(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第四十二章 前夜 一

2011-07-06 20:44:45 | 新転地はお化け屋敷
 おはようございません。204号室住人、日向孝一です。今は昼です。しかももう少し細かく言うなら、夜に移行中といったところです。
 ――が、だからといってどうなったというわけでもなく。家守さんと高次さんがまだ帰ってきていないので、当たり前と言えば当たり前なのですが。
 そう。今の僕と栞さんは、家守さんと高次さんの帰りを待っているところなのです。いつもの料理教室はもちろんですが、主には明日についての話をするために。
「……眠くなってきちゃったかも」
「この状態でですか」
「あはは、この状態だからだと思うよ」
 目をこすりつつ、気だるそうな声で栞さんからそんな申告。対する僕の台詞である「この状態」というのは、その栞さんが僕の膝の上に座っていることを指しています。
 もうどれくらいこの体勢が続いているだろうか、なんて言ったりしたら嫌がっているように聞こえてしまうような気がするので、口にはしませんでした。そりゃあもう、栞さんを膝の上で抱っこするというのが僕にとってどれだけ気持ちいいことなのかって話ですよ。僕にとって、なんて自分で言うのはちょっと気恥ずかしいですけど。
「でもまあ、本格的に寝る時はちゃんと横になるけどね」
「もし僕がこのままでも構わないとか言っちゃったらどうします?」
「そうしますけどね」
 眠気を隠しきれないままのにっこり笑顔は、なんだかくすぐったいのでした。
 ……と、少し前までは割と真面目な雰囲気だったのに、それが落ち着いてしまうとこんな感じです。その真面目な時だってベタベタしていたことには違いないのですが、同じベタベタにしても趣が違うというか。
「よく考えたら、呑気にお昼寝してる場合じゃないかもだけど」
「とは言っても、起きててもやることないわけですし。だから今こうなんですから」
「そうなんだけどねー……」
 栞さんの声からますます気力が抜けています。この分だと恐らく、もう寝るか寝ないかを自分で決められる段階ではないのかもしれません。
「ああ……だめだ。ごめんこうくん、これ、寝ちゃう」
 なんて思った側から、栞さんの身体が力を無くしてずるずると沈んでいきます。
「お休みなさい。さっき言った通り、このままでいいですから」
「うん……」
 そう言って栞さんは身体を横向きにし、僕の胸に頭を預けるような格好に。そしてそれ以降は、すうすうと寝息が聞こえるばかりなのでした。
 ほぼ同じ身長の栞さんの頭が胸の位置にあるということで、脱力に任せてずるずると体を沈めきった栞さんは、もはや膝の上からは完全に降りてしまっています。座っているわけでもなければ横になっているわけでもないこの中途半端な体勢は、もしかしなくともいっそ横になったほうが楽なのでしょう。
 しかしそれでも栞さんはそのまま眠り、更に眠った後の意識が途切れた状態でも、その体勢を崩そうとはしませんでした。――こんなことで良い気分になるのはちょっと馬鹿っぽい気もしますが、なんてことを考えている時点で、まあそういうことです。
 ――明日。
 明日、僕は実家に向かいます。両親と会い、この人との交際、ひいては結婚を認めてもらうために。
 この人、つまり喜坂栞さんは、幽霊です。なので結婚といっても戸籍やらなんやらの書類上の手続きは存在せず、言ってみれば口約束での契約、ということになります。なので実質上、親に結婚を認めてもらえたその時点で、僕と栞さんの結婚は完了するということになります。
 栞さんの髪を撫でました。さらり、という感触の後、栞さんが気持ちよさそうにううんと喉を鳴らし、胸に顔を擦り付けるようにしてきました。
 ……実感がない、ということになるのでしょうか。実行前なので当然ではあるのですが、栞さんと結婚し、夫婦になるということについて、未だ図り切れない部分があることは否定できません。図るような何かがそこにあるのかどうか、ということすら。
 そうなる原因が何なのかと考えるなら、好きだとか愛してるだとか、そういう気持ちばかりが先行しているから、ということになるのでしょう。そうなってしまうのです。やっぱり、どうしても。
「本当に僕でいいんですか?」
 物凄く小さな声で呟いてみました。栞さんとの距離を考えれば聞こえないということはないでしょうが、しかし今の栞さんの状態を考えれば、それもどうかというところ。返事がないならないでいいや、とそんなつもりでの呟きでした。
「うん」
 けれど栞さんはそう返事をしてくれ、更にはこくんと頷きまで。
「こうくんには『本当』しか言ってないからね」
「……ですよね」
 要領を得ているような得ていないような言い方なのは、強い眠気のせいなのでしょう。けれど言いたいことは伝わったので、こちらからも頷き返しておきました。
「ねえ、こうくん」
 頷く僕に微笑んだ栞さんから、何やら続けて質問が。その声からは未だ眠気が抜けきっていないわけですが、寝てしまわなくていいんでしょうか?
