「……そ、それでさ」
「ん?」
「行くのは全く構わないんだけど、その、こう、何するの? というか」
「…………」
いや、そういうつもりは全くなかったんだけど。今この場で抱き締めたいとか思ったばっかではあるにせよ。という話なんだろう、今のは。
とはいえ、でもまあそういう話にもなるんだろうと思う。なまじ由依の家に行くのに「料理の練習の付き合い」という明確な目的があったこともあって、じゃあ俺が自分の家に由依を呼ぶのは何のためなんだっていう。あと、こういう由依だからこそ意識しないわけにはいかないというか。
「逆に失礼な話かもしれねえけど、なんも考えてなかったぞ俺」
「あ、いや、失礼なんてことは全くないわよ? いちいちあれしようこれしようなんて決めないわよね、彼氏の家に行く時に。あはは」
予定も何もないけどただ時間が空いたからなんとなくお邪魔する。確かに普通はそんな感じなんだろう、俺達が普通でないだけで。
だからといって、今更過度に普通を求めたりはしないけど。
「まあ何をどうするかってのは常識とか良識とかの範囲内ってことで」
それは要するに「ただ何となく適当に」という意味ではあるんだけど、すると由依は、それまで驚きやら何やらで見開いていた目を細めてきた。
「『そういうこと』だって、常識の範囲内ではあるんじゃない? あたし達が、というかあたしが、及び腰になってるだけで」
「それが常識の範囲内だとしても、及び腰になってるのを無理矢理ってのは良識の範囲外だろ」
睨むような目をしてはいるけど、機嫌を損ねたとか、そういうことではない。「そういうこと」に及び腰な由依だからこそ、それに関わるような話を、しかも照れ交じりでなく真面目に語る時は、必要以上に力が籠ってしまうのだ。
ということはつまり由依は今真剣なわけで、だから俺からも、真剣な返事をすることにした。喧嘩に見えるんだろうなあ、傍目からは。
「じゃあ、優治の言う良識って具体的にどんな?」
「こういう話に関してだと――そうだなあ、具体的ってほど具体的じゃねえけど、『やりてえからやるってだけじゃねえだろ』っていう」
「……だけじゃないなら他に何があるのさ。っていうのはさすがに、自分で考えるけどさ」
自分で考える。そんなふうに言ってみせる時点で、由依もある程度同じような考えを持ってはいるんだろう。それこそもう、考えるまでもなく。
勢いだけで何でもかんでも済ませてしまうには、俺達はここまでの道程に時間を掛け過ぎていた。時間が掛かればそれだけ考えてしまうのだ。前のような失敗をしないためにはどうすれば、というのはもちろん、今みたいな話についてもあれやこれやと。
どうすればより良い思い出を作ることが出来るだろうか。なんてのはさすがに、綺麗な言い方に過ぎるのかもしれないけど。
「あたし達、色々もたついてはいるけどさ」
「ん」
「それでも、あんたで良かったって思う。そういうことちゃんと考えてくれるし」
そのもたついているということを考えると、むしろ考え過ぎだと言えなくもないんだろう。でも、それでも何よりの言葉だった。本当に。
駅前のデパート。ただ買い物をするってことだけ聞かされていて行き先は聞いてなかったけど、まあこの辺で買い物って言ったらここくらいしかないよな、とも。
ここまでくると平日の昼間とはいえ結構な人通りがあるわけで、ならばさすがにさっきまでのような話はし難い――いや、俺としてはそれくらい別になんでもないんだけど、そこは俺個人の感性より常識非常識を優先させるべきだろうってことで。
「ねえ」
「持ち合わせがない」と言った俺に「適当に歩き回るだけで」と返した通り、特に何を買う素振りを見せるでもなかった由依が、ここで初めてその買う素振りというやつを見せてきた。
が、しかしここは家具屋で、買う素振りを見せた対象はベッド。大して広くもない店でよくこんな場所取るような展示品を、というのはともかく、持ち合わせの有る無しに関わらずいきなり買おうとされると困る代物ではあった。
「まさかお前それ買うってんじゃ」
「なわけないでしょ」
即座に否定されてほっとするものの、しかしだったらこのベッドがどうしたんだろうか? なんでもないということはないだろう、結構興味ありげに覗き込んではいることだし。
「このベッドそれ自体がどうこうってんじゃなくてね。あー、その、思い出しちゃって。昨日のこと」
「昨日?」
「まあ日付変わってたかもだけどね」
昨日ということはそりゃあやっぱり一泊旅行のことを言っているんだろうけど、日付が変わってたかも、ということは零時前後、つまりは夜中の話で。
「思い出すようなことしてねえだろ俺ら」
何の話をしているのかは言うまでもないとして。
むしろちょっとくらいなんかあれよ、というのはその深夜に限らずいろんな場面で思ったことではあったけど、ともあれその時もやっぱり俺達はそんなふうなのだった。いっそ、同じ部屋に二人だけで寝泊まりしたってことだけでも大事件として扱ってもいいくらいなのかもしれない。
「さらっと言ってくれるわねえ」
「そりゃお前、なんもなかったんじゃさらっと言うしか」
「それが嬉しかったって話なんだけど」
「…………」
あー、失敗したか俺。
というわけで俺は黙り込むわけだけど、すると由依、それを確認してかにっこり微笑んでからこんなふうに言ってくる。
「あたしにそのつもりがなかったにしても、誘ってるようなもんでしょっていうことはちらほらあったわけじゃない? 露天風呂とか、その準備とか」
周囲に人気がないぐらいのことは由依だって確認してから話してはいるんだろうけど、それにしたって場所が場所なので、さすがにそのまんまな言い方は控えたようだった。露天かつ混浴だったこととか、その準備っていうのが俺に裸見せることだったってこととか。
