「まあたいした話じゃないんですけど」
たいした話だったら恐らく家守さんの前ではできないでしょうし。そういう話以外に「たいした」話題って無いですからねえ。
「大吾が落ち込んだ成美さんの部屋に一人で行くって話になった時、随分気に掛けてたなって」
「えー、ああ、まあ、そうだったかな」
たいした話ではなかった筈なんだけど、なぜだかしどろもどろな栞さん。がしかし、たいした話ではないので、気にせず続けさせてもらう事にする。
「あれは何か、思うところがあったりしたんですか?」
特に何の意味も無い、本日を振り返っての日常会話。しかしやっぱり、栞さんの様子がおかしい。家守さんにちらちらと目をやりつつ、かと言って何も言わず。
「どしたぁしぃちゃん。そんなに横目で見ちゃうほど美人なのかなアタシは?」
冗談――と言ってもまあ、家守さんが美人じゃないという意味ではないけども――とにかく。軽口を発する家守さんは、明らかに栞さんに何かを期待していた。
「え、えええっとあのその、できたらでいいんですけど」
「なになに?」
「孝一くんと二人で話したいなーって……」
今の話でなぜ、どこをどうすれば、そうなるのでしょうか?
「キシシ、オッケーオッケー。ちゃんと断りを入れられちゃあお邪魔し続けるわけにもいかないしね。って事で、おばちゃんはこれにて退散させてもらうとしまーす」
「お休みなさい、家守さん」
「また明日ね、こーちゃん。しぃちゃんも」
栞さんは無言で俯いたまま、更に頭を下げた。その下がった頭に家守さんがぽんと手を置き、それが家守さんの、本日最後の「お邪魔」となった。
「しかし、ちょっと思ったのだが」
「なんだ?」
「四月に入って暫らく経つし、そろそろまたあいつが遊びに来るのではないか?」
「――ああ、そろそろかもな。それがどうかしたか?」
「いや、この姿で迎えるわけだから、驚かれやしないかと」
「あー……まあ、大丈夫だろ。それで腰抜かすくらいならここに遊びに来てる時点で、だしよ」
「そ、そうだな。うん。――それともう一つ、気になる事があるのだが」
「まだあんのか?」
「うむ。ちょっとその、一般的な人間から見てどうなのかという事なのだが、猫耳の大人というのは正直どうなのだ? 買い物の時は必然的にこの姿になるのだが」
「オレは別にいいと思うけどな。……でもまあ、やっぱ見慣れてないヤツ等からすりゃちょっとアレか?」
「アレか」
「かもな。帽子とか買えばいいんじゃねーか? つーか、そのサイズの服も買うだろどーせ。そん時にでも一緒に」
「うむ、そうだな。そうしよう」
「えーと、……そういう話になっちゃいますか?」
「うん、なっちゃいます」
どうしてそうなっちゃうのかは全然分からないけど、家守さんを帰らせてしまったって事は冗談ではないわけで、そもそも栞さんはそういった冗談を言うような人柄ではない。と、思う。
ので、よく分からないとはいえ話を窺ってみましょうか。
「では、張り切ってどうぞ」
一応茶化してみたつもりなのだが栞さんにとっては冗談に聞こえていないらしく、胸に手を当て、深呼吸一つ。
「すぅ……ふう……」
それを僕は、あわあわのスポンジでみんなが使った食器類を撫で撫でしながら観察。変な光景だとは、まあ、自覚してます。こうやってテンパってる栞さんを眺めるのは好きなんですけどね。
「あの、ね。成美ちゃんが困ってて、大吾くんが助けてあげるって――その、成美ちゃんからしたらどうなのかなって」
「どうって?」
「辛い時に好きな人が傍にいてくれるのは嬉しいし、安心できるけど、その分その好きな人に辛いのが伝わっちゃうんじゃないかなって」
「じゃあ、また明日な怒橋」
「ん。また明日」
「来てくれて、ありがとう。臍を曲げて酷い事を口走るのは分かっていただろうに」
「いや、本当は全員で来たかったんだよ。不安だったしな。――でもアイツ等、一人で行けとか言い出しやがって」
「ああ、なるほどな。しかしそれならわたしの機嫌が直るまで待つか、いっそ来てくれなくてもよかったのに」
「…迷惑だった、とか? そうだよな、オマエだってアレは見られたくないだろうし」
「違う違う、また早とちりだぞ馬鹿者。もうわたしは猫じゃあ……ふむ、言葉が通じてもなかなか難しいものだな」
「え、じゃあ、なんでだよ?」