「はい?」
「髪、もっと触って欲しいな」
 というと、僕がついさっきやったことです。その時栞さんは気持ちよさそうにしていたわけですが、しかし……。
「邪魔になりませんか? 寝ようとしてるのに」
「そう思ってたらこんなこと言わないと思うけどなあ」
 言いながら、栞さんは楽しそうでした。
 ううむ、そりゃまあそうなんでしょうけど。
「完全に寝ちゃうより、半分くらいだけ寝てうとうとしてるほうが気持ち良かったりしない? 私、そういうの結構好きなんだけど」
「あー、それは分かります」
 朝それが原因でなかなか布団から出られない、なんてことも、情けない話とはいえあるといえばありますしね。
 つまり栞さん、髪を触ることで適度に起こし続けてくれと、そういうことなんだそうで。
「じゃあまあ、そういうことで」
「えへへ、ありがとう」
 そのことを抜きにしたって髪を触り触られすること自体も気持ちいいし、と自分の意見のついでに栞さんの意見まで代弁してしまうというのは、しかしこれまでの経験からして、間違ってはいないのでしょう。喜んでもらえてますしね、いつも。
 今後暫くにおける方策が決定したということで、栞さんが改めて頭を僕の胸に預けてきました。
 が、すると。
「……本当は、寝ちゃうのが勿体無いというか不安というか、そんな感じなんだけどね」
 それまでより少しだけ気勢が削がれた声で、そう呟いてくるのでした。
「その分だけ明日が早く来ちゃうし、それにその分だけ、こうくんとこうしてられる時間が減っちゃうからさ」
 そう言われるまで一切そんなことは考えていなかった僕ですが、しかし「もし眠くなったのが栞さんじゃなくて僕だったら、やっぱり同じように考えたんだろうな」というふうにも。
 明日への不安は、まだ燻っています。どんなに話をしたところで、完全になくなることはないのでしょう。そしてその不安の分だけ、今のこの時間が貴重に思えるのでしょう。それは僕も栞さんも同じことで、だからこそ今こうして不安を訴えている栞さんに対して「助けになりたい」と、強く思いました。
「あはは、駄目だね。こんな話してたら眠気が飛んじゃうかも」
 そう言って栞さんは笑います。しかしそれは、苦し紛れという面も持ち合わせたものなのでしょう。そしてそれは、僕に預けても何の問題もない不安を自分の中だけで紛れさせようとしている、と好意的に見ることもできるものなのでしょうが――。
 僕は頼まれた通り、栞さんの髪を再度撫でました。
「これくらいしかできないのかもしれないですけど、でも」
 すると栞さんの笑顔がすうっと引いていき、愁いの窺えるそれに。
「ごめん。そうだよね、こうくん、そういう人なんだもんね」
 せめてできることくらいは全力で頑張りますから。
 口にするタイミングを失ってしまったその言葉は、しかし間違いなく、栞さんに届いたのでしょう。
「私もそろそろ、頼る時はちゃんと頼れるようにならなきゃだよね。こんなふうに心配させちゃう前に、自分から」
「大分マシになってきてはいますけどね。――いや、マシって言い方は変なのかもしれないですけど」
「ううん、それでいいよ。ずっと言われてることなんだもん、付き合い始めた頃から」
「ずっとってほど長くもないんですけどね、正直言っちゃうと」
「まあそうなんだけどね」
 そんな遣り取りがあり、二人でくすくすと笑い合います。
 そしてその最中に気付きました。栞さん、すっかり眠気がなりを潜めています。
「どうしましょうか。栞さん、なんかもう全然眠たくなさそうですけど」
「あ。……いやでも、髪触られるのはそれ抜きでも気持ちいいし……」
