(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第二十二章 思い出の人 六

2009-02-13 21:28:55 | 新転地はお化け屋敷
 それを引き起こしたのは紛れもなく僕だ。栞さんがそう思っているなどという次元の話ではなく、幽霊という存在は、そういうものなのだ。少し考えれば分かることなのに、どうしてそんなことにすら気付けなかった?
 僕には幽霊も普通の人も見分けがつかないし、しかも僕は栞さんが大好きだ。――でも、僕が見分けられようがられまいが、栞さんは幽霊だ。そして僕は幽霊じゃない。その差は、恋愛感情なんかで埋められるものではないはずだ。それどころか何をどうしたって埋められるはずもなく、だからお互いにそれを理解し合って付き合うしかないはずなのに、幽霊の女性と付き合っているはずの僕の言ったことは何だ? 理解するもなにも、好き合っているというだけで満足して、何も考えてこなかったんじゃないか? 満足するどころか、好き合っているからこそ余計に理解しなきゃならないのに。
「すいませんでした!」
 頭を下げる。頭を下げることしかできない。結局僕は、自分を悪者にしてしまうも何も、本当に悪者だったのだ。
「うん……」
 栞さんの返事は短い。そして暗く、重い。そんな様子の栞さんを見るのは初めてでもないけど、今までだったら僕は、そういう状態の栞さんをなんとか元気付けようとする立場だった。しかし今回はそうもいかない。なんせ、自分が栞さんを落ち込ませた原因なのだから。
 栞さんに笑って欲しいと思うのはいつも通り。だけど今回、僕にはそれを口にする資格すらない。
「栞さん」
 頭を上げ、同時に話し掛ける。頭を上げたその先で栞さんは僕と同じように下を向いていたけど、そして返事どころか相槌すら貰えないけど、それでも話し掛ける。
「何か、罰をください」
 僕がしたことは罪だ。だから償いをしたい。でもたった今そうだったように、僕からできるのは頭を下げることだけだ。栞さんは僕への叱咤を早々に切り上げてくれたけど、それだって怒りが収まったからじゃない。何も収まっていないのにほとぼりが冷めるまで待つだけというのは、怒りを買った側としては辛過ぎる。
 もちろん、それこそを罰だとしてもらっても構わない。だから栞さん、せめてあなたの口から、あなたの意思による罰をください。許してくれなんて言いません。ただ、僕がまだ怒りを向けるに足る人間であると言って欲しいんです。怒るのすら諦められるような人間なのは嫌なんです。それだけは、どうしても。
 この状況での罰という言葉に反応したのか、栞さんの顔が上がる。
「……今、本当に怒ってるよ? そんなこと言われたら、酷いこと言っちゃうかもしれないよ?」
 そうは言いながら、その顔は「怒る」とは程遠いものだった。悲しそうな、そして何かを酷く恐れているような、弱々しい表情。自分がしでかしたことの全ては、そこにしっかりと表れていた。
「構いません。――いや、もう構う余裕がないんです。栞さんに言われて、自分がどれだけ馬鹿なことを言ったのかすぐに分かりました。すぐ分かることなのに自分で気付けなかったなんて更に馬鹿なこと、このままじゃ終わらせられないんです」
「分かった。でも孝一くん、一つだけ約束」
 僕が頷くと、栞さんは言う。当たり前なことだったはずなのに、約束と称して前もって言っておかなければならなくなってしまった、その内容を。
「栞が何をしても何を言っても、栞を好きでいてね」
 怒りは相当なもののはずなのに、この場でそこを気に掛られる。そんな栞さんを前にして、身が縮む思いだった。本当に縮んでしまえばいいとすら思った。
「分かりました」
 分かってます、と言えないのがこんなにも惨めだとは。
「――じゃあ、もうちょっと長くさせてもらうね、さっきの話」
 その宣言を切っ掛けにして栞さんの表情が変わっていく。今度こそさっきの言葉通り、怒りの形へと。それを見て膝の上に置いた両の拳に力が入るのが、自分でもよく分かった。ほんの少し前までは自分がどんな顔なのかすら掴み取れなかったのに。
