(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十章 期待と不安と 九

2009-11-12 20:44:01 | 新転地はお化け屋敷
「――あたし達、こうして付き合ってるし好き合ってるし、だからあたしは全ての男の中であんたが一番……その、好き、なんだけど……でもじゃあ、どうしてあんたなのかなって。例えば――例えばよ? あんたよりも格好良くて優しい男が目の前にいたとして、じゃああたしは、その男を好きになるのかしら」
「なるんじゃねえか? そりゃ」
「じゃああんた、自分がそうだったらどう思う? あたしよりも綺麗で可愛くて優しくしてくれる女の子が目の前にいたとしたら、あたしよりもその女の子を選ぶ?」
「……いや、そう言われたらねえな、そりゃ」
「……はあ」
「なんだよ。……悪かったよ、考えなしに答えて」
「あ、安心した溜息だわよ今のは。――だからね、それがどうしてなのかなって。言っちゃ悪いけどあたしもあんたも、そんなに良い性格してないでしょ? でもあたしはあんたただ一人が好きだし、あんたはあたしただ一人を好きでいてくれてるでしょ? で、あたしとあんたに限らず、そういうのってなんでなんだろうって話になったのよ、喜坂さんの部屋で」
「で、どういう結論になったんだよ?」
「好きなただ一人については、他の男がどうとかじゃなくそいつだけを見て好きなんだって。あたしの場合で言えば、あんた以外にどれだけ良い男がいたってあんたを好きなことに全く関係しないのよ、それは。あたしはあんたを好きだって、最初から最後までそれだけなのよ」
「……それって言い換えりゃあつまり、俺がそれほど良い男じゃねえってことだよな?」
「ええ」
「…………」
「怒る?」
「いや。むしろホッとした、なんか」

「前に似たようなこと考えたな、オレも」
「というのは、絶対評価が云々って話?」
「そうそれ。まあ似たようなってだけで、同じことじゃあねえけど」
 同じことでないというなら聞かせてみてくださいよ、という話にもなりますが、大吾もそのつもりだったんでしょう。僕がそう言うまでもなく、そういう目付きをするまでもなく、自分から話し始めるのでした。
「オレがここに住み始めてから成美がここにくるまでって、一年空きがあるだろ? その時はなんとも思ってなかったけど、今から振り返るとちょっとな」
 成美さんの名前を出した大吾は、しかしここで栞さんのほうを見るのでした。それはただ単に反応を窺う程度の意味で見てみただけという装いではないようで、そして僕だけでなく視線を送られた栞さん本人も、それにはきょとんとした顔になってしまうのでした。
「喜坂って――まあ、良い奴だろ? それに可愛いっちゃあ可愛いんだろうし。でも――」
「へ、えっ、ええええ?」
 急に何を言い出すんだと慌ててみたところ、栞さんがそれ以上に大慌てです。と言うか、あまりの驚きに慌てる暇すらなかったようで、目をまん丸にして硬直してしまいました。頬が赤くなってさえいるのにちょっとだけ胸がもやもやしないでもないです。それは仕方ないんでしょうけど。
「さ、最後まで聞けよ。そういう反応されたらオレだって困るっつの。――それに、孝一には前にも言ったぞ確か。なんでオマエまでそんな顔なんだよ」
 どんな顔なんでしょうね? というのはともかく、聞いたことあったっけ? ならばちょっとくらい思い出そうとはしてみるけども。
「ふふん、わたしはこれくらいでは動じんぞ。少し前までなら分からなかったが、今はな」
 胸を張る成美さん。動作としてだけでなく形状としても張ってしまっているのは置いときまして、わざわざそう言うからには、今初めて耳にした話なんでしょう。
 大吾、それにはほっとしたような表情になりつつ、
「何が言いてえかっつうと、そんな喜坂だけどオレは好きとまではならなかったんだよなっていう。――いや、隣人とか友人としての好きってんならそれはあるけど、まあ分かるよな? 何言ってるか」
 というところまで聞いて初めて、「確かにそういう話をされたことがある」と僕の頭は判断したのでした。一方で栞さんは、機械のような動作でこくこくと頷きつつ、しかもまだ頬が赤いのでした。
 ……赤い顔で思い出しましたけど、そもそもこれ、異原さんと口宮さんの話だったんですよね?