 想定通りの返事でした。というわけで髪を触る手の動きは続行させるわけですが、しかしそこへ、栞さんからもう一言。
「でも、いい具合に起こしててもらうっていうのはもう要らなくなっちゃったしね。だったらこれに拘ることもないのかな」
 というと? と僕が質問するその前に、口を塞がれてしまいました。
 これで今日何度目だっけ、などというカウントはするだけ野暮というものなのでしょう。

 少しして顔と顔が離れると、栞さんは悪戯っぽい笑みを浮かべているのでした。

「お邪魔します」
 と、高次さん。完全に昼から夜へ移行し、更にそれからもう暫く経った頃、ずっと待っていたお客様がようやく到着したのでした。とは言ってもまあ、いつもと同じくらいの時間なんですけどね。
 ちなみに、僕と栞さんがそんな心境だったことはあちらも察していたのでしょう。
「それと、お待たせしましたー」
 高次さんに続いて入ってきた家守さんからは、そんな挨拶を頂いたのでした。
「お待ちしておりました」
「待ちくたびれるくらいだったもんねえ、本当に」
 返した挨拶に栞さんがくすくすと笑いながらそんなことを言うのですが、しかしたとえそれが冗談のつもりで口にした言葉であっても、だからといって嘘というわけではありませんでした。家守さんと高次さんを開いたドアの向こうに視認したその瞬間、どれだけ胸が軽くなったことか。
 ならばもっと、ということで胸が重くなっていた原因についての話をしたいとは思うのですが――。
「ご飯食べ終わった後にしますか? 明日の話」
「ん? うん、構わないよ」
 尋ねてみたところ、高次さんからなんでもないふうに返されるのでした。あまりに素っ気なさ過ぎて、「なんでそんなことを?」と言わんばかりです。
 一応、「あんまり話し込むと食事が遅くなるかもしれないし」とか、「仕事から帰ってきた直後はしんどいかな」なんてことを思っての提案だったのですが、前者はともかく後者については、もしかしたら要らぬお世話だったのかもしれません。
 しかし一方、家守さんは高次さんとは違う反応を。
「んー、優しいねえ。しかも見た感じ、二人ともってことになるのかな?」
 どうやら、ものの見事に見透かされてしまったようでした。見透かされて不都合があるというわけではないんですけどね、もちろん。むしろ栞さんも関わっていることまで見透かされたことを考えると、このほうが良かったとすら。
「ん?……ああそうか、そういうことね」
 高次さんはそこで初めて気付いたようでした。が、続けてこんな一言も。
「やっぱこっちとしても気を張り過ぎてるってことかな。今の親切に気付けないなんて」
 それに対しては栞さんが「そこまで言うようなことじゃないですよ」と笑い、僕も一緒に笑うことで同意見であることを表明したのですが、しかし。
 家守さんが、少し困ったような顔をしながら言いました。
「んー。いや、割と大事なんだよねそういうことって。霊能者って新規のお客さんには信用ゼロどころかマイナスからスタートするようなもんなんだし、機嫌とか顔色を窺うっていうのは、どうしてもさ」
 言われるまでもなく理解しているつもりではある話だったので、ショックというほどではありません。しかし、胸にずしりと来るものはありました。それが他人事ではないからです、明日の場合は。
 とはいえ。そういう話は食事の後にしませんかと言い出したのは僕なわけですから、取り敢えず今はあまり考えないようにしておきましょう。
「おっと、こういう話は後にするんだっけね」
「だったな」
 家守さん高次さん、お気遣いありがとうございます。
「さてこーちゃん先生、今日の献立は?」
「誠に勝手ながら、僕の好物です」