「話の対象はわたしではなくお前だよ。お前が来てくれて、わたしはもちろん嬉しかったさ。でもお前は皆と来たかったのだろう? だったら無理してまで一人で来なくてもいいぞ、という事だ」
「いや、無理したって程でもねーんだけどよ。そのなんだ、やっぱ心配だってあったし、オマエの傍にいてやりたかっ……だああ、また恥ずい台詞がっ! とにかくなんだ、自分がキツイ時ぐらいはオレの事考えずに自分の心配だけしてろってんだ!」
「ふふっ。自爆して喧嘩口調とは何事だこの大馬鹿者」
「あ。や、すまん」
「安心しろ。口ではこう言っていても、実際は『無理してでも来て欲しい』というのが本音だよ。どうもこういう事を言葉にしようとすると、どこかで道に迷ってしまうな」
「んだそりゃ。……あーもう、いい加減帰るぞオレ。いつまで経っても帰れねーだろが」
「はは、すまんすまん。それじゃあ今度こそ、また明日な」
「おう」
「成美さんは大吾に辛い思いをさせたくないだろうから、そうならないために大吾を一人で行かせるのに反対したって事ですか?」
まだ全てが片付いたわけじゃないけど、切りのいいところで皿洗いを中断し、備え付けのタオルで手を拭き拭き、栞さんと向かい合う。
栞さんは、こくりと小さく頷いた。
「うん。行かせないのはいくらなんでも駄目だろうから、せめて一人じゃなくて、みんなで行けばいいかなって思ったんだけど……変かな、やっぱり。みんなは一人で行かせようって言ってたし」
どうやら自分の意見が少数側(と言うか、自分だけ)だった事を気にしているらしく、頷いた顔がやや角度を残して持ち上がると、自信無さげな眼差しがこちらを恐る恐る覗いていた。そんな事言ったらあの時場を誤魔化して答えなかった僕はどうなんですかって話だけど、まあそれは今論じるべき話題ではなさそうだ。
それよりも、今は。
「変とまでは思いませんが――栞さん。それってもしかして、栞さん自身の事なんじゃないですか?」
「……うん」
思った通り。
今の言葉だけではこの事に気付けなかっただろう。だけど、栞さんは家守さんの前でこの話をするのにためらいを見せていた。その事とこの話が繋がっているというのなら――という事で、僕、見事に正解です。
なるほど確かに、家守さんは栞さんの「事情」を知っている。ならばあの人の事だ。目聡く嗅ぎ付けて、冷やかしの一つや二つも入れてくるだろう。
「栞さんが、そう思ってるって事なんですよね?」
思うところがあり、念を押してみる。すると、
「……………」
僕がそれについてどう思っているのか、栞さんは予測がついているのだろう。黙って顔を伏せてしまった。
そりゃそうだ。栞さんがそう思ってるって事は、
「じゃあ僕が――例えば、栞さんが辛い時に傍にいようとするのは、栞さんにとって」
「自分がどうしたいのか分からないの」
言い切る前に、言い切られる。「栞さんにとって、余計に辛い事なんですか?」と問う前に、一息で。
「辛い時には、孝一くんに傍にいて欲しい。だけど、そしたら孝一くんが辛い。それは嫌だ。――頭の中に、どっちも浮かんじゃうんだよ。だからね、どうしたらいいのかなって」
「でも公園で泣き出した時は、僕に泣きついてくれたじゃないですか」
「あんなの自分にとって楽な方に逃げただけだよ。孝一くん、優しいんだもん」
皮肉でなく、真の意味で褒めてくれているであろう「優しい」という言葉が、これほど嬉しくない事があっただろうか。そして、褒めてくれる人がこんなに嬉しそうでない事があっただろうか。
「それの何が駄目なんですか?」
「え?」
「逃げたらいいじゃないですか。誰かがそれを駄目だと言ったんですか?」
「いや、そういうわけじゃあ」
「僕が傍にいるのかいないのか、どっちがいいか分からないんですよね? だったらどっちが駄目かだって分からない筈じゃないですか。なのにどうして、まるで『僕が傍にいるのは駄目』みたいな言い方するんですか?」
頭が段々、熱っぽさを帯びてきた。若干の痒みも併発しながら。
ああ、まずい。いや、これでいいのかな? ――また、昨日の夜みたいに。
「栞さんはどっちだか分からない。でも僕は栞さんの傍にいてあげたい。だったら多数決で僕が傍にいるのが正解なんですよ。栞さんが投票権放棄で、僕が『傍にいる』に一票ですから、一対ゼロですよね?」
「そ、そりゃあそうなるけど、ちょっと無理があるんじゃあ」
「そもそもですね」
反論は受け付けません。少なくとも僕が喋り終えるまでは。
