうじゃな、そりゃ結婚もするわ――と、話が横に逸れそうな話題は今はいいとしてじゃな」
確かに僕による嫁語りになりそうな一言ではありましたし、ならばそれを回避するのは正しい選択ではあったのでしょうが、そもそも今の話からいきなり結婚どうのこうのになりますか? という。
要するにウジウジすんなと尻を叩かれたって話なのですが、と要約してみたところ。
――あれ、確かにそうかも?
なんて。親や小学校、もしかしたら中学校くらいまでの先生方ならともかく、それ以外では滅多にいるもんじゃないですしね。本気で軌道修正してくれる人、またはされるべき箇所を曝け出せるような人なんて。
……卒業したばかりの僕が言うのも何ですけど、高校生にもなって勉強以外の指導をされるってどうなのよって感じではありますしね。
結局のところ大吾が止めるまで自分から身を引くことはしなかった成美さんは、咳払いで気分の切り替えを試みるのでした。その割に、小声で「酒に手を付けてたら危なかったな……」とか言っちゃってたりもするわけですが。
「ご存じの通りわたしは猫だからな。例えそれが『膝の上が定位置になった』などというしょうもないことであっても、決まりごとができたというのは嬉しいし、有難いことなのだ。どんなに細かいことでも一つ一つ明確にしていかないと大変だからな、違う動物同士で添い遂げるなどというのは」
「ですよねえ」
「うむ。どうやら言うまでもなかったようでかなり恥ずかしいが」
真面目な話、と題打ってまでした話が言うまでもなかったとなれば、まあ話した本人としてはそんなふうになってしまうものなのかもしれません。もちろん、聞く側としては別にそんなこともなかったりするわけですけど。
とここで、もぞりと動いたのは栞でした。
「あとぉ、その話の為に大吾くんのなでなでを止めさせちゃったっていうのが勿体無かったりぃ?」
成美さん、はっとした顔になり、そののち悲しそうな顔で大吾を見遣るのでした。そんな顔するほどのことなんですか、なんて思わずにはいられなかったのですが、そんな顔するほどのことなんでしょうねやっぱり。
「食い終わったらこっち来りゃいいよ。どうせ酔っ払った後は面倒見なきゃなんねえんだし」
「本当か? それならさっさと食べ終え――てしまうのはそれはそれで勿体無いなこれは! ああ!」
「できたら落ち付いてくれ」
よかったよかった、なでなでに負けてないぞ美味しい料理。
ともあれ成美さんが幸せ責めでてんやわんやになり、それを見て大吾まで恥ずかしそうにし始めたところで、ならば話は回ってくるわけです。もちろん、今度は僕達に。
「日向さん達はどうですかな。と、間が長過ぎて元の話が飛んでいってしまってるかもしれませんが」
「一応、大丈夫です」
「大丈夫でぇ~す」
いくら大丈夫であっても大丈夫ではない栞に任せるのはいろいろ危険な気がするので、当初の予定というか諦めの通り、ここは僕が引き受けることにしましょう。
というわけで間が長くなってしまった元の話、付き合ってから変わったことはあるのか、ということなのですが。
「そもそも僕と栞の場合、仲良くなっていく過程で付き合うことになりましたからねえ。付き合ってようがそうでなかろうが変わっていってる最中だったわけで」
「んん? 付き合うことになりました? またまたぁ、無理矢理持っていったくせにぃ」
それは言いっこなしでしょうに、と言ったところで間違いなく無駄なので、ここは苦々しい笑みを返しておくに止めておきました。するとどうやら周囲のみんなもそれを察してくれたらしく、痛いところを突くような突っ込みが飛んでくることはなかったのでした。ありがたいことで。
「まあ、知り合ってすぐ付き合ったってんならそりゃそうなるんだろうな」
「あんたが言うとなんかヤな感じに聞こえちゃうわね」
「そうか?」
口宮さんが言うと、と異原さんはそう仰いますが、けれどそれは別に「じゃあ口宮さんじゃなかったら問題ないの?」と言われればそうでもなかったりするのでしょう。