で、控えるところを控えたにせよ由依にしてはえらく突っ込んだこと言ってきたな、というのはしかし、ここまできていちいち突っ込んだりはしないでおく。いつこうなってもおかしくないところまでは来ていた、ということではあるんだろうし。
というわけで、
「それは他の奴も――」
「他のみんなも一緒だったにしてもね」
被せられてしまった。しかもそれはたまたまではなく、明らかに意図して俺の発言を潰しに掛かっていた。ということはつまり、これは、茶化していいような話ではないのだろう。
いや、もちろん初めから茶化すような話でないことは分かっているしそのつもりもなかったけど、由依の側からその意思表示をされるというのはやっぱり、俺が自分でそう思っているだけとは色々と違ってくるわけで。
「分かった、由依」
「ん?」
「俺んち着いてからにしよう、この話。変に隠した言い方とか、そういうのないほうがいいだろやっぱ」
「――そうね。ごめん、こんな所で急にこんな話」
「いや、責めてるわけじゃねえけど」
むしろやっとそういう話してくれて嬉しかったけど。とまでは、さすがに俺でも言えなかったけど。まあそれも含めて俺の家に着いてからってことで。
「それにしても兄ちゃんたちだけどよ」
場所を変えてから話す、ということにしたからといってこの場で何も話さないというわけではもちろんなく――というか雰囲気的にここで黙り込むのは様々な意味でキツい気がしたのでそうせざるを得なかったというか――俺は、多少無理矢理にでも別の話を捻じ込むことにした。
そんな使い方をするっていうのは兄ちゃん達に失礼だったような気もするけど、気にしていられる余裕もなかったことだし。
「あんまりそういうとこ見せねえけど、やっぱ普通と比べて大変だったりすると思うんだよな。いくら兄ちゃんが見える奴だとしても」
幽霊、という単語を口にするのはさっきまでの話と同じくなんだか気が引けたので、そんな言い方にしておいた。伝わらないということはないだろう、由依だって「見える奴」だったりもする以上は。
「ああ、まあ、そうなんでしょうねやっぱり」
さすがにいきなりな話題だったので反応はやや曖昧だったけど、由依も同意してはくれた。由依は由依で「見えないのに霊感だけがある」という問題を抱えていた時期もあったので、それもあってのことではあるんだろう。
「それでも今度式まで挙げるっつうんだから、じゃあ俺らなんかもっと――いや、だからって式ってのは気が早過ぎるけど、あっちに比べりゃ色々楽なんだろうなって」
「その割に結構躓いちゃってるけどね、あたしら」
「俺らの要領が悪いってのは今更否定しようもねえだろ」
「あはは、それは確かにそうなんだけどね」
そこがとっくに共通認識になっているというのは喜べばいいのか悲しめばいいのか微妙なところだけど、同じ共通認識にしたって笑って話せるようになったのは大きいと思う。というのは単に開き直っただけじゃなくて、つくべき折り合いがついたというか何と言うか。あと、やっぱり由依が笑ったとこ見られるっていうのも俺にとっては大きいし。
「だからその俺らの要領が悪いっていうのはもうどうしようもねえとして、それ以外のことについてはもっと気楽に構えていいんじゃねえかなって、そういう話。彼氏だとか彼女だとか、だからああするだとかこうするだとか」
「まあ、そうよね。好きな人と一緒に居て逆に疲れるとか、すっごい馬鹿馬鹿しいものね考えてみたら」
どうして俺達がそうなってしまったかというのは、一度関係が駄目になったことがその最大の要因なんだろう。とはいえそれが全てというわけじゃなくて、やっぱり俺と由依の元からの性格ということだってあるといえばあるんだと思う。
ということなら、今ここでこういう結論が出せたというだけでも、一度駄目になったという経験は無駄なものではなかったということになるんじゃないだろうか。おかげでこうして二つ同時に挽回できたわけだし。
というようなことを考えていたところ、すると由依はぐっと握り拳を引きながらこんなことを言うのだった。
「よし、膝枕くらいは平然としてあげられるようになろう、あたし」
ううむ、志が高いのか低いのか。そりゃああん時真っ赤だったけど。
そうして話が一段落する頃には家具屋をとっくに出ていたりもするわけで、ならばこれまでがそうだったのと同じくまた特に当てもなく適当に歩き回っているわけだけど、
「それにしてもアレね」
「どれだよ」
「あんたの家に着いてからあの話しようって、そうやって『やること』が決まっちゃうとここで無駄にぶらぶらしてる時間が勿体無くなってくるっていうか」
ああ、なるほど。
「つまり早く俺んち行こうって?」
「せ、急かすとかがっつくとか、そういうんじゃないんだけどさ」
そこはそういう反応じゃなくてもいいだろうに、いつものように照れてみせる由依なのだった。まあその「やること」、つまりは「あの話」の内容を考えれば、急かしたりがっついたりというのはそういうことになるんだろうけど。
「まあ確かに、やること決まってるんなら早くそっちに移れってことにもなるよな。じゃあどうするか、もうこのまま行くか? 俺んち」
別に急かされてもがっつかれても構わないどころか嬉しいけど、とまでは言わなかったけど、せめて背中を押す程度のことはしておくことにした。元々、由依にだけ結論を迫るような話でもなかったわけだし。
「うん。あんたがいいならそうしたい」
思うことがあればすぐ顔に出るのが由依だし、ということで、本人としては特に何を思うでもなく状況に合わせた返事をしただけだったんだろう。でもその割にその返事は、浮付きがちだった俺の気持ちを上手い具合にくすぐってくるのだった。
というわけで。
「いいの?」
「むしろ俺が訊きてえけどなそれ。こういうの何買ったらいいのかよく分かんねえし」