「おー、気合いの表れってことかな?」
「そのつもりでしたけど……うーん、気合いを入れ過ぎるのも宜しくないって感じですかね、今の話からすると」
「いやいや、そりゃアタシらの話だから気にしないでいいよ。キシシ、むしろ気合い全開っぷりこそがこーちゃんのいいところなんだろうし。ねえしぃちゃん?」
「ですよねー」
 あれ、いつの間にそういうノリに移行してましたか?――というのもまた、お気遣いありがとうございます、なんでしょうけどね。

 というわけで、豆腐の肉乗せです。気合いの表れである割にはとてもお手軽な料理ですが、だからといって気を抜かないようにしましょう。
「まーしかしあれだねー、料理の先生の好物を知ってて愛する旦那様の好物を知らないっていうのも、なんかねー」
 家守さんがのっけから愚痴りモードです。ええまあ、確かにさっき「僕の好物」で伝わっちゃってましたけど、だからっていきなり過ぎませんか? これもお気遣いありがとうございますってことになるんでしょうか?
「知らないっていうか、それ以前にあるんですか? 高次さんって、好きな料理とか」
 栞さんからそんな質問が。追い打ちになってませんかそれ。
「どーなんだろーねー。無理矢理にお惚気っぽく考えてみるなら、アタシが作ったもの全部が好物って感じかねー」
 声色がまるで惚気てないのは間違いなく気のせいなんかではありませんとも。というかこれ、多分わざと居間の高次さんに聞こえるように言ってるんだろうなあ。
「まーでもあれだよねー。アタシが作ったものどころかなんでも好物って感じだけどねー」
「まあまあ家守さん。前に話したじゃないですか、『好物を探していくのも楽しみのうち』みたいなこと」
「そりゃそーだけど、手掛かりの一つもないままってのは焦っちゃうよ、やっぱさ」
 ううむ、それもまあ確かにそうなのかもしれません。僕みたいに料理が趣味ってわけでもないんだし、やっぱりそう悠長には構えられないんでしょうか?
「高次さーん、何か御意見ありますかー?」
 もう明らかにここまでの会話が伝わっているという前提での質問を、栞さんが。それはそれで愉快だったり高次さんが気の毒だったりなのですが、それとは別にもう一つ。
 家守さんは正解までの道のりが遠過ぎてこんな感じですけど、逆に初めから好物を公言しちゃってたっていうのもそれはそれで良くなかったかなあ、と。もちろん、栞さんに向けたものとして。
 というわけで栞さんのほうを見てみるのですが、もちろんそんな今の話題から外れた思いに気付かれるわけもなく。栞さん、居間のほうを向いてにこにこと高次さんの返事待ちなのでした。
「だからって、今になってあっさり答え言っちゃうってのもどうかと思うんだよねー」
 高次さんからの返事はそんな内容。家守さんはこれまで焦れに焦れてきたわけですから、ううむ、これまた確かに。
「いい具合のヒントとかでいいんだってー。材料の一部とかさー」
 家守さんからそんな注文。「俺の好きな料理って材料に何々を使ってるんだよね」なんて普段の会話じゃ絶対に出てこない台詞でしょうが、この際だからということでしょうか。
 ともかく、そういうことになれば高次さんとしてはヒントを出さざるを得ないでしょう。というわけで、ヒントタイムです。
「じゃがいもー」
「そんだけー? 範囲広過ぎるよー」
「じゃあ――うーん、もう一個言ったら今度は範囲が狭まり過ぎるような……」
「そこをなんとかさー」
「じゃあ、にんじんー」
「ありがとー」
 どうやらヒントタイム終了のようです。なんだか家守さんが可愛く見えるくらい素敵な笑顔なのですが、そこは触れないほうがよかったりするでしょうか?