「まーしかし知り合ったその場でどうのこうの、なんて話も別に珍しいわけじゃないしの。それを考えたら日向君達なんてまだまだ普通の範疇じゃろう」
別にそこで普通性を主張したかったりするわけではないのですが、しかし言われてみればそうかもしれないな、なんて。ただし同森さんはその後、「結婚は知らんがの」と笑いながらそう付け加えてもきたんですけどね。ええ、それについては甘んじてご評価を頂くしかないということで。
「むしろ……わたし達のほうこそ普通じゃなかったりするんじゃあ……?」
おずおずとそんな意見を挙げてきたのは音無さん。
数秒ほど、全員が静かになりました。もちろんその間も他のお客さん達は賑やかにしているわけで、ならば別にそれは場が静まり返ったとか、そういったものではなかったわけですが。
一度別れてしまっている二人。
幼馴染の二人。
人と猫な二人。
なるほど、確かにそうかもしれません。幼馴染だけちょっと非普通性が薄いような気がしますが、しかし考えてみれば滅多にないことではあるんでしょうしね。漫画とかドラマとかならともかく。
「でもそんなこと言い出したら僕達だっていろいろ普通じゃなかったり――って、ああいや、言えないことではあるんですけど」
「ねー」
いくら頭が緩んでいても回転数のほうはちゃんとしているらしく、言えないことは言えないこととして扱ってくれる栞なのでした。まあ自分のことだったりもするわけですしね、というわけでそれはもちろん、傷跡の跡とそれに纏わるあれやこれやの話です。
という話は今言った通り口にするようなものではないとして、するとここで、大吾が手をぱたぱたと振りながら言いました。
「いやいや孝一、慣れ過ぎて気にならねえのは分かるけど、相手が幽霊だって時点で普通ってことはねえから」
『あ』
まあよくある展開なんですけどね……って、栞も驚いたよね今。
無言のままにそう尋ねてみたところ栞はぷるぷると首を横に振っていました。笑っちゃってましたけどね。
「んにゅふふふー」
「なんかもう別の生き物になってないかオマエ」
「なってようがなってなかろうがして欲しいことは同じだぞー?」
一番に食べ終わった成美さんはならば即座に大吾のもとへ移動してきたわけですが、しかしその頃には既に酒にも手を付けていたので、既にそんな調子だったりもするのでした。
「はいはい。オレまだ食ってんだからあんま無茶言うなよ」
「うむー」
大人の身体なのでいつものように膝の上に座ることはしない成美さんでしたが、腰をずらして中途半端に横になったような体勢をとり、無理矢理大吾の胸板へ顔を押し付けるのでした。
で、して欲しいことというのはもちろんアレなわけで、ならば大吾、空いている方の手で成美さんの頭をわしわしと。すると成美さん、もはや声と言っていいのかどうかも怪しい「きゅうう」という幸せいっぱいの音を喉から絞り出し、ますます大吾の胸にすがりつくのでした。
「す、凄いわね」
「どういう意味での『凄い』なのかちょっと説明してみ」
「お断りしますっ!」
そろそろ口宮さんに茶化されるのは慣れてきたということなのかそうでないのか、なんとも判断の難しい反応をしてみせる異原さんなのでした。取り敢えず、顔は赤かったです。
「こーおーさぁん?」
呼ばれました。こっちは成美さんと比べて酔い始めてから時間が経っているせいか、困ったことにふわふわしていた口調がなんだか色っぽくなりつつあったりします。ええ、そりゃもう困ったことに。
ともあれ呼ばれたならばそちらを見てみるわけですが、すると栞、その途端にぱんと手を合わせてこう言うのでした。
「へへ、ご馳走様でしたぁ」
…………。
「何が言いたいかは分かったつもりだけど、一応、ちゃんと食器に向けてね」
「はぁい」
というわけで、空になった食器へ向けて再度手を合わせる栞なのでした。うむうむ、さすがは栞。酔っていながらしっかり聞き分けてくれたものです。