家に帰る前にちょっとだけ、ということで俺は、由依にプレゼントを買ってやることにした。完全にその場の思いつき、しかも手持ちの金は大してないということで、買ったものは安物の中でも更に安物なブローチだったけど。
「よかったか? それで」
変に大きさだけ結構なものだったりするのが逆に安物感を醸し出しているそのブローチ。それを恐れ多そうに両手で作った皿の上に鎮座させている由依は俺のそんな質問に、ブローチから目を離さないままこう答えた。
「よかったも何もあんた、軽く爆発しそうよあたし今」
「どんなだよ」
「喜んでんのよ」
「それは分かるよさすがに」
思い付きで買った安物でそこまで喜ばれるとむしろ申し訳ない、というくらい喜んでもらえたようだった。というわけで申し訳なくはあるんだけど、もちろんのこと嬉しくもある。二人揃って爆発してしまうかもしれない、というのはかなり馬鹿っぽい想像ではあるんだろうけど。
「どうしよう、ちゃんと付けたほうがいいのかしら。それとも無くしたり壊したりしないように家で厳重に保管したりしたほうがいいのかしらこういうの」
「贈った側としては付けてくれた方がいいかなあ。大事にされ過ぎるっていうのも何かこう、喜ばれる以上に困らせてるみたいで変な感じだし」
「分かった、じゃあ付ける」
言って、本当にその場で付け始める由依。しまった売り場から離れてからこの話に持っていけばよかった、とそう思った時には時既に遅く、さっき代金を払ったカウンターのおばちゃんがこっちを見てにやにやしていたのだった。
が、嬉しさのあまり、ということになるのだろうか、由依はそれにまるで気付かない。となれば俺も元々そういうことはあまり気にしない以上、おばちゃんは意識からほっぽり出してしまって問題ないだろう。
「どう?」
「似合うよ」
…………。
「って言ったとしても俺がそういうの疎いって知ってるだろお前」
「まあね」
つまり、似合ってるかどうかなんて俺には全く分からないわけで。それにそもそもブローチってのは服に着けるものなわけで、じゃあその「似合う」っていうのが由依自身に対してなのか、それともいま由依が着ている服に対してなのかすら、俺にはよく分からないんだけど。
いや、そりゃあ自分で選んで買ったものではある以上、ちょっと考慮するぐらいのことはもちろんしているわけだけど。
「でもやっぱ、喜んで付けてもらえたってのはこう、嬉しいもんだしな。で、多分それのせいなんだろうけど……やっぱ似合って見えるかな」
「えっへっへー」
なんせ自信というものが皆無なので自分では苦しい返事だと思っていたけど、どうやら由依は納得してくれたようだった。というか何だよその笑い方。
「でもでも、どうなのかしらね」
変なところを二度繰り返して由依は言う。
「これだけ嬉しいと、こっちからも何かちょっとくらいお返しとかしたかったりもするけど」
軽く爆発しそう、とまで言われているので、その「これだけ」の程度については分かっているつもりだし、ならそんなふうに考えるというのも分からないではない。でも、
「普通は――」
そういうこと考えねえと思うけどな、と言おうとして言えなかった。これまでどれだけの「普通」を無視してきたかを考えると、それは言うだけ無駄のような気がしたからだ。
「いや、したいようにしてくれたらいいかな」
「何か言おうとしたわよね? 今」
「気にすんな」
「しないけどね。言おうとしたことも、なんで言わなかったのかも、なんとなくだけど分かるし」
由依だって立場は俺と同じなんだから同じ発想に辿り着いても不思議ではないだろう――と、そういうことではあるんだろうけど、でも、それだけじゃないと思いたい気持ちがあった。しかもただあったというだけじゃなくて、物凄く強く。
心が通じ合ってる、なんて、さすがに気取った台詞過ぎて俺でも口には出せないけど。
「じゃあどうしちゃおうかしらね。あんまり時間取りたくないし、ならご飯奢るとかも駄目だろうし」
金で返してくれなくても、とは言いたかったけどそれも別の、かつ特定の何かを強要しているようで言い難くはあった。うーん、ここに来て俺の方が口籠りがちになるなんて。
「……それより高くねえか? これ」
「誤差よ誤差。自分で言うのもなんだけど安物よ? それだって」
さっき俺が買った、今は胸元に付けられている由依のブローチを指しながら言うと、あっさりそんなふうに返されてしまった。由依を追うことなくその場で待っていたのでこれの詳細な値段は分からないんだけど、この分だとどうやら訊いても教えてもらえそうにはないだろう。
となればここは気にしないことにしておいて、ブローチを買った店から動かないまま、俺は由依からブレスレットをプレゼントされたのだった。ブレスレットの中でもなんかこう、引っ張ったら簡単に引き千切れそうな細いチェーン的な感じのを。
「同じの買ってお揃いにしようかとも思ったんだけど、男に似合うもんじゃないしなあってね」
「まあ確かにちょっとキツいかもな、俺が付けるってのは」
お前には似合ってるけど。とは、カウンターのおばちゃんの視線を気にして言わなかったけど。
「で、こっちはどうなんだ? 似合ってるのか俺?」
ブローチの時と同様、これについても俺の疎さは存分に発揮されてしまっていた。少しは喜びの方を前に出すべきだったか、なんて思ってみてもそれは後の祭りだったわけだけど、由依に不満そうな様子はなかったので、内心胸を撫で下ろしていたりも。
で、不満そうな様子がない由依は、するとここでなんとも間の抜けたような表情に。
「言われて初めて気付いたけど、選んで買った人間にそれを訊くって愚問もいいところよね。似合うと思ったから買ったんだし」
「まあそれはそうなんだろうけど」
その割には結構照れたりしたんだけどな、俺。似合うって言った時。
「というわけで、しっかり似合ってるわよ。なんかちゃらちゃらした感じとか」
「褒め言葉に聞こえねえんだけどどうしようか俺」
