「まあまあ、そんなに重大な話をしていたわけではないのだし」
なだめに入ってきたのは成美さん。そりゃもちろんこんなところで何の気なく重大な話が繰り広げられていたというのも変でしょうし、ならば別に重大な話ではないんでしょうけど、それらはともかくありがとうございます。
「で、何の話だったかだが……あー、わたしの話、だな。ちょっと大吾に痛いところを突かれたというか」
「成美さんの? なんでまた」
実は僕が最後に考えたことも「成美さんが痛がるであろう話」だったりして、少々驚いたりも。しかしまあ内容まで被ることはないでしょうし、むしろ気になるのはどうしてそんな話になったか、という点でした。みんなが帰った途端に成美さんを突っつく、というのは?
「いやほら、少し前に話してただろ? どうにも変えられない自分の性質ってやつ。サタデーが帰るとこ見たら何となく思い出してな」
大吾に痛いところを突かれた、ということで突いた大吾から説明が。自分の性質うんぬんは猫さんが自分を指して言い出したことでしたが、まあそれを周囲にも尋ねたのはサタデーでしたし、ならばサタデーを見て思い出しても変ではないのでしょう。僕のことも栞さんから聞き出されたりしてましたし。
聞きそびれていただけの僕が先を急かすのもどうかと思ったので、無言のまま頷きだけ。
「で、成美にもあるよなって思ってよ。どんな話かっつったらまあ、旦那サンのことなんだけど」
「猫さんの?」
これはますます、僕が考えたことに近付いてきているような、と。というか、成美さんと猫さんの話で後ろめたく思うようなこととなると、他にないのではないでしょうか。
そこから先の説明は大吾でなく、成美さん自身がしてくれました。恥ずかしそうに、かつ照れたように。
「今こんな状態で言うのもなんだが、わたしとこいつは一応、『もう会わないでおこう』と決め事をした経験があるのだよ。まあ見た通り、全く守れていないんだが」
やっぱりその話でしたか。ということで、僕が考えていたことと完全に一致していました。ただ、ぼーっとしながら考えていたことがそれだというのは心証が悪いでしょうし、声にも顔にも出しはしませんが。
ちなみに成美さんがいま言った「こんな状態」というのは、猫さんを膝の上で抱いている状態を指しているのでしょう。もしかしたら自身がそれと同じく大吾に抱かれていることも含まれていたりするのかもしれませんが、そこまではさすがに僕から断言することはできません。
「誰が悪いかと言えば、それは俺だがな。毎回俺のほうからここへ出向いているわけだし」
庇うように――とは言っても、それが正しく事実でもあるので何とも言えませんが、猫さんがそう口を開きました。必要な時にしか喋らない猫さんですから、ならばそれは必要な情報だったのでしょう。少なくとも、猫さんにとっては。
「いや、さっきも言いましたけど、オレは別に悪いとかそんなふうに思ってるわけじゃないですから。変えられないんだなってくらいは思いますけど、悪いどころかむしろ良いことだと思ってますし」
慌てたように大吾が言いますが、しかし「さっきも言いましたけど」ということは、これを言うのは二度目になるのでしょう。本当、ごめんなさい。
僕がそんなむずむずした気分になっていたところ、成美さんも身体をむずむずと揺すらせました。
「わたしを挟んでそんな話をされると、むしろ居心地が悪いな」
……まあ、確かにそりゃそうなんでしょう。他に誰もいないというならともかく、僕と栞さんがまだいるわけですし。もちろん、その居心地が悪いというのは「むしろ」なんですけど。
で、成美さんがそんなふうに言うと大吾も猫さんも黙ってしまうわけです。二人とも、いったいどれだけ成美さんのことが好きなんでしょうか。数値で表せるのなら一度見てみたいものです。
で、成美さんがそんなふうに言うと、僕も栞さんも思い至ることがあるわけです。
「私達も、そろそろ帰るね」
恐らく、余計な客がいなくなれば成美さんの「むしろ」は取り払われるんでしょうしね。
僕に確認をすることなく「私達」と言い切った栞さんは、言い切った後になって僕へにこりと微笑みかけるのでした。
で。
「ううむ」
202号室を出た僕と栞さんはそれぞれの部屋に戻る――のではなく、二人揃って204号室に。まあそれはいつものことと言えばいつものことなのですが、
「この状態で困ったような声出されるっていうのも、変な感じだなあ」
というわけで、僕は困っていました。
成美さんと大吾を真似て、栞さんを膝の上に座ってもらってみたのです。そういう関係だし二人きりだし、ならばそれは別に問題ないだろう。……なんて誰にともなく言い訳じみた台詞を頭に浮かべてもみるのですが、しかし困っているというのは、そこを指してのものではありません。
大吾達を見た当初から考えていたことで、それについてはこうなる前に栞さんへも伝えてあるのですが、
「まあこうくん、前見えてなさそうだもんねそれ」
「面目ないです……」
栞さんと僕の、身長差の話です。いや、身長差がないことが問題なんだから、身長差の話というのはちょっと間違ってるような気もしますけど。
身長がほぼ同じということで、ならば測ったことはないにせよ、座高も似たようなものなのでしょう。その栞さんが僕の膝の上に座っているということは、僕の足の太さの分だけ、栞さんの頭が僕の頭より高くなるということです。その結果、僕の目線は栞さんのうなじ辺りと並んでいるのでした。
「ああ、また謝っちゃうんだ?」
「あっ、いえ、すいません」
自分を悪者にするのは良くないことだと、今日も言われたばかりなんですけどねえ。即座にそれを察して謝れるようになっただけまだマシと言えばマシですが……あれ? 謝るなと言われて謝るのってどうなんだろう?