「日向さん……お父さんみたいですね……」
「そういうもんなんじゃろうな、酒に酔った人の相手っちゅうのは」
いやあ多分違うんじゃないですかねえ、なんて、自分で言うのもなんですが。
「それで日向君、日向さんが言いたいことっていうのは何だったんじゃ?」
言っている間に栞が僕にしな垂れかかってきてたりするわけですが、そうですか。分からないというのは仕方がないとして、言葉での説明をお求めになりますか同森さん。
「要するに、成美さんと同じことして欲しいってことなんでしょうね」
ということでその栗色の髪へ手を伸ばすわけですが、となると「酔っ払った妻の頭を撫でる夫」という構図が二つ、しかも隣に並んでいる状態になるわけです。
それが一体周囲からどう見えるものなのかというのはしかし、あまり考えないようにしておきましょう。同森さん達だけならともかく、なんせ赤の他人さん方がひしめき合っている中でのことなんですし。
「んーっ」
成美さんに比べればまだ声として認識できる程度ではありましたが、気持ち良さそうに喉を鳴らす栞なのでした。二人っきりだったらこっちまでデレデレになってるところなんでしょうね、多分。
「そういうことするっちゅうのは、今初めてなんかの? 隣の真似ってことなら」
「……いえ、実はそうでもなかったりするんですけどね」
尋ねてくる時点で言われるまでもなくある程度はそうでないと思っている、ということではあるのでしょうが、そう思っていてもやはり照れ臭いものは照れ臭いものでして。
「孝さん、私の髪、好きって言ってくれるんですよぉ」
「というわけで、まあ、普段からちょくちょく」
「はは、そりゃ中の好いことじゃの」
幸いなことに引かれたりはしていないようでした。と言っても、髪を触るぐらいだったら別にそう珍しいことでもないんでしょうけどね。
といったところで一つ思い付いたのですが、髪と言えばこの人だって。
「同森さんはどうですか? 音無さんの髪触るとかって」
「お、おう」
…………。
え? 終わり?
「ふふ……哲くん、目が合ったら照れちゃうもんね……。前髪越しでだって合ってるのは合ってるんだから、気にしなくてもいいのに……」
言いつつ、思わせぶりに前髪をくりくりし始める音無さん。そしてどうやらその話には嘘も誇張もないらしく、同森さんはわざとであることを隠す余裕すらなさそうに、ぱっとそっぽを向いてしまうのでした。
見た目に似合わずなんとも可愛らしいことでしたが――しかし、僕だって人のことは言えなかったりもするのです。高校の頃、どうして碌に喋ったことすらない音無さんを好きになったかと言われたら、今は見えないその前髪の向こう側が、とても綺麗だったからなのです。
今はもちろん栞一筋な僕ではあるのですが、でも音無さんの素顔を見てしまった時にそれをどう思うかというのは、良くも悪くも断言できないというのが正直なところなのでした。
無論、そういう感想を持てるというのは、それを受け入れてくれる寛大なお嫁さんあってのことではあるんですけどね。
「ってことは逆に言って、目が合うことがあるってことだよな。前髪取っ払って」
「取っ払うってなんか雑な言い方だけど、まあそうなるわよね」
取っ払っておでこ丸出しな異原さんの台詞とは思えませんが、なんて失礼の極みにあるような話はともかく、それは確かにそうなのかもしれません。
――どうなんでしょう。それがどういう時なのか、物凄く訊いてみたいんですけど。
と実に邪ながらそう思っていたところ、
「えーっと……寝転がった時とかは、やっぱり横に流れちゃいますし……」
さも平気そうな様子で自分から語り始める音無さんなのでした。
寝転がった時。恋人である同森さんの前で。
ええと、それというのはその、「そういう話」をすることに抵抗が無いということなのか、それとも「そういう話」ではないからこそさらっとそんなことを口走れるということなのか、どちらなんでしょうか?