「外見はそういう感じでしょう、あんた。そっちを強調することで中身のほうも――えー、こう見えて実は優しい、的なところとかね?……いや、その、へへへ」
「言葉が続かなくなるくらい照れるんだったら説明しなけりゃよかったろ今」
明らかに途中からの思い付きで差し込んだ説明のせいで、最後まで言い切れないまま言葉を切ってしまう由依だった。中身の方がどうなんだって話だ。
いやまあそこまで聞いたら大体何言いたかったのかは想像が付くし、そういうところも可愛いとは思うけど。あと、全部は言えなかったにせよそういう理由でこれを選んでくれたっていうのもやっぱ嬉しいし。
「ありがとな。大事にするよ、これ。って言っちまうと、なんか簡単に壊れそうで怖いけど」
「そうなったらそうなったで、壊れるくらい使ってくれたって思うわよ。……よかった、喜んでもらえて」
それまでの明るい表情から一転、そこでふと、ほっとしたような表情をしてみせる由依。
正直、ここがデパートの中でなく既に俺の家に到着していたとしたら、今のはかなりやばかったと思う。何がどう、とまでは、頭の中だけですら言わないようにしておくけど。後に引っ張るとそれはそれでまたやばいし。
「あー、じゃあ、行こうかそろそろ」
「そうね。あはは、時間取りたくないって言ってたのにすっかり足止めちゃってた」
で。
「お、お邪魔しまあす」
随分と久しぶりに俺の家に上がることになった由依は、見ての通りというか見るまでもないというか、とにかく物凄く分かり易く緊張している様子だった。親は今いないっていうのは伝えてあるんだけどなあ。
まあこれまでの流れとか、そもそもそれ以前に由依の性格からしてもそうなるのは分かり切っていたので、今更それにどう言うってわけでもないけど。
「先に部屋上がっといていいぞ。飲み物とか持ってくから」
「あ、じゃあ鞄持ってくわよ」
「おう」
いくら久しぶりとはいえそこは勝手知ったるという奴だろうか、家に上がった瞬間の緊張っぷりとは裏腹にすたすたと階段を上っていってしまう由依なのだった。
あの頃はそれで当たり前みたいに思ってたけど、今見るとなんかいいなこういうの。と、あっちもそんなふうなことを思っていたりするんだろうか?
――ともあれ。飲み物の準備にそう時間が掛かるわけもなく、程なくして俺も由依に続いて自分の部屋へ。せっかくさっきまでデパートに居たんだからジュースくらい買っていけばよかったか、なんて思いながら麦茶を持ち込んでみたところ、
「何突っ立ってんだ?」
「いやあ、なーんにも変わってないなあって」
荷物を下ろすことすらしないまま部屋のど真ん中に直立していた由依は、その様子だけでなく俺に対する口調まですっとぼけたようなものなのだった。
「そりゃまあ、飾りっけとか全然ねえからな俺」
それこそ、さっき買ってくれたブレスレットくらいだろうか。ちょっと前までは髪を染めたりもしてたけど、それももう止めたわけだし。
と、ブレスレットを買ってくれたのと染めるのを止めさせたのが同じ奴だと今になって気付いて軽く笑いそうになっていたところ、
「なんかほっとした」
由依の方こそふんわりと笑ってみせてきたのだった。
「――それって俺、喜べばいいのかね」
ぽかんと開きそうになった口をなんとか噛み締め、そしてその間を紛らわせるように返事まで。口を噛み締めるところまでで済ませておけばもう少し見てられたのにな、なんて。
「お好きにどうぞ。少なくともあたしは、あんたに変わって欲しいとか思ってないけどね」
ということはつまり、さっきの「ほっとした」というのもそういうことなんだろう。
そんな話には俺の方こそほっとさせられるのだった。上手くいかなかった時の俺ですら、こいつは肯定してくれていたんだなと。
「で」
「ん?」
「あんたまで一緒に突っ立っちゃってるけど」
「ああ」
言われてみればその通りで、俺も何突っ立ってんだと言ったその場から全く動けていないのだった。コップ二つとお茶タンクを乗せたお盆もそのままだし。
「鞄ってこのへんだっけ?」
「そうそう」
机の横にもたれかからせるようにして。まあ見ての通りはっきりそこと決まった場所ではないわけだけど、俺はいつもそこに鞄を置いていた。というわけで由依はそこへ俺の鞄を置き、ついでに自分の鞄もその俺の鞄へ更にもたれかからせるようにして。
何かを暗示しているような。とは、言うまい。
「よく覚えてたな」
「ポイント高い?」
「まあまあ」
ここまで来れば逆に緊張もしなくなるということなのだろうか、由依は照れるどころかにやつきさえしながらそんなことを言ってくる。だからといって俺の方はそう変わらないわけだけど、でもまあ、「まあまあ」どころではなかったりもしないではない。
と、それはともかく俺は俺でテーブルにつき、盆の上の麦茶セットでコップ一杯の麦茶を振舞い始めるわけだけど、すると由依はテーブルにつこうとしたところで何やらまごついているようだった。
「何やってんだ?」
「いやあの、どういう配置で座ったらいいのかなって」
「…………」
俺の分と由依の分。茶を入れたコップはそれぞれテーブルの端と端を結ぶ配置で置いてしまっているわけで、これに倣って座るのであればそりゃあまあテーブルを挟んで向かい合うような形になるわけだ。
けど、由依はそれにそのまま倣おうとしない。まさかコップが目に入っていないというわけでもないだろうし、ということはつまり、遠回しに「別の配置がいい」ということなのだろう。
俺は何も言わずに由依の分のコップを引き寄せ、俺のコップの隣へと並べてみせた。
「どうも気が利きませんで」
「いえ、こっちこそ気を利かせちゃってどうも」
というわけで、由依は俺の隣に並んで座ってくるのだった。そうだよな、もういいんだよなこんな感じで。
「ん?」