「幽霊が幽霊だってだけでどれだけの人の思い出になってるかって話だったけど、今怒ってる栞は、まだマシなほうなんだよ? だって、生きてる頃は友達なんて、全然いなかったんだもん。栞のことを思い出にしたのなんてお父さんとお母さんと、あとは親戚の人達くらいだよ。これが栞じゃなかったらどう? 死んじゃう前の話なんてそれほど詳しく聞いたわけじゃないけど、成美ちゃんや大吾くんや清さんだったら? 大吾くんなら友達だっていただろうし、成美ちゃんと清さんなんて奥さんに旦那さん、自分の子どももいるんだよ? 実際、清明くんからしたら清さんはいないも同然だよね? 成美ちゃんの場合は猫だから幽霊は見えるにしても、離れ離れになったのは変わらないでしょ? それ全部、孝一くんは駄目だって言っちゃったんだよ? 庄子ちゃんが大吾くんの声を聞けるのも、明美さんが清さんを見れるのも、運が良かったってだけなんだよ? 死んじゃって、そこで全部終わりだったかもしれないんだよ? もし運が悪くて見えも聞こえもされなくて記憶にしか残れなくて、思い出になっちゃったら? そう考えたら栞じゃなくたって、怒らないにしても、絶対にいい気分にはなれないよ。それに栞だって、孝一くんとこうして付き合ってられるの、言っちゃったら運が良かったってだけなんだよ? 運が悪かったらそれまで、なんてそんな程度の気持ちで好きになってくれたんじゃないでしょ? 自分がどれだけ好かれてるのか、一番知ってるのは栞だもん」
 こうして次々に並べ立てられると、改めて自分の発言の軽率さを思い知らされる。そう、僕からすれば普通のアパートと変わりのないこのあまくに荘だって、実態はやっぱりお化け屋敷なのだ。隣人、あまつさえその中の一人と恋人同士にまでなるのなら、ここに住んでいる人達の大半は幽霊で、だからこその事情もみんなが抱えているということまで考えを巡らせなければならなかったのだ。
 もちろん、全くそうしなかったわけじゃない。栞さんや他のみんなと過ごす中で機会があれば、そういうことも考えた。――だけど、足りなかった。この事態を引き起こしたのは紛れもなく僕なんだから、その一点にはなんの言い訳もできない。
 栞さんの語気が、だんだんと強まっていく。
「自分がどれだけ孝一くんを好きだったのかだってよく分かってる。お互いにちゃんと好き合えてるって知ってたから、前に音無さんを好きだったって言われても全然平気だったんだよ? 他の女の人より強く想われてるんだなって、嬉しくなれたんだよ? そう思えるくらいに好きだし、信頼してたから、昔のことだって話せたんだよ? そしたらちゃんと信頼に応えてくれて、それでもっと好きになって、だから日曜の夜、心も身体も傷跡も全部孝一くんに――それなのに」
 日曜の夜。栞さんと過ごした時間。今の僕が通過してきたものだとは、とても思えなかった。今、こんなことで躓いているこの僕が、愛し合うだなんて。
「それなのに! 今になってこんなこと言われるなんて思わなかった! 幽霊の存在意義の半分以上を『駄目だ』の一言で片付けられちゃうなんて、全然思わなかった! 単なる我侭なのかもしれないけど、孝一くんにはもっと分かってて欲しかった! 分かってるうえで好きでいてほしかったんだよ! 好きで好きでたまらないから、好きで好きでたまらないだけ、孝一くんにそんなこと言って欲しくなかったんだよ! 栞が幽霊だっていうのは初めから分かってたじゃない! だったらもっと――!」
 怒声。他に何の要素もない、純粋な怒声。これまで僕の中では、栞さんと怒鳴り合った経験があるということが、実際の出来事として存在していた。だけど思い知らされる。今まであったことはとても「怒鳴って」などいなかったと。気分が落ち着けば即座に笑い合えるような、どこか余裕のある怒りだったと。そして今回はそうではない。
 ――だけど、
「……ごめん、声が大きくなっちゃったね。これくらいにさせてもらうよ」
 気分が落ち着くのを待つことなく、栞さんは自力でその怒声を押さえ込んでしまう。それはきっととても難しいことで、そうまでして押さえてもらったことに、僕は感謝すべきなんだろう。
 だけど、どうしてここで悲しくなるんだろう? どうしてもっと怒鳴っていて欲しいと思ってしまうんだろう?