「そほれってやっぱりひ」
「息漏れてるぞドスケベ」
「ドスケっ!?」
ああ、異原さん。
「あはは、そういうことじゃないんですけどね……。部屋があんまり広くないから……二人でいる時でも、自分だけベッドでごろごろしてたりすることがあるだけで……」
なるほどなるほどそういうことですか、と何故かほっとしていたりする僕なのですが、もちろんそれは余計なお世話というものです。ちなみに異原さんも同じような顔をしていましたが、それはきっと中身が違うことでしょう。
「なんていうか……」
そんなことを考えていたところ、音無さんの話にはまだ続きがあるようでした。
「もしそういうことがあったとしたら、それってもう……目が合ったくらいで照れてる場合じゃないですよね……?」
確かに!
といったところでついに、同森さんが「そこらへんで勘弁しとくれ静音」と。
「今日は部屋が一緒なんじゃ、あんまり言われると夜寝る時なんかに意識してしまいかねん」
「ふふ……。そうだね、ごめんなさい……」
そういえばそうでした。今日はその音無さんが横になっているという状況を避けることができないんですよね、同森さんは。なまじただ場所が無くてベッドに横になっているというわけでなく、本当に寝るために横になっているとなると、雰囲気も込みというかなんというか。となったらそりゃもう意識しまくりなんでしょうね――。
と。
そんなふうに思ったところで、しかし僕は嫌な予感に背中をぞくりとさせられてしまうのでした。意識してしまう。それはなにも、同森さんだけに限った話ではありません。僕だって音無さんに対して重要な話を抱えたままなのです。
別にその際横になるわけでなし、ならば目が合ってどうのこうのという話ではないのですが、同森さんとの仲が窺えるような話というのはきっとその時に響いてくると思うのです。
なんせ僕は、今現在付き合っている男性がいる人に対して、「かつて好きだった」ということを告げようとしているのですから。
……ついで程度の話としましては、混浴に行く前に済ませたほうがいいだろう、という考えもあったりするわけですし。
ともあれ、それこそ意識し始めてしまうともう居ても立ってもいられなくなってしまうわけです。これ以上話が広がり始める前になんとか話ができる状況に。無論それは、僕と音無さんの二人きりという――。
いや。
「音無さん」
「はい……?」
「あと同森さんも」
「ん? なんじゃな?」
「ちょっと話したいことがありまして。食べ終わったら、一緒に出てもらっていいですか?」
二人は顔を見合わせていましたが、しかし有難いことに断られるようなことはなく――と言っても逆に断る理由がないってことではあるんでしょうけど――分かった、という旨のお返事が頂けたのでした。
「ふふっ」
僕にだけ聞こえるくらいの小さな声で、栞が笑いました。
栞とのあれこれについて、問題を発見したならば出来る限り速やかにそれを取り除いてきた、という自負がある僕は、ならば今回のこれもそういうことなんだろうなと思いそうにはなったのですが、でも今回はそういうことでもないんじゃないかな、なんてふうにも。
確かにさっき、「まずい」と思った途端に音無さんと同森さんに声を掛けたわけですが、しかしそもそもの話、これは高校時代から引きずり続けている話なのです。それを踏まえて出来る限り速やかだったかと考えれば、やっぱりそんなふうには言い切れないわけで。
「日向さんはよかったんじゃろうかの?」
「手、振ってたし……」
僕の後ろをついてきた二人は、どこか不安げにそう言っていました。詳細を告げられないまま呼び出されればそりゃあそうもなるでしょうし、それに僕が一人だというのも、気になるところではあるのでしょう。常に栞と二人で行動していたところでいきなり、ですもんね。
「すいません、いきなりで」
「いやいや、構わんのじゃが」
不安そうにしているところを見て連れ出した側がだんまりっていうのもな、ということで一言詫びてみたところ、同森さんはそう言って手を振ってみせるのでした。もちろん有難いことではあるのですがしかし、その後訪れるであろう落差を考えると、それはそれでちょっと不安になってしまったりもするのでした。