「行くのは全く構わないんだけど、その、こう、何するの? というか」
「…………」
いや、そういうつもりは全くなかったんだけど。今この場で抱き締めたいとか思ったばっかではあるにせよ。という話なんだろう、今のは。
とはいえ、でもまあそういう話にもなるんだろうと思う。なまじ由依の家に行くのに「料理の練習の付き合い」という明確な目的があったこともあって、じゃあ俺が自分の家に由依を呼ぶのは何のためなんだっていう。あと、こういう由依だからこそ意識しないわけにはいかないというか。
「逆に失礼な話かもしれねえけど、なんも考えてなかったぞ俺」
「あ、いや、失礼なんてことは全くないわよ? いちいちあれしようこれしようなんて決めないわよね、彼氏の家に行く時に。あはは」
予定も何もないけどただ時間が空いたからなんとなくお邪魔する。確かに普通はそんな感じなんだろう、俺達が普通でないだけで。
だからといって、今更過度に普通を求めたりはしないけど。
「まあ何をどうするかってのは常識とか良識とかの範囲内ってことで」
それは要するに「ただ何となく適当に」という意味ではあるんだけど、すると由依は、それまで驚きやら何やらで見開いていた目を細めてきた。
「『そういうこと』だって、常識の範囲内ではあるんじゃない? あたし達が、というかあたしが、及び腰になってるだけで」
「それが常識の範囲内だとしても、及び腰になってるのを無理矢理ってのは良識の範囲外だろ」
睨むような目をしてはいるけど、機嫌を損ねたとか、そういうことではない。「そういうこと」に及び腰な由依だからこそ、それに関わるような話を、しかも照れ交じりでなく真面目に語る時は、必要以上に力が籠ってしまうのだ。
ということはつまり由依は今真剣なわけで、だから俺からも、真剣な返事をすることにした。喧嘩に見えるんだろうなあ、傍目からは。
「じゃあ、優治の言う良識って具体的にどんな?」
「こういう話に関してだと――そうだなあ、具体的ってほど具体的じゃねえけど、『やりてえからやるってだけじゃねえだろ』っていう」
「……だけじゃないなら他に何があるのさ。っていうのはさすがに、自分で考えるけどさ」
自分で考える。そんなふうに言ってみせる時点で、由依もある程度同じような考えを持ってはいるんだろう。それこそもう、考えるまでもなく。
勢いだけで何でもかんでも済ませてしまうには、俺達はここまでの道程に時間を掛け過ぎていた。時間が掛かればそれだけ考えてしまうのだ。前のような失敗をしないためにはどうすれば、というのはもちろん、今みたいな話についてもあれやこれやと。
どうすればより良い思い出を作ることが出来るだろうか。なんてのはさすがに、綺麗な言い方に過ぎるのかもしれないけど。
「あたし達、色々もたついてはいるけどさ」
「ん」
「それでも、あんたで良かったって思う。そういうことちゃんと考えてくれるし」
そのもたついているということを考えると、むしろ考え過ぎだと言えなくもないんだろう。でも、それでも何よりの言葉だった。本当に。
駅前のデパート。ただ買い物をするってことだけ聞かされていて行き先は聞いてなかったけど、まあこの辺で買い物って言ったらここくらいしかないよな、とも。
ここまでくると平日の昼間とはいえ結構な人通りがあるわけで、ならばさすがにさっきまでのような話はし難い――いや、俺としてはそれくらい別になんでもないんだけど、そこは俺個人の感性より常識非常識を優先させるべきだろうってことで。
「ねえ」
「持ち合わせがない」と言った俺に「適当に歩き回るだけで」と返した通り、特に何を買う素振りを見せるでもなかった由依が、ここで初めてその買う素振りというやつを見せてきた。
が、しかしここは家具屋で、買う素振りを見せた対象はベッド。大して広くもない店でよくこんな場所取るような展示品を、というのはともかく、持ち合わせの有る無しに関わらずいきなり買おうとされると困る代物ではあった。
「まさかお前それ買うってんじゃ」
「なわけないでしょ」
即座に否定されてほっとするものの、しかしだったらこのベッドがどうしたんだろうか? なんでもないということはないだろう、結構興味ありげに覗き込んではいることだし。
「このベッドそれ自体がどうこうってんじゃなくてね。あー、その、思い出しちゃって。昨日のこと」
「昨日?」
「まあ日付変わってたかもだけどね」
昨日ということはそりゃあやっぱり一泊旅行のことを言っているんだろうけど、日付が変わってたかも、ということは零時前後、つまりは夜中の話で。
「思い出すようなことしてねえだろ俺ら」
何の話をしているのかは言うまでもないとして。
むしろちょっとくらいなんかあれよ、というのはその深夜に限らずいろんな場面で思ったことではあったけど、ともあれその時もやっぱり俺達はそんなふうなのだった。いっそ、同じ部屋に二人だけで寝泊まりしたってことだけでも大事件として扱ってもいいくらいなのかもしれない。
「さらっと言ってくれるわねえ」
「そりゃお前、なんもなかったんじゃさらっと言うしか」
「それが嬉しかったって話なんだけど」
「…………」
あー、失敗したか俺。
というわけで俺は黙り込むわけだけど、すると由依、それを確認してかにっこり微笑んでからこんなふうに言ってくる。
「あたしにそのつもりがなかったにしても、誘ってるようなもんでしょっていうことはちらほらあったわけじゃない? 露天風呂とか、その準備とか」
周囲に人気がないぐらいのことは由依だって確認してから話してはいるんだろうけど、それにしたって場所が場所なので、さすがにそのまんまな言い方は控えたようだった。露天かつ混浴だったこととか、その準備っていうのが俺に裸見せることだったってこととか。
で、控えるところを控えたにせよ由依にしてはえらく突っ込んだこと言ってきたな、というのはしかし、ここまできていちいち突っ込んだりはしないでおく。いつこうなってもおかしくないところまでは来ていた、ということではあるんだろうし。