「成美さんの気持ちになって考えたって言ってましたけど、なら大吾の気持ちは? 大吾は一人で行くのをためらってただけで、行きたくないって言ってたわけじゃないんですよ? じゃあ逆に困ってるのが僕で助けるのが栞さんだとしましょうか。栞さん、来てくれませんか?」
転んで怪我したとか風邪引いて寝込んだとか鍋が爆発したとか、この際理由はどうだっていい。助けてくれと言ってるようで情けない感じもするけど、それもこの際どうだっていい。来てくれますよね? 栞さん。
「……行くよ。もしそうなったら、少しでも孝一くんの役に立ちたい」
「でしょう」
僕は、そして大吾だって十中八九、そう思って駆けつけようとしたんですよ?
「僕だって来てくれたら嬉しいですよ? 今の栞さんみたいな考え方をしたとしても、嬉しいのが消えるわけじゃないですからね。――だったらそれでいいじゃないですか。栞さんは自分から望んで僕の所に来てくれて、僕はそれが嬉しいんですよ? どこに問題があるってんですか。万事オッケーじゃないですか」
最後にふんっと鼻息一つ鳴らし、僕の思い付きトークは終了。栞さんの反応によってはまだ続いてたんだろう。
「あはは。孝一くん、また昨日の夜みたいになってる」
だけどこうして楽しそうに口元を押さえながら笑いかけられると、炎上していた頭も鎮火せざるを得ないのでした。
「じゃあ……困った時には、遠慮無く来てもらってもいいのかな」
「遠慮されたって行きますけどね」
「ありがとう。――それじゃ、ずっとお皿洗い止めてるのも悪いし、そろそろ帰るね」
言って、栞さんは外へのドアノブに手を掛ける。こちらの言い分に納得してもらえたのか、それとも話を切り上げようとしたのかは定かではない。けど、直前まで興奮していた事もあってか、微笑みながら投げ掛けられる「ありがとう」はそんな二択がどうでもよくなる程、僕を腑抜けに仕立て上げるのでした。
「そうですか? それじゃあ」
それゆえ問いただす事も無しに、やや玄関側へ踏み出して見送る体勢。まあ、玄関と台所じゃあ元々からして隣り合ってるんだけどね。
「また明日、栞さん」
「うん、また明日」
さあ、気を取り直して皿洗い再開だ。……いや、やっぱりもったいないからこの気分に浸りつつ皿洗い再開だ。
てなわけで、にやにやごしごし。――大吾も、こんな心境になる事ってあるのかな? 表に出す事は、あの性格だからないだろうけど。
「成美のヤツ、なんであんなにアッサリ受け入れられんだろーなあ。体の大きさが変わるなんて、とんでもねー話だと思うんだけどなぁ」
――でも、まあ。そーいうヤツだからな。
「『なんでそんなに冷静でいられるんだよ』か。……ふふ、馬鹿者め。冷静な筈がないだろう? 自分でも驚きだよ。自覚も無しに自分の姿を変えてしまう程、わたしの中でお前が大きくなっていたなんてな。――実に、驚きだよ。頭の中の、言葉に変換されない領域までお前が入り込んでいたなんてな。いつか……いつか、この領域の壁を取り払って、全て曝け出してみたいものだな。わたしには、難しいかもしれないが」
――なあ、怒橋。お前にもこういう壁はあるものなのか? いつもいつも、言いたい事をすっぱり言ってしまうお前でも。
たいした話だったら恐らく家守さんの前ではできないでしょうし。そういう話以外に「たいした」話題って無いですからねえ。
「大吾が落ち込んだ成美さんの部屋に一人で行くって話になった時、随分気に掛けてたなって」
「えー、ああ、まあ、そうだったかな」
たいした話ではなかった筈なんだけど、なぜだかしどろもどろな栞さん。がしかし、たいした話ではないので、気にせず続けさせてもらう事にする。
「あれは何か、思うところがあったりしたんですか?」
特に何の意味も無い、本日を振り返っての日常会話。しかしやっぱり、栞さんの様子がおかしい。家守さんにちらちらと目をやりつつ、かと言って何も言わず。
「どしたぁしぃちゃん。そんなに横目で見ちゃうほど美人なのかなアタシは?」
冗談――と言ってもまあ、家守さんが美人じゃないという意味ではないけども――とにかく。軽口を発する家守さんは、明らかに栞さんに何かを期待していた。
「え、えええっとあのその、できたらでいいんですけど」
「なになに?」
「孝一くんと二人で話したいなーって……」
今の話でなぜ、どこをどうすれば、そうなるのでしょうか?
