(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第八章 再会 五

2007-10-23 21:04:04 | 新転地はお化け屋敷
 店の前で景気よく買います宣言をした客の割には安い買い物をされたせいか、それとも普段からそんな接客態度なのか、やや投げやりな感じで会計を進めるおじさん。
「んじゃはい、これ書いてね」
 畳んで置かれた新聞の横へ滑らせるように取り出されたのは、筆圧で写しが入る紙を裏にくっ付けた自転車の保証書。とは言ってももちろん、同じく差し出されたボールペンで僕が記入欄を埋め尽くすまではただの紙切れ同然なんだけども。
 普段の買い物とは違って住所やら何やら書かされるのが面倒といえば面倒だけど、買った後の利便性を考えればまあ安いものだ。筆記具がボールペンという事で間違わないよう丁寧に埋めるべき箇所を埋め、おじさんに提出。
 すると、元からやや不機嫌そうだった顔が更に怪訝な色を帯びる。
「兄ちゃん、実は幽霊だなんて事は……ないよな」
 ああ、現住所ですか。
 冗談だという意味を予め含ませておきたいのか、おじさんが無理な笑顔を作る。よく聞く、口が笑ってるけど目が笑ってないってやつのまさにその通り。
 なので、本当は目でも口でも大いに笑い返したかったけど、あえておじさんと同じ表情を作って言い返す。
「たまに耳にしますけど、あのアパートがお化け屋敷って話ですか? 引っ越してきたばかりなのでよく分からないんですけど―――大丈夫ですよ、少なくとも僕が払ったそのお金は本物ですから」
 見えない人が無気味に思うのは仕方のない事なんだから、それを責めるのは筋違いなんだろうけど―――正直に言って腹は立つ。「幽霊がいるからなんだってんですか?」と大笑いしてやりたい。
 だけど僕はその欲求を踏みつけた上にすり潰した後、
「じゃあ、ここから乗って行きますんで」
 固い笑みを返しながら写しを破り取って保証書をこちらに差し出すおじさんに、背を向けて店を出る。その際「毎度」だとか「お買い上げありがとうございました」といった決まり文句は聞こえてこず、ゆっくりと新聞が広がる乾いた音だけが僕の背に届いたのだった。
「いきなりですけど三人乗りですね。では栞さん、後ろへどうぞ」
「うん」
「わたしは前の籠にでも乗せてもらおうかね」


「このまま真っ直ぐ行ったら大きな道に出るからそれを左に曲がって、それから暫らくはずっと道に沿って直進だよ。―――あ、途中でコンビニに寄るんだったよね? その大通りの途中にあるよ」
「了解しました」
 性別だけを考えるなら両手―――いや、前後に花な状態で自転車を漕いでいると、安物のママチャリとは言えさすがに新品なのでペダルやらブレーキやらの感触が違う。随分使い込んでチェーンもちょくちょく外れるようになっていた先代の自転車に比べると、遊びがないと言うか。あんまりボロだったからもう実家に置いてきたけど、もしかしたらもう処分されてたりするかな? あの自転車。
 そんなかなりどうでもいい事を考える僕の正面からちょっと下方では、チューズデーさんがきちんと前を向いてお座り中。そうしてじっとしているところを後ろからじっと眺めていると、どうしてだか撫でたいという衝動に駆られてしまうのでした。
 やっぱり綺麗だもんなあ。このつやの良くて黒い毛と、その下のしなやかな細身の体の組み合わせは。
 ……でも、勢いに任せて撫でたりしたらチューズデーさんは怒らないだろうか? 動物であるみんなにとって、人間に撫でられるってどんな気分なんだろう? ジョンは撫でても喜んでくれるけど、チュ―ズデーさんを撫でたら「子ども扱いするな」ってどやされそうな気が―――
 ―――子ども扱いという単語を思い浮かべたのならば、釣られて連想されるのはもちろんあの人。まあまさかあのまま本気の大喧嘩に発展してる、なんて事はないだろうけど、大丈夫だろうか?