というわけで、
「それは他の奴も――」
「他のみんなも一緒だったにしてもね」
被せられてしまった。しかもそれはたまたまではなく、明らかに意図して俺の発言を潰しに掛かっていた。ということはつまり、これは、茶化していいような話ではないのだろう。
いや、もちろん初めから茶化すような話でないことは分かっているしそのつもりもなかったけど、由依の側からその意思表示をされるというのはやっぱり、俺が自分でそう思っているだけとは色々と違ってくるわけで。
「分かった、由依」
「ん?」
「俺んち着いてからにしよう、この話。変に隠した言い方とか、そういうのないほうがいいだろやっぱ」
「――そうね。ごめん、こんな所で急にこんな話」
「いや、責めてるわけじゃねえけど」
むしろやっとそういう話してくれて嬉しかったけど。とまでは、さすがに俺でも言えなかったけど。まあそれも含めて俺の家に着いてからってことで。
「それにしても兄ちゃんたちだけどよ」
場所を変えてから話す、ということにしたからといってこの場で何も話さないというわけではもちろんなく――というか雰囲気的にここで黙り込むのは様々な意味でキツい気がしたのでそうせざるを得なかったというか――俺は、多少無理矢理にでも別の話を捻じ込むことにした。
そんな使い方をするっていうのは兄ちゃん達に失礼だったような気もするけど、気にしていられる余裕もなかったことだし。
「あんまりそういうとこ見せねえけど、やっぱ普通と比べて大変だったりすると思うんだよな。いくら兄ちゃんが見える奴だとしても」
幽霊、という単語を口にするのはさっきまでの話と同じくなんだか気が引けたので、そんな言い方にしておいた。伝わらないということはないだろう、由依だって「見える奴」だったりもする以上は。
「ああ、まあ、そうなんでしょうねやっぱり」
さすがにいきなりな話題だったので反応はやや曖昧だったけど、由依も同意してはくれた。由依は由依で「見えないのに霊感だけがある」という問題を抱えていた時期もあったので、それもあってのことではあるんだろう。
「それでも今度式まで挙げるっつうんだから、じゃあ俺らなんかもっと――いや、だからって式ってのは気が早過ぎるけど、あっちに比べりゃ色々楽なんだろうなって」
「その割に結構躓いちゃってるけどね、あたしら」
「俺らの要領が悪いってのは今更否定しようもねえだろ」
「あはは、それは確かにそうなんだけどね」
そこがとっくに共通認識になっているというのは喜べばいいのか悲しめばいいのか微妙なところだけど、同じ共通認識にしたって笑って話せるようになったのは大きいと思う。というのは単に開き直っただけじゃなくて、つくべき折り合いがついたというか何と言うか。あと、やっぱり由依が笑ったとこ見られるっていうのも俺にとっては大きいし。
「だからその俺らの要領が悪いっていうのはもうどうしようもねえとして、それ以外のことについてはもっと気楽に構えていいんじゃねえかなって、そういう話。彼氏だとか彼女だとか、だからああするだとかこうするだとか」
「まあ、そうよね。好きな人と一緒に居て逆に疲れるとか、すっごい馬鹿馬鹿しいものね考えてみたら」
どうして俺達がそうなってしまったかというのは、一度関係が駄目になったことがその最大の要因なんだろう。とはいえそれが全てというわけじゃなくて、やっぱり俺と由依の元からの性格ということだってあるといえばあるんだと思う。
ということなら、今ここでこういう結論が出せたというだけでも、一度駄目になったという経験は無駄なものではなかったということになるんじゃないだろうか。おかげでこうして二つ同時に挽回できたわけだし。
というようなことを考えていたところ、すると由依はぐっと握り拳を引きながらこんなことを言うのだった。
「よし、膝枕くらいは平然としてあげられるようになろう、あたし」
ううむ、志が高いのか低いのか。そりゃああん時真っ赤だったけど。
そうして話が一段落する頃には家具屋をとっくに出ていたりもするわけで、ならばこれまでがそうだったのと同じくまた特に当てもなく適当に歩き回っているわけだけど、
「それにしてもアレね」
「どれだよ」
「あんたの家に着いてからあの話しようって、そうやって『やること』が決まっちゃうとここで無駄にぶらぶらしてる時間が勿体無くなってくるっていうか」
ああ、なるほど。
「つまり早く俺んち行こうって?」
「せ、急かすとかがっつくとか、そういうんじゃないんだけどさ」
そこはそういう反応じゃなくてもいいだろうに、いつものように照れてみせる由依なのだった。まあその「やること」、つまりは「あの話」の内容を考えれば、急かしたりがっついたりというのはそういうことになるんだろうけど。
「まあ確かに、やること決まってるんなら早くそっちに移れってことにもなるよな。じゃあどうするか、もうこのまま行くか? 俺んち」
別に急かされてもがっつかれても構わないどころか嬉しいけど、とまでは言わなかったけど、せめて背中を押す程度のことはしておくことにした。元々、由依にだけ結論を迫るような話でもなかったわけだし。
「うん。あんたがいいならそうしたい」
思うことがあればすぐ顔に出るのが由依だし、ということで、本人としては特に何を思うでもなく状況に合わせた返事をしただけだったんだろう。でもその割にその返事は、浮付きがちだった俺の気持ちを上手い具合にくすぐってくるのだった。
というわけで。
「いいの?」
「むしろ俺が訊きてえけどなそれ。こういうの何買ったらいいのかよく分かんねえし」
家に帰る前にちょっとだけ、ということで俺は、由依にプレゼントを買ってやることにした。完全にその場の思いつき、しかも手持ちの金は大してないということで、買ったものは安物の中でも更に安物なブローチだったけど。