僕のそんなちょっとした葛藤を、しかし栞さんはくすくすと微笑でもって流してしまい、許しの言葉すらないままに元の話へ。
「後ろから抱かれる側としては、正直あんまり気にならないけどね」
「うーん、まあ、僕の側からしても気にするほどのことじゃないかもしれませんけどねえ。この状況、そう珍しいものでもないでしょうし」
百七十センチくらいの男性。百七十センチくらいの女性。どちらもそこいらで珍しくもなく見掛けられるでしょうし、だったらその両名が付き合うことになるというのも、やっぱり珍しくはないのでしょう。
「じゃあ、どうしてそんなに気になるの?」
「大吾と成美さんが完璧だったからじゃないですかねえ」
背の低い成美さん。背の高い大吾。抱きかかえられた成美さんの頭に顎を乗せられるほどだったあの形こそが「後ろから抱きかかえる」の正しい形なのではないでしょうか、なんて一体何の道に精通してるのか分からない評論家ぶってみたくなるくらい、あちらとこちらには差があるのでした。
もちろんそれは恋人どうのを抜きにして――というか、普通は恋人同士であの身長差はまずあり得ないわけで、単に見た目だけの話なんですけどね。
「確かに、直前にあれを見ちゃってるとねえ。ただ抱くってだけじゃなくて、もう、包み込まれてるって感じ? ああでも、成美ちゃんはそう言われるのはあんまり良い気分じゃないかもだけど」
「どうなんでしょうね。やっぱり、今でもまだちょっとくらいは気にしてたりするんですかね? 身長のことというか、見た目の年齢のことって」
「いくら大人の身体になれるっていっても、全く気にならないってことはないと思うけど――あれ、でも、あれだけ嬉しそうに抱っこされてるんだったらそうでもないのかな」
ううむ、と二人揃って唸ってはみますが、しかし唸って答えが出るような問題でないということは、さすがに分かってますともさ。
「あ、そうそう」
栞さんも、同じく分かってますともさなのでしょう。何かしらの答えを出すことなく、別の何かしらを持ってくるのでした。
で、なんでしょうか?
「私、降りたほうがいい?」
「あーっと……いや、もう少しこのままで」
「了解」
まあ、見た目が悪かろうが何だろうが、結局はこういうことをする関係なんですしね。
などと初めに泣き言を言っていた男は開き直るわけですが、しかしそうして栞さんのうなじ辺りの高さに顔を位置させ続けていたところ、不意にある違和感が。
けれどそれは違和感のそのまた違和感、本当に自分が違和感を覚えたかどうかすらぼやけている薄い薄いものだったので、それを栞さんに伝えるようなことはしませんでした。
繰り返しますが、薄い薄い違和感です。
薄い薄い違和感ながら、栞さんの髪が、いつもより少し長いような気がしたのです。
「どうかした?」
「いえ、何も」
口で伝えはしませんでしたし、そもそも僕は栞さんの背後にいるのですが、けれど栞さんは僕に何かあったと気付いたようでした。
「……何もってことはないですよね、こんないちゃつきぶりで」
「ふふ、まあそうかな。ちょっとくらい何かあってくれないと寂しいかも」
ではその察知されたことについてですが、栞さんが敏感だったのか、それとも僕が悟られやすかっただけなのかというのは、どちらとも言えませんでした。なんせ栞さんに「なんで気付いたんですか?」などと訊けるわけもないんですし。
「でも、初めはただ試してみようってだけの話だったんだけどね。背の高さのことで」
「想像通りと言っても、やっぱり少々物悲しい結果でしたね」
「いや、悲しくなるのはこうくんだけだけどさ」
そりゃそうなんですけどね。ということで、上手いこと話は逸れてくれました。逸らそうとしているのに気付いてあえて乗ってくれている、という可能性は考えないことにしておきます。
さてそれで栞さんの髪についてですが。――と考え始めると、意識がざわつき始めてしまいます。ならば慌てているなら慌てているなりに、事態を再確認してみましょう。
身長差がほぼない僕と栞さんで大吾と成美さんの真似をするとどうなるか、という実験の結果として栞さんの後頭部からうなじにかけての辺りと対面することになった僕は、ふと栞さんの髪がいつもより少し長いのではないかと思ってしまいました。それが本当にそうなのかどうかはかなり疑問もあったりするのですが、しかし万が一本当に髪が長かったとするなら、それはただ単に髪が伸びたというだけの話では済まなくなってきます。
それはつまり、栞さんが年を取り始めたということになるからです。
幽霊である栞さんは、通常ならば年を取ることはありません。では年を取るというのがどういうことなのかと言いますと、生きていてかつ幽霊を見ることができる誰かと愛し合い(男女の仲だけに限るものではなく、です)、加えてその愛する人物と共に年を取ることを望んだ、ということになります。
「悲しいですけど、もう少しいいですか? このまま」
「ん? 断りを入れられるようなことじゃないと思うけどなあ」
――いちゃいちゃしているだけとはいえ、こういった会話にもその一端は表れているのでしょうが、栞さんは、僕という幽霊が見える人間と愛し合っています。
更には一緒に年を取りたいという話も既に聞かせてもらっていたので、「ならば実際に年を取り始めるのはいつごろからだろうか」とその時を待っている状態だったのです。まあ、常にそのことを想っていたというわけでもないんですけど。髪の毛が伸びるかどうかというのは、その分かりやすい目印になるわけですね。……伸びてるんでしょうか、本当に。
目と鼻の先にある栞さんの髪。その先端を、まじまじと眺めてみます。しかしもちろん目に見える速度で伸びるわけでなく、そもそも本当に伸びているかどうかが問題なのですから、この行為にはあまり意味がありません。しかしそれが分かっていても、目を離せませんでした。
「栞さん」
「ん?」
「……いや、やっぱりいいです」