 それはさておき、今得られた二つのヒントから女子二名の間で推理が始まります。
「じゃがいもとにんじんかあ。ぱっと思い付くのはにくじゃがとカレーくらいのもんだけど……」
「でも高次さん海外に行ってたんですし、そっちの料理だったりするかもしれませんよ?」
「そこがねえ。自分の知識外の料理となると、本格的な調査を開始しなきゃならないし」
 そうか、海外の料理という線もあるのか。なんてことに今初めて気付いた僕は、正直にくじゃがかカレーのどちらかだと決め付けていました。元々カレーは海外の料理だろ、という突っ込みは無しにしておくとして。
 もちろん日本料理に限定しても、にくじゃがしかないということはありません。けれど高次さんという人物のイメージからして、ものすっごくポピュラーな料理のような気がしたのです。どんなイメージなんだと訊かれたら困ってしまうんですけど、変化球は絶対に投げない素直な人、というか。もちろんそれは、最大限の褒め言葉として。
「ま、二つもヒント貰ったんだし、これ以上ブーブー言うのはみっともないかね。いつかさらりと好物を出して惚れ直させてやるぜへっへっへ」
 意気込みのあまり最後のほうがなんか変でしたが、ともかくそういうことで落ち着いたようでした。さてさて、ならばそろそろ調理を再開――。
「そういやさ、こーちゃんはどうなの?」
「僕? は、これですけど」
 まだ豆腐の肉乗せという完成形には至っていませんが、手元の豆腐を指差します。僕はどうなんだと言われても、それを今から作ろうとしているわけでして。
「いやいや、そうじゃなくて」
「?」
「こーちゃんは、しぃちゃんの好きな食べ物が何か知ってる?」
 む?
 …………。
 むむ?
「うっそお……」
 頭を抱える僕なのでした。その抱えた頭の中に、「栞さんの好物」という情報は入っておりません。そのことが割と、というかかなり、ショックだったのです。
 ケーキが好きだということは大分前に聞いたことがあり、二人でスポンジケーキをデコレーションしてみたりしたこともあります。けれどこの場合の好きな食べ物というのは、そういうものを指してはいないでしょう。
 ああ、料理好きを自称しておきながら、料理の先生という立場に就いておきながら、なんたる不覚。その不覚にこれまで気付いてこなかったことこそが何よりの不覚。
「あ、ありゃ? 不味いこと訊いちゃった感じ?」
 基本的に意地悪な家守さんをすら動揺させてしまうほど、僕は酷いことになっているようでした。そしてそれを認識してしまったせいか、栞さんに向ける顔がない、なんて思いながらもついつい、そして恐る恐る、栞さんのほうを向いてしまいます。
 しかし栞さん、そんな僕とは対照的に、朗らかな笑みを浮かべているのでした。
「あー、えー、ちなみにアタシも知らないんだけどー」
 僕と栞さんの間で視線を行ったり来たりさせ、過剰なくらい慌てている様子の家守さん。しかしそれでも、栞さんは変わらずにこにこと。
「それでいいんだよ、孝一くん」
 出てきた言葉は意外なものでした。気にしていないのはその様子を見ればすぐ分かりますが、だからといって「それでいい」というのは、どういうことなのでしょうか?