「よかったか? それで」
変に大きさだけ結構なものだったりするのが逆に安物感を醸し出しているそのブローチ。それを恐れ多そうに両手で作った皿の上に鎮座させている由依は俺のそんな質問に、ブローチから目を離さないままこう答えた。
「よかったも何もあんた、軽く爆発しそうよあたし今」
「どんなだよ」
「喜んでんのよ」
「それは分かるよさすがに」
思い付きで買った安物でそこまで喜ばれるとむしろ申し訳ない、というくらい喜んでもらえたようだった。というわけで申し訳なくはあるんだけど、もちろんのこと嬉しくもある。二人揃って爆発してしまうかもしれない、というのはかなり馬鹿っぽい想像ではあるんだろうけど。
「どうしよう、ちゃんと付けたほうがいいのかしら。それとも無くしたり壊したりしないように家で厳重に保管したりしたほうがいいのかしらこういうの」
「贈った側としては付けてくれた方がいいかなあ。大事にされ過ぎるっていうのも何かこう、喜ばれる以上に困らせてるみたいで変な感じだし」
「分かった、じゃあ付ける」
言って、本当にその場で付け始める由依。しまった売り場から離れてからこの話に持っていけばよかった、とそう思った時には時既に遅く、さっき代金を払ったカウンターのおばちゃんがこっちを見てにやにやしていたのだった。
が、嬉しさのあまり、ということになるのだろうか、由依はそれにまるで気付かない。となれば俺も元々そういうことはあまり気にしない以上、おばちゃんは意識からほっぽり出してしまって問題ないだろう。
「どう?」
「似合うよ」
…………。
「って言ったとしても俺がそういうの疎いって知ってるだろお前」
「まあね」
つまり、似合ってるかどうかなんて俺には全く分からないわけで。それにそもそもブローチってのは服に着けるものなわけで、じゃあその「似合う」っていうのが由依自身に対してなのか、それともいま由依が着ている服に対してなのかすら、俺にはよく分からないんだけど。
いや、そりゃあ自分で選んで買ったものではある以上、ちょっと考慮するぐらいのことはもちろんしているわけだけど。
「でもやっぱ、喜んで付けてもらえたってのはこう、嬉しいもんだしな。で、多分それのせいなんだろうけど……やっぱ似合って見えるかな」
「えっへっへー」
なんせ自信というものが皆無なので自分では苦しい返事だと思っていたけど、どうやら由依は納得してくれたようだった。というか何だよその笑い方。
「でもでも、どうなのかしらね」
変なところを二度繰り返して由依は言う。
「これだけ嬉しいと、こっちからも何かちょっとくらいお返しとかしたかったりもするけど」
軽く爆発しそう、とまで言われているので、その「これだけ」の程度については分かっているつもりだし、ならそんなふうに考えるというのも分からないではない。でも、
「普通は――」
そういうこと考えねえと思うけどな、と言おうとして言えなかった。これまでどれだけの「普通」を無視してきたかを考えると、それは言うだけ無駄のような気がしたからだ。
「いや、したいようにしてくれたらいいかな」
「何か言おうとしたわよね? 今」
「気にすんな」
「しないけどね。言おうとしたことも、なんで言わなかったのかも、なんとなくだけど分かるし」
由依だって立場は俺と同じなんだから同じ発想に辿り着いても不思議ではないだろう――と、そういうことではあるんだろうけど、でも、それだけじゃないと思いたい気持ちがあった。しかもただあったというだけじゃなくて、物凄く強く。
心が通じ合ってる、なんて、さすがに気取った台詞過ぎて俺でも口には出せないけど。
「じゃあどうしちゃおうかしらね。あんまり時間取りたくないし、ならご飯奢るとかも駄目だろうし」
金で返してくれなくても、とは言いたかったけどそれも別の、かつ特定の何かを強要しているようで言い難くはあった。うーん、ここに来て俺の方が口籠りがちになるなんて。
「……それより高くねえか? これ」
「誤差よ誤差。自分で言うのもなんだけど安物よ? それだって」
さっき俺が買った、今は胸元に付けられている由依のブローチを指しながら言うと、あっさりそんなふうに返されてしまった。由依を追うことなくその場で待っていたのでこれの詳細な値段は分からないんだけど、この分だとどうやら訊いても教えてもらえそうにはないだろう。
となればここは気にしないことにしておいて、ブローチを買った店から動かないまま、俺は由依からブレスレットをプレゼントされたのだった。ブレスレットの中でもなんかこう、引っ張ったら簡単に引き千切れそうな細いチェーン的な感じのを。
「同じの買ってお揃いにしようかとも思ったんだけど、男に似合うもんじゃないしなあってね」
「まあ確かにちょっとキツいかもな、俺が付けるってのは」
お前には似合ってるけど。とは、カウンターのおばちゃんの視線を気にして言わなかったけど。
「で、こっちはどうなんだ? 似合ってるのか俺?」
ブローチの時と同様、これについても俺の疎さは存分に発揮されてしまっていた。少しは喜びの方を前に出すべきだったか、なんて思ってみてもそれは後の祭りだったわけだけど、由依に不満そうな様子はなかったので、内心胸を撫で下ろしていたりも。
で、不満そうな様子がない由依は、するとここでなんとも間の抜けたような表情に。
「言われて初めて気付いたけど、選んで買った人間にそれを訊くって愚問もいいところよね。似合うと思ったから買ったんだし」
「まあそれはそうなんだろうけど」
その割には結構照れたりしたんだけどな、俺。似合うって言った時。
「というわけで、しっかり似合ってるわよ。なんかちゃらちゃらした感じとか」
「褒め言葉に聞こえねえんだけどどうしようか俺」