 自分の住家から三つ隣の部屋の様子を心配したり、猫の背中にみとれたり、栞さんから「次を左だよ」と案内されたりしながらどのくらい自転車を漕いだだろうか。同じく栞さんから「見えてきたね」と言われるまでもなく、その高々と掲げられた看板に僕は気付いていた。


「ありがとうございましたー」
 女性店員の自転車屋では聞けなかった挨拶に背中を押され、途中立ち寄ったコンビニの自動ドアをくぐって、自転車の籠の中とその傍で佇む女性二人のもとへ。
 ここで買った物はペットボトルの紅茶・レモンティーの飲み物二本と、おかか・鮭・焼き明太子の三色おにぎりが二セット。まあ三色とは言っても、もちろん外見は全部黒だけども。
 で、なぜに飲み物食べ物のセットが二つなのかと言いますと、
「ありがとう孝一くん」
 こうしてせこいながらも見栄を張るためなのです。最初に言った時は「そんなのいいよ、悪いよ」と遠慮されましたが、自尊心を満たすために無理を通させてもらいました。いい事したんだか悪い事したんだか分かりませんね。満足ですけど。
「いえいえ。それじゃあ行きますか」
 レモンティーの代金の代わりにいい気分を頂いて、自転車のスタンドを外す。
 確か歩きで一時間半くらいって言ってたから、もうそろそろ着くのかな? なんて思っていると、栞さんがある赤い自転車を指して面白そうにこう言った。
「あの自転車の人ね、ずっと栞達の後ろについて来てるの」
 するとチューズデーさんが尻尾をくねらせ、籠の格子を挟んで興味深そうに返事をする。
「ほう、全く気付かなかったよ。どの辺りからだね?」
「自転車に乗って暫らくした辺りかなあ。もしかして、公園まで一緒だったりしてね」
 自転車に乗ってからと言えば、結構な距離を進んだとは言え曲がったのはまだ大通りに出る際の一回だけ。道筋が簡単だからそういう事もあるかな?


 荷物と一緒というのはチューズデーさんに悪いので荷物は籠に入れずに腕に掛け、コンビニから更に自転車を漕ぎ漕ぎ。
 そうしてようやく着きましたるは、駐車場・駐輪場備え付きの大きな公園。「大きな」と言うのがいかほどのものかと言いますと、大き過ぎて、その上背の高い木に囲まれていて内部の様子が窺えず、入口から見渡しただけでは公園かどうかすら分からないくらいでした。
 もしこの公園を知ってらっしゃる付き添いのお二人がおらず、今目の前にある案内板も無かったら、僕は恐らくこの木の向こうに何かしらの大衆施設でもあるんじゃないかと思った事だろう。いや、公園も大衆施設と言えばそうなのかもしれないけど。
「それで栞君。後ろからついて来ていると言っていた者はどうなったね?」
 図によれば三角形をしているらしいこの公園の案内板の足元で、チューズデーさんが栞さんを見上げる。その言葉を聞いて僕も気になり、栞さんの顔へ視線を向けてみた。すると栞さん、駐輪場からこの案内板前までの僅かな道のりへと体を向け、目を細める。
「んー。あ、いるいる。分かる? ちょっと遠いけど、あの女の人」
 そう言って指差した先―――直線距離にしておよそ五十メートルってところだろうか―――の駐輪場には、遠目に見ても首から上の黒色の配分が通常より多いロングスカートな人の姿が。乗り物が自転車なのだからヘルメットを被っているという事でもないだろうし、という事は、あの黒の部分はやはり髪の毛に当たるのだろうか?