――ともあれ、そんなことを言っているうちに。
「どうぞ」
誰の部屋でも大して違いはないのですが、僕と栞の部屋に付きました。ここなら間違いなく三人だけになれるというわけです。
何がどうなっても、助けも邪魔も入らないわけです。
「で、話っちゅうのは?」
内容は一切伝えていないのですが、しかしそれでも察するところはあるということなのでしょう。座布団の上に腰を落ち着けた途端、同森さんは極めて真面目な口調でそう尋ねてくるのでした。
となればこちらとしても、変に長引かせたりするわけにもいきません。もちろん初めからそんなつもりはありませんでしたが、そこはあまり関係ないのでしょう。
「話自体は音無さんのことです。ただ、同森さんにも聞いてもらったほうがいいと思って」
「ふむ。なら口は出さんでおこうかの」
出してもらっても構わないですけどね、とは、言えませんでした。同森さんの意思を尊重したということなのか、それとも単に自分に都合のいい話に乗っただけなのかは、もう自分でもよく分かりませんでした。
緊張はしています。当たり前ですが。
「ただ日向くん、一つだけ」
「はい」
「その話は、ここの仕事に関係するようなことなんかの?」
ここの仕事。旅館――では、ないでしょう。心配するようなこととなると、霊能者業。
「いえ、そうじゃないです。僕の個人的な話です」
「そうか」
その顔をよく見ていなければ分からない程度にだけ、ということはつまり僕は今同森さんの顔をそれこそ食い入るように見詰めているということなのですが、ともかく同森さんはほっとしたような表情を浮かべたのでした。
「すいません、それくらいは先に言っておくべきでしたよね」
「いやいや。こっちこそすまんの、もう話に移ってくれて構わんぞ」
場所が場所です、ごもっともな心配ではあったのでしょう。反省しつつ、一方でこの人を呼んで良かったな、とそう思わされるのでした。
「音無さん」
「はい」
雰囲気を汲んで、ということではあるのでしょうが、その雰囲気というのは果たしてこの場全体を見てのものか、それとも同森さんだけを見てのものなのか。
どちらなのかは分かりませんが、音無さんは声を硬くしていました。
「高校一年の時、同じクラスになりましたよね」
「はい」
「僕はその頃、あなたのことが好きでした」
…………。
思っていたより、というか、むしろ全くの想定外と言っていいほど、それはすらすらと声に出すことができました。失礼ながら、音無さんの相槌を待つのが煩わしいと感じたほどに。
…………。
静かでした。同森さんは宣言通りに何も言いませんし、僕としてもこれ以上何か言うのは音無さんの反応を待ってからということになりますし、そして音無さんは何も言いませんでした。
とはいえそれは、対応に困っている、というふうではありませんでした。もちろん前髪はいつも通りその顔の殆どを覆い隠しているのですが、けれど間違いなく、音無さんはその向こう側から僕の目をじっと見詰めてきていました。
その数年後、それ以上に惚れ込む女性と巡り合うことになるとはいえ、だからといってこちらの恋が軽いものだというわけではありませんでした。本気で好きだったのです、音無さんのことが。
だというのに。
だというのに僕は今、その本気で好きになった人からじっと見詰められて、喜ぶどころか萎縮していました。怖かったのです。ならば目を逸らせばいいのに、そうすることができないほどに。
「日向さん」
「はい」
「わたしはその頃、あなたのことを知りませんでした」
「はい」
「好きとか嫌いとか以前の問題でした」
「はい」
「しかもその頃にはもう、他に好きな男の人がいました」
「はい」
「だから、ごめんなさい。一応真剣には考えてみましたけど、いいお返事ができる要素は一つもなかったです」
「…………」
ものの見事にズタボロでした。いっそ、ボロすらありませんでした。
でもむしろ、身体が軽くなるのでした。ほんの少しでもチャンスがあったとしたら、それこそ後悔が残ることになってたんでしょうけどね。
「ふふ、でも……」
「はい?」