「外見はそういう感じでしょう、あんた。そっちを強調することで中身のほうも――えー、こう見えて実は優しい、的なところとかね?……いや、その、へへへ」
「言葉が続かなくなるくらい照れるんだったら説明しなけりゃよかったろ今」
明らかに途中からの思い付きで差し込んだ説明のせいで、最後まで言い切れないまま言葉を切ってしまう由依だった。中身の方がどうなんだって話だ。
いやまあそこまで聞いたら大体何言いたかったのかは想像が付くし、そういうところも可愛いとは思うけど。あと、全部は言えなかったにせよそういう理由でこれを選んでくれたっていうのもやっぱ嬉しいし。
「ありがとな。大事にするよ、これ。って言っちまうと、なんか簡単に壊れそうで怖いけど」
「そうなったらそうなったで、壊れるくらい使ってくれたって思うわよ。……よかった、喜んでもらえて」
それまでの明るい表情から一転、そこでふと、ほっとしたような表情をしてみせる由依。
正直、ここがデパートの中でなく既に俺の家に到着していたとしたら、今のはかなりやばかったと思う。何がどう、とまでは、頭の中だけですら言わないようにしておくけど。後に引っ張るとそれはそれでまたやばいし。
「あー、じゃあ、行こうかそろそろ」
「そうね。あはは、時間取りたくないって言ってたのにすっかり足止めちゃってた」
で。
「お、お邪魔しまあす」
随分と久しぶりに俺の家に上がることになった由依は、見ての通りというか見るまでもないというか、とにかく物凄く分かり易く緊張している様子だった。親は今いないっていうのは伝えてあるんだけどなあ。
まあこれまでの流れとか、そもそもそれ以前に由依の性格からしてもそうなるのは分かり切っていたので、今更それにどう言うってわけでもないけど。
「先に部屋上がっといていいぞ。飲み物とか持ってくから」
「あ、じゃあ鞄持ってくわよ」
「おう」
いくら久しぶりとはいえそこは勝手知ったるという奴だろうか、家に上がった瞬間の緊張っぷりとは裏腹にすたすたと階段を上っていってしまう由依なのだった。
あの頃はそれで当たり前みたいに思ってたけど、今見るとなんかいいなこういうの。と、あっちもそんなふうなことを思っていたりするんだろうか?
――ともあれ。飲み物の準備にそう時間が掛かるわけもなく、程なくして俺も由依に続いて自分の部屋へ。せっかくさっきまでデパートに居たんだからジュースくらい買っていけばよかったか、なんて思いながら麦茶を持ち込んでみたところ、
「何突っ立ってんだ?」
「いやあ、なーんにも変わってないなあって」
荷物を下ろすことすらしないまま部屋のど真ん中に直立していた由依は、その様子だけでなく俺に対する口調まですっとぼけたようなものなのだった。
「そりゃまあ、飾りっけとか全然ねえからな俺」
それこそ、さっき買ってくれたブレスレットくらいだろうか。ちょっと前までは髪を染めたりもしてたけど、それももう止めたわけだし。
と、ブレスレットを買ってくれたのと染めるのを止めさせたのが同じ奴だと今になって気付いて軽く笑いそうになっていたところ、
「なんかほっとした」
由依の方こそふんわりと笑ってみせてきたのだった。
「――それって俺、喜べばいいのかね」
ぽかんと開きそうになった口をなんとか噛み締め、そしてその間を紛らわせるように返事まで。口を噛み締めるところまでで済ませておけばもう少し見てられたのにな、なんて。
「お好きにどうぞ。少なくともあたしは、あんたに変わって欲しいとか思ってないけどね」
ということはつまり、さっきの「ほっとした」というのもそういうことなんだろう。
そんな話には俺の方こそほっとさせられるのだった。上手くいかなかった時の俺ですら、こいつは肯定してくれていたんだなと。
「で」
「ん?」
「あんたまで一緒に突っ立っちゃってるけど」
「ああ」
言われてみればその通りで、俺も何突っ立ってんだと言ったその場から全く動けていないのだった。コップ二つとお茶タンクを乗せたお盆もそのままだし。
「鞄ってこのへんだっけ?」
「そうそう」
机の横にもたれかからせるようにして。まあ見ての通りはっきりそこと決まった場所ではないわけだけど、俺はいつもそこに鞄を置いていた。というわけで由依はそこへ俺の鞄を置き、ついでに自分の鞄もその俺の鞄へ更にもたれかからせるようにして。
何かを暗示しているような。とは、言うまい。
「よく覚えてたな」
「ポイント高い?」
「まあまあ」
ここまで来れば逆に緊張もしなくなるということなのだろうか、由依は照れるどころかにやつきさえしながらそんなことを言ってくる。だからといって俺の方はそう変わらないわけだけど、でもまあ、「まあまあ」どころではなかったりもしないではない。
と、それはともかく俺は俺でテーブルにつき、盆の上の麦茶セットでコップ一杯の麦茶を振舞い始めるわけだけど、すると由依はテーブルにつこうとしたところで何やらまごついているようだった。
「何やってんだ?」
「いやあの、どういう配置で座ったらいいのかなって」
「…………」
俺の分と由依の分。茶を入れたコップはそれぞれテーブルの端と端を結ぶ配置で置いてしまっているわけで、これに倣って座るのであればそりゃあまあテーブルを挟んで向かい合うような形になるわけだ。
けど、由依はそれにそのまま倣おうとしない。まさかコップが目に入っていないというわけでもないだろうし、ということはつまり、遠回しに「別の配置がいい」ということなのだろう。
俺は何も言わずに由依の分のコップを引き寄せ、俺のコップの隣へと並べてみせた。
「どうも気が利きませんで」
「いえ、こっちこそ気を利かせちゃってどうも」
というわけで、由依は俺の隣に並んで座ってくるのだった。そうだよな、もういいんだよなこんな感じで。
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