 それはきっと、栞さんの語気が強ければ強いだけ、罪の意識が和らげられるからなのだろう。「今自分は罪を償えている」と実感できるからなのだろう。罪が償えているかどうかなんて、自分の感覚なんかで判断すべきものではないのに。
「でも……ねえ孝一くん、もうちょっとだけいいかな。こっちは今のほど怒ってるってわけじゃないから、落ち着いて話せると思う」
 断れるはずもなく、かと言って声を発するのは何となく躊躇われたので、黙ったまま頷く。すると栞さんは、「孝一くんにとって嫌な話なのは変わらないけどね」とぎこちない笑顔を作った。しかし、ぎこちないというのは心情に逆らってまで意識的に笑おうとしているということでもある。それに対して僕がどう思ったかは、今の立場では意識に上らせることすら適わない――いや、適わせてはいけないんだけども。
「元の話に戻って音無さんなんだけどね、あの、ほら、高校の頃がどうたったかは知らないんだけど、栞から見ても可愛い人だと思うよ。だから孝一くんが前に好きだったっていうのも、納得はいくの。だけどね」
 努めて明るく話そうとしているのがひしひしと伝わってくる喋り方。ならば僕もそれに合わせたほうがいいのだろうか、なんて悩んでいたところ、そこから先の栞さんの言葉が繋がらない。目が泳いで「あー」とか「えー」とか言っているところを見るに、なにか言い辛いことを言おうとしているんだろう。
 結局先の悩みは横に置いておき、しばし無言のまま待つ。そして。
「ほら、孝一くん、初めは顔も覚えてもらってなかったでしょ? 名前だって『そう言えば聞き覚えがあるような』って感じだったし。だからね、音無さんからしたら――かなり感じの悪い言い方だけど、どうでもいい人だったんだと思うよ? だから孝一くんが思い出にしても何をしても、やっぱりどうでもいいことなんじゃないかな。音無さんからしたら」
 ……確かに、僕にとっては嫌な話でした。むしろ痛いです。どうでもいいの二連発ですか。いやまあ、実にその通りなんですけど。
 その時僕はどんな顔だったんだろうか、栞さんが「あ、でもでも」と慌て始める。
「友達としてなら全然そんなことはないと思うからね? 嫌われてるってわけじゃないんだし、他のみんなと一緒とは言っても、もうこの部屋に来てもらったりもしてるし」
「いやまあ、好き『だった』って公言してる以上、それに文句はないですけど……」
 言われ方一つだけできっつい事実になっちゃうんだなあ、名前も顔も覚えられてなかったって。話し掛けたことすらなかったんだから当たり前だ、と今まで思ってたのは何だったんだろうか。あ、いや、その前にちょっと待て。
 ……すいません、ついいつもの調子に。
「うんうん、孝一くんは文句ない。それに今言った通り、音無さんだって文句ない。だからもう解決だよね、栞が自分のことでぎゃんぎゃん言わなくても。もう言っちゃったけど」
 僕がいつもの調子になってしまったのは栞さんに釣られてしまったからだ。だけど、栞さんのそれにはやっぱり無理が見受けられる。それを分かっていて釣られてしまったのは――嬉しかったんだろう、やっぱり。
 しかし、それでも栞さんが無理をしているのには変わりがない。作った表情の裏には本音が隠れていて、その本音を表に出そうとすれば、本当の表情も出てきてしまう。
「だからお願い、今日みたいなことはもう二度と言わないで。栞にだけじゃなくて、他のみんなにも絶対に」
 これまでの「怒る」とは少し違う、「叱る」顔。それが栞さんの本心なのなら、そして誰かが誰かを叱るというのがどういう動機から発生するのかを考えれば、はいと頷くよりも前に頭を下げてしまいそうになった。