「そんなふうに思ってもらえてたのは……ちょっとだけ、嬉しいかもです……」
「はは、そうですか」
ああ。
外見だけを好きになるなんて勿体無いことしたもんだなあ、あの頃の僕は。この中身にほんの少しでも触れていたならもっと惚れ込んで――まあ、どのみち玉砕してはいたんでしょうけどね。
というわけで、三年越しに惚れ直すと同時に十数秒越しに振られ直した僕なのでした。
まあ、三年も十数秒も過去は過去。同じものです、結局は。
「そういうわけで……これからもお友達でいてください、ということでお願いしますね……」
「はい。こちらこそ宜しくお願いします」
上手くはいかなかった恋だけど、間違ってはいなかったな。
なんて。
というわけで僕からの話はこれで終わりなわけですが、するとここで同森さん、まるで今まで息を止めていたかのように大きく息を吐くのでした。
「もういいんじゃよな?」
「あ、はい。すいませんお待たせしまして」
「いやいや、驚いとるうちに終わってしまったようなもんで――そう、もう、えらい驚かされたわい。いきなりあんな話とは」
ということであるなら重ね重ね申し訳ないのですがしかし、ならばと頭を下げそうになったところで浮かんだのは、栞によくされているあの注意。なんせ直前までしていた話が話だったりもするので今の僕は想像の中の栞にすら頭が上がらず、従ってここは愛想笑いを浮かべるに止めておくことになりました。
そしてどうやらその判断は正しかったらしく、話を続ける同森さんは笑い返してくれたりもしているのでした。
「口を挟まんとは言ったが、話が終わったってことなら質問とかしてもいいじゃろうか?」
「それはもう」
それが駄目だとしたら何のために一緒に来てもらったんだってことにもなっちゃいますしね。むしろ彼氏という立場から意見を言ってもらうために呼んだという側面もあるわけで――極端な話、「何考えてんだ」と怒られるのだって覚悟の上だったわけです。
「日向さん、というか奥さんは、このことは知っとるんじゃろうか? まあ出てくる時の様子からして大体見当は付いとるんじゃが」
「そうですね、知ってます」
ということではあるのですが、もちろんそれだけで済ませられる話でもないわけで。
「というか、栞がこの話をさせてくれたってくらいだったりするんです。前にこのことでウジウジしてたら、そりゃもうこっぴどく怒られちゃいまして。もしかしたら変に聞こえるかもしれないですけど、音無さんの話したらむしろ喜ぶんですよあの人」
「そりゃなんとも豪胆というか、器が広いというか」
「という評価を頂けて今かなりほっとしてます」
「かはは」
よかったよかった、一応は普通の人にも理解してもらえる話だったようで。
なんて言ってしまうとまるで栞が普通じゃないみたいですが、もちろんそんなつもりではなく。傾向でなく程度の話としてなら、普通を逸脱して魅力的な人ではあるわけですけどね。
などという与太話が出てきてしまうのは、いま目の前に比較対象となり得る音無さんがいるからなのでしょう。というわけで、告白して振られて、惚れ直して振られ直した今でもやっぱり、僕にとっての一番は微動だにしていなかったりするのでした。
「そうじゃな、そりゃ結婚もするわ――と、話が横に逸れそうな話題は今はいいとしてじゃな」
確かに僕による嫁語りになりそうな一言ではありましたし、ならばそれを回避するのは正しい選択ではあったのでしょうが、そもそも今の話からいきなり結婚どうのこうのになりますか? という。
要するにウジウジすんなと尻を叩かれたって話なのですが、と要約してみたところ。
――あれ、確かにそうかも?
なんて。親や小学校、もしかしたら中学校くらいまでの先生方ならともかく、それ以外では滅多にいるもんじゃないですしね。本気で軌道修正してくれる人、またはされるべき箇所を曝け出せるような人なんて。
……卒業したばかりの僕が言うのも何ですけど、高校生にもなって勉強以外の指導をされるってどうなのよって感じではありますしね。
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