「さっき『それほど良い男じゃない』って言われて頷いちゃったけど、でも、全く良くないってわけでもないわよ? そりゃあ」
「まあそうでもなきゃそれはそれで困るけど――俺もそんな感じだな、お前に対して」
「そう。じゃあ、直したほうがいいのかしら。良くない部分については」
「んー……どうだろな。そうなったらなんか物足りなくなさそうな。良くない部分っつっても結局俺、そこも好きなんだろうし。本当の意味で良くない部分だったら、勝手に変わっていくんじゃねえか? 意識なんかしなくても」
「じゃあ特に何も気にしないで、あたしは今のままでいいのかしら。あんたとしては」
「まあ、そうだな。今のところは――なんだ、文句なしに好きだし。お前のこと」
「……ふふ。普段からそんなふうだったらあんた、あたし以外の人からももうちょっといい扱いされるでしょうにね」

 まあ、気にしたところでなるようになれですよね。異原さんと口宮さんも、音無さんと同森さんも。なるようになるとはいえ、悪くはならないんでしょうし。
「ところで日向さん、ちょっと質問があるんですけど」
「あ、はい」
 悪くはないであろうあちらがたの様子を想像してほっこりしているところでしたが、やはりジョンの背中に乗っているナタリーさんから、質問があるそうです。
「同森さんのお兄さんのほうにも、好きな女性がいるんでしょうか? 皆さんでそういう話をしていたようですし」
 そういえばそこのところ、伝えてはいなかったかもしれない。となれば一貴さんの彼女、つまり僕以外に諸見谷さんのことを知っているのは、いつものデパートでプレゼントを買おうとする一貴さんに遭遇した栞さんだけになるのだろうか。まあそれだって、諸見谷さんに直接会ったというわけではないんだけど。
「ええ。僕は会ったこともありますよ」
「そうなんですか。私もお会いしてみたいです」
 会ったら今度は「巻き付きたい」ということになるんだろうなあ、なんて微笑ましく思いつつも、それとはまた別の問題を思い付いてしまったり。
「えっと――会ったことはありますけど、その人に幽霊のことを伝えたというわけではないんです。一貴さんがそうしたというのも聞かないですし、多分その彼女さん、知らないままなんじゃないかと……」
「そうですか。残念です、ちょっとだけ」
 ちょっとではないんだろうなあ、と勝手に推察してしまいますが、しかしそればっかりは本当にどうしようもありません。そりゃあ僕が自分で伝えようとすればできないこともないですけど、そうすべきではないという意味で、どうしようもないのでした。
「まあ、仕方ありませんわナタリーさん。だからここは逆に、今日の出会いを幸運なものだと考えてみてはいかがでしょうか?」
「ワウ」
「……そうですね、そうしてみます。ありがとうございます」
 幽霊が見えないのは人間だけということで、人間でなく犬であるマンデーさんにも、そして多分ジョンにも、思うところはあったのでしょう。ナタリーさんを慰めると、それまでより更に身を寄せ合うよう、その位置をずらすのでした。
「一貴さんだけが幽霊のことを知ってるっていうのも、いろいろあっちゃいそうな気はするけど――でも、大丈夫だよね」
 この場で話していたのはそれぞれの恋路についてだけど、栞さんの言う「いろいろ」というのは、恋路についてのみの話ではないんでしょう。僕がそれを言ったならまだしも、栞さんは幽霊なんですから。
「わたし達がどう考えるかなど、結局は何の影響もないからな。ならば良いほうに考えてもバチは当たらんさ。悪いほうに考える必要性もないしな」
「まあ、他人の話で暗くなるくらいなら自分の心配してろって話だしな」
 成美さんと大吾にそう返され、栞さんは嬉しそうにしていました。ならばそれで正解なんでしょう、少なくとも僕にとっては。