「キシシ、オッケーオッケー。ちゃんと断りを入れられちゃあお邪魔し続けるわけにもいかないしね。って事で、おばちゃんはこれにて退散させてもらうとしまーす」
「お休みなさい、家守さん」
「また明日ね、こーちゃん。しぃちゃんも」
栞さんは無言で俯いたまま、更に頭を下げた。その下がった頭に家守さんがぽんと手を置き、それが家守さんの、本日最後の「お邪魔」となった。
「しかし、ちょっと思ったのだが」
「なんだ?」
「四月に入って暫らく経つし、そろそろまたあいつが遊びに来るのではないか?」
「――ああ、そろそろかもな。それがどうかしたか?」
「いや、この姿で迎えるわけだから、驚かれやしないかと」
「あー……まあ、大丈夫だろ。それで腰抜かすくらいならここに遊びに来てる時点で、だしよ」
「そ、そうだな。うん。――それともう一つ、気になる事があるのだが」
「まだあんのか?」
「うむ。ちょっとその、一般的な人間から見てどうなのかという事なのだが、猫耳の大人というのは正直どうなのだ? 買い物の時は必然的にこの姿になるのだが」
「オレは別にいいと思うけどな。……でもまあ、やっぱ見慣れてないヤツ等からすりゃちょっとアレか?」
「アレか」
「かもな。帽子とか買えばいいんじゃねーか? つーか、そのサイズの服も買うだろどーせ。そん時にでも一緒に」
「うむ、そうだな。そうしよう」
「えーと、……そういう話になっちゃいますか?」
「うん、なっちゃいます」
どうしてそうなっちゃうのかは全然分からないけど、家守さんを帰らせてしまったって事は冗談ではないわけで、そもそも栞さんはそういった冗談を言うような人柄ではない。と、思う。
ので、よく分からないとはいえ話を窺ってみましょうか。
「では、張り切ってどうぞ」
一応茶化してみたつもりなのだが栞さんにとっては冗談に聞こえていないらしく、胸に手を当て、深呼吸一つ。
「すぅ……ふう……」
それを僕は、あわあわのスポンジでみんなが使った食器類を撫で撫でしながら観察。変な光景だとは、まあ、自覚してます。こうやってテンパってる栞さんを眺めるのは好きなんですけどね。
「あの、ね。成美ちゃんが困ってて、大吾くんが助けてあげるって――その、成美ちゃんからしたらどうなのかなって」
「どうって?」
「辛い時に好きな人が傍にいてくれるのは嬉しいし、安心できるけど、その分その好きな人に辛いのが伝わっちゃうんじゃないかなって」
「じゃあ、また明日な怒橋」
「ん。また明日」
「来てくれて、ありがとう。臍を曲げて酷い事を口走るのは分かっていただろうに」
「いや、本当は全員で来たかったんだよ。不安だったしな。――でもアイツ等、一人で行けとか言い出しやがって」
「ああ、なるほどな。しかしそれならわたしの機嫌が直るまで待つか、いっそ来てくれなくてもよかったのに」
「…迷惑だった、とか? そうだよな、オマエだってアレは見られたくないだろうし」
「違う違う、また早とちりだぞ馬鹿者。もうわたしは猫じゃあ……ふむ、言葉が通じてもなかなか難しいものだな」
「え、じゃあ、なんでだよ?」
「話の対象はわたしではなくお前だよ。お前が来てくれて、わたしはもちろん嬉しかったさ。でもお前は皆と来たかったのだろう? だったら無理してまで一人で来なくてもいいぞ、という事だ」
「いや、無理したって程でもねーんだけどよ。そのなんだ、やっぱ心配だってあったし、オマエの傍にいてやりたかっ……だああ、また恥ずい台詞がっ! とにかくなんだ、自分がキツイ時ぐらいはオレの事考えずに自分の心配だけしてろってんだ!」
「ふふっ。自爆して喧嘩口調とは何事だこの大馬鹿者」