「変な話かもしれないけど、好きな料理って、自分でも分かってないんだよね。ずっと病院のご飯だったし――いや、それだって美味しくなかったってわけじゃないんだけど」
 ああ。……そうか、そんなことが起こり得るのか。人と違うことが多々あることは承知していたけど、そんなことが。
「でもやっぱり孝一くんの料理には敵わないし、だから味の基準も全然変わっちゃってさ。だからええと、いろんな料理を食べさせてもらって、その中で自分の好きな料理も見付けたいな、なんて」
 栞さん、少しだけ照れた様子なのでした。
 それはもちろん、嬉しい話でした。けれど、それだけでもありませんでした。
 病院の食事ばかりだったから、と栞さんは言いました。けれど栞さんの入院生活が始まったのは、確か小学生の中頃。ならばそれまでは普通に自分の家の料理を食べていた筈で、ならば、その中で好物の一つくらいはあったはずなのです。
 忘れてしまったのか、忘れようとしているのか。
 どちらなのかは分かりませんが、今この場で問いただすようなことではないのでしょう。それが許されるのであれば、そもそもこちらから問うまでもなく、栞さんのほうから話してくれているはずなのですから。
「家守さん」
「ん?」
「どっちが先に好きな人の好物を見付けられるか、競争してみませんか?」
「おお、面白そうだね」
 愛する女性の好物探し。しかもそれを、自分の料理で。
 料理好きとしてこれほど胸が高鳴ることが、果たして他にあるでしょうか。料理好きでなくたって高鳴るんでしょうけど――というのは、料理好きゆえの思い過ごしだったりするんでしょうか? まあ、どっちでもいいです。
「いろんな条件的に思いっきり不利な気もするけど、その挑戦、受けて立とう」
「あはは、楓さん、受けて立つ側なんですね」
「そりゃそうさしぃちゃん。これは先生が与えて下さった試練なのだよ」
「いやそういう……ああ、いいですいいです。そういうことにしときましょう」
 いずれは当料理教室を卒業する家守さんなのですから、僕に対して対抗心を持つというのは大事なことなのかもしれません。僕の模倣だけというのは勿体無いですし、それはそれで寂しい話でもありますしね。そりゃあ、卒業だって寂しいことですけど。
「はい先生」
「はい栞さん」
「私も試練が欲しいです」
 ……どうしましょうか。家守さんにこの扱いをするなら栞さんにだって平等であるべきなのでしょうが、しかし言うまでもなく、僕の好物が何であるかは明白なのです。なんせ、今から作ろうとしているものがそれなのですから。話が長引いてなかなか調理に入れてませんけど。
 しかしここでピンと閃きました。なにも好物が一つである必要はないのです。というか既に、
「味噌汁の他にもう一つ、僕が褒めちぎるような料理を見付けてみましょうか」
「おお、なかなか厳しそうな。いやでも、はい、分かりました。頑張ります」
 栞さんの味噌汁。それはもう、「僕の好物」に含んでしまっていいのだと思います。料理教室以外の食事でも頻繁に作ってもらってますし、その度に褒めてますしね。美味しいんですもん、だって。
「同期ながら初めは『大丈夫かなー』とか思ってたけど、もうすっかり出来る人だねえ、しぃちゃん」
 家守さんがしみじみとそう言ったところ、栞さんは腰に手を当て胸を逸らし、ふんと鼻を鳴らしてこう答えました。
「先生の目の前なので、否定はしないでおきます」
 強気なポーズとやや噛み合わない返事でしたが、それでいいのでしょう。胸を張っていい段階であることは僕が保証するので、あとは気概の問題です。
 一定の自信を得つつ、けれど「まだまだ」という思いもそれに抱き合わせて。先生歴の短い若輩者ではありますが、それがベストなのではないでしょうか。
「キシシ、頬が緩んでるよ先生」
「おっと」
 これは先生と生徒という話。ならば、それが栞さんだから、という感情は除外すべきなのでしょう。
 ……でもやっぱり、ちょっとくらいはいいんじゃないですかね?


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