「へへえ、大学のお友達が。そりゃあご一緒させてもらいたかったねえ」
「現役の学生とじゃあ一回り半ぐらい年が離れてるんだし、あっちを畏まらせちゃうだけでしょ俺らが混ざっても」
「まあそりゃそうだけどさあ」
 夜。いつも通り夕食のために僕の部屋を訪れた家守さんと高次さんは、僕と栞さんの話を聞いてそんな反応なのでした。
「若者に交じって若者エキスを頂戴したいわけですよ、愛する旦那様のためにも」
「いやあ、いくら若いったって、他人のエキスから来る若々しさってのはちょいと気味悪いような……」
「ほほう、ならば交じりっ気なし純度百パーセントのアタシを愛してもらわねば」
「今でもそうしてるつもりだけど、言い方がそれだと自信なくなっちゃうなあ。はっは」
 昼間に男女で部屋を分けて話をしていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、開けっ広げのこのお二人。まあそれも冗談だからこそなんでしょうけど、仕事帰りだってのにお元気ですねえ毎度のことながら。
「というような冗談はさておき」
 さておく家守さん。冗談だからこそと思ったその途端でしたが、まあそれはどうでも良し。
「ここに来てもらえる人が増えるっていうのは、単純に嬉しいよね。管理人の立場からしても、ここのみんなのいち友人としても」
「まあ、敷居は高いもんなあ。実際問題」
 こちらとしては嬉しく思われることがまた嬉しいわけですが、それが家守さんの言った前者と後者の立場のどちらによるものなのかと考えれば、やはり後者なのでしょう。
 高次さんと一緒になったことが原因なのか、年のことを会話のネタにすることが多い家守さん。ですが、それでもやっぱり友人は友人なのです。年下の側からこれを言うのには、ちょっと抵抗がないでもないですけど。
「高いですけど、高いからこそ余計に嬉しかったですよ、栞も」
 栞さんはそんなふうに。敷居が高いというのはもちろん自分も含めての幽霊の存在についてのことですけど、しかしそれは素直に認めてしまえるもののようでした。まあ栞さん、そういった話についてはそういった返事をしてましたもんね、これまでだって。むしろ反発するというならそれは僕でしたし。
 というわけで言葉通りに嬉しそうにしている栞さんへ、家守さんと高次さんもまたにっこりと。
「何のかんの言っても本人が喜んでるならそれが一番だね、外野のアタシらがどう思うよりも」
「まったくまったく。仕事の疲れも癒されるってもんだよ」
 ご苦労様です、毎日この時間まで。
 ……栞さんの笑顔で疲れを癒されるというのは、ちょっと体験してみたかったり。いや、家守さんと高次さんは何も、対象を栞さんに限定しているわけじゃないんでしょうけど。

『いただきます』
「見ての通りですが、本日のメニューは天ぷらです。油の音で予想は付いてたかもしれませんけど」
「そうだねえ、あと匂いとかで……あれ? じゃあって俺もしかして、いつの間にか台所に入っちゃいけないことになってたりするの? 献立当てクイズみたいな」
「いえいえ、何となく言ってみただけですよ。だってそんなの高次さん、調理が始まったらトイレに行けないじゃないですか。台所の向こうなのに」
「そっかそっか、よかったよかった。――でも、匂いで献立を予想するってのは不思議と誰でもやるよなあ。見に行けば一発で分かるのに、わざわざ鼻だけに頼ってみたりして」
「食べ物ってやっぱり、興味を引かれざるを得ないものだしねえ。ならその興味あるものに対して遊び心を向けてみるっていうのは、誰にとっても自然なことなんじゃない?」
「いま孝一くんから習ってる料理っていうのも、それだけとまでは言わないけど遊び心が混じってますもんね。殆どのものは手を加えなくても食べられるはずなんですし。――ちくわって、天ぷらにするとなんでこんなに美味しいんでしょうね?」
「あー、確かにねえ」
「楓、そりゃ料理の話に頷いたのかちくわの話に頷いたのか、どっちなんだ?」
「ん? どっちもだよ、ちくわの天ぷら美味しいし。……けど例えば、しっかり血抜きしてあったとしても生肉なんてあんまり食べたいとは思わないけど、殆ど生に近いレアのステーキなんてものは美味しく頂けちゃったりするよね? 食べ物について言えば人間って、遊び心に支配されちゃってるのかもね。遊んでからじゃないと食べられないっていう」
「そういう言い方になっちゃうと、なんだか行儀の悪そうな話に聞こえちゃいますねえ」
「キシシ、まあ、言い方が悪かったってだけで料理は楽しいし好きだけどね。おかげさまで」
「毎晩妻がお世話になっております、日向先生」
「栞もお世話になってます、孝一先生」
「いえいえ、こちらこそ」