眺めている間に心が動き、それに応じて口が開き、僕は栞さんに何かを言いそうになりました。しかし、それが何だったかは自分でもよく分かりませんでした。気が付いたら栞さんの名前を呼んでいて、その後にようやく追いついた意識で「少なくとも髪の話だったら今ここでは言えないだろう」と考え、名前を呼んだ直後だというのに何もなかったことにしたのでした。
が、
「呼ばれまですると、さすがにそうはいかないよ」
栞さん、今度は乗ってくれないようでした。ああ、さっきのは乗ってくれてたんですね、やっぱり。
「どうかしたの?」
腰と首を捻り、それでもこちらを向き切らない横顔で、栞さんは続けて尋ねてきます。さっきは「少なくとも髪の話だったら今ここでは言えないだろう」と考えた僕ですが、しかし実際、その「少なくとも」以外の話題が見付かりません。他のことを気にしていられるような精神状態では、ないのです。しかしそれでもなお、髪の話をいまここでするわけにはいかなくて――。
「栞さん」
「なんでしょうか」
「キス、していいですか?」
誤魔化せてはいないのでしょう。今になって、キスをするというだけで栞さんを不審がらせるほどの動揺というのも不自然な話ですし。
「断りを入れられるようなことじゃないと思うけどなあ」
笑いながら、栞さんはさっきと同じ台詞をもう一度。
「うん、いいよ」
けれども栞さんは、まず間違いなく苦し紛れの話題逸らしだと分かったうえで、それを快く承諾してくれるのでした。
……全く関連がない話というわけでもないのです。今の僕に関連がないことを思い付けるような余裕はなく、なのでもし関連がなかったとするなら、僕はこの誤魔化しを思い付けてはいなかったでしょう。まあ、それにしたって嘘臭さ満点ではありますが。
愛してます。
これが誤魔化しだという後ろめたさから言葉にはできませんでしたが、しかしその一言から、僕はこのキスをするという誤魔化し方を思い付けたのでした。
唇が離れた後、他には何も言わずに「すいません」とだけ言ったところ、栞さんも「うん」とだけ返してくるのでした。理解を示してくれたことを嬉しく思う一方、理解されたことを心苦しく思ったりもしたのですが――ともかく今はその厚意に甘えるしかなく、なので僕は、甘えておくことにしました。
で、その後。それなりに時間が進んでいつもの料理教室が開催される時刻なのですが、その前に。
「話? 俺に?」
「はい。その、まあ、ちょっとありまして」
「わざわざ部屋を変えてまでって、緊張するなあ」
ぶしつけに過ぎるので少しくらい説明を入れようかと思いましたが、それができないから部屋を変えるわけで。ちょっとあるって、そりゃあ何もなかったら相談なんかしないよ僕。
「アタシは仲間外れみたいだねえ。キシシ、さてさて男同士でどんな話なのやら」
「楓さんが言うと何でもかんでもやらしく聞こえますよね」
「おや、そりゃ心外だなあしぃちゃん。でもまあ、心外ではありつつ意外ではないんだけど」
そりゃあ、そういう話をする時はふざけてるだけなんですもんね家守さん。ふざけてるのが普通だってくらいの頻度ですけど。
「ところで、しぃちゃんは心当たりないの? 何の話か」
「うーん、高次さんとだけ話さなくちゃならないことっていうのは……?」
家守さんはもちろん、栞さんも思い付かないようでした。
実のところその話というのは栞さんの髪のことなんですが、それだったら家守さんを交えても何の問題もないですし、むしろ普通ならそうするところでしょう。しかしそこで敢えて普通でない選択肢を選ぶことで、万が一栞さんが髪のことに思い当たるという可能性を潰しておいたのです。「高次さんとだけ」という不要な情報で誤答に導くのはもちろん、家守さんは家守さんで、こうしておけば勝手に猥談にしてくれるでしょうし。
というわけで、びっくりするぐらい目論見通りです。
――頬がにやけそうになるのを堪えつつ、高次さんと一緒に居間から私室へ。
机の上から陶器製のリアルな熊とぬいぐるみの可愛らしいキリンがこちらを見ているというのは、少々恥ずかしかったりしないでもないです。もちろん、今更な話なんですけど。
後ろ手でふすまを閉め、床に座り込んだ高次さんは、そうするなり閉めたばかりのふすまを見返して言いました。
「喜坂さんは意図を汲んで効かないようにしてくれるだろうけど、楓は下手したらふすまに耳押し付けてるかもしれないよ?」
その途端、ふすまの向こう側からは「ぎっくーん」というとてもわざとらしい声と、「いや、そんなことしてませんよー」というこちらへ呼び掛けるような声が。
それを聞いた高次さんは、ふすまの向こうへはっはと笑い返してから、僕のほうへ向きました。
「まあ、万一のために釘を指しておいたってことで。聞き耳を立てられなくするってのはともかく、むしろ努めて聞かないように促すっていうかね」
つまり、高次さんも家守さんがそんなことをするとは思っていなかったということなのでしょう。家守さんへの不信というより、僕への気遣いということになるのでしょうか。
「さて、じゃあ本題に入ってもらって」
「あ、はい」
類は友を呼ぶというか、似たもの夫婦というか。さすがは家守さんの旦那さん、相談事がある場合には頼りになります。家守さんと違うところといえば、普段から落ち着いているところでしょうか――なんてのはいいとして、本題です。
聞き耳を立てられていないとはいえ、さすがに声を落とします。
「栞さんの髪、伸びたような気がするんです」
「おおっ。そりゃまた――めでたい、でいいのかな?」
「あ、はい。そういうことでお願いします」
同意のうえで、ですしね。ただし、
「ただ、まだ『気がする』ってだけのことで。その……まあ、栞さんの髪を間近に見る機会があって、その時に思ったことなんで、ただの思い過ごしだったりするかもしれないです」
髪に顔を近付けるとなると、もうその時どういう雰囲気だったかというのは伝わってしまったようなものなのかもしれません。しかし、だからといって言わないわけにもいきますまい。なんたって僕は相談を持ち掛けている側なんですから。