 これまでにそういう素振りがなかったから大丈夫だろうと思ってはいたけど、これではっきりした。単に怒りをぶつけられるのではなく叱られているということは、僕はまだ、先を望まれている。
「約束します。すいませんでした、本当に」

 それから暫く。と言っても時間にしてみれば五分程度なんだろうけど、僕にとっては暫く経ったという表現が一番しっくりくる時間が過ぎた。話が終わった栞さんはしかしこの場を動こうとせず、それでもやっぱりまだ怒りが収まったわけではないので、この五分間、会話どころかお互いに何一つ言葉を発していないのです。
 気まずいと言えば、そりゃあ気まずい。だけど、この場を出ていかれたりしていたら、それこそもっと気まずかっただろう。栞さんが目の前で「何も喋らない」という行動を取っているからこそ僕はこうしてそれに倣えるわけで、もしこの場にいないとなったら重ねて謝りにいくかどうかでかなり悩むのは、想像に難くない。
 もちろん栞さん本人としてはわざわざそこまで考えてここに留まっているというわけではなくて、単に移動する必要がないと判断しただけなのかもしれないけど。
「――でも、あの……」
 噂をすれば何とやら、というのは話題にしていた人物が丁度現れた時に使う表現だ。この場合は人物を対象にしていないのでちょっと違うけど、それでも噂をすれば何とやら、栞さんが話し始める。
 ただ、さっきまでと比べて随分と勢いがないと言うか、どこかしょんぼりした様子。それにもう一つ、最後に言葉を発してから約五分が経過しているのに「でも」というのは――いやまあ、話題が何なのかくらいはさすがに分かりますけど。
「孝一くんは幽霊じゃないんだし、初めから何でも分かってて欲しいっていうのは、やっぱり我侭でしかないよね。何かあったらさっきみたいに怒るんじゃなくて、まずは伝えるところからだよね。栞は幽霊なんだし」
 時間が経って落ち着いたということなんだろうか、さっきまでとはうって変わって自分を責めだす栞さん。
「ごめんなさい孝一くん。栞も良くなかったよ、さっきのは」
 そしてついには頭まで下げられる。でも、そんなことをされてしまったら――。
「あの、頭上げてください。じゃないとその」
 そこで言葉に詰まる。先を続けるならば「栞さんより低い位置にいるべき僕が居場所に困る」ということになるんだけど、それこそ今の僕がずけずけと口にできる言葉ではないようにも思う。今のところ、居場所に困るのが当たり前なんだから。
「ほら、あれって僕がそうしてくださいって言ったようなもんでしたし。それにその、変な話ですけど、怒られて良かったと思ってますし。だから……えー、だから、もう少しだけ悪者でいさせてください」
 言ってることは結局、さっき口にはしなかったことと同じ。しかも無理に遠回しに言おうとした結果、自分でも意味の分からない表現になってしまう。これじゃあ、何か変に気取ってるだけみたいじゃないのさ。もうちょっと何かこう、まともな言い草はないものだろうか?
「ああいえ、僕だって栞さん相手のこういう時に大きな声出したことはありますし。栞さんが謝るんだったら僕だって謝らなくちゃ――いや、ちょっと待ってください間違えました」
 謝らなくちゃならなくなるも何も元から謝る側じゃないか何を言ってるんだ僕は。
「ふ、ふざけてるわけじゃないんです。でもその、こっちが謝られるなんて全く予想外で、どう対応していいのか――違う違うこれも違いますごめんなさい」
 対応に困ってるのをそのまま伝えてどうする! それを何とかするために悩んでるのに!