『ごちそうさまでした』
 料理が好きとはいっても人間の味覚について詳しいわけではないので、天ぷらになったちくわがどうして急に美味しくなるのかは説明できませんでした(説明を求められたわけでもないですけど)。なんとなく悔しいのと、天ぷらになる前の段階からちくわが好きだという人に悪いような気がするので、気が向いたら調べたりしてみようかなと。
 しかしまあ、今それはともかく。
「恋路の話かあ。嫌でも盛り上がるよね、やっぱり」
「はっは、楓は他人を盛り上がらせるほうが好きなんだろうけどな。意地の悪いことばっかり言ってる姿が目に浮かぶよ」
 食事の前にも友人数名が本日ここを訪れたことは話しましたが、今度はその中身についてまで話が及び、そして高次さんが笑います。ちなみに僕も目に浮かびます。
「だって、そういう場で自分主体の盛り上がりってもねえ? せっかく他の人と一緒にいるならっていうのもあるし、自分が盛り上がるのだったら高次さんが話し相手の時でいいっていうのもあるしさ」
 言われてみれば、なるほどそれは確かに理に適ってはいます。がしかし、だからといってその盛り上がらせ方が意地悪でというのはどうしてなのかと。……家守さんだからなんでしょうね、どう考えても。
 すると家守さんはやおらに腕を組み、やや難しそうな顔。
「……ただまあ、みんながアタシみたいだったら話の収集が付かなくなるってのは認めざるを得ないかな、うん」
 その一方で高次さん、笑顔を更に強くすると、
「主題の話が進まないだろうなあ、多分」
 同意してしまわれました。慰めの「そんなことないよ」といった言葉ではないようです。まあ、「そんなことあるよ」だからこそ、高次さんは家守さんを妻として迎えたんでしょうけど。
「いろいろと自己主張はする割に、他人と一緒にいることが前提みたいな行動パターンだよなあ。楓って」
「多分それって褒めてくれてるんだろうけど、でも意識的にそうしてるって部分がないわけでもないんだよね。自分本位は止めようってことで――まあ、昔のアタシの反省からさ」
 それは僕達から尋ねられる前に自分で言っておいたと見るべきか、それとも今となってはさらりと口にできる話題になっていると見るべきなのでしょうか。
 昔の家守さん。霊能者としての才能があり過ぎたせいで、幽霊を玩具扱いしていたという子供時代。言うまでもなければ考えるまでもなく今の在りようとそれとは全く結び付きませんが、しかし家守さんにはそんな頃が、確実にあったというのです。
「自己主張してるってのは、その頃の名残りかな? まあ、全く別の人格になるなんて無理だしねえ、やっぱり」
「変わった部分と変わってない部分が揃って初めて、俺が知ってる楓だしな。俺は――それに他のみんなだって、そこまでしろとは言わないさ」
 言い切る高次さん。もちろん言い切られて全く問題ないくらい当たり前な内容ではありますが、
「あはは、ありがとうね」
 それで家守さんが笑顔になるんですから、当たり前だろうが何だろうが言うべきではあったのでしょう。そしてそれをさらりと、しかも言い切りの形で言ってしまえる高次さんだからこそ、家守さんは「特別な誰か一人」に高次さんを選んだのかもしれません。もちろんそれ以外にだって理由は多々あるんでしょうけど。
「よし、じゃあ気分が出てきたところで今日は早々に引き揚げますか」
 立ち上がりながら上機嫌にそう宣言した家守さん。しかしそれは唐突だったので、一緒に引き揚げるべき人物である高次さんは、虚を突かれた様子で座ったまま。
「気分って、なんの気分だ?」
「高次さんにうんと優しくしてもらいたいと思しき気分さ」
 腰に手を当て、半ば威張るような言い草ですらある家守さん。……まあ、分からないではないですけども。
「ここでいいってんなら、アタシは構わないけど?」
「分かった分かった、そりゃ無理だ。大人しく一緒に引き揚げるよ」
 こういう展開になると高次さんが押し切られる、というのはもう何度か見た展開ですが、だからといって夫婦間での上下関係がどうのこうのといった話には結び付かないのでしょう。
 うんと優しく、頑張ってくださいね高次さん。

「あんまり拘るのも変な話かもしれないけど」
 仲睦まじいお二人が101号室へ戻った後、いつも通りに栞さんと二人きり。すっかり恒例ではありますが、自分にとって特別な時間であることは変わりません。
「まず自分に対してのお客さんだったっていうのは、やっぱり嬉しかったなあ。まあ集まったのはここだし、実質的にはこうくんのお客さんみたいなものだったけど」
 本日やってきた多数のお客さん。その根本は、栞さんのところへ遊びに行くという異原さんとの約束でした。確かに僕の部屋で集まりはしましたが、その点に注目すれば、やっぱり栞さんのお客さんだったと見て間違いではないでしょう。
 さらりと「こうくん」なのは、まあ、ばっちこいです。
「また来てくれるといいですね、異原さん達」
「そうだね。みんな良い人達だし――あはは、異原さんに言わせれば、口宮さんはそんなに良くない人らしいけど」
 栞さん、楽しそうでした。部屋に客を招いてお喋りを交わしたんですからそれはそうなって当然なんですけど、でも、それだけでないことも僕は知っています。なので――尋ねてみていいものかどうか、若干の迷いがありはしながら。
「緊張したりは、しませんでしたか?」
「……うん、大丈夫だったと思う」
 僕が何を言いたいのかはすぐに察してもらえたようで、声だけとはいえややしんみりした様子の栞さん。しかしそれでも大丈夫だったとのことなので、僕としては一安心です。
「多分これも、昔の自分から変われたってことなんだろうね。楓さんの話みたいに」
「昔の栞さんだったら、無理でしたか?」
「うん。絶対に無理だった」
 さらりと言い切るのでした。
 昔の栞さん。ずっと入院生活を送っていて友達は少なく――というより、なく、そして消してしまえる手術の痕をわざわざ残してしまうほど、何もなかった自分の人生を嘆いていた子供時代。言うまでもなければ考えるまでもなく、今の在りようにそれが結び付いていることを、僕は知っています。
「泣いちゃってたんだもん、嬉しいことがあると」
「そうでしたね。もう、過去形になっちゃいますけど」
 それについては子供の頃というよりここへ住むことになってからの話ですが、大きく昔だろうが小さく昔だろうが昔は昔です。変わることができた栞さんからすれば、変わる前の自分というのは等しく「昔の自分」なんでしょうし。
「過去形になっちゃったね、誰かのおかげで。――ありがとう、こうくん」
「いえいえ。それに対するお礼って、もう何度か言われてますし」
 もちろん、だからといって悪い気がするわけでもないんですけどね。要は照れ隠しです。
 対して栞さん、「それもそうだね」と気恥ずかしそうな笑みを浮かべ、そこからやや間を置くと。
「……自分の人生っていうものをさ、記憶にある限りずらーっと横に並べてみたら」
 その擬音に合わせて眼前の空間を手で払うようにしながら、人生という短くて大きな単語を織り交ぜてくるのでした。
「大きなことも小さなことも、長かったことも短かったことも、嬉しかったことも嫌だったことも、全部等しく人生の一部なんだよね」
「そうですね」
 返事はしてみましたがしかし、自分でも声に気が籠っていないことが丸分かりでした。意識よりも先に行動が来てしまって自分でも瞬時に判断できませんが、急に何ですか、といったところなのでしょう。
 そして自分でそれが分かるのなら栞さんからすればもっと分かりやすいものだったはずで、しかしそれでも栞さん、まるで構わず続けます。
「栞はね、その中で一番大きくて一番長くて一番嫌だったことを乗り越えられたからさ。だから今は、小さくて短くてちょっとだけ嬉しいことを精一杯、大袈裟に楽しむ余裕ができたんだよ。例えば今日、家に遊びに来てくれた人達のこととか――あはは、大袈裟だから、それに合わせて不安もちょっと大袈裟だったけど」
 恥ずかしそうに笑ってみせる栞さん。しかし、期待が大きいからこそ不安も同様に大きくなるというのは、誰だってそうなんでしょう。ただ一つ、友人が部屋に遊びに来るという、言ってしまえばそれだけのことへ大きな期待を寄せるというのが多少特殊であるというだけで。
「結局は同じ人生の一部なんだもんね。嫌だったことばっかりに引っ張られて他のことに目がいかないって、もったいないもん。それが楽しいことだったら尚更だし、それに――人と関わることだったらもっと尚更だしね」
「そうですね」
 返事はしてみましたがしかし、全く同じ台詞であるにも関わらず、さっきとは違って気が籠っているようでした。そしてさっきのそれは全く気にせず話を続けた栞さん、今度はにこりと微笑み返してくれました。
「だから、今日はとっても楽しかった。大袈裟だっていうのは自分でもちゃんと分かってるし、どうして大袈裟にしちゃうかの理由だって分かってるつもりだけど、だからって大袈裟じゃなくしちゃうのは嫌かな。大きくて長くて嫌なことだったっていっても、その理由にあたる部分だってちゃんと栞の人生の一部なんだもん」
「…………」
 僕の返事を求めていたんでしょう、栞さんの話にここで一区切りが入ります。が、僕は何も言わず――言えず、なのかもしれませんが――ただ、黙っていました。けれどもしかし、頬が柔らかい感じになっていることは、自分でも察せられましたが。
『変わった部分と変わってない部分が揃って初めて、俺が知ってる楓だしな』
 ついさっきの高次さんのこの台詞、僕の中での栞さんについても似たようなことが言えそうです。台詞の中から『初めて』が抜けるにしても、なんせ栞さん自身が自分の変わっていない部分を容認し、変わってしまわないよう保護してまでいるんですから。
 そして僕は栞さんのそういう部分が好きなんだから――というのは、栞さんからお礼を言われること以上に何度も出てきた話ですけど。まあ、こればっかりは変わりようがないんだから、何度も出てきて不思議はないんですけどね。


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