 スカートを穿いている、という事であの人物が栞さんの言う通り女性だという事は分かる。だけど―――
「わたしが言うのも可笑しな話だが、随分と黒で固めた着こなしだね。頭の先から足元まで、全身黒尽くめではないか」
 スカートは黒。長袖の上着も黒。手袋でもしているのか、それとも遠目だからそう見えるのか、とにもかくにも手の先まで黒。そして、首から上も大部分が黒。肌色らしき部分もちらちらとは窺えるけど、チューズデーさんの言葉通り、それは「黒尽くめ」としか形容しようの無い色使いだった。
「格好良いねー」
 栞さんはそんな彼女の風貌にのほほんと、素直な感想を述べた。
 しかし、果たしてそれは真なのだろうか? 正直僕には不気味だなーとしか……
 そんなこちらの感想などあちらの黒尽くめさんが知る由も無く、そんな彼女は何をしているのかと言うと、ただ自転車の傍でぼーっと突っ立っていた。いくら遠目と言えど、注視している人物に動きがあるかどうかくらいは判断できる。
 断言しましょう。彼女に動きは無い。駐輪場なんて所でそうしてじっとしているのを見るに、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか?
 ……でもまあ、そんな推理を巡らせたところでだから何なんだと言われれば何でもないのは確実。なので、「黒尽くめの女の人がたまたま僕達と同じコースを通ってたまたま同じ目的地へやってきた」という事実を確認すると、僕達三人は踵を返して公園の内部へと足を進めるのでした。


「じゃあ、いただきます」
 膝の上に乗せたコンビニおにぎり三つに対し、そう言いながら律儀に手を合わせる栞さん。僕もそれに倣い、同じく膝の上に乗せたおにぎり三つに同じく手を合わせ、同じく「いただきます」と言葉を掛けた。僕と栞さんの間に位置するチューズデーさんはと言えば、空になったビニール袋が飛ばないようにと、その上でお座りの姿勢。ありがとうございます。
 ちなみにチューズデーさん。自分の食事は、昨日食べたお寿司のネタ部分を清さんからもらったから結構との事。火曜日の恒例行事らしい成美さん宅での刺身摘みは、開催主があんな状況なので諦めたそうです。成美さん、大丈夫かな? ……まあ、それは帰るまでのお楽しみって事にしておいて。
 そうして昼食を摂り始めた僕達は今、広場の隅に見つけた縦に割った丸太をそのまま寝かせ、これまた丸太そのままな足二本の上に乗せただけのような自然感溢れるベンチに三人並んで座っている。その眼前に展開されている広場はあまくに荘の裏庭と同じく黄緑一色、草で覆われていて、噴水やアスレチックと言ったいわゆる「公園ぽい物」は何も無かった。これはこれでいい所かもしれない―――と言っても、今見ている風景は公園全体からすれば一部でしかないんだけども。
 今現在が平日の昼間とは言ってもやはり人が全くいないという事はなく、ボールで遊んでいる子ども・ただただ走り回っている子ども・虫でも探しているのか、うずくまったままじりじりと前進する子どもと、それに付き合うのか付き合わされているのか、子ども一人につき傍らには母御さんが一人ずつ。計六人がこのベンチから確認できた。
「気持ちのいい場所で食べたら、やっぱり美味しく感じるよね。コンビニのおにぎりでも」
 栞さんが不意にそう言ったのでそちらに顔を向けてみると、走り回る子どもを目で追っているのか、その子の動きに合わせて少しずつ顔を逸らしながら表情をほころばせていた。
 僕はそのほころんだ表情に表情をほころばせ、「そうですね」と返そうとする。もちろん適当に話を合わせるとかではなくて、ちゃんと栞さんの言い分が納得できるものだと思ったからだ。
 だけど、
「おやおや栞君。奢ってもらっておいてコンビニのおにぎり『でも』はないんじゃないのかね?」
 いやに楽しげなチューズデーさんの声に割り込まれた。しかも、雰囲気ぶち壊しになりそうなのにこれまた納得できそうな言い分という。
「あっ!」
 微笑ましかった栞さんの表情が一瞬で曇り、同時にかなりの勢いでこちらへと首が回された。不安そうな顔でこちらを見詰め、そして自身が両手で持つ、頭が小さくかじり取られたおにぎりへと視線を落とし、もう一度こちらへと顔を上げると、
「ご、ごめんなさい! そういうつもりじゃなくて、いつもより美味しいなってそう思って、だから『でも』じゃなくて―――」
 そう早口でまくし立て、再度視線をおにぎりに落とす。上がったり下がったりで首が大変そうだった。
「―――『が』? そう、『が』! 『が』だよ『が』! コンビニのおにぎり『が』!」
 答え――いや、正確に言うなら言い訳を思いつくと、みたび三度こちらへと顔を上げる。そして放たれた言葉は、既にこちらが怒られているかのような勢いに乗せられているのだった。
「いえあの、別にそんな買ってきたおにぎりくらいでなんとも思いませんから。気持ちのいい場所でって言うなら、落ち着いてのんびり食べましょうよ」
 気持ちのいい場所で興奮してたらもったいないですし。
 片手がおにぎりを掴んだままなせいか上手く力が入らずなかなか回ってくれないペットボトルのフタに悪戦苦闘しつつも、顔だけは笑顔にしてそう返す。
 多分、チューズデーさんや栞さんからしたら間抜けな絵面なんだろう。「のんびりするのはいいけど、フタくらいはぱっと開けちゃおうよ。ニヤけてないでさ」みたいな。
 ………本当にそう思われたかどうかは定かではないし別に確認したくもないけど、取り敢えず表面上、栞さんは笑い返してくれた。と言っても、俗に言う半笑いってやつですけど。その笑いでないもう半分が自分自身の取り乱し加減から来ているのか、それとも今僕が考えたような事から来ているのかは、まあ捨て置きましょう。
「そ、そうだね。言ってる事矛盾してるよね。じゃあ孝一くんの言う通り、のんびりのーんびり」
 落ち着きを取り戻した栞さんが依然走り回る前方遠目の子どもを向き直し、おにぎりをもう一口。
「矛盾か。くくく」
 すると、チューズデーさんが俯いて控えめに笑いだした。もちろん僕も栞さんもそれが気になってお互いの間に位置する黒猫さんを見下ろす。
「どうかしましたか? ―――あ、開いた開いた」
 話し掛けた事で力の入り加減がいい具合になったのか、細い枝を折ったような音と共にいともあっさりと開く紅茶のフタ。早速それをぐぐいと口に含んで―――
「いやなに。昨日の夜、矛盾がどうたら怒鳴り散らしていた者がいたのを思い出してね」
「ぶほぇっ!」
 盛大に噴いた。
 咄嗟に横を向いたので、ズボンやら膝の上のおにぎりやらに噴き出した紅茶が掛かる事は幸いにもなかった。が、呼吸器官に侵入した紅茶と格闘してむせる事になってしまった。
「まあ、話のメインはそこではなかったようだがね」
 分かってますよ怒鳴った本人なんですから。


 丸くなった僕の背中を栞さんが軽く叩いてくれたおかげもあって、大袈裟なくらい(もちろん本気で苦しいんだけど)咳込んでいたのも割とあっさり回復。紅茶が鼻から出なかっただけまだましという事にしておこう。
 ……で。
「やっぱり昨日のあれ、聞こえてた?」
 栞さんが恥ずかしそうにチューズデーさんへと問い掛ける。
「あれだけ大声で騒いで、聞こえないほうがおかしいとは思わんかね? ましてや犬の耳には。あの時にはまだ日が変わっていなかったからね」
 ふんと鼻を鳴らして雄弁に語るチューズデーさんとは対照的に、ゆっくりゆっくりずりずりと姿勢を前へ戻す栞さん。そしてその首は、姿勢の移り変わりに合わせてだんだん垂れていく。
「………まあ、そうしょげないでくれ栞君。わたしは君達二人を応援するぞ?」
 チューズデーさんの慰めに栞さんは無言で小さく頷き、黙々ともぐもぐと、おにぎりを口へ運ぶのでした。ついでに僕も、咳き込みが激しすぎて喉が痛いので再び紅茶を一口。
 ああ美味しい。


 その静かな状態のまま、二人揃っておにぎり三つだけの昼食は終了。
 ―――まあ、静かとは言ってもそれは「チューズデーさんの話を引きずって」とかそういうアンニュイな方向の意味ではないですけどね。
「和むよね~」
「そうですねぇ」
「さすがは子ども。随分と元気なものだね」
 食事の終わりから暫らく。食べ物がなくなって動かす機会を失った口が、別の目的の下に動き始めた。つまりは現在の心情の吐露。
 わざわざ口に出さなくたって、この場の三人ともが同じ感情を抱いているのはそれぞれの表情にはっきりと浮かび上がっている。だけど連帯感と言いますかなんと言いますか―――遊びまわる子どもを眺める事によって発生した穏やかな気持ちを共有するのは、それはそれでまたいい気分なのでした。
「普段あんまり小さい子どもって見ないからね~。ずっと眺めてても全然飽きないよ」
「哀沢はどうしたね? あれだって小さい子どもだと思うがね」
「成美ちゃんは違うよやっぱり。中身が大人だもん」
「くくく、そうかそうか」
 緩んだ雰囲気の中でのそんなやりとり。
 今までの買い物以外での外出と言えば、ペンギンに背中をグッサリやられたプールと強制膝枕の花見だけど、たまにはこういうのんびりした外出もいいものだ。来て良かったなあ。まだ来たばっかりだけど。
 そう思って隣の二人の会話に耳を傾けていると―――
 がさり。
 背後の植え込みから、音がした。
 その向こうは舗装された並木道になっているので、そこを歩いている人が植え込みに触れただけなのかもしれない。だからわざわざ気にするような事でもなかったんだけど―――それでも、そんな事を冷静に考えるよりも早く、音に反射するようにそちらを向く。
 ………植え込みの濃い緑色から一瞬、黒い何かが飛び出していたような―――人の頭に見えた気もするけど、もしかして小さい子どもでも植え込みの中に入り込んでいるんだろうか?
「ん? 孝一くん、どうし――うわひゃあっ!」
 栞さんから声を掛けられたかと思ったら、なぜだかその栞さんがベンチから後ろ向きに落下。何やってるんですか一体?
「あいたたた………そ、そっか。背もたれなかったんだよねこの椅子。あはは」
「し、栞君……くくっ、くくくく」
 ありもしない支えに身を任せようとしたらしいその人をベンチの上から見下ろし、笑いを噛み殺そうとしつつも及ばなかったチューズデーさんは、小さな体を小刻みに上下させるのでした。
 とは言ってもそれは僕も同じ事で、噛み殺そうとして噛み殺しきれない途切れ途切れな笑いをその笑いの対象に向けてしまう。しかし仮にも恋人という立場上、笑うだけなのはどうかと思うので、起き上がるのに手を貸してあげようとベンチから立ち上がって栞さんに近付いた―――が、その時。
「見つかっ……ちゃっ……た……」
 栞さんのドジッぷりに意識から消え失せていた「音がした植え込み」の裏から、静かな、そして穏やかな、かつゆったりとした声。そしてそれと同時に、ゆらりと現れる黒一色。
 ………それは、どう見ても後ろからずっと同じ道を辿ってきていたというあの女の人。
 服装はともかく、看板前で遠目に見た時やけに黒の配分が多いと思ったその首から上では、鼻の頭まで前髪が伸びていた。次いで横髪は頭部を包み込むようにして顎の先辺りまで伸びていて、前髪と合わせて考えると、髪と言うよりはもはや被り物の様相だった。
 そんなのでちゃんと前見えてるんですか?
「それじゃあ……失礼……しました……」
 こちらの心配をよそに、黒の隙間から唯一覗ける顔のパーツである控えめに微笑んでいる口でそう言うと、ゆったりと一礼。そして何事もなかったかのようにすたすたと歩き去ってしまった。
 今のは一体、何だったんだろう?
「今の人、孝一くんの知り合い?」
「いえ、全く知らない人……だと思いますけど」
 僕があっけに取られている間に体制を立て直した栞さんは、地面に座り込んだまま目を丸くするというこれまたあっけにとられた様子で、まあそう思うのも仕方ないかなと思える質問を投げ掛けてきた。
 だけども僕にはあんな濃い知り合いはいない。知り合いどころか、道ですれ違っただけでも記憶に留まるレベルですよあれは。黒過ぎですって。
 ―――でも、声には若干聞き覚えがあるような無いような?