「だからあの――! ……あの、本当にごめんなさい。もう黙っときます……」
 これ以上何を言っても事態が好転することはなさそうなので、諦めることにした。それだってもう手遅れなんだろうけど。
 あまりの失態に自然と顔が下を向き、視界に映るのはのはテーブルの天板のみ。きっと今、僕の顔はとんでもなく情けないことになっているんだろう。――しかしその時、下がった頭に何かが優しく触れてきた。ぽん、と。
「何となくだけど、言いたいことは分かったよ。今謝ったのは取り消すね」
 僅かばかり頭の角度を上げてみると、そこにはテーブルに身を乗り出して手を伸ばしている栞さん。困っているような、でも半分笑っているような、不思議な表情だった。
「だからその代わり、しっかり覚えててね。栞がどれだけ怒って、何を言ったか」
 自分から喋るのはてんで駄目だったけど、栞さんの言葉に反応するくらいのことはできる。しかもそれは自分の言い出したことなんだから、尚更だ。
「はい」
 そしてここで、改めて認識したことがある。もちろん今までだって知ってはいたんだけど、知っていただけだったと言うか、それをただの数字としか捉えていなかったと言うか。
 ――やっぱり年上なんだなあ、栞さんって。
 頭から離れる手を見送りつつ、僕はこんな状況で、重ねてこんな状況で、重ねに重ねてこんな状況で、栞さんに惚れ直していた。
 年を取らないから――許されるのならその頭にまだ、と付け加えたいところだけど――見た目に年上とは感じさせず、付き合っている中でもそうと思わせることは飲酒以外には殆どない。それでも、やっぱり年上なのだ。こういうことにしっかりと筋を通してくれる、大人の女性なのだ。
「……本当はね、栞も怒って良かったって思ってるの。途中にも言ったけど、孝一くんのことが好きだから余計に怒っちゃって――。少し、不安だった。もしここで怒れなかったらどうしようって。怒れるほど好きじゃなくなってたらどうしようって」
「栞さん……」
「でも、今はまだ怒ってるからね。大好きだけど怒ってるからね。だからもう暫く、孝一くんとは口を利きません」
 大好きだと言われたのなら大好きですと返したい。だけどそれは、ぷいと横を向いた栞さんを見る限り、もう暫く許されないようだった。例えこんな会話をしていたって、例えその口調が柔らかくなっていたって、栞さんが怒っているのには変わりがないからだ。同様に、僕がそうなるだけのことをしでかしてしまったということだって変わらない。だから僕も、甘んじてそれを受け入れよう。
 正面から「僕も大好きです」と返事ができるようになるまで、こうしていよう。
 その大好きな人に言われたことを、心の中で何度も何度も繰り返しながら。
「だからこれは独り言。思い付いたことを勝手に言うだけだからね?」
 ん?
「怒りはしたけど、初めから自分の事情を全部理解してもらうなんていうのはやっぱり無理だと思う。だから――これは恋人っていう関係だけの話じゃなくて、誰かと付き合っていて自覚のないまま相手を傷付けてるってことは、結構あるのかもしれない。でも、でもね」
 そっぽを向いたまま話し続ける栞さん。だけどそれが僕に向けて言われているのは、この状況を見れば僕じゃなくても分かるだろう。正直言ってこういうの、漫画とかの中だけであることだと思ってたけど。……もっと言うとこれ、ベタな展開ってやつですよね?
 そもそも栞さん、「でもね」って言っちゃったらそれ、こっちへ呼び掛けてるのと同じじゃないですか?