「あ。や、すまん」
「安心しろ。口ではこう言っていても、実際は『無理してでも来て欲しい』というのが本音だよ。どうもこういう事を言葉にしようとすると、どこかで道に迷ってしまうな」
「んだそりゃ。……あーもう、いい加減帰るぞオレ。いつまで経っても帰れねーだろが」
「はは、すまんすまん。それじゃあ今度こそ、また明日な」
「おう」
「成美さんは大吾に辛い思いをさせたくないだろうから、そうならないために大吾を一人で行かせるのに反対したって事ですか?」
まだ全てが片付いたわけじゃないけど、切りのいいところで皿洗いを中断し、備え付けのタオルで手を拭き拭き、栞さんと向かい合う。
栞さんは、こくりと小さく頷いた。
「うん。行かせないのはいくらなんでも駄目だろうから、せめて一人じゃなくて、みんなで行けばいいかなって思ったんだけど……変かな、やっぱり。みんなは一人で行かせようって言ってたし」
どうやら自分の意見が少数側(と言うか、自分だけ)だった事を気にしているらしく、頷いた顔がやや角度を残して持ち上がると、自信無さげな眼差しがこちらを恐る恐る覗いていた。そんな事言ったらあの時場を誤魔化して答えなかった僕はどうなんですかって話だけど、まあそれは今論じるべき話題ではなさそうだ。
それよりも、今は。
「変とまでは思いませんが――栞さん。それってもしかして、栞さん自身の事なんじゃないですか?」
「……うん」
思った通り。
今の言葉だけではこの事に気付けなかっただろう。だけど、栞さんは家守さんの前でこの話をするのにためらいを見せていた。その事とこの話が繋がっているというのなら――という事で、僕、見事に正解です。
なるほど確かに、家守さんは栞さんの「事情」を知っている。ならばあの人の事だ。目聡く嗅ぎ付けて、冷やかしの一つや二つも入れてくるだろう。
「栞さんが、そう思ってるって事なんですよね?」
思うところがあり、念を押してみる。すると、
「……………」
僕がそれについてどう思っているのか、栞さんは予測がついているのだろう。黙って顔を伏せてしまった。
そりゃそうだ。栞さんがそう思ってるって事は、
「じゃあ僕が――例えば、栞さんが辛い時に傍にいようとするのは、栞さんにとって」
「自分がどうしたいのか分からないの」
言い切る前に、言い切られる。「栞さんにとって、余計に辛い事なんですか?」と問う前に、一息で。
「辛い時には、孝一くんに傍にいて欲しい。だけど、そしたら孝一くんが辛い。それは嫌だ。――頭の中に、どっちも浮かんじゃうんだよ。だからね、どうしたらいいのかなって」
「でも公園で泣き出した時は、僕に泣きついてくれたじゃないですか」
「あんなの自分にとって楽な方に逃げただけだよ。孝一くん、優しいんだもん」
皮肉でなく、真の意味で褒めてくれているであろう「優しい」という言葉が、これほど嬉しくない事があっただろうか。そして、褒めてくれる人がこんなに嬉しそうでない事があっただろうか。
「それの何が駄目なんですか?」
「え?」
「逃げたらいいじゃないですか。誰かがそれを駄目だと言ったんですか?」
「いや、そういうわけじゃあ」
「僕が傍にいるのかいないのか、どっちがいいか分からないんですよね? だったらどっちが駄目かだって分からない筈じゃないですか。なのにどうして、まるで『僕が傍にいるのは駄目』みたいな言い方するんですか?」
頭が段々、熱っぽさを帯びてきた。若干の痒みも併発しながら。
ああ、まずい。いや、これでいいのかな? ――また、昨日の夜みたいに。