「うん、そういうふうになるのは珍しいことじゃないよ。『めでたい』ことになる人にとっては、そのめでたさが引っくり返って焦らされるような気分だろうしね。実際に年を取り始めるまでっていうのは」
もちろんそう言った時の高次さんは声は落としたままだったのですが、しかしそれにもかかわらず、どこかどっしりとした安定感があるという印象を受けるのでした。
それは僕が相談を持ち掛けている側だというこの状況によるものなのでしょうが、しかしそれだけではないような気もします。なんせ家守さんが、高次さんについてよくこれと同じような話をしていますし。……とはいえ、相談をする側としては家守さんも高次さんと同様なんですけどね。
「珍しいことじゃないっていうのはやっぱり、お仕事のほうで?」
「うん。まあ、その殆どは『いきなり髪が伸びたんだけど何ですかねこれ』みたいな感じなんだけどね。そりゃあ、俺達みたいな職種の人間と関わってないと分かりっこないことだし」
「ああ、そりゃそうですよね。――そういえば、大学の知り合いにもそんな人がいましたし」
「そうなの? 前ここに来てた人達、ではないよね。あの時したのは霊感だけの子の話だったし」
霊感だけの子。えーっと、異原さんのことか。幽霊が見えないのに存在だけ感知しちゃって、でも当人はもちろん幽霊の存在なんて信じてないから、っていう。家守さんと高次さんのおかげで、今となってはここのみんなと知り合ったりしちゃってるんですけど。
「その人達とは別の友達の先輩とその恋人、ですね。まあ、結局は同じ大学の人なんですけど」
もう暫く会ってないんだよなあ、深道さんと霧原さん。
「幽霊なのは恋人のほう――女の人なんですけど、髪は元々長かったんですよ。それが、伸び始めた理由が分かった途端にむしろばっさり短くなっちゃって」
「女の人にとって、髪ってのは宝物だからねえ。弄っても大丈夫だと分かったら手を出したくなるんだろうね、やっぱり」
栞さんの髪は僕にとっても宝物です。とは、言わないでおきました。言わないだけですけど。
そうして僕は「喋るとしたら今」なタイミングを逃し、するとそれを見た高次さんは、「いやあ、それにしても日向くん」と。
「君はえらく幽霊に縁があるみたいだね。喜坂さんのことだけじゃなく、友人の中にも幽霊関係の話があるなんて。しかも二つも」
「……縁が多いほうなんですか? これって」
「幽霊と一切関わらないまま過ごしてる人がどれだけいるかを考えると、そりゃねえ。俺らなんかはまあ仕事だから、自分から首突っ込みに行くんだけどさ」
「でも僕、幽霊が見えるわけですし」
「見えるって言っても、幽霊とそうじゃない人の見分けが付かないんならあんまり変わらないと思うよ。そこいらの赤の他人には声掛けないでしょ? 幽霊かどうかなんて関係なく」
「ああ、そりゃそうですね」
赤の他人と関わらないことと同じく、たとえ見えていたって幽霊とも関わらないと。そりゃあ、幽霊だって赤の他人の一部なんですし。
「まあ理屈どうのの前に、仕事上の経験があって言ってるだけなんだけどね。幽霊が見える人ってのは全体で見れば珍しいんだけど、俺らはそういう人にばっかり会ってるわけで」
つまり仕事として僕のような「見えるけど見分けられない」人と会った時、その殆どは僕ほど幽霊と関わってはいなかったと。自分と友人の二件、計三件だけで縁が多いとまで言われたんですから、大多数はその依頼された仕事それ一件だけ、ということなのでしょう。
「……ところで、今更なんですけど」
「なんだい?」
「こうも仕事の話が出てくると、その仕事と等しいような相談事を気楽に持ち掛けてることに、なんだか罪の意識が」
「はっは、頼まれたってお金は取ってあげないよ。お金以外のものをいつも貰ってるんだから」
お金以外のもの。ううむ、物品を渡したような記憶はない。それは僕に限らず、ここの住人は皆同じでしょう。となると、ちょっとクサいような気もしますけど、これでしょうか。
「賑やかな生活、とかですか?」
「もちろんそれもあるけど」
あれ、他にも何かありますか。
「というか、その要素の一つってとこかな? 楓のことなんだけど、あれだけ元気でいられるのって、やっぱりみんなのおかげだろうしさ」
家守さんは周囲がどうであれ元気そうな気もしますが――と僕が口にする前に、高次さんは続けました。僕がそう思うことを見越したかのように。
「楓はさ、この仕事に対する感情って、清濁入り混じってるんだよ。前に聞いたよね? その辺の話」
「えーと……ああ、はい」
一瞬思い付きませんでしたが、しかしなんとか思い当たりました。昔の自分の行いに対する罪滅ぼしだというような話を、僕は以前に聞きいています。
「もしみんなの存在がなかったら、そのうち清が擦り減って濁だけになってたと思うよ。辛いと思ってもこの仕事を止めはしないだろうしね」
そうでしょうか。と、僕としては思うわけですが、しかし高次さんはそれすら言う暇を与えず更に続けます。
「もし俺が知り合ったのが濁だけになった楓だったら、気の毒に思いはしても、結婚しようとは――どころか、そもそも好きになってなかっただろうね。酷い話かもしれないけど」
なだめに入ってきたのは成美さん。そりゃもちろんこんなところで何の気なく重大な話が繰り広げられていたというのも変でしょうし、ならば別に重大な話ではないんでしょうけど、それらはともかくありがとうございます。
「で、何の話だったかだが……あー、わたしの話、だな。ちょっと大吾に痛いところを突かれたというか」
「成美さんの? なんでまた」
実は僕が最後に考えたことも「成美さんが痛がるであろう話」だったりして、少々驚いたりも。しかしまあ内容まで被ることはないでしょうし、むしろ気になるのはどうしてそんな話になったか、という点でした。みんなが帰った途端に成美さんを突っつく、というのは?
「いやほら、少し前に話してただろ? どうにも変えられない自分の性質ってやつ。サタデーが帰るとこ見たら何となく思い出してな」
大吾に痛いところを突かれた、ということで突いた大吾から説明が。自分の性質うんぬんは猫さんが自分を指して言い出したことでしたが、まあそれを周囲にも尋ねたのはサタデーでしたし、ならばサタデーを見て思い出しても変ではないのでしょう。僕のことも栞さんから聞き出されたりしてましたし。
聞きそびれていただけの僕が先を急かすのもどうかと思ったので、無言のまま頷きだけ。
「で、成美にもあるよなって思ってよ。どんな話かっつったらまあ、旦那サンのことなんだけど」
「猫さんの?」
これはますます、僕が考えたことに近付いてきているような、と。というか、成美さんと猫さんの話で後ろめたく思うようなこととなると、他にないのではないでしょうか。
そこから先の説明は大吾でなく、成美さん自身がしてくれました。恥ずかしそうに、かつ照れたように。
「今こんな状態で言うのもなんだが、わたしとこいつは一応、『もう会わないでおこう』と決め事をした経験があるのだよ。まあ見た通り、全く守れていないんだが」
やっぱりその話でしたか。ということで、僕が考えていたことと完全に一致していました。ただ、ぼーっとしながら考えていたことがそれだというのは心証が悪いでしょうし、声にも顔にも出しはしませんが。
ちなみに成美さんがいま言った「こんな状態」というのは、猫さんを膝の上で抱いている状態を指しているのでしょう。もしかしたら自身がそれと同じく大吾に抱かれていることも含まれていたりするのかもしれませんが、そこまではさすがに僕から断言することはできません。
「誰が悪いかと言えば、それは俺だがな。毎回俺のほうからここへ出向いているわけだし」
庇うように――とは言っても、それが正しく事実でもあるので何とも言えませんが、猫さんがそう口を開きました。必要な時にしか喋らない猫さんですから、ならばそれは必要な情報だったのでしょう。少なくとも、猫さんにとっては。
「いや、さっきも言いましたけど、オレは別に悪いとかそんなふうに思ってるわけじゃないですから。変えられないんだなってくらいは思いますけど、悪いどころかむしろ良いことだと思ってますし」
慌てたように大吾が言いますが、しかし「さっきも言いましたけど」ということは、これを言うのは二度目になるのでしょう。本当、ごめんなさい。
僕がそんなむずむずした気分になっていたところ、成美さんも身体をむずむずと揺すらせました。
「わたしを挟んでそんな話をされると、むしろ居心地が悪いな」
……まあ、確かにそりゃそうなんでしょう。他に誰もいないというならともかく、僕と栞さんがまだいるわけですし。もちろん、その居心地が悪いというのは「むしろ」なんですけど。
で、成美さんがそんなふうに言うと大吾も猫さんも黙ってしまうわけです。二人とも、いったいどれだけ成美さんのことが好きなんでしょうか。数値で表せるのなら一度見てみたいものです。
で、成美さんがそんなふうに言うと、僕も栞さんも思い至ることがあるわけです。
「私達も、そろそろ帰るね」
恐らく、余計な客がいなくなれば成美さんの「むしろ」は取り払われるんでしょうしね。
僕に確認をすることなく「私達」と言い切った栞さんは、言い切った後になって僕へにこりと微笑みかけるのでした。
で。
「ううむ」
202号室を出た僕と栞さんはそれぞれの部屋に戻る――のではなく、二人揃って204号室に。まあそれはいつものことと言えばいつものことなのですが、
「この状態で困ったような声出されるっていうのも、変な感じだなあ」
というわけで、僕は困っていました。
成美さんと大吾を真似て、栞さんを膝の上に座ってもらってみたのです。そういう関係だし二人きりだし、ならばそれは別に問題ないだろう。……なんて誰にともなく言い訳じみた台詞を頭に浮かべてもみるのですが、しかし困っているというのは、そこを指してのものではありません。
大吾達を見た当初から考えていたことで、それについてはこうなる前に栞さんへも伝えてあるのですが、
「まあこうくん、前見えてなさそうだもんねそれ」
「面目ないです……」
栞さんと僕の、身長差の話です。いや、身長差がないことが問題なんだから、身長差の話というのはちょっと間違ってるような気もしますけど。
身長がほぼ同じということで、ならば測ったことはないにせよ、座高も似たようなものなのでしょう。その栞さんが僕の膝の上に座っているということは、僕の足の太さの分だけ、栞さんの頭が僕の頭より高くなるということです。その結果、僕の目線は栞さんのうなじ辺りと並んでいるのでした。
「ああ、また謝っちゃうんだ?」
「あっ、いえ、すいません」
自分を悪者にするのは良くないことだと、今日も言われたばかりなんですけどねえ。即座にそれを察して謝れるようになっただけまだマシと言えばマシですが……あれ? 謝るなと言われて謝るのってどうなんだろう?
僕のそんなちょっとした葛藤を、しかし栞さんはくすくすと微笑でもって流してしまい、許しの言葉すらないままに元の話へ。
「後ろから抱かれる側としては、正直あんまり気にならないけどね」
「うーん、まあ、僕の側からしても気にするほどのことじゃないかもしれませんけどねえ。この状況、そう珍しいものでもないでしょうし」
百七十センチくらいの男性。百七十センチくらいの女性。どちらもそこいらで珍しくもなく見掛けられるでしょうし、だったらその両名が付き合うことになるというのも、やっぱり珍しくはないのでしょう。
「じゃあ、どうしてそんなに気になるの?」
「大吾と成美さんが完璧だったからじゃないですかねえ」
背の低い成美さん。背の高い大吾。抱きかかえられた成美さんの頭に顎を乗せられるほどだったあの形こそが「後ろから抱きかかえる」の正しい形なのではないでしょうか、なんて一体何の道に精通してるのか分からない評論家ぶってみたくなるくらい、あちらとこちらには差があるのでした。
もちろんそれは恋人どうのを抜きにして――というか、普通は恋人同士であの身長差はまずあり得ないわけで、単に見た目だけの話なんですけどね。
「確かに、直前にあれを見ちゃってるとねえ。ただ抱くってだけじゃなくて、もう、包み込まれてるって感じ? ああでも、成美ちゃんはそう言われるのはあんまり良い気分じゃないかもだけど」
「どうなんでしょうね。やっぱり、今でもまだちょっとくらいは気にしてたりするんですかね? 身長のことというか、見た目の年齢のことって」
「いくら大人の身体になれるっていっても、全く気にならないってことはないと思うけど――あれ、でも、あれだけ嬉しそうに抱っこされてるんだったらそうでもないのかな」
ううむ、と二人揃って唸ってはみますが、しかし唸って答えが出るような問題でないということは、さすがに分かってますともさ。
「あ、そうそう」
栞さんも、同じく分かってますともさなのでしょう。何かしらの答えを出すことなく、別の何かしらを持ってくるのでした。
で、なんでしょうか?
「私、降りたほうがいい?」
「あーっと……いや、もう少しこのままで」
「了解」
まあ、見た目が悪かろうが何だろうが、結局はこういうことをする関係なんですしね。
などと初めに泣き言を言っていた男は開き直るわけですが、しかしそうして栞さんのうなじ辺りの高さに顔を位置させ続けていたところ、不意にある違和感が。
けれどそれは違和感のそのまた違和感、本当に自分が違和感を覚えたかどうかすらぼやけている薄い薄いものだったので、それを栞さんに伝えるようなことはしませんでした。
繰り返しますが、薄い薄い違和感です。
薄い薄い違和感ながら、栞さんの髪が、いつもより少し長いような気がしたのです。
「どうかした?」
「いえ、何も」
口で伝えはしませんでしたし、そもそも僕は栞さんの背後にいるのですが、けれど栞さんは僕に何かあったと気付いたようでした。
「……何もってことはないですよね、こんないちゃつきぶりで」
「ふふ、まあそうかな。ちょっとくらい何かあってくれないと寂しいかも」
ではその察知されたことについてですが、栞さんが敏感だったのか、それとも僕が悟られやすかっただけなのかというのは、どちらとも言えませんでした。なんせ栞さんに「なんで気付いたんですか?」などと訊けるわけもないんですし。
「でも、初めはただ試してみようってだけの話だったんだけどね。背の高さのことで」
「想像通りと言っても、やっぱり少々物悲しい結果でしたね」
「いや、悲しくなるのはこうくんだけだけどさ」
そりゃそうなんですけどね。ということで、上手いこと話は逸れてくれました。逸らそうとしているのに気付いてあえて乗ってくれている、という可能性は考えないことにしておきます。
さてそれで栞さんの髪についてですが。――と考え始めると、意識がざわつき始めてしまいます。ならば慌てているなら慌てているなりに、事態を再確認してみましょう。
身長差がほぼない僕と栞さんで大吾と成美さんの真似をするとどうなるか、という実験の結果として栞さんの後頭部からうなじにかけての辺りと対面することになった僕は、ふと栞さんの髪がいつもより少し長いのではないかと思ってしまいました。それが本当にそうなのかどうかはかなり疑問もあったりするのですが、しかし万が一本当に髪が長かったとするなら、それはただ単に髪が伸びたというだけの話では済まなくなってきます。
それはつまり、栞さんが年を取り始めたということになるからです。
幽霊である栞さんは、通常ならば年を取ることはありません。では年を取るというのがどういうことなのかと言いますと、生きていてかつ幽霊を見ることができる誰かと愛し合い(男女の仲だけに限るものではなく、です)、加えてその愛する人物と共に年を取ることを望んだ、ということになります。
「悲しいですけど、もう少しいいですか? このまま」
「ん? 断りを入れられるようなことじゃないと思うけどなあ」
――いちゃいちゃしているだけとはいえ、こういった会話にもその一端は表れているのでしょうが、栞さんは、僕という幽霊が見える人間と愛し合っています。
更には一緒に年を取りたいという話も既に聞かせてもらっていたので、「ならば実際に年を取り始めるのはいつごろからだろうか」とその時を待っている状態だったのです。まあ、常にそのことを想っていたというわけでもないんですけど。髪の毛が伸びるかどうかというのは、その分かりやすい目印になるわけですね。……伸びてるんでしょうか、本当に。
目と鼻の先にある栞さんの髪。その先端を、まじまじと眺めてみます。しかしもちろん目に見える速度で伸びるわけでなく、そもそも本当に伸びているかどうかが問題なのですから、この行為にはあまり意味がありません。しかしそれが分かっていても、目を離せませんでした。
「栞さん」
「ん?」
「……いや、やっぱりいいです」
眺めている間に心が動き、それに応じて口が開き、僕は栞さんに何かを言いそうになりました。しかし、それが何だったかは自分でもよく分かりませんでした。気が付いたら栞さんの名前を呼んでいて、その後にようやく追いついた意識で「少なくとも髪の話だったら今ここでは言えないだろう」と考え、名前を呼んだ直後だというのに何もなかったことにしたのでした。
が、
「呼ばれまですると、さすがにそうはいかないよ」
栞さん、今度は乗ってくれないようでした。ああ、さっきのは乗ってくれてたんですね、やっぱり。
「どうかしたの?」
腰と首を捻り、それでもこちらを向き切らない横顔で、栞さんは続けて尋ねてきます。さっきは「少なくとも髪の話だったら今ここでは言えないだろう」と考えた僕ですが、しかし実際、その「少なくとも」以外の話題が見付かりません。他のことを気にしていられるような精神状態では、ないのです。しかしそれでもなお、髪の話をいまここでするわけにはいかなくて――。
「栞さん」
「なんでしょうか」
「キス、していいですか?」
誤魔化せてはいないのでしょう。今になって、キスをするというだけで栞さんを不審がらせるほどの動揺というのも不自然な話ですし。
「断りを入れられるようなことじゃないと思うけどなあ」
笑いながら、栞さんはさっきと同じ台詞をもう一度。
「うん、いいよ」
けれども栞さんは、まず間違いなく苦し紛れの話題逸らしだと分かったうえで、それを快く承諾してくれるのでした。
……全く関連がない話というわけでもないのです。今の僕に関連がないことを思い付けるような余裕はなく、なのでもし関連がなかったとするなら、僕はこの誤魔化しを思い付けてはいなかったでしょう。まあ、それにしたって嘘臭さ満点ではありますが。
愛してます。
これが誤魔化しだという後ろめたさから言葉にはできませんでしたが、しかしその一言から、僕はこのキスをするという誤魔化し方を思い付けたのでした。
唇が離れた後、他には何も言わずに「すいません」とだけ言ったところ、栞さんも「うん」とだけ返してくるのでした。理解を示してくれたことを嬉しく思う一方、理解されたことを心苦しく思ったりもしたのですが――ともかく今はその厚意に甘えるしかなく、なので僕は、甘えておくことにしました。
で、その後。それなりに時間が進んでいつもの料理教室が開催される時刻なのですが、その前に。
「話? 俺に?」
「はい。その、まあ、ちょっとありまして」
「わざわざ部屋を変えてまでって、緊張するなあ」
ぶしつけに過ぎるので少しくらい説明を入れようかと思いましたが、それができないから部屋を変えるわけで。ちょっとあるって、そりゃあ何もなかったら相談なんかしないよ僕。
「アタシは仲間外れみたいだねえ。キシシ、さてさて男同士でどんな話なのやら」
「楓さんが言うと何でもかんでもやらしく聞こえますよね」
「おや、そりゃ心外だなあしぃちゃん。でもまあ、心外ではありつつ意外ではないんだけど」
そりゃあ、そういう話をする時はふざけてるだけなんですもんね家守さん。ふざけてるのが普通だってくらいの頻度ですけど。
「ところで、しぃちゃんは心当たりないの? 何の話か」
「うーん、高次さんとだけ話さなくちゃならないことっていうのは……?」
家守さんはもちろん、栞さんも思い付かないようでした。
実のところその話というのは栞さんの髪のことなんですが、それだったら家守さんを交えても何の問題もないですし、むしろ普通ならそうするところでしょう。しかしそこで敢えて普通でない選択肢を選ぶことで、万が一栞さんが髪のことに思い当たるという可能性を潰しておいたのです。「高次さんとだけ」という不要な情報で誤答に導くのはもちろん、家守さんは家守さんで、こうしておけば勝手に猥談にしてくれるでしょうし。
というわけで、びっくりするぐらい目論見通りです。
――頬がにやけそうになるのを堪えつつ、高次さんと一緒に居間から私室へ。
机の上から陶器製のリアルな熊とぬいぐるみの可愛らしいキリンがこちらを見ているというのは、少々恥ずかしかったりしないでもないです。もちろん、今更な話なんですけど。
後ろ手でふすまを閉め、床に座り込んだ高次さんは、そうするなり閉めたばかりのふすまを見返して言いました。
「喜坂さんは意図を汲んで効かないようにしてくれるだろうけど、楓は下手したらふすまに耳押し付けてるかもしれないよ?」
その途端、ふすまの向こう側からは「ぎっくーん」というとてもわざとらしい声と、「いや、そんなことしてませんよー」というこちらへ呼び掛けるような声が。
それを聞いた高次さんは、ふすまの向こうへはっはと笑い返してから、僕のほうへ向きました。
「まあ、万一のために釘を指しておいたってことで。聞き耳を立てられなくするってのはともかく、むしろ努めて聞かないように促すっていうかね」
つまり、高次さんも家守さんがそんなことをするとは思っていなかったということなのでしょう。家守さんへの不信というより、僕への気遣いということになるのでしょうか。
「さて、じゃあ本題に入ってもらって」
「あ、はい」
類は友を呼ぶというか、似たもの夫婦というか。さすがは家守さんの旦那さん、相談事がある場合には頼りになります。家守さんと違うところといえば、普段から落ち着いているところでしょうか――なんてのはいいとして、本題です。
聞き耳を立てられていないとはいえ、さすがに声を落とします。
「栞さんの髪、伸びたような気がするんです」
「おおっ。そりゃまた――めでたい、でいいのかな?」
「あ、はい。そういうことでお願いします」
同意のうえで、ですしね。ただし、
「ただ、まだ『気がする』ってだけのことで。その……まあ、栞さんの髪を間近に見る機会があって、その時に思ったことなんで、ただの思い過ごしだったりするかもしれないです」
髪に顔を近付けるとなると、もうその時どういう雰囲気だったかというのは伝わってしまったようなものなのかもしれません。しかし、だからといって言わないわけにもいきますまい。なんたって僕は相談を持ち掛けている側なんですから。
「うん、そういうふうになるのは珍しいことじゃないよ。『めでたい』ことになる人にとっては、そのめでたさが引っくり返って焦らされるような気分だろうしね。実際に年を取り始めるまでっていうのは」
もちろんそう言った時の高次さんは声は落としたままだったのですが、しかしそれにもかかわらず、どこかどっしりとした安定感があるという印象を受けるのでした。
それは僕が相談を持ち掛けている側だというこの状況によるものなのでしょうが、しかしそれだけではないような気もします。なんせ家守さんが、高次さんについてよくこれと同じような話をしていますし。……とはいえ、相談をする側としては家守さんも高次さんと同様なんですけどね。
「珍しいことじゃないっていうのはやっぱり、お仕事のほうで?」
「うん。まあ、その殆どは『いきなり髪が伸びたんだけど何ですかねこれ』みたいな感じなんだけどね。そりゃあ、俺達みたいな職種の人間と関わってないと分かりっこないことだし」
「ああ、そりゃそうですよね。――そういえば、大学の知り合いにもそんな人がいましたし」
「そうなの? 前ここに来てた人達、ではないよね。あの時したのは霊感だけの子の話だったし」
霊感だけの子。えーっと、異原さんのことか。幽霊が見えないのに存在だけ感知しちゃって、でも当人はもちろん幽霊の存在なんて信じてないから、っていう。家守さんと高次さんのおかげで、今となってはここのみんなと知り合ったりしちゃってるんですけど。
「その人達とは別の友達の先輩とその恋人、ですね。まあ、結局は同じ大学の人なんですけど」
もう暫く会ってないんだよなあ、深道さんと霧原さん。
「幽霊なのは恋人のほう――女の人なんですけど、髪は元々長かったんですよ。それが、伸び始めた理由が分かった途端にむしろばっさり短くなっちゃって」
「女の人にとって、髪ってのは宝物だからねえ。弄っても大丈夫だと分かったら手を出したくなるんだろうね、やっぱり」
栞さんの髪は僕にとっても宝物です。とは、言わないでおきました。言わないだけですけど。
そうして僕は「喋るとしたら今」なタイミングを逃し、するとそれを見た高次さんは、「いやあ、それにしても日向くん」と。
「君はえらく幽霊に縁があるみたいだね。喜坂さんのことだけじゃなく、友人の中にも幽霊関係の話があるなんて。しかも二つも」
「……縁が多いほうなんですか? これって」
「幽霊と一切関わらないまま過ごしてる人がどれだけいるかを考えると、そりゃねえ。俺らなんかはまあ仕事だから、自分から首突っ込みに行くんだけどさ」
「でも僕、幽霊が見えるわけですし」
「見えるって言っても、幽霊とそうじゃない人の見分けが付かないんならあんまり変わらないと思うよ。そこいらの赤の他人には声掛けないでしょ? 幽霊かどうかなんて関係なく」
「ああ、そりゃそうですね」
赤の他人と関わらないことと同じく、たとえ見えていたって幽霊とも関わらないと。そりゃあ、幽霊だって赤の他人の一部なんですし。
「まあ理屈どうのの前に、仕事上の経験があって言ってるだけなんだけどね。幽霊が見える人ってのは全体で見れば珍しいんだけど、俺らはそういう人にばっかり会ってるわけで」
つまり仕事として僕のような「見えるけど見分けられない」人と会った時、その殆どは僕ほど幽霊と関わってはいなかったと。自分と友人の二件、計三件だけで縁が多いとまで言われたんですから、大多数はその依頼された仕事それ一件だけ、ということなのでしょう。
「……ところで、今更なんですけど」
「なんだい?」
「こうも仕事の話が出てくると、その仕事と等しいような相談事を気楽に持ち掛けてることに、なんだか罪の意識が」
「はっは、頼まれたってお金は取ってあげないよ。お金以外のものをいつも貰ってるんだから」
お金以外のもの。ううむ、物品を渡したような記憶はない。それは僕に限らず、ここの住人は皆同じでしょう。となると、ちょっとクサいような気もしますけど、これでしょうか。
「賑やかな生活、とかですか?」
「もちろんそれもあるけど」
あれ、他にも何かありますか。
「というか、その要素の一つってとこかな? 楓のことなんだけど、あれだけ元気でいられるのって、やっぱりみんなのおかげだろうしさ」
家守さんは周囲がどうであれ元気そうな気もしますが――と僕が口にする前に、高次さんは続けました。僕がそう思うことを見越したかのように。
「楓はさ、この仕事に対する感情って、清濁入り混じってるんだよ。前に聞いたよね? その辺の話」
「えーと……ああ、はい」
一瞬思い付きませんでしたが、しかしなんとか思い当たりました。昔の自分の行いに対する罪滅ぼしだというような話を、僕は以前に聞きいています。
「もしみんなの存在がなかったら、そのうち清が擦り減って濁だけになってたと思うよ。辛いと思ってもこの仕事を止めはしないだろうしね」
そうでしょうか。と、僕としては思うわけですが、しかし高次さんはそれすら言う暇を与えず更に続けます。
「もし俺が知り合ったのが濁だけになった楓だったら、気の毒に思いはしても、結婚しようとは――どころか、そもそも好きになってなかっただろうね。酷い話かもしれないけど」
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