「普通だったらそういうことは避けたいと思うはずなんだけど、孝一くんとは今みたいに――できるだけ怒ったりはしたくないけど、そういう話をしたいと思ってる。もしかしたら喧嘩になっちゃうかもしれないし、それは不安だけど、栞の傷跡のことみたいな大きいことも、そういう深くて細かいことも、話せる機会があるなら沢山話したい。怖いけど、それ以上に知りたい。孝一くんのこと、もっと」
 僕へ言っているのは明らかだし、話の内容だってついつい身を乗り出して聞き入ってしまいそうなものだ。だから僕は、僕もですと言いたくてたまらない。僕だって、もっと栞さんのことを知りたい。まだまだ全然知っていないのは、今回の件で充分に思い知ったから。
 でもこれは栞さんの独り言だ。だから僕が返事をするわけにはいかない。
「誰かを思い出にするのは全然悪いことじゃないけど、でもやっぱり、今の自分を知ってくれる人がいるのは嬉しい。だからその人のことを知りたいってだけじゃなくて、自分のことをもっと知って欲しい。――それで、結局はそれが好きな人と付き合うってことなのかなって、栞は思う。もちろん栞がそう思うってだけの話なんだけどね。以上、独り言終わり」
「…………」
「雰囲気的になんとなく言っておくけど、まだ怒ってるからね?」
 何も言ってませんよまだ。いや、確かに何かを言いそうになってましたけど。
 でも実際のところ、この場で僕が何を言う必要もないだろう。栞さんが自分のことをもっと知って欲しいと、そして僕のことをもっと知りたいと言い、僕はそれに同意した。だから、今はその「知る時間」なのだ。怒っている栞さんを見て、記憶に留める時間。今すべきはただそれだけなんだから、僕が口を開く必要はない。それどころか、下手に口を開いて状況を変えるようなことがあってはならないのだ。
 記憶に留めると言えば、栞さんはこうも言った。誰かを思い出にするのは悪いことではないけど、それでも今の自分を知ってくれる人がいるのは嬉しい、と。そこで栞さんが言いたかったのはその後半部分なのであって、ならば前半部分は僕が言ったことを受けての念押し、ということになるのだろう。だけど、そういう区別をせずに全文を一纏めに考えてみたら?
 そうして見えてくるのは、誰かの現在を知ることと誰かを思い出にするというのはそれだけの差しかない、ということ。さっきまでの僕は誰かを思い出にすることは良くないことだとしていたけど、それが取り払われて残るのは――。
 つまりその差というのは、知っているのが今なのか過去なのかということだけだ。「音無さんを好きだったこと」も、「栞さんを好きなこと」も、どちらも僕の記憶の一部でしかなく、そこに優劣も善悪もありはしないのだ。もっと言ってしまうと、どちらも優でどちらも善なのだ。
 もちろんそれらに付随してくる感情の大きさは違ってくる。想いの強さで言うなら、今の僕の中では「栞さんを好きなこと」のほうが圧倒的に強い。だけど、それは優劣や善悪のものさしにはならない。例えるならばある食材同士――例えに例えを重ねて、肉と野菜に優劣や善悪を与えようとしているのと同じことだからだ。
 好みの問題を無視すれば、同じ食材とは言えまるで用途が違うこの二つを比べること自体が馬鹿げているのは、誰にでも分かるだろう。その好みの問題だってさっき挙げた「想いの強さ」に当たるというだけでしかなく、そしてそれさえ除いてしまえば、今か昔かという差があるだけでどちらも僕の記憶なのだ。
 しかもただの記憶ではなく、大切な記憶。大切だから、思い出にするのは悪いことなんじゃないかと思ってしまっていた時でも忘れてしまおうとは思わなかった。覚えているまま現在の僕から切り捨てて、他人事のように扱おうとしていた。そしてその扱い方に違和感を覚えた結果、栞さんに向かってとんでもないことを言ってしまった。でもその後は――。
「……なんでそこで笑い始めてるの? 怒ってるんだよ? 今」


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