「しかしまあ、まだ多少冷える日もあるとは言え結構な厚着だったね。もう少し薄い服でもいいと思うのだが」
 自身が黒いせいかあまり驚いていないチューズデーさんは、彼女の服装をそう評した。まさかあれを目の前にして色以外の箇所にツッコミを入れるとは。
 ………しかし落ち着いて思い返してみればまさにその通りで、寒い日でもシャツの上に長袖一枚羽織っておけば事足りる気温の中、今の真っ黒さんの上着はコート。第一ボタンからきっちりと閉じられたそのコートは、彼女の首下までを完全に包み込んでいた。更に言うならそのコートの下に黒のタートルネックを着ていて、首も完全に真っ黒。
 ―――ここで言いたいのは「ちょいと厚着過ぎやしないですか」という事の筈だったのに、少し話しを進めてみたらばいつの間にか色の話が主眼に。強烈な印象ってのは話題の牽引力が凄いですね。
「寒いのが苦手な人なのかもね」
 黒の衝撃から立ち直ったのか、ようやく立ち上がって服をぱんぱんと手ではたきながらそう返す栞さん。そして服に付いた草やらを払い終えると、首を傾げる。
「でも、『見つかっちゃった』って何なんだろう? そこで何してたんだろうね?」
「さあ……僕にもさっぱりです」
 二人して音のしなくなった植え込みに視線を合わせていると、後ろのベンチから声が。
「栞君のように、そこで転んだのではないのかね? その音に気付いた孝一君に見られたから、恥ずかしいところを『見つかってしまった』という事では?」
 正確には音がして振り返った時点では見えてなかったんですけど―――まあ、あり得ると言えばあり得るでしょうか。
 表情には出てないけど声にからかう気を満載させるチューズデーさんに、
「べ、別に恥ずかしくないもん。どーせあの人には栞が椅子から落ちたのなんて見えてなかっただろうし」
 と、恥ずかしそうに拗ねる栞さんなのでした。
 さて、昼食も食べ終わって一イベントあったところで、そろそろ場所を移しましょうか?


 ―――という事で、現在は三人並んで真っ黒さんと同じ道をゆっくりまったりお散歩しています。
 この三角形の公園の外回りはぐるりと並木道に囲まれていて、その並木が一部分だけ桜なんだそうです。一応はそこに行ってみようという事になっているのですが、特別急いでいる訳でもないのでこの通りのスローペース。
 途中に見つけたゴミ箱へと手持ちのゴミを捨てたりしつつ、いやはや、桜じゃなくても充分綺麗な所―――
「なあお二人さん。人間はこういう時、手を繋いだりするのではないのかね?」
 ―――ですねえ。……いやいや、でしませんでしません!
 景色を満喫しての感想へ下方向から割り込んできた言葉に、その発言者ではなくもう一つ隣の人物の顔を見る。するとあちらも同じくこちらを見ていて、目が合うと途端に下を向いた。
「し、しないよぉ。だって今は、その……」
「二人きりではないからね。くくく、ではわたしは一旦離れるとしよう。ずっと邪魔をし続けるのも気が引けるからね」
 上から見下ろしつつ困った表情をする栞さんに対し、余裕しゃくしゃくで見上げ返すチューズデーさんは、そう言って僕と栞さんの間から飛び出す。
「先に桜の辺りで待っているよ。そこまでは、どうぞごゆっくり」
 数歩進んで立ち止まり、振り返ってそう言うと、並木道を真っ直ぐ走り去ってしまった。
 残された僕達二人は遠ざかるその小さな背中が更に小さくなって見えなくなるまで見送り、それが済むとお互いの顔を見詰め合い、二人揃ってクスリと吹き出し、どちらからともなく手を握り合った。
 その手は今朝の登校時と同じく、暖かくて柔らかい。


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