「栞さんはどっちだか分からない。でも僕は栞さんの傍にいてあげたい。だったら多数決で僕が傍にいるのが正解なんですよ。栞さんが投票権放棄で、僕が『傍にいる』に一票ですから、一対ゼロですよね?」
「そ、そりゃあそうなるけど、ちょっと無理があるんじゃあ」
「そもそもですね」
反論は受け付けません。少なくとも僕が喋り終えるまでは。
「成美さんの気持ちになって考えたって言ってましたけど、なら大吾の気持ちは? 大吾は一人で行くのをためらってただけで、行きたくないって言ってたわけじゃないんですよ? じゃあ逆に困ってるのが僕で助けるのが栞さんだとしましょうか。栞さん、来てくれませんか?」
転んで怪我したとか風邪引いて寝込んだとか鍋が爆発したとか、この際理由はどうだっていい。助けてくれと言ってるようで情けない感じもするけど、それもこの際どうだっていい。来てくれますよね? 栞さん。
「……行くよ。もしそうなったら、少しでも孝一くんの役に立ちたい」
「でしょう」
僕は、そして大吾だって十中八九、そう思って駆けつけようとしたんですよ?
「僕だって来てくれたら嬉しいですよ? 今の栞さんみたいな考え方をしたとしても、嬉しいのが消えるわけじゃないですからね。――だったらそれでいいじゃないですか。栞さんは自分から望んで僕の所に来てくれて、僕はそれが嬉しいんですよ? どこに問題があるってんですか。万事オッケーじゃないですか」
最後にふんっと鼻息一つ鳴らし、僕の思い付きトークは終了。栞さんの反応によってはまだ続いてたんだろう。
「あはは。孝一くん、また昨日の夜みたいになってる」
だけどこうして楽しそうに口元を押さえながら笑いかけられると、炎上していた頭も鎮火せざるを得ないのでした。
「じゃあ……困った時には、遠慮無く来てもらってもいいのかな」
「遠慮されたって行きますけどね」
「ありがとう。――それじゃ、ずっとお皿洗い止めてるのも悪いし、そろそろ帰るね」
言って、栞さんは外へのドアノブに手を掛ける。こちらの言い分に納得してもらえたのか、それとも話を切り上げようとしたのかは定かではない。けど、直前まで興奮していた事もあってか、微笑みながら投げ掛けられる「ありがとう」はそんな二択がどうでもよくなる程、僕を腑抜けに仕立て上げるのでした。
「そうですか? それじゃあ」
それゆえ問いただす事も無しに、やや玄関側へ踏み出して見送る体勢。まあ、玄関と台所じゃあ元々からして隣り合ってるんだけどね。
「また明日、栞さん」
「うん、また明日」
さあ、気を取り直して皿洗い再開だ。……いや、やっぱりもったいないからこの気分に浸りつつ皿洗い再開だ。
てなわけで、にやにやごしごし。――大吾も、こんな心境になる事ってあるのかな? 表に出す事は、あの性格だからないだろうけど。
「成美のヤツ、なんであんなにアッサリ受け入れられんだろーなあ。体の大きさが変わるなんて、とんでもねー話だと思うんだけどなぁ」
――でも、まあ。そーいうヤツだからな。
「『なんでそんなに冷静でいられるんだよ』か。……ふふ、馬鹿者め。冷静な筈がないだろう? 自分でも驚きだよ。自覚も無しに自分の姿を変えてしまう程、わたしの中でお前が大きくなっていたなんてな。――実に、驚きだよ。頭の中の、言葉に変換されない領域までお前が入り込んでいたなんてな。いつか……いつか、この領域の壁を取り払って、全て曝け出してみたいものだな。わたしには、難しいかもしれないが」
――なあ、怒橋。お前にもこういう壁はあるものなのか? いつもいつも、言いたい事をすっぱり言ってしまうお前でも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます